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「it’s time to work.bourbon」
その一言でベルモットから呼び出された安室は、その晩、指定されたホテルでベルモットと落ち合った。
時間ぴったりにとあるホテルのロータリーに愛車を滑り込ませると、待ち構えていたようにベルボーイが助手席の扉を開ける。それにエスコートされて車に乗り込んできたベルモットは、日も落ちているというのに大きなサングラスをかけていた。
トレンチコートの裾から伸びる形のいい足を綺麗に折りたたんだのを確認して、ベルボーイが「いってらっしゃいませ」と、丁寧に扉を閉める。ベルモットはそれに微笑みひとつ向けず、ぱちんと指を鳴らす。無言の命令に従って、安室は軽快にアクセルを踏んだ。
東都の夜はネオンと車のヘッドライトライトに照らされ、眩しいほどにきらびやかだ。その景色を楽しみながら安室はここ最近の出来事について報告をする。毛利探偵事務所で起きた事件のあれこれ、命令を受けた任務の顛末、確認事項がいくつかと意見のすり合わせを少々。
ベルモットが口火を切ったのは、安室の話が終わって、そろそろ目的地へ到着しようというタイミングだった。
「芒川秋花を知っている?」
なんの前置きもなく始まった話に、安室はひとつ頷いた。
「えぇ、有名な日本画家ですね。確か、明治・大正期に活躍して大いに人気を集めていたとか」
「近頃、彼の幻の作品が見つかったの。掛け軸に仕立てられた美人画だそうよ」
「あぁ、その記事なら僕も読みましたよ。大戦の折に空襲を受け焼失したと言われていたものだそうですね。ぜひ一度お目にかかって見たいものです」
「あら、それなら好都合ね。それが今度の仕事よ」
「何を探ればいいんです?」
「探るのではなく、処分するの」
ベルモットはハンドバッグの中からUSBを取り出すと、それをダッシュボードの中に放り込んだ。コンっと軽い音がする。
「珍しい仕事ですね」
安室はダッシュボードを横目に見やりながら言う。ベルモットはそれには何も答えず、目的地にたどり着くまで結局一言も話さなかった。
ひとり車を走らせ、安室はアパートの近くに借りている月極駐車場に車を停めた。シートベルトを外して、ダッシュボードから件のUSBとタブレットを取り出す。これは組織に知られてはならない情報を一切保存していない端末で、一般人にはもちろん風見にも決して見せられない情報でいっぱいだ。
――さて、今度の調査対象は一体何者だろう。
液晶の光にぼうっと顔を照らされながら、安室はひっそり乾いた唇を舐めた。
その夜、
は真夜中過ぎまで寝付けずにいた。
じっとまぶたを閉じてひたすら睡魔を待つものの、その影も形も見えない。今日も一日よく働いて、体はほどよく疲れていた。明日も早くから仕事が待っているのだから早く眠りたい。けれど、眠らなければと思えば思うほど、気が急いて胸の鼓動が大きくなるような気がした。
たまりかねてむくりとベッドから起き上がると、足元の方で丸くなっていた犬がゆっくりと頭をもたげた。
「ニコ、起こしちゃった? ごめんね」
声をかけて手招きすると寝ぼけ眼のまま体を寄せて来たので、
はニコという名前のビーグル犬をぎゅっと胸に抱く。
こうも眠れない原因は、なんとなく分かっている。頭の中に風船のような心配事があって、それが今にも破裂しそうに膨れ上がっているからだ。おかげでもう何日も満足に眠れていない。睡眠薬を使った夜もあるけれど、近頃はあまり効かなくなってしまった。ベッドサイドテーブルには、飲みさしのミネラルウォーターと睡眠薬のパッケージが無造作に放り出してある。
一体いつまでこんな日々が続くのか、ほとほと嫌気がさしている。
ふと、腕の中で大人しくしていたニコの体がぴくりと震えた。尻尾がぴんと伸び、何かを見つけたように扉の方をじっと見やる。
「どうしたの?」
声をかけるや否や、ニコは
の腕を抜け出して駆け出し、扉を開けろと言わんばかりに前足で扉をひっかく。そっと扉を開けてやると、せかせかと廊下に飛び出していく。
その瞬間、
は異常を察知して肩を強張らせた。階段の下の方にちらりとかすかな光が踊ったのだ。
今夜、家族は外出していてこの家には
しかいない。そのはずだが、何かを探るようながさごそという音がかすかに聞こえた。
よく躾けられたニコは鳴き声ひとつ上げず、廊下の端からじっと
の指示を待っている。
は迷った末、ガウンを肩に羽織るとガンロッカーの鍵に手をかけた。
足音を立てないよう、裸足のまま慎重にフローリングを踏みしめる。ニコも息を殺して
の足元にぴったりと寄り添っている。2階からゆっくり階段を下りていく間にも、階下では小さな灯りが揺れていた。光源はおそらく小さなペンライトだろう。その光の輪の中に入らないよう、踊り場から手すり越しに玄関ホールを見下ろすと、黒ずくめの人影が確認できた。逆手に持ったペンライトで、壁に飾られた絵画を照らしている。黒いキャップを目深にかぶっていて顔立ちは分からないが、背格好から男だと判断できた。
は右手に持った散弾銃の感触を確かめる。足元に伏せているニコと目を合わせると、ぱたりと尻尾を振って応えた。
呼吸を整えると、
はスマートフォンを操作してスイッチを押した。その瞬間パッと蛍光灯の光が差し、ニコが大声で吠えながら階段を駆け下りる。そして、あっという間に男の足元まで駆け壁際に追い詰めた。ペンライトを取り落として壁に背中を付けた男が顔を上げたのと同時に、
は踊り場から男の眉間に狙いを定めて散弾銃を構えた。
「動かないで、両手を上げなさい」
が言うと、男は渋々と両手を頭の上まで持ち上げる。キャップのつばが影を作っていて顔は分からないが、おそらく30は超えないように見える。動きやすそうな黒い服の上下で、足元も黒い。キャップの端からわずかにはみ出している髪はあざやかな金色だった。
口笛を鳴らして合図すると、男の足元で吠え続けてたニコは従順に口を閉ざした。
「絶対にそこを動かないで」
「いつまでです?」
男の口元が笑みの形を作る。
は目元をぴくりと痙攣させた。銃を突きつけられて追い詰められているというのに、どうしてこの男は笑っていられるのだろう。
「警察が来るまでよ」
言いながら、手探りでスマートフォンのホームボタンを押す。ところが、110をプッシュしようとするものの、指先が震えてうまくいかない。この非常事態に自分でも驚くほど動揺しているらしい。片手に散弾銃を構えたまま、男から目を反らさずに、三桁の数字をプッシュする、ただそれだけのことがうまくいかない。
言うことを聞かない自分の体にいらついて舌打ちをした瞬間、男がふっと息を吐き出す気配がした。見れば、片手で口元を押さえて肩を震わせていた。
「こんな時によく笑っていられるわね」
はますます腹が立って声を荒げた。
「いや、失礼しました。ずいぶん強気な方だと思ったもので」
「自分の立場が分かってないの? 私はあなたをここで撃ち殺すことだってできるのよ」
「銃刀法違反で逮捕されるのはそちらの方ではありませんか?」
「私はちゃんと公安の許可を得てる。人の家に不法侵入した立場で何様のつもりよ」
「僕を撃ったら、殺人罪に問われますよ」
「泥棒から身を護るための正当防衛だって言うわ」
「過剰防衛ですね」
「死人は弁解できないでしょ」
「まぁ、少し落ち着いてください。僕は武器を持ってませんよ。それを下ろしてくれませんか?」
は眉間にしわを刻み、厳しく男を睨む。
男はまるで、この家の主は自分だとでも言うように堂々としている。それに比べて、銃を構えて戦々恐々としている
の方が、どちらかというとよそ者のようだった。
は銃口をわずかに傾けた。
「帽子を取って」
言うと、男はキャップのつばに手をかけゆったりとした仕草でその手を下ろした。キャップの下から現れたのは、黄みの強い金色の髪と、海と空が混ざるところの青色の瞳を持った男だった。想像していた通りに若く、想像していたよりずっと美しかった。
は銃口を下げると、改めてじっと男を見下ろした。
そして、気が付く。男のすぐ隣の壁に掛かっている掛け軸がなんなのか。
「それを盗ろうとしたの?」
は顎をしゃくって掛け軸を示す。男は視線だけでその絵を見やって、何も言わずに肩をすくめた。それを肯定ととらえ、
はさらに問うた。
「どうして特にその掛け軸を?」
この家には、
の父が集めた日本画が山のようにあって、壁に飾られている掛け軸はそのひとつだ。
の父は日本画を専門とする収集家であり研究者でもある。
「近くにあったので」
と、男はまことしやかなことを言って首をかしげて見せた。
その仕草に無性にいらいらして、
は散弾銃を握る手に力を込める。
「家族の留守をどうやって知ったの?」
「そこはプロですから。驚かせたなら謝りますよ。てっきり、あなたはもう休んでいると思っていたので」
「予想が外れてお生憎ね」
「でも、僕も驚いたんですから、おあいこじゃありませんか?」
「屁理屈言わないで」
「ところで、いつになったら警察に通報するんです? そろそろ腕が疲れてきたんですが」
挑発するような物言いにますますいらいらが募って手が震えた。その瞬間、生きのいい魚のようにスマートフォンが
の手のひらから飛び出していく。階段を一段ずつ、ごんっ、ごんっ、と音を立てるスマートフォンは、階段の一番下に転がり落ち、ニコがそれに駆け寄ってくんくんに匂いをかぐ。階段の下から潤んだ瞳で見上げてくるニコのかわいい顔。それですっかり気がそがれて、
は銃口を下ろしてため息をついた。
「もういいわ。見逃してあげる」
「いいんですか?」
男は意外そうに瞬きをしながら静かに両手を下ろす。
はあごをしゃくって出口を示す。
「いいから、私の気が変わらないうちに出て行って」
男は
に背を向けないよう、足を横に滑らせるように玄関の方に移動した。
は男が少しでも妙なことをしたら再び銃を構えるつもりでじっと男を睨んだ。この顔は二度と忘れてはいけないような気がして、
は細部までその姿を目に焼き付ける。
金色の髪、浅黒い肌、青い瞳、流暢な日本語を話しているけれど、どこの出身だろう、見た目だけでは分からない。よく鍛え上げた体をしていることが遠目からでもよく分かる。これは接近戦に持ち込まれたら勝ち目はないだろう。身長は180そこそこだろうか、色男の部類には十分入るだろうが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
玄関の扉に背中をつけた男は、こらえきれなくなったように笑った。
「何よ?」
「いや、盗み損ねはしましたけれど、いいものを見れたと思いましてね」
言われて、
ははっとして自分の体を見下ろした。いつの間にかガウンの前の結び目がほどけて寝巻が露になっている。ナイトブラに重ねたネグリジェが丸見えだった。
は慌ててガウンの前をかき合わせて怒鳴った。
「ニコ!!」
声を聞くなり、ビーグル犬のニコは大声で吠えたてながら男に向かって全速力で駆けていく。
男は間一髪、ニコに追いつかれる前に玄関の扉を閉めることに成功し、
の前から姿を消した。
20200225