と安室が展示室を出ると、韮崎館長が待っていた。

「やぁ、さん。ようこそいらっしゃいました」
「韮崎さん、こんにちは。お忙しいところ突然すいません」

 韮崎が差し出した手を取って、握手をする。韮崎はその手をぎゅっと握ってにこやかに言った。

「いいえ、とんでもない。今日は、さんは仕事ですか?」
「はい。よろしく伝えてくれと申していました。展示を楽しみにしていると」
「えぇ、私もとても楽しみですよ」

 は韮崎に手を握られたまま、隣に立つ安室を紹介する。

「こちら、私の友人です」
「初めまして、安室といいます」

 安室が手を差し出して、韮崎はやっとの手を離す。安室との握手は1秒で終わった。

「実は、彼は芒川秋花の愛好家なんです」
「そうですか。お若いのに素晴らしい!」
「それで折り入ってお願いなんですが、あの掛け軸を彼に見せてあげたいと思って」

 韮崎は不思議そうに目を丸くしてふたりを交互に見やった。

「展示まであと2週間ですよ?」
「そうなんですけれど、彼がどうしても待ちきれないって言うものですから」
「無理を言ってすいません。彼女に話を聞いたらいてもたってもいられなくなってしまって……」
「そこまでお好きなんですか」
「はい」

 不審がられたらどうしようと、不安がよぎる。
 けれどの心配をよそに、韮崎は快く両腕を広げた。

「他でもないさんの頼みなら断れませんね。ぜひご覧になっていってください」
「ありがとうございます」

 と安室の声がそろう。韮崎は声を上げて笑った。

「仲がよろしいんですね」

 喜んで肯定はできなかったけれど、これで怪しまれずに済むならば良しとしよう。



 韮崎は、ふたりを美術館の奥へと案内した。

 展示室を通り過ぎると奥に手洗いがあり、そのまた奥に扉がある。黒字で「STAFF ONLY」と書かれていて、扉の横に黒い箱のような機械が取り付けられていた。黒い箱を開けると、タッチパネルのモニターがある。韮崎が手早くパスワードを入力すると、がちゃんと音がして扉が開いた。

 白い壁に囲まれた通路を真っすぐ進む。突き当りを右側に折れれば、今度は「作業室」と書かれた扉があった。

 中では、数人の職員が部屋のあちこちに散らばってそれぞれの仕事にとりかかっていた。韮崎館長の姿を見ると皆が一斉に腰を浮かせたけれど、韮崎は手を片手をあげて「気にしないで、続けて」と声をかけると元の体制に戻った。

「歌川君。例の掛け軸、今見せてもらえるかい?」

 韮崎はひとりの職員に声をかけた。白髪の混じった男だ。

「はい。こちらでどうぞ」

 部屋のさらに奥まった場所は、広い作業台で占められていた。そこで待つように言われてそうしていると、「保管庫」と書かれた扉を開けて白髪の職員が出てくる。その手には、には見覚えのある桐箱を抱えていた。

 歌川は神経を尖らせた手つきで桐箱の蓋を開け、掛け軸を作業台の上に広げて見せた。

「へぇ、これが」

 と、身を乗り出して感嘆したのは安室だ。掛け軸に鼻先を押し付けるようにして、食い入るように掛け軸を見つめる。かと思えばぐっと体を反らして全体を俯瞰したり、その物慣れた仕草にはも驚くほどだった。

 安室のことはただの泥棒と思っていたから、真に美術品の価値を理解てきる目を持っているかどうかなんて考えてもみなかった。

「安室さんは、よほどお好きなんですね」

 韮崎も同じように考えていたらしく、意外そうに言う。
 は固い笑顔で答えた。

「えぇ、そうなんです」
「展示前にどうしてもとおっしゃった彼の気持ちが分かりますよ」
「ありがとうございます」
「ずいぶん状態がいいですね」

 と、安室が言う。
 歌川がその隣に立って答えた。

「はい。戦前の作品ですが、こんなに保存状態がいいのは珍しいです」
「修繕されたんですか?」
「いいえ。そんな必要もないくらい綺麗でしたから。多少手入れをさせていただいたくらいで」

 綺麗で当たり前だ。その絵はの父が描いたものなのだ、戦前どころかここ数年のものである。

「この作品は戦火で焼失したと言われていたそうですね。どこで見つかったんです?」
氏が調査のために訪れた旧家の蔵で見つけたそうです。所有者が高齢だったので、氏が管理を引き継がれたそうです」
「なるほど、よほど整った蔵だったんでしょうね」
「そうかもしれませんね」
「なんと言う旧家だったんでしょう?」
「さぁ、どこだったか……。館長、覚えてらっしゃいます?」
「ド忘れしちゃったな。どこかの山奥だった気がするけれど」
は知ってる?」

 水を向けられて、はとっさに肩をすくめてとぼけた。

「父の仕事のことは詳しく知らないの」
「そう」
「今度、ご本人に聞いてみるといい」
「いや、それはちょっと……」

 は思わず言葉を尖らせた。父と安室を会わせる? そんなことできるわけがない!

「おや、何か都合の悪いことでも?」
「あぁ、いえ、そういうわけじゃ……」

 韮崎ははっと何か気づいた顔をすると、訳知り顔で頷いた。

「あぁ、彼氏を紹介するのはまだ早いですか?」
「いいえ! 違います! そんな、そういうわけじゃ……!」
「はっはっはっ、そうですか、そうですか」

 嫌な誤解をされたような気がしてむしゃくしゃする。その上、安室が何もかも分かったような顔をして流し目を寄こすからますます腹が立った。

「……父に、聞いておきます」

 こんな状況では、かろうじて笑顔を作るのに精いっぱいだ。

 安室はその後も、掛け軸を囲んで歌川と話し込んだ。時にはにも意味の分からない専門用語まで飛び出してくるので、話についていくのがやっとだった。正直に言って、安室がこんなに賢い男だとは想像してもいなかった。

 安室と出会ってから、はいつも噴火寸前の活火山のようだった。泥棒と言うものは、薄汚くて、卑しくて計算高くて、人を人も思わない冷酷非道な犯罪者だと思い込んでいたからだ。

 けれど、安室を見ているとそうとも言い切れないような気がしてくる。安室はこれまで、を傷つけるような真似はこれまで一度もしていない。脅して言うことを聞かせようとすれば、決してできないことはなかっただろう。

 安室の立ち居振る舞いは常に紳士的で丁寧だ。女性を待たせない気構え、美術館まで並んで歩いてくる間も、さりげない仕草で車道側に立ってくれた。飲食店で働いているためか、短く切りそろえた爪の清潔感にはうかつにも目を奪われるくらいだった。

 を騙すためにそういう人間を演じている可能性もある。けれど、こういうことは一朝一夕で身に着けられる習慣ではないように思えた。

 安室に対する印象が変わり始めているのを感じて、は誰にも気づかれないように、口元を手のひらで隠しながら自嘲した。



 館長に見送られて、韮崎美術館を後にしたふたりは、近くにあったファストフードで遅めの昼食を取ることにした。

 昼時を過ぎた店内はぽつぽつと空席が目立って、他の客と離れた席を選べばどんな話をしても誰にも盗み聞きされることはなさそうだった。

「どうだった?」

 フライドポテトをつまみながらが尋ねると、安室は大きな口でハンバーガーを頬張りながら満足そうにうなずいた。

「必要な情報は手に入ったよ」
「作戦はまとまった?」
「まぁね」
「それじゃ、もったいぶらないで教えて」

 安室は口元についたソースを親指で拭い、その指を赤い舌で舐める。

「まず、決行日だけれど、次の日曜日の夜にしょう。休日で観覧者が多いし、翌日の月曜日は休館日だから事件の発覚も遅らせられる」
「事件、ね」
「どうかした?」
「別に。そうはっきり言われると実感がわくなと思っただけ」
「つまり、覚悟はできたってことだね」
「それ、どういう意味?」
「泥棒の片棒を担ぐ覚悟だよ」
「はぁ? ちょっと待って」

 は思わず、ジンジャーエールのグラスをテーブルに叩きつけてしまった。ガンっ、と、固い音が立つ。

「もしかして、私も一緒にやるの?」
「当然だろ」
「そんなの聞いてない!」
「協力するって言ったじゃないか」
「でも、そういう話だとは思ってなかったもの」

 安室は机に腕を付いて体を乗り出して、勇気づけるように声を低くする。

「無理にとは言わないけれど、が手を貸してくれればこの計画の成功率は悪団に上がる。僕を助けて欲しい」
「私なんかに何ができるっていうのよ?」
「なんか、だなんて、自分を卑下するのはやめて欲しい。君はあの掛け軸に一番詳しい人間のひとりなんだ。これ以上助けになる人間はいないよ」
「買いかぶりすぎよ」
「そんなことない。自分の持っている能力を過小評価するなんて馬鹿げてる。将来の可能性を自ら狭めるなんて愚かなことだよ」
「可能性も何も、私は泥棒なんて今回限りのことだと思ってるんだけど」
「それは僕だってそうだよ」
「はぁ? 何言ってんの?」

 は口を真横にひん曲げて大声を出してしまう。
 安室は泥棒だ。それで対価を得ていると自分で言っていた。それが安室の生業という意味だと思っていた。それにしては今回限りという言い方はしっくりこない。

「まぁそれは置いておいて」

 安室は軽薄に笑って誤魔化した。

「今は、目の前のことだ。確認して起きたことがたくさんある」
「あら、何かしら?」
「待ち合わせの時間と、持ち物」
「それだけ?」
「一番大事なことだよ」
「そうなの。それじゃメモするから待って」

 ポテトの油と塩気に気を付けてスマートフォンを握ったの手を、安室が上から掴んだ。

「だめだよ。大事なことは頭に入れて」
「なんで?」
「ないと思うけど、万が一ハッキングされたら困る。基本だよ」
「あぁ、そう」
「待ち合わせは、夕方4時。韮崎美術館で」
「ねぇ、ちょっと不安なことがあるんだけど聞いてくれる?」
「何だい?」
「私もあなたも、美術館の職員に顔を覚えられてると思うの。私はとっくの昔から顔なじみだし、あなただって一度会ったら忘れらない顔をしてる」
「ありがとう」
「別に褒めてない」
「なんだ、残念」
「質問に答えて」

 安室に握りしめられたままの手を見下ろしたまま、は精一杯毒づいた。強く言ったつもりだったけれど、安室の手の熱さが気になって語尾がため息で滲む。ポテトの油で光る指が安室の手につかないように指を猫の手のように丸くすると、安室はなだめるように手の甲を撫でた。

「顔を知られているのはもう仕方がない。それを逆手にとってうまくやろう」
「どうやって?」
「やれば分かるよ」
「こんな大事なことを誤魔化さないでくれない?」
「大丈夫だから。安心して」
「変装も何もしなくて平気なの?」

 安室はつまらないギャグを聞いた時に愛想笑いをするように「ぷっ」と笑った。

「そんなことしたら逆に目立つよ」
「そうかもしれないけど……」
「大丈夫。僕を信じて」

 そう言えば何でも済むと思ってるんだから。

 そんな言葉が口から出かけたけれど、安室には何を言っても無意味だということはもう十分過ぎるほど分かっていた。暖簾に腕押し、糠に釘とはまさにこういうことだ。いくら働きかけても思い通りにならないなら、もうお手上げだ。

 犬が腹を見せて仰向けに寝転がるときがある。急所のひとつである腹を晒すことは、つまり相手に降参していることを意味する。はもはやそんな気持ちだった。

「分かった。あなたを信じる」

 安室はにっこりと笑って、の手を離した。

「ありがとう」
「それじゃ、持ち物は?」
にはひとつ、重要なものを用意してもらいたいんだ」
「何?」
「スズメを一匹」
「……それ、冗談?」
「まさか。は猟銃免許の他に網猟免許も持ってるよね?」
「それは、持ってるけど」

 網猟免許とは、わなを張って野生の鳥類や哺乳類を狩ることを許可された免許をいう。は猟銃免許を取得する際に、この免許も取得していた。捕獲することのできる鳥類の中にはスズメも含まれている。

「あのね、知らないなら教えてあげるけれど、スズメは捕獲できる期間が法律で定められてるの。今はその時期じゃない」
「掛け軸を盗むことに比べたらこのくらい簡単だろ?」
「そうかもしれないけど……」

 安室は残りのハンバーガーをふた口で食べ終わると、冷めかけたコーヒーを飲み干して、お手拭きで汚れた指先を拭う。はそれを見ているだけではお腹がいっぱいになってしまって、つまみ上げたポテトをトレイの上に落とした。

「食べないの?」

 安室が言う。
 はトレイごと、ポテトを安室の方に押す。

「よければどうぞ」
「そう? それじゃもらうよ」

 すっかり冷めたポテトをぱくりと頬張る安室を、は複雑な気持ちで睨みつける。

 この男を信じることに決めた。二言はない。だからと言って、胸の内に湧き上がる葛藤が消えてなくなるわけではない。どうやらこの苦しみとは、盗みが成功するまで付き合うことになりそうだ。そう思うと気が重い。でもやるしかないのだ。

 はそんな思いを振り払って、言った。

「ひとつ、確認させて」
「何だい?」
「スズメは、生け捕り?」
「そう、生け捕り」
「スズメをどうするの?」
「それは、当日までのお楽しみ」

 安室は何の苦労も知らなさそうな顔で笑い、やっぱり由梨をいらっとさせた。





20200427