coffeeポアロ

 大きな窓にでかでかとプリントされた野暮ったい文字を、は複雑な気持ちで睨みつけた。

 本当はこんなところに来るつもりはなかった。来たくもなかった。避けてさえいたし、関わり合いにならないですむならどんなことでもすると思っていた。そこまで硬く決意していたというのに、は喫茶ポアロの扉の前で、腕を組み仁王立ちしている。

 ここは、悩みに悩んだ末に流れ着いた最果てだった。

 はひとつ深呼吸をすると、勇気を出して扉を押した。ドアベルがカランと鳴って、「いらっしゃいませ」と声がかぶさってくる。

 出迎えてくれたのは、栗色の髪を背中に流したウェイトレスだ。

「おひとりですか?」
「はい」
「お好きな席にどうぞ」

 店内は空いていた。

 おしゃべりに花を咲かせる女子高生、少し早い夕食だろうか、パスタとグラタンを食べている年の離れた姉弟、ノートパソコンを睨んでいるサラリーマン、コーヒーを傾けながらスマートフォンを操作している男性。それで全部だった。

 は他の客から離れた隅の席を選んだ。

「いらっしゃいませ。やっと来てくれましたね」

 がソファ席に腰を下ろしたのと同時に、安室は優雅な仕草でテーブルにお冷を置いた。

 が店に入った瞬間から、安室はカウンターの奥でにやにやと笑っていた。その笑顔がいかにも癪に触って、はつっけんどんに答えた。

「来たくて来たわけじゃないわ」
「それでも嬉しいですよ。ありがとうございます」

 まさかお礼を言われるだなんて思ってもいなくて、言葉に詰まってしまう。おかげで、あれこれとシミュレーションしてきた言葉が全部どこかに吹っ飛んでしまった。この油断のならない男とどうやって対等に渡り合うために万全の準備を整えてきたのに、完全に出鼻をくじかれた形だ。

「別に、あなたのために来たわけじゃないんだから」

 苦し紛れにそう吐き捨てて、お冷で喉を潤す。よく冷えていて、ほのかにミントの香りがした。思いがけず美味しさに少しだけ緊張が緩んだ。

「ご注文は?」
「じゃぁ、コーヒーを」
「では、本日のブレンドをお持ちします。少々お待ちください」
「ちょっと待って! まだ話は……!」

 オーダー票にボールペンを走らせてカウンターの中に戻ろうとする安室を、は慌てて呼び止めた。ただコーヒーを飲みに来たわけではないのだ、はぐらかされてはたまらない。

 安室はゆったりと振り返ると、小さな子どもをなだめるようなそぶりで答えた。

「あと30分でシフトが終わりますので、大事な話はそれから」
「……あ、そう」

 それならいいけど……、と言葉を口の中で濁す。前のめりになった体をソファに戻すと、気恥ずかしさに腹の底がもぞもぞした。

 そもそも、をここに誘ったのは安室だ。それに応じてわざわざ出向いてやったのに、これではこっちから無理やり押しかけて来たみたいじゃないか。誰が好き好んで家に忍び込んできた泥棒を尋ねたりするものか。

 なんだか、安室の掌の上で踊らされているような気がする。面白くない。

「お姉さん!」

 ふと、声をかけられて顔を上げると、テーブル越しに少年がを見上げていた。大きな黒縁の眼鏡をかけていて、人懐っこい笑顔を浮かべている。確か、別のテーブル席で食事をしていた姉弟のひとりじゃなかっただろうか。そちらを見ると、姉の方は何やらウェイトレスと話し込んでいた。

「どうしたの? 坊や」
「僕、ちょっと、お姉さんに聞きたいことがあって」

 少年は断りもなく椅子を引いて対面に座ると、両腕をテーブルに乗せてにっこりする。その裏表のない無邪気な笑顔が、ささくれ立った心にじんと染みた。はできる限り優しい声と態度で答えた。

「何かしら?」
「お姉さんは、安室の兄ちゃんのお友達?」

 自分でも笑顔が引きつったのが分かって、はとっさに息を止めた。そうでもしないとこんな小さな子ども相手に大声を上げて怒鳴ってしまいそうだった。

 ――誰があんな男の友達だ!



 30分後。

 アルバイトのシフトを終えた安室と一緒に、はポアロを出た。窓越しに、眼鏡の少年に手を振る。この30分ですっかり懐かれてしまった。

「あの少年は僕に興味津々なんです。僕の知り合いを見ると、いつもあんな調子で」

 安室は肩をすくめて苦笑いした。

「一体、あの子に何をしたの?」
「それは人聞きが悪い。僕は何もしていませんよ」
「何もしていないのにあんなに興味を持つかしら?」
「僕の人柄に惚れた、とは思いません?」
「だとしたらあの子が哀れね。すっかり騙されちゃって」

 安室は声を上げて笑いながら振り向くと、ポアロの真上を指差した。

「あの子はここの上に住んでいるんです。ご近所さんなんですよ」
「本当にそれだけ?」
「ずいぶん疑いますね」
「だって、あなたとの関係を根掘り葉掘り聞かれたんだもの。まるで取り調べみたいだったわ。もしかしてあの子、あなたが泥棒だって気づいているんじゃない?」
「まさか! そんなわけないじゃないですか!」

 安室はますます声を上げて笑った。

 確かに、あんなに小さな子どもが気が付くようなことではないかもしれない。けれど、は確かに感じたのだ。あの少年は、安室のことならどんな小さなことでも知りたくて仕方がないようだった。何か恨みでもあるのかと疑いたくなるほど真剣だったのだ。

 の気も知らずに、安室は涙が浮くほど笑っている。

「……そんなに笑うことないじゃない」

 はむっと唇を尖らせた。

「すいません。つい」
「こっちは真面目な話をしようとしてるっていうのに」
「分かっています。これからの予定は?」
「別に何もないけど」
「では、ゆっくりお話しできますね」

 ポアロから少し歩いた場所に、小さな月極駐車場があった。安室は白い車の傍らに立つと、助手席のドアを引いた。

「どうぞ、乗ってください」
「いや、でも……」

 は躊躇する。信用のおけない男の車になんか乗りたくない。けれど、これからとても他人には聞かせられない話をすることになる。車という密室はそれにもっともふさわしい。背に腹は代えられない。

 は安室のエスコートに従って、しぶしぶと車に乗り込んだ。



 安室の運転の腕前はなかなかだった。ハンドルさばきは滑らかで、ブレーキも静か。歩行者にも目配りが行き届いていて、横断歩道を渡るのに苦労している老人には親切にも道をゆずる。ずいぶん人のいい泥棒だことと、は皮肉っぽく思う。

「どこかで食事でもしましょうか?」
「コーヒーを飲んだばかりだからいいわ」

 正直なことを言えば、近頃あまり食欲がなかった。心配事が多くて胃の調子が良くない。そこにコーヒーなんか流し込んでしまったので何かを食べる気は起きなかった。

「それじゃ、ドライブでもしながら話しましょうか」
「……そうね」
「僕に会いに来てくれたということは、協力してくれる気になったと考えていいですか?」

 そう言われて、は思わずしかめっ面になる。その通りなのだが、安室の口から言われると癪に障った。安室の望み通りに動いていると思われたくはなかった。

「勘違いしないで。協力するかどうかは話し次第よ」

 は胸の前で腕組みをしてきっぱりと言った。

「では、まずはそちらの話を聞かせていただけますか?」

 あくのない笑みに、かっと頭に血が上る。

 悠然とハンドルを握る安室は、小さな子どもに言い聞かせるようにそう言った。馬鹿にされているようで気分が悪い。けれど、ここで声を荒げるのも大人げない。

 冷静に、冷静に。は自分にそう言い聞かせながら、努めて穏やかに口火を切った。

「まず、確認しておきたいんだけれど、あなたはあの掛け軸を盗んでどうするつもりなの?」
「どうする、とは?」
「ブラックマーケットで売りさばくつもりなら協力しないわ」
「そういうことでしたらご心配なく。僕は掛け軸を人手に渡すつもりはありませんから」
「それじゃ、個人的に所有して楽しみたいっていうこと?」
「言ったはずですよ。まずは、そちらの話を聞かせてください」
「……」
「僕に会いに来たということは、僕に協力することであなたにもメリットがあると判断したからではないんですか?」
「それは……」
「まず、そこから話してください」

 まるで、何もかも見透かしているような物言いだ。なんだか怖い。けれど、ここまで来てもう引き返せない。

「……私は、あの掛け軸を世に出したくないの。それがあなたに協力する唯一の条件よ」

 安室は横目でを見やる。何か言おうとしているように見えたけれど、ひとつなずいただけだった。

「なるほど」
「それができないのなら、この話はなし」
「できますよ」
「え、本当に?」
「はい。それが唯一の条件だというのなら、決まりですね」

 信号が赤に変わって、車はゆったりと停車する。安室はサイドブレーキを下ろすと、を振り返って嬉しそうににっこりして見せた。

 こんなに早く話が済むとは思っていなかった。正直、拍子抜けだ。うまくいきすぎじゃないか? 何か、とても大事なことを見落としてるんじゃないだろうか。なんだろう? 必死に頭を働かせるけれど、思いつかない。

 安室はを差し置いてさくさくと話を進めた。

「あれを世に出さないためには、展示がはじまる前になんとかしなければなりませんね」
「……そうね」
「展示はいつからですか?」
「2週間後よ」
「なら、急ぎましょう。明日の予定は?」
「普通に仕事だけど……」
「では、休んでください」
「は?」
「僕も休みます」
「え、なんで?」

 信号が青に変わって、前の車が動き出す。安室はブレーキから足を離す直前、はじけるように笑った。人懐っこい笑顔を浮かべてに近づいてきたあの眼鏡の少年のように、好奇心いっぱいの笑顔だった。

「僕とデートしましょう」
「……はぁ?」
「待ち合わせは、11時に米花駅でどうですか?」
「ちょっと待って。どういうこと?」
「心配しなくても、デート代は全て僕が持ちますよ」
「そういうことを言ってるんじゃなくて! なんであなたとデートなんかしなくちゃならないの!?」

 ついにこらえきれなくなって大声を上げたを、安室は軽快に笑い飛ばす。まるで待っていたような態度に、はますます腹を立てた。安室は自分を怒らせて楽しんでいるのだ、そう思うと腸が煮えくり返るような怒りにどうにかなりそうだった。

「せっかく共犯関係になるんですから、まずは親交を深めましょう。その方が作戦もスムーズにいきますしね」
「私は! あなたとの親交なんか興味はないの! これは、ビジネスよ! 正当な取引よ! プライベートでまでなれ合うつもりないわ!」
「そう言わずに、せっかくだから楽しみましょうよ」
「嫌よ! 絶対いや!」
「明日、11時に米花駅前で待っていますから。ちゃんと来てくださいね」
「だから、嫌だって言ってるでしょ!」
「来なければ家まで迎えに行きます」
「そんなことしたら、ストーカーで訴えるわよ!」
「そんなことになったら、掛け軸を盗むことも叶わなくなりますがいいんですか?」
「それは……!」

 は言葉を詰まらせる。安室の協力を得られなくなるのは困る。掛け軸を盗み出せなかったら、この身の破滅だ。大嫌いな男と一日デートをすればそれが防げるのなら……。それは安い犠牲だろうか?

 怒りに沸騰した頭でぐるぐると思い悩むを、安室はこう言ってなだめた。

「どうか、僕を信じてください。絶対にあなたの悪いようにはしませんから」





20200420