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ベルモットの変装術は素人にはとても真似できない神業だ。
目尻の釣り上がった狐目に、襟足を刈り上げた黒い短髪、細い鼻の横には象徴的なほくろがある。鏡に映った見慣れない男の顔立ちをよく確認しながら手早くカフスボタンを留める。縦に長いロッカーの扉を閉じると、安室は控え室を出てギャルソンの制服に身を包んだ男達の群れの中に紛れた。
彼らは、今夜、米花ホテルで開かれるパーティのために日当で雇われた派遣社員だ。パーティの名目は、「韮崎美術館開館10周年を祝う会」である。立食式のビュッフェパーティで、安室に割り当てられた仕事は飲み物の提供だ。カウンター越しに注文を受けて、笑顔でアルコールを提供する。参加者は乾杯の前に必ず自分の飲み物を注文しにくるので、今夜のターゲットはやがてカウンターで待つ安室の前にひょこりと現れた。
「シャンパンを3ついただけます?」
その声を聞くまで彼女がそうだと気づけなかったことに、安室はほんの少し戸惑った。
今夜の
は、まるで映画ワンシーンから抜け出してきたようだった。
鮮やかな青いカクテルドレス、華奢な鎖骨をゴールドアクセサリーが飾っている。ピンク色の唇は蠱惑的で、くっきりとした黒いアイラインがどこかエキゾチックだ。ゴールドのチェーンストラップ付のクラッチバッグ。水のように流れる黒髪は、緩やかなカーブを描きながら豪勢に背中に落ちかかっていて、夜空に星が輝くようにきらきらと輝いていた。
とは二度会っているが、一度目はネグリジェ姿、二度目は犬の散歩中のスウェット姿だった。すっぷんとフルメイクのギャップに目が眩む。
「かしこまりました。テーブルまでお持ちしますか?」
「えぇ、お願いします」
シャンパングラスを3つトレイに乗せ、会場の奥のテーブルへ運ぶ。
は2人の男性と談笑していた。安室の事前調査によれば、ひとりは
の父である
伊佐緒、もうひとりは今日の主役、韮崎美術館の館長韮崎重三だ。
「お待たせいたしました。お飲物をお持ちしました」
会釈をし、ひとりひとりにグラスを手渡していく。会釈をしてその場を離れる間際、偶然を装って
の肩に軽く体をぶつけた。その隙に、手首をひねってクラッチバッグの底に盗聴器を張り付ける。
「あぁ、すいません。失礼いたしました」
軽く頭を下げ、空になったトレイを体の横に下げて踵を返そうとする。そんな安室を、
の視線が捕らえた。ただのウェイターに向ける視線ではなかった。まさか、正体がばれたのか? 冷や汗が浮かんだが、安室は笑みを浮かべて答えた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
は怪訝そうな顔を見せながらも、違和感を掴み切れていないらしい。
「……いいえ。こちらこそ」
そう言って、曖昧に笑った。
変装しているとはいえ、声を変えているわけではない。もしかすると、聞き覚えのある声に反応したのかもしれない。安室は改めて気を引き締めた。
ウェイターは全員イヤホンを装備しているが、安室の耳にはアルバイト統括の指示は聞こえず、代わりに
の周辺で交わされる会話が電波に乗って飛んできた。
『この度は本当におめでとうございます』
『いえいえ、これも
さんのご助力があってこそですよ。感謝しています』
ドリンクカウンターへ戻った安室の耳に、ふたりの男の声が届く。盗聴器は
のクラッチバッグに付いているのに、
の声はほとんど聞こえてこなかった。人垣越しに見てみると、父の隣に立って楚々と微笑んでいる。どうやら聞き役に徹しているらしい。
似合わないな、と思う。
盗聴器はつまらない話ばかりを拾った。
『あの美人画は本当に素晴らしい。生きている間にお目にかかれたことはこの上ない幸運ですよ』
『なにせ、戦火で焼失した幻の一品と言われていましたからな』
『おかげでわが館の10周年記念の特別展の目玉ができましたよ。前売り券の売り上げも順調だ』
『日本が誇る名品をたくさんの方に見ていただけるなら、こんなに素晴らしいことはありませんからな』
『さすがは
さんだ。美術界の未来のことを常に考えていらっしゃる』
はっはっはっ、とふたりは大きな声を上げて笑った。
パーティーは順調に進行した。韮崎館長のあいさつ、美術館の出資者のあいさつ、来賓代表のあいさつが続き、歓談。美術館のPR動画の上映、韮崎がパトロンとなっている画家のライブペインティングと、盛りだくさんのプログラムだ。
パーティーの間中、
の声はほとんど聞こえてこなかった。誰かと当たり障りのないあいさつや世間話をするばかりだ。せっかくパーティーに潜入したというのに、無駄骨だっただろうか。そんな考えさえ思い浮かんでほとんど諦めかけた時だった。
『
さん。ぜひご紹介したい方がいるのですが、今よろしいですか?』
『えぇ、もちろんどうぞ』
『こちら、日本画専門の美術商で、アメリカからお越しのワイナー氏です』
『これはこれは、はじめまして』
その後に聞こえてきたのは、溌溂とした英語だった。
氏はあまり英語に堪能ではないのか、しどろもどろな気配がする。そこに助け船を出したのは
だった。
『私は娘の
です。私が通訳します。父はあなたにお目にかかれて光栄だと申しております』
『私も同じ気持ちです。あなたのような美しい女性と出会えたことは、私の日本滞在の一番素晴らしい思い出だ』
雑音の後、唇をつき出す生々しい音がイヤホンを通して頭の中まで響いてきた。安室は思わず袖の下に鳥肌を立てる。フランス人でもあるまいし、随分馴れ馴れしい男だ。人垣の隙間から様子を伺うと、アメリカ人の男は
の腰を抱くようにして隣に寄り添っていた。
は笑顔を浮かべているものの、不自然でない程度に限界まで逸らした背中が全てを物語っていた。
安室は適当にアルコールをいくつか用意すると、それをトレイに乗せて人の中に紛れた。ドリンクをサーブしながら、少しずつ
のいるテーブルと距離を詰めていく。
英語と日本語も混ざった会話は続いていた。
『わが国には日本画の愛好家が大勢います。特に、芒川秋花は大変な人気です』
『それは素晴らしい』
『今回の特別展が終了した暁にはぜひ、アメリカでの展示会を企画させていただきたいのです。戦火を生き延びた幻の一品! ぜひ本国のファンにもその素晴らしさを届けさせてください』
『ただ、ご存知のように大変貴重な作品ですからなぁ』
『もちろん、万全な準備を整えさせていただきます』
『パパ、でも……』
『御心配には及びません!』
安室は人ひとりを挟んでそのテーブルのすぐそばに立った。
氏とワイナー氏が固く握手をかわすすぐそばで、
は青い顔で口元に笑みを張り付けている。クラッチバッグを持つ指先が白くなっていて、震えるほど強く握りしめていることが分かる。
安室はトレイをそばのテーブルに置くと、足音を立てずに
のそばに近づいた。
「ご歓談中失礼いたします。
様でいらっしゃいますか?」
「……はい、私です」
「フロントにお電話が入っております」
「あら、誰かしら?」
「ご案内します」
は男性陣に断りを入れると、安室のエスコートに従って会場を後にする。観音開きの重い扉を開けて外に出れば、会場の喧騒が嘘のように遠のいた。人気もなく、毛足の長い絨毯が足音を殺す。
「あの、フロントはこっちじゃ?」
フロントとは逆方向に歩みを進めた安室を、案の定、
が呼び止めた。
安室はくるりと振り返ると、軽く頭を下げて微笑した。
「申し訳ありません。お電話が入っているというのは嘘です」
「え、うそ?」
「お顔色が優れないようにお見受けしましたので。ご迷惑でしたか?」
はあっけにとられたように目を丸くすると、風船の空気が抜けるように息を吐いて苦笑いした。図星を刺されて肩の力が抜けたらしい。
「いいえ、お気遣いいただいて、どうもありがとう」
「酔いが回ってしまいましたか?」
「えぇ、まぁ、そんなところです」
「よければ薬をお持ちしましょうか?」
「いいえ、結構です。手持ちのものがありますので」
「では、こちらで少々お待ちください。飲み物を持ってきます」
安室は
をロビーのソファに案内してから、一旦パーティー会場に戻った。ドリンクのストックから天然水のペットボトルとストローを取り、ロビーに戻る。
はソファに深くもたれかかって指で瞼を押さえるようにして休んでいた。安室はその目の前にひざまずき、ペットボトルのキャップをひねってストローを刺してやる。
「どうぞ」
は相変わらず青い顔をしていたが、ペットボトルを受け取る笑みは心からのもののように思えた。
「ありがとう」
「何か、欲しいものがあったら遠慮なくおっしゃってください」
「もう大丈夫です。どうぞ、お仕事に戻ってください」
「人手は十分足りていますから」
「でも……」
「体調のすぐれない女性を、ひとりにはしておけません」
は困ったよう笑うと、視線をあちこちに泳がせながら気まずそうにストローを咥えた。安室はそんな
の目を盗んで、クラッチバッグの底に着けた盗聴器をこっそり外して手首の内側に滑り込ませた。
「あの、もし違っていたらそうおっしゃって欲しいんですけれど」
「何でしょう?」
「私はあなたとどこかで会ったことがあると思うんです。でも、どこでだったか思い出せなくて……。よかったら教えていただけません?」
安室は笑顔の裏に冷や汗を浮かべる。まさか真正面から切り込まれるとは思ってもみなかった。
ここでマスクを破って安室透の正体を現したら、
はどんな顔をするだろう。きっと瞳が零れ落ちそうなくらい目を真ん丸に見開いて、あんぐりと口を開けて固まってしまうだろう。互いに犬のリードを引いて河川敷ですれ違ったあの夜も、驚きと恐れと、ほんの少しの好奇心が入り混じった複雑な顔をしていた。兎穴に落ちて不思議の国に迷い込んだアリスはきっとこんな顔で冒険したのだろうと思う。
また、あの顔を見てみたい。そんな願いが頭をよぎって、安室は思わず笑みがこぼす。
「何が面白いんです?」
はあからさまに眉をひそめた。
安室は気を取り直して芝居を続けた。
「いいえ。あなたのように美しい方が僕に興味を持ってくださるなんて、嬉しいです」
「あ、いや、私はそんなつもりじゃ……」
「ですが、お会いするのは、今日が初めてだと思います」
「そう、ですか……。すいません、きっと人違いですね」
はもうひと口水を飲むと、眉間を揉むようにして顔を伏せた。まだ顔色が悪い。息が浅く、クラッチバッグを握りしめる手には相変わらず固く握りしめられている。
ただ酒に酔っただけとは思えなかった。一体何があったのかは分からない。けれどそれを問いただすのには、
の体調が気がかりだった。今日はここまでにしておこう。
「タクシーを呼びましょう。お連れの方には私から伝えておきます」
「そこまでしていただくのは悪いです」
「かまいませんよ。どうぞ、こちらでお休みになっていてください」
「……それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「すぐに戻ります」
「ありがとうございます」
安室は立ち上がり
のそばを通り過ぎるとき、安室の耳に
のひとりごとが聞こえた。
「……まさかね、あの人がこんなに優しいはずないもの」
安室は去り際に
を振り返って目を細める。
本当に、油断のならない相手だ。こちらから正体を明かすまでもなく、見破られそうになっていた。一抹の悔しさが込み上げる。けれど同時に、胸の奥が湧き立ってわくわくした。
安室は深呼吸をして自分を落ち着かせると、フロントでタクシーを手配した。ロビーに戻ると、
はソファにもたれたまま目を閉じていた。安室がそばに立っても反応しない。どうやら眠ってしまったらしい。
安室はタクシーが来るまで、じっと
のそばに立って待った。見知らぬ人が通りすがったら、
の寝姿を隠す盾になった。
20200323