翌日、は11時きっかりに米花駅に着いた。
 空は快晴、絶好のデート日和である。

 駅前広場の街路樹の下、背筋を伸ばして立つ安室を見つけて、はとっさに、近くにあった道路工事を予告する看板の裏に隠れた。

 父が描いた贋作の掛け軸を、世の中に出る前に盗み出す。その目的を果たすためにはもう手段を選んではいられない。何があっても覚悟はできているつもりだ。けれど、まだ尻込みしてしまう自分もいる。

 看板の陰からこっそり盗み見た安室は、まるでモデルのような立ち姿だ。形の綺麗な白いジャケット、深い紺色のトップス、黒いスキニーパンツ、つま先が尖った革靴。

 は自分の服装を思い出して、眉根に皺を寄せた。オフホワイトのジャケットの色味がかぶってしまっている。それだけのことが、なんだか無性に悔しい。一度家に戻って着替えて来てやろうかとすら思うけれど、そこまでするのは馬鹿らしい。

 ストライプのシャツワンピースの腰で結んだリボンの角度を直して、髪を撫で付けてから、は安室の方へ一歩踏み出した。

 を見つけた安室が、にっこりと笑う。ちょうどよくいい風が吹いてきて、金色の髪が光を弾いて揺れる。それを見てしかめっ面をしてしまったのは、その光が目を焼くほどに眩しかったからだと、は自分に言い訳をして安室の前に立った。

「おはようございます。時間ぴったりですね」
「あなたは早かったのね」
「女性を待たせるわけにいきませんから」

 歯の浮いたせりふに吐き気がして、は腕組みをして唇を尖らせる。けれど、思い直してすぐに腕を解いた。不本意だが、今日はデートなのだ、一応しおらしいたおやかな女性を演じておきたい。

「それで、今日はどうするの? まだ何も聞いてないんだけど」

 そう尋ねると、安室はやけにのそばに顔を近づけながら言った。

「昨日とメイクが違いますね。今日も素敵です」
「……質問に答えてくれない?」
「あぁ、すいません。つい本心が」
「おだてたって何も出ないわよ」
「そんなつもりありませんよ」
「もう、本当に、そういうのいいから」
「素直にありがとうって言えばいいのに」
「私は! 質問をしているの!」

 つい大声を上げてしまって、はっとした。すぐそばを通りがかった子どもが「あーけんかいけないんだー」というのを、母親が「指差しちゃだめ!」と諌めながら通り過ぎていく。

 は気を取り直して、ひとつ深呼吸をする。
 安室はそれを確認してから穏やかに告げた。

「今日は、韮崎美術館に行きましょう」
「え、そこ?」

 そこは目当ての掛け軸がある場所だ。

「もしかして、これから盗みに行くつもり?」
「いいえ、今日は下見です」
「あ、そう」

 まさかとは思ったが、ほっとする。それではいくらなんでも性急すぎるというものだ。

 あからさまに肩をなでおろしたを見て、安室は明らかに笑うのこらえる。そして、優雅な仕草でに手を差し伸べた。

「それじゃ、行きましょう」

 はその手を取らず、安室をひと睨みしてから先に立って歩き出した。恋人同士でもあるまいし、手なんか絶対に繋いでやるものか。そう考えて、の脳裏にふと過る。

 もし本当に安室が恋人になったら? 

 は慌てて頭を振って、全力で否定した。まさか、ありえない。こうして安室と会うのはただあの掛け軸のためだ。得体が知れなくて怪しさ満点の泥棒男になんて、それ以上深く関わるのはごめんだ。

 振り返ると、安室はの斜め後ろを様子を伺うようについてきた。目が合うと、またあのにっこり顔をして見せる。まるで「何にもひどいことはしないから大丈夫」と言い聞かせるような笑い方で、の胸の中の猜疑心がぐにゃりと歪んだ。

 歩く速度を緩めると、安室はそっと隣に並んだ。互いの歩調を探り合いながら、静かに並んで歩き出す。

 まるで、飼い始めたばかりの犬と初めての散歩に出かける時みたいだと思う。愛犬・ニコが家にやってきたばかりの頃のことを思い出して、ニコと安室の顔が重なった。にんまりと緩みそうになる唇を、はぐっと噛み占めた。



 韮崎美術館は、駅から歩いて15分ほどの距離にある。

「どういう計画なのか、着く前に教えてくれない?」

 道中にが尋ねると、安室は待っていたと言わんばかりにさっそく答えた。

「今日は、掛け軸が保管されている部屋を確かめたいんです。あなたが頼めば、実物を見せてもらうことも可能でしょう」
「部屋を確かめて、それでどうするの?」
「それは現場を見てから」
「もうちょっと詳しく教えてくれてもいいんじゃないの?」
「詳しくとは?」
「あなたが何を考えてるのか、私にはさっぱり分からないの。そもそもどうしてあの掛け軸を盗もうとしてるの? できれば最初から説明してちょうだい」
「そこから話すとなると、15分ではとても足りませんね」
「どのくらい時間があればいいの?」
「そうですね、最低でも一晩は」
「そんなに付き合うのは嫌よ」
「それじゃ、残念ですがお伝えできることはあまりありません」
「ちょっと、それはいくらなんでもあんまりなんじゃない? 私は協力者よ。知る権利はあると思うけど」
「僕が説明しなくても、聡明なあなたならすぐに分かりますよ。それより、美術館の中では言葉を選んでくださいね。僕達の目的を感づかれては困りますから」
「言葉といえば、あなたこそよ」
「僕ですか?」
「その敬語よ。一緒に美術館に行くつもりなら直して」

 安室は困ったように目を丸くして瞬きをした。形だけでも安室が困る顔を見るのは初めてで、それだけでは少しだけ強気になる。

「あなたの言う通り、私が頼めば掛け軸は見せてもらえると思うわ。でもね。あなたを私の友達だと紹介するとして、敬語で話していたら怪しまれると思わない?」
「そうですね。言われてみれば、確かに」
「それに、あなたの言葉遣い、聞いてると無性にイライラするの。できればやめてちょうだい」

 安室は口元に手を当てて、少しの間考え込む。

「じゃぁ、遠慮なくそうさせてもらうよ」

 そう言った瞬間、安室は両方の手をポケットに突っ込んだ。体を少し斜めに傾けて、それだけでずいぶん砕けた雰囲気になる。まるで別人になったような仕草に、は思わず目を見張った。

「……あなたって二重人格なの?」
「友達だと言うなら、あなたじゃなくて名前で呼んでくれないか? 
「誰が名前で呼んでいいなんて言ったのよ!」
「友達なのにさんだなんて呼ぶ方がおかしいだろ」
「だからって、急に馴れ馴れしいのよ!」
「僕のことも名前で呼んでいいよ。覚えてる?」
「安室透でしょ! 忘れるわけないじゃない!」
「よかった。忘れられてたらどうしようかと思った」
「……!」

 ついさっきまでの強気があっという間にしぼんでしまって、は安室を睨みつけながら奥歯をぐっと噛んだ。



 韮崎美術館は、韮崎重三が運営する私立美術館である。韮崎家が先祖代々受け継いできた美術品を一般にも広く開放することを目的としていて、その収蔵品の数々は海外からも高く評価されている逸品ばかりだ。

 自動ドアを入ると、正面に受付カウンターがある。受付係は眼鏡をかけた初老の女性で、の姿を見ると、穏やかに微笑んで椅子から腰を上げた。

さん。いらっしゃいませ」
「川辺さん、こんにちは。いつもお世話になってます」
「こちらこそ。今日はご見学ですか?」
「えぇ、友人と一緒に」

 の隣に立つ安室を見るやいなや、川辺はぽっと頬を赤くした。「まぁ! イケメン!」と、すっかり舞い上がっている。安室はまんざらでもなさそうに微笑んで会釈をした。安室の笑顔は、人好きすると言えば聞こえはいいけれど、には胡散臭いとしか思えなくて、こっそり胸の中で毒づく。

「へらへらしてんじゃないわよ」
「え?」
「あぁ、すいません。なんでもないです」

 しまった、無意識に口から漏れていた。いけないいけない。

 安室は約束通り、ふたり分のチケット代を持ってくれた。
 展示室へ向かうと見せかけて、はたった今思い出したように振り返り一芝居打った。

「今日は、館長さんはいらっしゃいますか?」
「えぇ」
「後でご挨拶に伺いたんですが」
「はい。伝えておきます」
「よろしくお願いします」

 川辺に声が届かないところまで移動してから、安室はぼそりと呟いた。

「彼女とは親しいの?」
「ここの職員さんとはほとんど顔見知りよ。みんないい人」
「ふぅん」
「それがどうかした?」
「いや、別になんでも」

 そう言われると余計に気になってしまう。はっきり言えと詰め寄りたい気持ちになったけれど、展示物も見ないでぺちゃくちゃおしゃべりばかりするのはいかにも場違いだ。

 はぐっと堪え、視線を無理やり展示物へ向けた。

 この美術館へは何度も足を運んでいるから、すっかり見慣れた絵画ばかりだ。その上これからのことが気になって気もそぞろで、純粋に芸術を味わう気持ちにはなれなかった。

 気になって振り返ってみると、安室は絵画を眺めるふりをして天井の片隅を見上げていた。その視線を追いかけると、黒い半円球状の監視カメラがあった。

 安室の本気を感じ取って、は背筋が寒くなった。とんでもない世界に足を踏み入れてしまったような気がして、恐怖感が胸の奥からせりあがってくる。

 はこれまで優等生キャラで通してきた。ルールを破ったり、道徳に反することは生まれてこのかた一度たりともしたことはない。そんな自分が泥棒に手を貸すだなんて、天地がひっくり返ったと言っても過言ではないほどの非常事態だ。

 全ては父のためだ。本物と見まがうほどの贋作を描き上げただけでは飽き足らず、まやかしの評価で自己顕示欲を満たす愚かな父。世間を騙し、大衆を欺く快感に酔っている非常識な男。許されない罪を犯していると分かっていても、大切な家族だから守りたかった。そのために、自分が手を汚す。それがの覚悟だった。

 ふと、安室がくるりとこちらを振り向いた。
 とっさのことに、は動揺を隠せず、どぎまぎしてしまう。

「どうかした?」

 安室はの顔をのぞきこんで言った。

「……別に、何でもないわ」
「本当に? 不安そうな顔してるけど」
「平気だってば」

 と、安室はの手を掴んで強く引き、絵画の観賞用に置かれているスツールにを座らせた。驚くの隣に、安室も座る。

「平気なはずないだろ。初めて盗みを働こうとして、平常心でいられる人はふつういない」
「……そんなこと、大きな声で言わないで。誰かに聞かれたらどうするの」
「大丈夫。監視カメラは音声は拾わないから」

 言われてみれば、確かにその通りだ。気を落ち着けるために、ひとつ深呼吸をする。

 スツールの正面に一枚の日本画が飾られていた。日本髪を結った女性の美人画で、掛け軸に仕立てられている。しなをつくって後ろを振り返る立ち姿だ。その体全体で作る曲線がなんとも言えずに色っぽいのに対して、すっと吊り上がった目元が生意気な印象だ。凛と気高い女性の美しさの表現が素晴らしい。

「あの絵の女性、に似てるね」

 安室が言う。
 は無気力に笑った。

「どこが?」
「目元とか、頭の形とか。きれいだよ」
「あなたのお世辞は聞き飽きた」
「お世辞じゃないって。何度も言ってるだろ」
「どうせ私をおだてて簡単に言うこと聞かせようとしてるんでしょ? 騙されないわよ」
「どうしてそう捻くれた受け取り方をするのかな」
「あなたが信用できないだけ」
「気持ちは分からなくもないけど、協力すると言ったからには信用してもらいたい。信頼関係がないと何事もうまくいかないよ」
「そう思うなら、信用できる態度を取って欲しい。あなた、歯の浮くようなことはぺらぺらしゃべるけど肝心なことは何も教えてくれないじゃない。そういうところよ」
「僕はいつも本当のことしか話してないし、詳しい話ができないのは今日の下見があったから。変更になるかもしれない不完全な計画を先に話す意味はない」
「それはさし置いておいても、あなた隠し事してるでしょう? 手の内を見せない人は信用はできない」
「隠し事をしているのはそっちも同じだろ」

 は思わず、キッと安室を睨んでしまった。腹が立ったのは、図星を差されたからだ。あの掛け軸が父の手による贋作だということは、口が裂けても言うつもりはない。父の身に危険が及ぶような真似は絶対にしたくなかった。けれど、安室はもうそれに気づいている? そのことを言いたいのだろうか?

 けれど、あの掛け軸が贋作だと分かっているのなら、わざわざ盗み出そうとはするとはとても思えない。

 安室はに睨まてれもちっとも物怖じせず、落ち着いていた。

「僕はを信用してるよ。隠し事はできればないほうが嬉しいけれど、が話したくないならそれでかまわない。けれど、絶対に僕を裏切りはしない」
「それは……」
「僕も裏切らないよ」

 安室の瞳が、今までになく真剣な光を帯びて強く光る。その光に吸い寄せられるように、は目を離せなくなった。澄んだ湖面のような青い瞳。日本人離れしたその青色に、うっかり見とれてしまう。

「……どうしてそんなこと簡単に言えるのよ?」
「僕はが素直ないい人間だっていうことはよく分かってるから」
「何を根拠にそんな……?」

 安室は得意のにっこり顔を浮かべると、自信たっぷりに言った。

「犬好きに悪い人間はいないからね」





20200420