9
長い夜をやりすごすため、安室と
は思いつくままくだらないことを話し合った。時間をつぶすための無意味なことばかりだったけれど、ふたりの距離を縮めるためには大いに役立つ時間だった。
安室は忍耐力を試される仕事には慣れているが、
は落ち着かないようだった。
男子トイレにこもってひと晩過ごすなんて初めての体験だし、目が慣れてきたとはいえ、視界の悪い暗闇の中でじっとしているだけでは精神的に堪えるに違いない。
ついに座っていられなくなった
は、洗面台の前に立つと、おもむろに結った髪をほどく。鏡を見つめながら手櫛で髪を整え、鏡の中の自分を見つめながら考え込むと、器用に髪を編み始めた。髪を三つの房に分け、指先をリズミカルに動かしながら縄のように編んでいく。ぴんっ、と毛先をはじくと、コシが強くはりのある髪はするすると元の通りに肩に落ちかかった。それを見届けて、また最初から同じことを繰り返す。
安室はダンボールの椅子に座ったままその姿を眺めていた。
狭い男子トイレの景色はすっかり見飽きてしまった。視界に入るもので変化のあるものといえば夢中で髪を編んでいる
しかおらず、どうしようもなく目を引き付けられてしまうのはそのせいだと自分に言い訳をする。編んだ髪をほどくたび、かすかに花のようないい香りが鼻をかすめた。甘い匂いに誘われる虫のように、誘惑にあらがえない。
ふと、暗い鏡越しに
と目が合った。
「どうかした?」
髪を編む手を止めずに、
が言う。
安室は首を横に振った。
「いや、何でも。気分を悪くしないで欲しいんだけれど、あまり髪に触らない方がいい」
「どうして?」
「触れたぶんだけ、頭髪が抜けやすくなる。男子トイレに、そんなきれいな長い髪が落ちていたらおかしいだろう」
は不満半分、照れ臭さ半分のような顔をして唇を尖らせた。
「ちゃんと掃除をしてから出ていくことにするわ」
安室は思わず吹き出した。
「侵入先の掃除をして帰る泥棒なんて聞いたことないよ」
「笑わないでよ、真面目に言ってるのに」
「ごめん、つい」
はひとつため息をつくと、髪を一本にまとめ、壁に背中を預けて立った。鏡に映った自分を睨みつけながら、自分自身に言うように呟いた。
「堪え性がないわね、私」
安室は
と肩を並べるようにして立ち上がり、鏡の中の
と目を合わせた。
「気にしないで。ストレスを感じるのも無理ないよ」
「ストレスというより、緊張してるのかも」
は自分の体を抱きしめるように二の腕をぎゅっと握りしめる。
「あなたのことは信用してるのよ、これは本当。でも、じっとしてると悪い想像ばっかり浮かんできちゃって自分じゃ止められないの」
「話せば少し楽になるかもしれない。俺で良かった聞くよ」
「……また笑わない?」
「約束する」
の目が、じわりと不安そうに歪む。最初の言葉は、わずかに震えていた。
「もしも、ここに侵入していることがばれたら? 私達はどうなる?」
「警察が呼ばれて、住居侵入罪で逮捕かな。目的が盗みなわけだから、合わせて窃盗の罪にも問われるだろね」
「それってどのくらいの罪なの?」
「法律では、住居侵入罪は懲役3年以下、もしくは10万円以下の罰金。窃盗罪は懲役10年以下または50万円以下の罰金」
は白目をむいて黙り込んだ。想像以上のことに言葉も出ないらしい。
「もし今の時点で捕まったとしたら、窃盗は未遂だ。少しは罪が軽くなるんじゃないかな」
「でも、前科持ちになることは変わりないわね」
「まぁ、そうだね」
「そんなことになったらもう終わりだわ。きっと仕事も続けられなくなるだろうし、前科持ちが再就職なんてきっと無理。それに、家族にだって影響が出るはず。父は立場のある人だから、娘が逮捕されただなんて知られたら周りから何を言われるか……。最悪、仕事も失ってしまうかもしれない。そうなことになったら、私どうやって償ったらいいの? 親を立場を失わせて不幸にして、最悪の親不孝者よ」
安室は笑いをかみ殺すためにぎゅっと唇を引き結ぶ。よくそこまでネガティブな想像が膨らむものだ、いっそ感心してしまう。けれど、約束してしまった手前、からかうわけにはいかない。
まだ起きてもいない悲劇に怯える
を見ていると、生まれたての小鹿が四本の足を震わせながらなんとか立ち上がろうとする姿を見ているような気分になる。何も知らない赤ん坊、恐怖心からくる体の震えは、まだ見ぬ世界を生き抜くための筋力がついていない証拠だ。かわいくて仕方がなくて、守ってやりたい気持ちが後から後から湧いてくる。
「もし本当にそんなことになったら、俺を頼っておいでよ。必ず助けてあげるから」
勇気づけるように言うと、
は眉を下げて泣きそうな顔になった。
「あなただって捕まって刑務所に入っているとは思わないの?」
「まぁ、いいじゃないか。もしもの話なんだから」
「それは、そうかもしれないけど……」
「でも、僕に頼らなくても、
ならひとりでも十分やっていけるんじゃないかな」
「どういう意味よ?」
「
は狩猟免許を持ってるだろ。いざとなったら山の中に小屋でも立てて、狩りをしながら生きていけるんじゃない?」
ほんの冗談のつもりで言ったのだけれど、
の表情は一変した。ふたつの瞳が星のようにきらりと輝き、小鹿が生まれて初めて蝶を見つけて、興味津々に後を追いかけていくときのようだ。
「その手があった!」
その生気に満ちた眼差し、純粋な子どものような輝き、
がこんな顔をするところを見るのは、安室は初めてだった。
は堰を切ったように話し出す。
「実は、狩り仲間にはずっと誘われてるの、田舎に住んで一緒にやらないかって。最近、猪だの鹿だのが人里まで下りてきてて、農作物の被害もしゃれにならないのよね。そうよ、いざとなったら女猟師に転職できるじゃない。ニコも田舎の方がのびのびできるし、最高のアイディアね! ……あぁ、でもそんなことしたら父が……」
せっかく浮上したのに、父親のことを思い出した瞬間に急降下してしまったらしい。
にとって、父親の存在はよほど大きなものなのだ。安室はほんの少しだけ体を前のめりにして尋ねた。
「お父さんのこと、すごく大事に思ってるんだね」
「当然でしょ、家族だもの」
「
ほどの家族思いはなかなかいないと思うよ。特に、年頃の女性は父親を煙たがることが多い」
「別に、立派な理由があるわけじゃないのよ。ただちょっと、世話の焼ける人なの。自尊心が強いくせにないものねだりで、見栄っ張りで、でもそれを守っていくための生活力が全くなくて……。私がいなかったらどうなるか分からないのよ。放っておけないわ」
「もしかして、掛け軸を盗もうとしているのは大切なお父さんを守るため?」
「そうよ。それ以外にどんな理由があるっていう……の……?」
しまった、という言葉を絵に描いたような顔をして、
は安室を見つめた。壁を滑って後ずさりしようとする
を、安室はとっさに壁に手をついて足止めする。
「掛け軸を盗むことが、どうしてお父さんを守ることになるのか、教えてくれる?」
「……別に、大した理由はないわよ」
少しでも安室から離れようと、
は壁に背中を押し付けて背伸びをする。けれど、そんなことをしても無駄だ。今夜、ふたりはこの場所から動けず、逃げ場はどこにもないのだ。
安室はもう一歩、
に押し迫った。
「あの掛け軸を世に出したくない。確かそう言っていたよね?」
「そうだったかしら」
「言ったよ。理由をまだ聞いていなかったね。あの掛け軸とお父さんとどんな関係が?」
「別に、何もないわよ。そこをどいて」
「質問に答えてくれたら、そうするよ」
は恨みがましそうに安室を睨んだ。何か言いたそうに唇を開くが、言葉が見つからないのかすぐに口を噤んでしまう。けれど、最後の意地とでもいうように目は逸らさなかった。
暗闇の中で、星のように光を放つ瞳。決して逃さないよう、視線を絡めとるように
を見つめながら、安室は声を潜めた。
「
が言わないなら、俺が言うよ。あの掛け軸、偽物なんだろう?」
はまばたきもせずに息を飲む。暗闇の中では分からないが、きっと血の気を失って青ざめているに違いない。恐怖心を煽りたいわけではないので、安室はできうる限り優しく穏やかに微笑んだ。
「言えないのなら、首を縦か、横に振って」
はたっぷり30秒もためらった。が、いよいよ観念したのか、本当に小さく首を縦に振った。
「あれは、
のお父さんが描いたもの?」
は蝶の羽ばたきのように小さな声で答えた。
「……いつから、分かってたの?」
「盗みに協力してくれると言ってくれた時、あれを世の中に出したくないと言っただろう。その時から、もしかしたらと思ってた」
「じゃぁ、初めから偽物だと分かっていて盗みに入ったの? 価値がないと分かっていてどうして?」
とても信じられないとでも言いたそうな顔をして、
が問いかける。
理由を問われれば、組織の命令だからという他にはない。けれど、組織とは何の関係もない
にそれを伝えるわけにはいかない。
安室は笑顔の仮面をまとうと、
の顎の下に優しく手を添えて頬にキスをした。
「これじゃ理由にならないかな?」
はぽかんと目を丸くすると、安室が唇を寄せたところに手を添える。何度か瞬きをした後、空気が抜けるような音を立てて笑った。
「ふざけてるの?」
はそう言うと、へっと息を漏らしながら鼻で笑った。下手な芝居やごまかしが通じる相手だと甘い考えを持っていたわけではないが、鼻から聞く耳を持ってもらえないとは思わなかった。チクリと胸が痛む。
「ひどいな、本気だよ」
「いや、信じられない。だって、突然、何?そう言えば、私が素直に全部しゃべると思ったの?」
「俺のこと信じるって約束したじゃないか」
「それとこれとは別問題でしょ」
「俺は別問題とは思ってない」
「ちょっと待って、頭がこんがらがってきた」
頭を抱えて眉間にしわを寄せる
に対して、安室は笑顔を保つだけで精一杯だった。心臓が針で刺されているようにひどく痛む。信じられない、その言葉は今までにも数えきれないくらい浴びてきたと言うのに、今夜のそれはとびきり重い。今まではただのジャブで、まさに今、ストレートパンチがみぞおちにクリーンヒットしてしまったようなダメージを感じている自分に、安室は自分のことながら戸惑っていた。
は組織の仕事のために利用した女だ。
そんな相手に本気になってしまったとでもいうのだろうか?
そうでないのならこの胸の痛みをどう説明すればいいだろう。
安室は壁から手を離すと、一本、二歩と後ずさって洗面台のへりに腰をつける。立ち位置が逆で良かったと心底思う。今、自分がどんなに情けない顔をしているか鏡で確認せずに済んだ。
「そこまで言うなら、いいよ。信じなくても。困らせてごめん」
は安室の腹を探るように見つめ返してきたが、口元を塞ぐようにして目を伏せる。ほんの数秒そうした後、自分自身にいい聞かせるように口を開く。
「掛け軸が偽物だと分かっていたのに、盗みを止めなかったのは、私のため?」
「そうだよ」
「それは、えーっと、あの」
「意味が分からない?」
「そうじゃない。ただ、なんで、今言うの?」
「え?」
は両手を広げ、周りを見てみろと言うようにぐるりと見渡した。
それでやっと合点がいった安室は、苦笑いをして頭をかいた。
ここは真夜中の美術館、男子トイレの片隅。空気はじっとりと湿り、どうやっても無視できないアンモニア臭が鼻につく。壁際にそって並んでいる小便器の白々しさ、ラベンダーの芳香剤の匂い。お世辞にも、いいムードとは言えなかった。
「あなたのそういう神経、本当に信じられない」
はこれきれなくなったように笑った。安室の胸を刺した言葉が、少しだけ情けない温かな笑いを呼んだのだ。
の笑顔に胸が温かくなるのを感じ、安室は照れくささに頬をかいた。
20200705