8
じっと待つだけの夜は、驚くほど長かった。スマートフォンのデジタル時計は遅々として進まず、電波を受信できずに狂ってしまったのかとさえ思えるほどだ。
白い便器がむき出しの男子トイレの、嗅ぎ慣れない匂いが無性に気になる。窓を開けてもいいかという
の訴えを、安室は笑顔で却下した。
「声が外に漏れるよ」
「窓の向こうは路地でしょ。誰も通らないわよ」
「今夜、この路地を誰も通らないって100%保証できる?」
「……それは、できないけど」
「我慢するしかないね」
「分かった。自分勝手なこと言ってごめん」
「気にしないで。気持ちは分かるよ」
安室は流しの下の扉を開けると、何かいいものでも見つけたのかきらりと目を輝かせた。後ろから覗き込んでみると、洗剤のメーカーがプリントされたダンボールがある。
安室はそれを引っ張り出すと、ポケットから取り出した手のひらに収まるほどの大きさのカッターの刃を入れ、器用に手早く折りたたむ。ダンボールはあっという間に、車止めのような形になった。
安室はその上に腰を下ろし、壁に背を預けて座った。
「立ちぱっなしは辛いだろ」
「壊れない?」
「見た目より丈夫だよ」
安室の隣に恐るおそるお尻を乗せて、ゆっくり体重をかけてみる。自分の体重でくしゃりとつぶれてしまうんじゃないかと思ったけれど、想像していたよりもどっしりと頼もしく、安室の真似をして壁に背中を預け、ぐっと両足を伸ばしてもびくともしなかった。
安心して安室と顔を見合わせると、自然と笑顔がこぼれた。
「本当、大丈夫そう」
「夜は長い。気長に行こう」
「ところで、これからどうするの? 計画を教えて」
「待つ」
「いつまで?」
「スズメが鳴くまで」
は作り笑いを浮かべてひとつ頷くと、男子トイレの湿っぽいアンモニア臭を胸いっぱいに吸い込んだ。ここは今夜の宿なのだ、少しでも慣れておかなくては。
一方で安室は、ここは勝手知ったる我が家だとでもいうように落ち着いていた。長い足を折りたたんで、そこに肘をつき手のひらに顎を乗せている。すっと通った鼻筋や鍛え上げられた体の線がシルエットになって薄闇の中で浮かび上がり、まるで神話をモチーフにした彫像のようだ。金色の髪が、暗闇の中で淡い光を放っていた。
「どうかした?」
と、安室が首を傾げながら言う。
は首を振ってとぼけた。
「別に何も」
「何か話さないか? 黙って座っているだけだと退屈だ」
「そうね」
は少しでも居心地のいい座り方を探して腰をもぞもぞさせる。落ち着きどころを見つけて深呼吸をして、ここは住み馴れた我が家の座り心地のいいカウチソファだと思い込む。
「何の話をする?」
「言い出しっぺはそっちでしょ、決めて」
ふっと息を吐くように、安室が笑った気配がした。
「それじゃ、何か楽しい話をしよう。
の好きなものは?」
「好きなもの?」
「例えば、好きな食べ物とか」
はつい笑ってしまいそうになるのを、唇を噛んでこらえる。いかにも当たり障りのない話題を選んだようだけれど、じめじめと湿っぽくてかすかにアンモニア臭のする男子トイレでする話にはふさわしいと思えない。それに、今日は夕飯を食べていないのだ。食べ物の話なんかしたらお腹が鳴ってしまいそうだ。
「他のものでもいい?」
「もちろん」
は目を閉じる。私の好きなもの。一番大切なもの。考えればすぐにその姿が浮かんだ。想像するだけで胸の奥がほっとする。
の笑顔をの気配を察して、安室は
の顔をのぞきこんでくる。
「何か思いついた?」
「うん。あなたももう知ってると思うけど」
「へぇ、何だろう」
「当ててみて」
はふと思いついて、スマートフォンの時計のアプリを起動させると、1分のタイマーをセットする。アラームはオフにして、バイブレーションを設定する。
「制限時間は1分ね」
「ヒントは?」
「3つまででどう?」
「OK」
ふたりは目を合わせて挑むように笑い合う。どうしてだろう、真夜中の美術館の男子トイレでこそこそしながら、こんな子供騙しな遊びにわくわくしてしまう。人間というものは不思議だ。
「じゃ行くよ。よーい、スタート」
緑色のアイコンをプッシュすると、カウントダウンがはじまった。安室は早速切り出した。
「僕は、それを見たことがある?」
「あるよ」
「大きいもの? それとも小さいもの?」
「比較対象によるけれど、世間的には小型って言われてる」
「それは生き物?」
「そうよ」
「分かった。答えはビーグル犬のニコ」
安室がそう言った瞬間、スマートフォンがブルブル震えた。
「正解。簡単すぎたね」
安室は笑顔で答える。
「そんなことはないけど、僕も僕の犬が好きだからね」
その言葉を聞いただけで心が通じ合ったような気がして、
は嬉しくてたまらない。安室は質の悪い泥棒だけれど、犬が好きな人間に悪い人はいないと信じてもいた。人間の二面性は厄介だ、どんな悪党にもたったひとつ気を許せるところを見つけると、それだけでこれまでのことを全て許してしまいそうになってしまう。
安室が連れていた、人懐っこい顔をした白い犬のことを思い出して、
は甘く目尻を下げた。
「飼い始めてどのくらいなの? 名前は?」
「そんなに経ってないよ。元々野良だったんだ。名前はハロ」
「私のニコも、元は保護犬よ」
「そうなんだ」
「繁殖場から保護された子で、生まれた時に未成熟児だったから不要犬にされちゃったの。でも、ご飯もよく食べるし、体の機能も問題ないし、今じゃ一緒に猟にも行くわ」
大好きなニコがいかに賢くて可愛らしいか、語り出せばきりがない。
の話を聞きながら、安室は優しく目を細めて深く微笑んでいた。安室こんな風に柔らかく温かく微笑むところを見るのは初めてで、
は少し戸惑った。
「どうかした?」
安室は表情を変えずに答えた。
「どうもしないよ。なぜ?」
「なんか、変な顔してるから」
「元々こういう顔だよ」
「そう?」
「僕達の仲が深まってきたってことじゃないかな。そう思わない?」
「思わないわよ」
「照れなくてもいいのに」
安室が嘘とも本気ともつかない芝居がかった口調に居心地が悪くなって、
は腰をずらしてダンボールの椅子のはじっこぎりぎりに体を寄せる。たったひとつのダンボールに大人がふたり肩を寄せ合っているのだ、窮屈だし、どうしてもぶつかってしまう肩がなんとなくこそばゆい。
口をつぐんだ
の代わりに、今度は安室が話し始めた。
「ハロとは河川敷で出会ったんだ。何度も顔を合わせているうちになぜか懐かれちゃってね。僕の家を突き止められたんだよ」
「泥棒の家を突き止めるなんて、まるで探偵みたいね」
安室は声を上げて笑った。
「確かに、そうかも知れない。僕は探偵に追い詰められた犯罪者ってわけだ。
が狩猟免許を取ったのは、ニコと猟に行くため?」
「それだけが理由じゃないけど。元々興味があったし、私、お肉が好きなのよ。ジビエとか、自分の手で仕留めた獲物を食べてみたかったのよね。自然も好きだし」
「家に侵入した泥棒を威嚇するのにも使えるしね」
「その通り。とっても役に立つ道具よ、あれは」
は口元が緩むのを止められず、声を出して笑ってしまった。まったく、安室の口車には敵わない。
を苛立たせるようなことばかり言うかと思えば、気の利いた言葉で笑わせて、慣れない夜の緊張をほぐしてくれる。
「あのね、ニコがうちに来たたばかりの頃は、今ほど素直じゃなかったの」
話の腰を折ってしまうことは分かっていたけれど、
はいてもたってもいられず言った。
「繁殖場でどういう扱いを受けたのかは分からないんだけれど、初めて会った時は私を見てすごく怖がってね。人間不信だったの。うちに来てからも、慣れるまで本当に大変だった。しばらくはゲージに閉じこもって出てこなかったし、散歩だって、家の庭から出られるようになるまでどれだけかかったか……。きっと、とても辛い経験をしたんでしょうね」
「でも今は、
といて幸せそうに見えるよ」
「そうだったらいいんだけど……。ニコと猟に行くのは、本当に楽しいのよ。たくさん練習したの。クレー射撃で銃声に慣らしたり、投げたボールを取ってくるようにしつけたり。初めて私が撃ち落としたヤマドリをニコが咥えて戻ってきたときは感動したわ」
の足元にヤマドリを落として、「上手にできたでしょ、褒めて!」と言わんばかりに尻尾をぶんぶんと振ってじゃれてきたニコの姿を、
は一生忘れない。ニコと本当の絆を結ぶことのできた瞬間、大切な思い出だ。
たかが犬一匹のことと、笑う人もいるかもしれない。けれど、そもそも言葉の通じない生き物同士が狩猟を通じて心を通わせ合うことは、ほとんど奇跡と言ってもいいことだと思うのだ。同じ言語を使う人間同士でも意思疎通ができないことはざらにあるのだから。
「
は、優しいね。そこまでできる人はなかなかいないよ」
安室は目を細めて静かに言った。
「普通のことよ」
「そんなことはない。
は本当に、優しい人だよ」
は唇をふさいで明後日の方を向いた。なんだか照れくさくて言葉が出ない。安室は嘘か本当か分からないことばかり口にするけれど、今の言葉はとても素直に胸に響いた。
思えば、ずいぶん遠くまで来たものだ。
家に忍び込んできた安室に銃口を向けたあの夜から、それほど長い時間が経ったわけではない。
が行く先々に現れる安室は鬱陶しくて仕方がなかったし、未遂とはいえ盗みを働くような犯罪者を信用できなかった。それが今や一緒に夜の美術館に忍び込んで肩を寄せ合っているのだから、人の縁とは不思議なものだ。
第一印象は最悪だった。盗みという生業を肯定することはできないけれど、安室は人として信用に足る人間だ。今ではそう思える。保護犬だったニコが
に懐くまで時間がかかったように、安室のことを良く知るのには時間が必要だったのだ。
はそう考えて自嘲した。自分を犬と同じに考えるなんて、我ながらばかばかしい。
「どうかした?」
と、安室が言う。
「別に何でも」
は首を振ってとぼけた。
ニコが
を心から信頼して懐いてくれたように、完全に安室に心を許すのはもう少し先にしたい。せめて、無事に今夜の仕事を終えて夜明けを迎えるまでは、まだ。
20200614