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が一番頭を悩ませたのは、美術館に盗みに入るにあたってどんな服を着ていくべきかということだった。
はじめに選んだのは、夜の闇に身をひそめるのにふさわしい黒い服だ。動きやすさも考えて、黒いストレッチパンツをメインにして、アクセントにゴールドのアクセサリーを合わせる。けれど、全身黒づくめではいかにも物々しく見える上に、これではまるでハーレーダビッドソンに颯爽と跨がる女盗賊のコスプレのようで、まるで自分らしくない。
深く考えず、普段通りの通勤ファッションではどうだろうか。それなら適度に緊張感も持てるし、美術館を訪ねるのに不自然でもない。けれど、休日に改まった恰好をしていたら怪しがられるかもしれない。休日用のワンピースは? それはあまり機能的ではないし、ワンピースの裾をひらひらさせて盗みを働こうだなんて、それはいくらなんでも犯罪を舐めてすぎでいるような気がする。
動きやすさを重視するなら、いっそのことシンプルにジーンズとTシャツか。けれどそれでは気分も上がらない。これから自分史上最大の大仕事を成し遂げようとしているのだ、手抜きはしたくない。
適度に目立たず、緊張感を保て、それでいて動きやすく機能的で、おしゃれ心も忘れず、自信を無くして怖気づきそうになった時に気分を上げてくれる、そんな服。
悩んだ末に選んだのは、体に馴染んだスキニージーンズ、白いスニーカー、たっぷりとしたデザインで、手首がきゅっとしまったのベージュのトップス。小さな貴石がきらきら光るイヤリングアクセントだ。髪は丁寧に巻いて、きちんとまとめた。
仕上げに濃い色のリップを塗ると、ぐっと気分が上がって、筋が伸びた。
恐怖心がゼロになったわけではないけれど、自分を奮い立たせるために知っている魔法はこれで全部だ。後は運に任せよう。
最後に、足元にすり寄ってきたニコの背を撫でて思う存分愛撫してから、家を出た。
日曜日の美術館は混み合っていた。外国からの観光客も多いようで、
が聞き取れない言語があちらこちらから聞こえてきた。受付の職員や学芸員は忙しそうにしていて、
と目を合わせてもゆっくり挨拶をしている暇もなさそうだ。
チケットのもぎり担当の松川が、展示室に入る間際に目配せをくれた。
「彼、先に入ってますよ」
安室は、あの美人画の掛け軸の前で待っていた。
は他の展示物には目もくれず真っすぐ展示室を突き進み、安室の隣に立つ。
「来たね」
と、掛け軸を見つめたまま安室は呟いた。
「来たわ」
と、
は答えた。
「頼んだものは?」
は肩にかけたケイトスペードのショルダーバッグを指先で叩く。安室はそれを見て満足そうにうんと頷いた。
「それじゃ、時間までゆっくり展示を見て回ろうか」
「ゆっくり、っていう気分にはなれないんだけれど」
「緊張してる?」
「口から心臓が出そう」
「緊張した時は、手のひらに人という字を3回書いて飲み込むといいよ」
「馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ。僕も緊張した時はよくやる」
「あなたが緊張することなんてあるの?」
「当然だろ」
「それじゃ、最近で一番緊張した出来事は?」
安室は腕組みをして考え込むポーズをとる。いつだって余裕綽々な態度で
を翻弄してきた安室は、一体どんな時に緊張するのか、興味があった。辛抱強く待つ。
ところが安室は、さんざん
を待たせたあげく肩をすくめて笑った。
「ごめん。思い当たらない」
「はぁ?」
「完璧に準備を整えていれば緊張する必要はないだろう。そう思わないか?」
「あなたって、本当に……」
悪口を言いかけた
の口から笑い声が漏れた。そばに立っていた老人に諫めるように睨まれたから息を止めてこらえたけれど、肩が震えて止まらない。
それを見て、安室がしてやったりと言う。
「少しは肩の力が抜けた?」
何とか笑いを収めて、
は答えた。
「そうね、ありがとう」
「それじゃ、行こう」
そう言うと、安室は
の手を取った。その指先が思っていたよりずっとひんやりしていて、少し意外だった。人は緊張すると体の末端が冷えるものだ。口ではあんなことを言っても、安室も全く平常心というわけではないのかもしれない。
はそっと手を握り返して、指と指を絡めた。安室は意外そうな顔をして
を振り返ったけれど、
は素知らぬ顔で展示に見入っているふりをした。
ふたりは閉館の5分前、団体客の一団にくっついて展示室を出た。そこで二手に分かれて、それぞれ手洗いに入る。
女子トイレは混雑していて行列ができていた。
は列に並んで待ったが、後に人が並ぶたびに順番を譲って最後尾に回った。そして、トイレに入った切り閉館時間が過ぎてもそこから出なかった。
そこまでが安室の指示だ。
こんなことをしていて、誰かに見つかったらどうしよう。そう考えると大きな不安が背中からのしかかってくるけれど、それをぐっとこらえて待った。
思っていたより、ことが起きるのは早かった。
誰かがトイレの扉を開けた音がする。びくりと肩を震わせた
の耳に聞こえたのは安室の声だった。
「
?」
は恐る恐るドアを開ける。安室はその腕を掴むと強引に、隣の男子トイレに連れ出した。
「ちょっと、驚かさないで!」
「しっ! 静かにして!」
安室に口をふさがれ、その勢いで「SK」と書かれた扉の中に押し込まれる。そこは人ひとりがやっと立っていられるかどうかの小さな小部屋で、底が深いシンクがあった。その周りを囲うように掃除用のモップや洗剤が収納されている。足の踏み場もないほど狭いところに大人ふたりが無理やり体をねじ込ませているので、全く身動きができない。
「ねぇ、これは何?」
頬に安室の肩が食い込むのを感じながら、
は言う。その口を、安室はむんずとふさいだ。
「黙って。警備員に見つかりたくないだろ」
やがて、誰かがトイレに入ってきた。力強い足音はおそらく警備員のものだろう。足音はトイレの個室の扉をひとつずつ開けて確認したものの、掃除用具入れには手を触れず、そのまま手洗いを出ていった。
安室は足音が十分遠ざかったのを確認すると、唐突に分厚く深いシンクに足をかけてそれに上った。
「何してるの?」
安室はジャケットの内ポケットに手を入れる。取り出したのは黒いマスキングテープだ。安室はそれを3cmほどの長さに切ると、入口のドア近くの天井に張り付ける。よく見ると、そこには人感センサーが取り付けてあった。手洗いに人が入ると、自動的に電気が着く装置だ。身動きをするだけでチカチカと電気が着いてしまうと、ここに潜んでいることがすぐにバレてしまう。その予防というわけだ。
安室はシンクから降りると、
の目と鼻の先でにっこりと笑った。
「職員が退勤するまでここにいよう」
「それっていつまで?」
「1時間もかからないと思うよ。今日は日曜日で、明日は休館日だ。心情的に、誰も残業はしたくないだろうさ」
安室の言う通り、職員は30分ほどして全員が退勤した。美術館全体の照明が落ち、セキュリティロックがかかる電子音が暗闇の中に響く。
薄暗い手洗いの掃除用具入れの中、安室と体を密着させたままその音を聞いた
は、体を動かすことができずに固まった。
映画で見るような、赤外線の赤い光が蜘蛛の巣のように張り巡らされている映像が思い浮かぶ。その光に少しでも触れたら警報が鳴り響き、すぐさま警備員が駆けつけてくるはずだ。それを想像するだけで指先一本も動かせない。赤外線は特殊なゴーグルをつけなければ見えないのだ。
と、
の不安をよそに、安室は掃除用具入れから出てしまった。
「ちょっと!」
思わず
は大声を出してしまう。
安室はきょとんと目を丸くした。
「どうかした?」
「出て、大丈夫なの?」
「平気だよ」
「でも、防犯センサーとか……」
「そういうのは展示室にしか設置されてないよ。この施設の防犯システムは調査済みだから安心して」
はぐっと息飲む。
灯りの消えた男子トイレは、空気がしっとり湿って肌に張り付く。壁にはめ込まれた鏡は薄暗く、今にもこの世ならざるものが映り込むんじゃないかと思えるほど気味が悪い。
「
。本当に大丈夫だから。こっちにおいで」
安室は
に手を差し伸べた。まるで、何かに怯えて小屋から出てこなくなってしまった犬をなだめるように、優しい微笑みを浮かべながら。
安室の金色の髪は、薄闇の中でもほんのりと明るい。その明かるさと穏やかな声に励まされて、
はそっと安室の手を取った。指先に触れた安室の手はほかほかと温かく、ついさっきまではあんなにひんやりとしていたのが嘘のようだった。
は安室の頼もしい手を、両手でぎゅっと握りしめる。
長い夜のはじまりだ。
20200510