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泥棒に目をつけられた絵画は、掛け軸に仕立てられた日本画である。艶やかな着物に身を包んだ女がこちらを振り返るように美しい横顔を見せていて、憂いを帯びた眼差しがまるで生きているように艶っぽい。胸の内にしまいこんだ悪事の記憶に苛まれて悔しそうに唇を噛んでいるようにも、言い逃れをやめて諦観し、運命に身をゆだねようとしているようにも見える。真実は誰にも分からない。
「パパ、お願いだからやめて」
は、懇願とも哀願ともつかない声を上げて、隣に立つ初老の男の肩を掴んだ。男は
の父である。
すっかり薄くなった頭髪が真上から見下ろせるほど小柄な中年男だ。身に纏っているスーツは一流品で、カフスボタンには小さな貴石があしらわれていて粋だが、白雪姫の童話に登場する7人の小人のひとりのような容貌をしているのでいささかちぐはぐな印象だ。
日本画研究の第一人者であり、その業界では知らぬもののいない著名人である。芸術学校で日本画のコースを修めていて画家を志していたが、その方面では芽が出なかった。研究者としての立場を甘んじて受け入れたが、本人にとってはそれが唯一のコンプレックスだった。
父は安心させるように笑いながら、肩に置かれた
の手を優しく叩いた。
「大袈裟だな、そう心配することじゃない。一体何がそんなに不安なんだ?」
「もう何度も言ってるでしょ」
「この掛け軸の存在を公表したことをかい。それは私にもどうしようもなかったことなんだからそう責めないでくれよ」
「どうしようもなくなんかなかったでしょ。知り合いを家に招いた日にこれ見よがしにこれを飾ったのは誰?」
「まさか韮崎さんの目にとまるとは思わなかったんだよなぁ」
韮崎とは、この掛け軸の貸し出しを予定している美術館の館長である。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。これを芒川秋花の作品だと彼が言ったからといってみんながそれを信じるとは想像もしなかった!」
「だったらその時、言えばよかったじゃない! これは芒川秋花の作品をパパが模写したものだって!」
の真剣な眼差しを、父は豪快に笑い飛ばした。
「韮崎さんは日本画の第一人者だぞ! そんな人の目すら欺いた俺の腕は、つまり芒川秋花に勝るとも劣らないということだろうが!」
「そうだとしても、これを芒川秋花の作品として公開するのは詐欺よ! お願いだから止めて。もしばれたらどうするの? そんなことになったらパパは今の立場も業界の信用も、何もかも失うかもしれないのよ」
「ばれるわけはない。お前は大船に乗ったつもりで安心していなさい」
「どうしてそんな悠長なことを言ってられるのよ」
ふたりが押し問答をしていると、ピンポンと家の呼び鈴が鳴った。やってきたのは美術館の職員だった。彼らは父の立会いのもと掛け軸を壁から外し、丁寧に丸め、赤ん坊をゆりかごの中に寝かせるような仕草で桐箱の中に納め、借用書にサインを求めると風のように去っていった。
は何度もそれを邪魔しようとしたが、父に阻まれて手も足も出なかった。
ニコを連れて散歩に行くのは夜と決まっている。仕事が終えて家に帰り、夕食を済ませ、動きやすいスウェットの上下に着替えてからだ。
右手にリード、左手にエチケット袋を持って、堤無津川沿いの河川敷を歩く。昼間は子ども達や家族連れでにぎわう広場も、日が落ちればしんと静まり返っている。幸い街灯が煌々と明るく、月も丸々としている。明るい夜だ。
の父は、日本画の大家として成功をおさめようと遮二無二奮闘して、結果、挫折した経験がある。ずいぶん若い頃の話で、もちろん
が生まれるよりもずっと昔の話である。けれど父のパーソナリティを語るとき
がこのことを無視できないのは、子どもの頃から繰り返し同じ話を聞かされ続けてきたせいだ。
子ども心にも、父は悔しいのだなということは分かった。生活のために研究者の職を得たものの、諦めた夢にずっと未練があるのだ。大学では学生たちから「先生」と呼ばれて慕われている。けれど父の本当の望みは、別の意味で「先生」と呼ばれることなのだ。
くだらないと、
は思う。けれど、肉親である父親にはっきりそう言えるほど、
は思いやりのない娘ではなかった。なんといっても、たったひとりの家族である。今となってはその甘さを悔やむしかない。
勘違いが生んだ誤解を解こうともせず、それを足掛かりにして多くの人を騙し、かつて諦めた夢の幻を追いかけようとしている父は、ただ愚かだとしか思えなかった。
こんなことをして、一体どんな報いを受けることになるだろう。それを想像すると胃がきりきりと痛む。
ふと、前の方から人がひとり歩いてくるのが見えた。白い犬を一匹連れている。この時間に犬の散歩をしている人とすれ違ったことは今まで一度もなかった。珍しい。他に人通りもないこともあって、
は向こうから近づいてくるその人をじっと凝視した。
少しずつ近づいてい来るその人はどうやら男で、背が高い。黒っぽい上下を着ていて、明るい色の髪がまるで夜空にぽっかり浮かぶ月のようだ。連れている犬の毛並みは真っ白で、兎が跳ねるように元気よく飛び跳ねている。
夜の闇にもその姿や顔立ちがはっきり分かるようになって、
はまさかという思いで目を見張った。こんな偶然あるわけがない。ありえない。けれどその疑いが真実だと分かったとき、
は思わず足を止めた。ニコがそれに気づかず歩いていくので、リードに引っ張られてぴんと腕が伸びた。
「こんばんは。いい夜ですね」
会釈をするように少し首を傾けてそう言ったのは、あの夜、
の家に不法侵入し、掛け軸を盗み出そうとし、あまつさえ
のすっぴんとネグリジェ姿を見た男だった。
「あなた……!」
はとっさに踵を返して走り出そうとした。相手は犯罪者だ、他に人気もないこんな場所で鉢合わせてしまうだなんて悪運の極みとしか言いようがない。しかも今、
は丸腰だ。持っているものと言えば、ビニール袋と軍手とスコップだけ。あの夜は散弾銃を持っていたから強気でいられたけれど、これでは何をされても太刀打ちできない。男は
よりも背が高く、一目見ただけでよく鍛え上げられた体をしていることが分かる。
とにかく、逃げるが勝ちだ。
は慌てて踵を返そうとしたが、ニコが言うことを聞かなかった。
「ニコ! おいで!」
は力を込めてリードを引く。ところがニコは
を無視して、初対面の白い犬と興味深そうに目を合わせ、お互いのお尻の匂いを嗅いでいる。犬はそれぞれ特有のにおいを発しているといわれていて、嗅覚の鋭い犬はこの臭いをかぐことで相手の情報を得るのだ。
ニコは白い犬がどんな犬かをよく確かめた上で、「この子は大丈夫だよ! 安心して!」とでも言うように嬉しそうに吠えたかと思うと、二匹で絡み合うようにじゃれ始めてしまった。
犬はともかく、そのリードを握っている男はついこの間、君が吠え掛かりながら追いかけた男だとどうして気づかない?
ふふふと、笑顔の気配がして見てみれば、男は口元に手を当てて笑いをかみ殺していた。
「あぁ、すいません。つい」
は男をきつく睨みつけて言った。
「こちらこそ、うちの子がどうも失礼しました!」
「いいえ、構いませんよ。早速友達になったみたいですね。よければ途中までご一緒しませんか? こんなに遅くに女性ひとりでは不用心でしょうし」
「いいえ、結構です! そんなご迷惑かけられません!」
「そう遠慮しないでください。僕達だって、お互い知らない仲じゃないんですから」
その言葉に
はかっとなって思わず怒鳴った。
「私は何も知らないわよ! あなたが泥棒だってこと以外はね!」
え、そうなの? とでも言いたげに二匹の犬が
を振り返り、そして男を見る。
男は肩をすくめてとぼけた。
「泥棒とは心外ですね。あの晩、僕はあなたの家から何も盗っていませんよ?」
「そうだとしても! 住居不法侵入した人に送ってもらうなんて馬鹿なことするわけないでしょ!?」
「心配しなくても別に何もしませんよ」
「そんなことどうやって信じろって言うのよ!?」
「だってあなた今、あの掛け軸を持っていないでしょう?」
ははっとする。確かにその通りだが、とんでもない屁理屈を聞かされているような気もする。けれどそれを論破する言葉はひとつも浮かんでこない。
は逃げるように踵を返してニコのリードを力いっぱい引いたが、後を追って
の隣に並んで歩きはじめた男を強引に拒否することもできなかった。
長年連れ添った友人のように寄り添って歩く白い犬とニコの背中を見下ろしながら、
はむっと唇を尖らせた。人の気も知らないで、なんて呑気な犬だろう。まぁ、そこが可愛いところでもあるのだけれど。
「驚かせてしまって申し訳ありませんでした。お詫びします。あなたはもう休んでいると思ってたんです」
と、男は言った。言葉も態度も殊勝だけれど、疑心暗鬼に捕らわれた
は目を細めて男を睨み返した。
「一体なんの根拠があって?」
「昨日、大きな仕事が終わったばかりだったでしょう? かなりお疲れのご様子だったので、ぐっすり眠っているだろうと」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「これから忍び込もうとする家の事情を調べるのは当然です」
「気持ち悪い」
嫌味のつもりで言ったのに、男は心底楽しそうに声を上げて笑った。
「そうですよね、本当にすいません」
「謝るくらいなら最初から盗みになんて入らなければいいのよ」
「そういうわけにはいきません。仕事ですから」
「犯罪でしょ」
「仕事ですよ。それで対価を得てます」
「屁理屈ばっかり言っても、どうせそのうち捕まるんだから。日本の警察だって無能じゃないのよ」
「その意見には賛成しますけれど、僕は捕まりませんよ」
「どうして?」
「だって、あなたは僕を見逃してくれたじゃありませんか」
はぐっと唇を噛んで黙り込んだ。男を見逃したのは、
にもやましいところがあるからだ。それを逆手に取られて易々と男に近づかれた。今夜ここで鉢合わせたことも、きっと偶然ではないのだ。
の仕事の都合まで調べ上げた男だ、夜の散歩の日課くらいすでに承知していたのに違いない。
なんのために? 答えは簡単だ。
「掛け軸の行方でも聞き出そうとでもいうの?」
それしか考えられなかったが、男は首を横に振った。
「韮崎美術館ですね。今日、係の人間が美術館に運んだことは知ってます。これで少し仕事が難しくなりました」
韮崎美術館は、
の父が懇意にしている資産家・韮崎傳五郎が館長を務める私設美術館だ。韮崎家が代々収集してきた美術品を展示していて、そう規模は大きくはないが、セキュリティの整った立派な施設である。
の自宅に侵入するのとは比べ物にならないほど難しいに違いない。泥棒の経験がない
にもそれくらいのことは十分に想像できて、
は同情を込めて言った。
「なら、もう諦めたら?」
「そういうわけには行きませんよ。手は考えてあります」
「へぇ、どんな手?」
ふいに、男は
の顔をのぞきこんできた。
それ自体発光しているような金色の髪がさらりと流れるさまは、まるで金で作った糸の束が風にそよいで揺れるようだ。青みがかった瞳は宇宙に浮かぶ青い惑星を想像させて、なんだか途方もない気分になる。
無重力の空間に浮かぶようにふわふわと地に足のついていない、心地良いような不安定なような、どちらともつかない気持ちになってどうしたらいいか分からなくなる。
男は悠然と微笑みを浮かべ、余裕たっぷりに言った。
「あなたに協力してもらうんです。いい案だと思いませんか?」
は思わず、男の肩を突き飛ばして飛びのいた。
「そんなことするわけないでしょ!? 誰が好き好んで犯罪の片棒を担ぐと思うの!? 馬鹿にしないで!」
「まさか。僕はあくまでもあなたの知識と度胸を買っているんです」
「あなたに協力して私になんの旨味があるっていうのよ!? 私は前科者になるなんて絶対にごめんよ!」
「もちろん、それなりの報酬はお支払いしますよ。それに、僕と組めば逮捕される確率は格段に下がります」
「なんの根拠もないのにそんな話信じられるわけないでしょ! ふざけたことを言うのはもう止めて!」
はそう叫ぶと、目の前を歩くニコを抱き上げて走り出した。一刻も早くこの男から離れたかった。
走る
の背中に向かって、男が声を上げる。
「僕は安室透といいます! 米花五丁目のポアロという喫茶店で働いていますから、いつでも来てください!」
「誰が行くもんですか!!」
は捨て台詞を吐いて、それより後は振り返らなかった。胸の中で不思議そうな目をして
を見上げているニコの温かさが、たったひとつの救いだった。
20200309