10
今思えば、はじめから隠し通せるはずがないと分かっていたような気がする。掛け軸が父の手になる贋作であること。その秘密は近いうちに明るみに出ると、心のどこかで予感していた。
絶対に明かしてはならない秘密だと思っていた。バレてしまったら一巻の終わり、人生の破滅、崖っぷちから転がり落ちて二度と這い上がっては来られない。そんな絶望が待っていると思っていた。真っ暗な闇に続く奈落の底に突き落とされるような恐怖心に、足が竦んだ。
安室にずばりと言い当てられた瞬間は頭が真っ白になったけれど、その衝撃が去って感じるのは、驚くほどの清々しさだった。
責任や負担から解放されることを肩の荷を下ろすというけれど、その言葉通りに体が軽い。掛け軸の絵は父が描いた贋作だという事実は、それほど重く肩にのしかかっていたのだと今なら分かる。
安室と秘密を分け合ったことでこれほど楽になれると分かっていたなら、もっと早く打ち明けてしまえばよかった。自分で作り出した幻の恐怖心の向こう側に、こんなにも温かくて居心地のいい、心から安らげる場所があると最初から知っていたなら。
「
」
安室の静かな声を聞いて目を開けた
は、いつの間にかうとうとしていたことに気づいてしぱしぱと瞬きをした。上体を起こして、軽く頭を振る。
「ごめん、寝ちゃってた」
「いいよ。気にしないで」
どうやら気づかないうちに安室の肩にもたれかかっていたらしい。暗くて目には見えないけれど、肩口にファンデーションがついてしまったんじゃないだろうか。慌ててぱたぱたと安室の肩を叩くと、安室は笑いながら
の手を取って下に下ろした。
「そろそろ時間だよ」
「時間?」
安室は余裕のある仕草で立ち上がり、天井に近い場所に取り付けられた小さな窓を見上げる。擦りガラスの縁がわずかに白んでいた。夜明けが近いのだ。耳を澄ますと、どこからか小鳥が鳴き交わす声が聞こえてきた。
「鳥の朝ってこんなに早いのね」
は少し凝った腰を伸ばしながら立ち上がり、肩から下げたショルダーバッグに手を伸ばす。安室に頼まれて捕まえたスズメが一匹、この中に入っている。鳥は暗い場所に閉じ込めておくと眠ったように大人しくなるという習性があり、何もない場所から白い鳩を取り出すマジシャンは、鳥のこの習性を利用している。
安室は
を手招きすると、男子トイレの扉を細く開ける。朝日に白む空に無人の美術館が静かに照らされて、まるで水の底に沈んでいるようだ。
は狩猟で使う合成革の手袋を両手につけると、慎重にショルダーバッグを開け、スズメの様子を確認する。スズメが少しでも居心地よく過ごせるよう、バッグの中には家の庭で集めた落ち葉が敷き詰めてある。眠そうに目を閉じていたスズメは、淡い朝日に目を瞬かせ、自分が今どこにいるのか確認するようにひょこひょこと首を動かした。
は両手で慎重にスズメを包み込むと、安室が抑えていてくれているドアの隙間からスズメを離した。
スズメは床を蹴って飛び跳ねながら機敏に視線を動かし、まだ眠気の残る小さな体を動かす。そして、小さな翼を広げて飛び立った。が、閉館している美術館から出て行く道はない。飛び回っているうちにセキュリティセンサーに引っかかり、その瞬間、けたたましいサイレンが美術館中に鳴り響いた。
鼓膜を突き破りそうな爆音に、
は思わず顔をしかめた。耳を塞ぎたかったけれど、とっさのことに手袋を外すのに手間取ってしまう。
と、安室の腕が頭を包み込むように伸びてきて、優しく
の耳を塞いでくれた。
「――」
「え、何?」
安室の唇が動いたのが見えたけれど、聞き取れない。安室は
を安心させるように微笑んでいる。その笑顔がわけもなく心強くて、
は安室の腕の中にすっかり体を預けてしまった。
もう、何も怖いものはなかった。
しばらくして、サイレンが止んだ。誰かがやってきた気配がして、足音が近づいてくるのが分かる。慎重にドアの隙間から覗いてみると、ヘルメットと黒い防弾ベストのようなものを身につけた男の姿が見えた。警備会社の担当者だろう、ふたりいる。
男達は美術館のロビーを飛び回っているスズメを見つけると、「あーあれですねー」「どっから入ったんだ?」と、間の抜けた声で話し合い、ひとりがどこからか大きな網を持ってきた。それでスズメを捕らえようというつもりのようだ。
けれど、自由自在にすばしっこく空中を飛び回るスズメは、一筋縄ではいかない。警備員がスズメを追いかけて四苦八苦している隙を見計らって、安室は
の手を引いて素早く男子トイレから出る。
「STAFF ONLY」と書かれた扉の前に立つと、安室は扉の横に取り付けられている黒い箱のふたを開けた。タッチパネルでパスワードを入力しなければ中には入れない。一体どうするつもりなのだろう、
が尋ねる間もなく、安室はよどみない仕草で番号を入力する。その手にはいつの間にか、黒い革の手袋がはめられていた。
ピッ、という電子音に合わせてロックが外れる音がして、ふたりは素早く中に滑り込む。
「どうやってパスワードを?」
安室は歩みを止めずに、不敵に笑った。
「目の前で教えてくれた人がいただろ」
そう言えば、ふたりではじめて美術館に来た時、韮崎館長が目の前で扉を開けて見せてくれた。安室はあの時、館長の手元を盗み見てパスワードを覚えたのだ。
「すごい」
が思わずつぶやくと、安室はつないだ手にほんの少しだけ力を込めた。
急ぎ足で作業室に入り、その奥の保管庫へ向かう。そこには、スチール製のラックが所狭しと並べられていて、棚のひとつひとつに美術館の所蔵品が大切に保管されていた。
掛け軸の入った桐箱を見つけ出すのにそう時間はかからなかった。展示日が迫っていることもあり、保管庫に入ってすぐの場所に丁寧に安置されていた。
は手早く蓋を開けて中身を確認する。間違いないということを示すため、安室の瞳をしっかりと見つめて頷くと、安室も同じように頷いた。
安室が桐箱をかばんに入れて持ち、手をつないだまま外に出る。ロビーでは、警備員のふたりがまだスズメと不毛な追いかけっこを繰り広げている。それを傍目に、安室と
は美術館の裏手の職員通用口から外に出た。
新聞配達がそろそろ始まろうかという時間だった。地平戦から顔を出した太陽が天空に向かって光の矢を放ち、盛大に一日のはじまりを告げている。藍色の夜空を朝日が掃き清め、東の空から白金色が空に流れ込んでいく様はまるで、無事に掛け軸を盗み出したふたりへ贈られる、祝福のファンファーレのようだった。
美術館から遠ざかる道を速足で歩みながら、
は安室を見た。眩しい朝日を浴びて、安室の金色の髪がきらきら光って綺麗だ。東京の空には見えないけれど、朝焼けに浮かぶ明星のようだった。
安室は、清々しい朝の空気に似合う爽やかな笑顔で笑った。
「やったね」
そう言われて、急に実感が湧いてきた。
安室が背負っている鞄が、桐箱の形に膨らんでいる。
やった、本当にやった。
口元に笑みが上ってくるのを止められず、
はガッツポーズと取るときのように安室の手を握りしめる。そう言えば、美術館を出てからずっと安室と手をつないだままだ。けれどちっとも気にならなかった。
夜も明けきらない早朝でなければ、喜びのあまり大声を上げてそこら中走り回ってやりたい気分だった。
ふたりは犬の散歩コースにしている河川敷に向かい、橋の下にもぐった。日の出の時間は過ぎたとはいえ、鉄橋の下はまだ薄暗い。
安室は鞄の中から桐箱を取り出すと、
の了解を得てから丁寧な仕草で蓋を開ける。そして、丸まった掛け軸をゆっくり伸ばし、日の光にかざした。掛け軸の中で目を細めている日本髪を結った女は、まるで清潔な朝日の眩しさに目をすがめているように見える。
安室はまじまじと絵を見つめたまま言った。
「これは、
のお父さんが描いた偽物なんだよね?」
は苦々しく頷く。
「そうよ」
「元の絵は戦火で焼失したって聞いたけれど、どうやって復元したの?」
「作者の芒川秋花がこの絵と一緒に写っている写真があるの。保存状態はあまり良くないんだけれど、それを元にしたって聞いたわ」
「そう、なるほど」
「ねぇ、ひとつ聞かせて欲しいことがあるの」
「なんだい?」
「私は、これを処分したいの。誰にも見つからないうちにね。あなたはそれでもいいの?」
安室は両手で広げた掛け軸を見つめたまま、にやりと笑った。
「かまわないよ。ただ、ひとつだけ頼みがある」
「何?」
「写真を一枚撮らせて。絶対に誰にも見せないと約束するから」
はほんの少しだけ悩んだ。こうして無事に掛け軸を盗み出すことができたのは安室のおかげだ。安室がいなければ絶対に成し遂げられなかった。しかも、この掛け軸にはなんの価値もないと分かった上で、手を貸してくれたのだ。
「……分かった。どうぞ」
安室はスマートフォンを取り出すと、一度だけシャッターを押した。
橋の下の雑草の影に隠すように、一斗缶が投げ捨ててあった。安室はその中に掛け軸と桐箱を収めると、鞄の中から新聞紙とマッチを取り出した。新聞紙を無造作に破って、掛け軸を包み隠すように一斗缶の中に押し込んでいく。
マッチ箱からマッチを取り出して火を着ける直前、安室は最後にもう一度
を見た。
「本当にいい?」
は掛け軸の最期の姿を目に焼き付けるようにじっと見つめながら、小さく、けれどはっきりとうなずいた。
「いいわ」
ジッ、っと音を立てて、安室がマッチを擦る。新聞紙に燃え移った赤い炎はあっという間に掛け軸と桐箱を取り巻き、もうもうと灰色の煙を上げながら燃え上がった。煙を避けて風上に避けると、自然と安室と肩を並べることになる。
赤い炎の中で崩れていく掛け軸をじっと見つめながら、
はそっと手をつなぐ。
安室はその手を握り返しながら、穏やかに言った。
「偽物とはいえ、綺麗な絵だったね」
はひっそりと笑って頷いた。
「この絵には、モデルがいるのよ。誰だか知ってる?」
「いいや。誰?」
「烏丸蓮耶って名前、聞いたことあるかな。日本でも有数の大富豪で、その筋じゃずいぶん名の知れた人よ。その母親である大奥様がモデル。世間でも評判のとても綺麗な人だったんですって」
安室が何も言わないのが不思議で、
は横目で様子を伺った。安室はどこか難しい顔をしたまま、じっと炎を睨んでいた。青い瞳が炎の光をはじいて怪しく光っる。
安室が何を考えているのか
には分からなかったけれど、つないだ手をぎゅっと力を込めて握ると、確かめるようにこちらを見つめ返して微笑んでくれた。
炎の中で、掛け軸が音を立てて崩れ落ちる。それからほどなくして炎は徐々に小さくなり、後には鼠色をした灰だけが残った。
20200708