父が死んだとき、江はまだその意味も理解できないほど幼かった。母は子どもの前では気丈に振舞っていたけれど、夜中にひとりで泣いていたことを凛は知っている。

 自分がしっかりしなくちゃと思った。母に心配をかけないように、妹の面倒をよく見るいい兄になろうと思った。母が寂しくないように、父の分まで優しくしてあげようと思った。父が叶えられなかった夢を自分が叶え、自分が父の代わりに家族を守っていかなければいけないと思った。あの頃の凛は、松岡家の長男として、亡き父を思ってひたむきに生きていこうと固く心に誓った、まったく健気な子どもだった。

 今も根本にある気持ちは変わっていない。あの頃よりは体も大きくなって力もついて、年相応にたくさんのことを覚えた。できることはあの頃よりもずっと増えたし、頼もしい仲間たちもいる。その全てに支えられて自分が成り立っていることに感謝もしている。

 けれどそれと同時に、凛の足元には重く長い鎖が絡み付いて、まったく身動きが取れなくなることもままあった。そういうときは頭を空っぽにしてひたすらランニングをしたり泳いだりしてどうにか鎖を振り切ろうとするのだけれど、その瞬間だけはどうにか誤魔化せても、根本的な解決にはならないことを、凛はもうとっくに分かっていた。





 遙と真琴と渚と怜が、「海水浴をするからお前も来い」と半ば脅迫めいた誘いを寄越したので、仕方がなく岩鳶町まで出向くことにした。

 海水浴と言っても、遙と真琴の家の窓から見える海岸には海の家も更衣室もないので、一度七瀬家に集合してから身支度を整えて海に降りた。自分たちの他にも地元の小学生や中学生が泳ぎに来ていて、橘家の蓮と蘭も父親に付き添われて浮き輪を使って遊んでいた。凛を海に誘った張本人たちは、波打ち際でじゃれ合っていたり、近所の子ども達に付き合わされて砂遊びに興じていたり、ひとり遠泳を決め込んでひたすら沖を泳いでいたり、てんでばらばらなことをしている。

 ひとしきり泳いだあと、凛は一足先にパラソルの下に体を落ち着けた。橘家の持ち物で毎年夏に活躍しているらしいパラソルの下にビニールシートが敷いてあって、その上に仲間達の荷物が積み上がっている。バッグの口が全開になって財布が覗き見えているものもあったりして無用心だったらないので、チャックを閉めてやった上にタオルをかけておいてやった。

「あれ? 凛ひとり?」

 ふと、声をかけられて振り向けばそこに立っていたのはだった。

「まだみんな泳いでる」
「あっそう。お弁当持ってきたんだけど、来るの早かったかな」
「まぁ、腹が減ったらぼちぼちあがってくんじゃねえの」
「それじゃぁここで待つか」

 は風呂敷包みをパラソルの影の中に置くと、サンダルを放り投げるように脱いでビニールシートに腰を下ろした。裾が余り気味なジーンズに砂がつくのもおかまいなしといったていで、品性のかけらもありはしない。大人のくせにだらしないな、という言葉は飲み込んで、凛は風呂敷包みを指でつまんで中をのぞいてみた。透明なタッパの中に、卵焼きやウィンナー、ブロッコリーの茹でたのが詰まっていた。シンプルイズベスト。たぶんこの下の段にはいか焼きそばとおむすびが詰まっているに違いない。

「文句言うなら食べさせてあげないよ」

 はにやりと笑って凛を睨んだ。まだ何も言ってねぇよ、という言葉を凛は飲み込む。を怒らせると後で面倒臭い。ので、必要最低限の忠告だけすることにした。

「飲み物ねぇんだけど」
「は! 忘れてきた!」
「どこに?」
「台所!」

 両手で頭を挟み込んでぐしゃぐしゃにしながら、はうなだれた。何もそこまで落ち込むこともないだろうに、いちいち大袈裟なやつだ。本当に昔からちっとも変わらない。

「この炎天下またあの石段登らなきゃならないのかー、あー嫌だ! せっかくここまで降りて来たのにぃ!」
「俺が取ってきてやろうか?」
「いや、凛はみんなと遊んでなよ。ていうか何でここでひとりで荷物番なんかしてんの?仲間外れにでもされた?」
「されてねぇよ。こそなんでひとりで弁当なんか作ってんだ? 泳がねぇのか?」
「私は泳がないよ」

 は投げやりに言うと、すっくと立ち上がって裸足のつま先にサンダルを引っ掛けた。

「凛はもう少し泳いできたら? 子どもは子どもらしく遊んできなさいよ」

 その、凛にはまるで興味はないとでも言いたげなそっけない背中に、無性に腹が立った。子どもって、なんだよ。

「ガキ扱いすんな!」

 凛は荒々しく立ち上がると、大股でを追い越して歩き出した。後ろに取り残されたが何か言っていたけれど、無視した。売られたけんかは買うまでだと思った。





 海沿いの道を通って石段を上り、見慣れた七瀬家のガラス戸を引く。(やっぱり鍵はかかっていない。どいつもこいつも無用心だったらない。)家に誰もいないことは分かっていたけれど、「お邪魔します」と一言声をかけて台所の暖簾をくぐると、ダイニングテーブルの上に大きな水筒が2本忘れられていた。

「ちょっと、凛!? 先にどんどん行っちゃわないでよ!」

 遅れて到着したが、息を切らせて玄関から声を上げている。水筒を携えてそこまで戻ると、は両手を膝についてぜえぜえと肩で息をしていた。どうやら、凛の後を必死になって追ってきたらしかった。

「だっせぇな、これくらいの階段で」

 嫌味のつもりで言うと、に下から睨まれた。

「う、うるさいな! 凛と違って若くないんだよ私は!」
「毎日上ってるくせに」
「ペースが早いの! 何一段飛ばしで階段上がってんのよ! これだから足の長い奴は!」
「きーきー言ってねぇで、早く戻んねぇとあいつら先に飯食っちまうぞ」
「ちょっと待ってよ。少し休ませて」

 言うなり、はサンダルを履いたまま玄関にぺたりと座り込んでしまった。凛のサンダルがの両足に挟まれてしまって、出て行くに出て行けず凛は舌打ちをした。

「……別に、下で待ってりゃ良かったのに」

 凛が不機嫌に呟くと、「だって」とは唇を尖らせた。

「凛ってへそ曲げると後から面倒臭いじゃない」
「はぁ?」

 凛はつい大声を出してを睨みつけてしまった。怒らせると面倒臭いだなんて、それはこっちの台詞だった。

「どういう意味だよそれ?」
「だから、からかってごめんって言ってんの! そんなつんけんつんけんしなくたっていいじゃない!」
「だから! 誰がつんけんしてるっつってんだよ?」
「してるじゃない! さっきからずっと!」
「してねぇよ! 元はといえばてめぇが飲み物忘れてくるのが悪いんだろ!?」
「だからって黙って先に行っちゃうことないでしょ!?」

 そうこう罵り合っているうちに、お互いにだんだん息切れしてきてしまった。特には凛を追って駆け足で石段を上ってきた後遺症もたたってか、なんだか顔が蒼白かった。その様子は熱中症で脱水症状を起こしかけている人間のそれにも似ていて、ついにはぐったりとうなだれてしまったを見て、凛は苛立ちを瞬時に手放してしまう。

「……おい、大丈夫かよ?」

 裸足のままたたきに降りての顔を覗き込むと、は白い顔をして辛そうに眉間にしわを寄せていた。いくら近場の海とはいえ、この石段を何度も上り下りした上に凛を追って無理に走ったせいだ。その上あんな大声を出させてしまったと思うと、凛は罪悪感にかられて心が痛んだ。

? 大丈夫か?」
「ごめん、ちょっと休んだら落ち着くと思うから。ちょっと待ってて」

 さっきの怒鳴り声とは打って変わった弱々しい声でそう言って、は無理に微笑んで見せた。
 凛はの隣に腰を下ろすと、水筒から冷たい麦茶を注いでやった。

「ほら」
「あぁ、ありがとう」
「具合悪かったのか?」
「そういうわけじゃないんだけど、まぁちょっと、ね。なんでもないよ」
「なんだよ、はっきり言えよ」
「なんでもないってば」

 凛が何をどう聞いても、は決して口を割らなかった。けれど、言い渋るの横顔を見ていたら、聞かなくても凛にはなんとなく分かるような気がした。

 たぶん、は海が怖いのだ。

 凛が父を失ったあの事故で、も家族を失っている。結婚したばかりのまだ年若い夫を、は海に奪われてしまった。台風一過のよく晴れた日、いか釣り漁船が一斉に漁を休んで死者のために弔いを捧げていたあの日、海に向かって泣き崩れたの姿を凛は覚えている。大人でもあんな風に人前で泣くのだなと、ひどく冷静な頭で感じたことを覚えている。だからは泳がない。海どころか、プールでもが泳ぐ姿を凛は見たことがなかった。

 は大切な夫を奪い去った海を恐れ恨みこそすれ、同じ海で海水浴を楽しもうという子どもたちを見ているのは、それだけで辛いことなのかもしれない。

 つい先日、真琴が言っていた。は、遙を見ていると不安でしょうがないらしいのだ。たぶん、海に連れ去られた夫と遙を重ねて、いつか夫のように、遙も海に出て二度と戻ってはこないのではないか、遙がそのまま海の泡になって消えてしまうんじゃないかとか、考えているのだ、きっと。

 玄関の硝子戸の向こうは、太陽が空気さえも焦がす真夏だ。曇り硝子が白く淡く太陽光をぼかして、日陰の中にいるふたりを真夏の光線から遮ってくれている。今が真夏とは思えないほど、嘘のように静かで涼しい。ふたり以外に人の気配がなくて、蝉の鳴き声が遠い。

 まるでとふたり、世界からはみ出してしまったみたいだった。

「ごめんね、凛」

 ふいに、が呟いた。

「何が?」
「さっき、凛のこと子ども扱いしちゃったから。いらいらさせちゃったね」

 凛は胸が詰まるような思いがして、とっさに言葉が出なかった。自分が考えていること、感じていることをそっくりそのまま言葉にされると、心臓を鷲掴みされたような気分になる。喉元に刃を突き立てられて、もう言い逃れはできないし言い訳も通用しない。なんの力も持たない子ども同然のような気分になって、凛はほんの少し狼狽えた。

「……いや、別に間違ってないだろ。実際、俺はまだ高校生のガキだし」
「そういうことじゃなくてさ。凛は頑張ってるじゃない」
「頑張ってるって?」

 問いかけると、は意味ありげな流し目を寄越してにやりと笑った。ざわりと、紙やすりが頬を撫でたような感覚を覚えて、凛は肩を強ばらせる。そのすきに、は凛の頭をぐしゃぐしゃに撫で回してけらけら笑った。

「昔は勝負に負けるたびにぴーぴー泣いてた凛がこんなに立派になったとはねぇ」
「はぁ!? なんだよ、いきなり!?」
「私は嬉しいのよ。はるにも見習って欲しいくらいだわ」
「はる? あいつは頑張ってねぇのかよ?」
「あの子はわがままなの。凛みたいにストイックでもないし、自分さえよければってところあるし、学校はサボるし好き嫌い多いし友達は水泳部にしかいないし」
「……そんなんであいつ大丈夫なのか?」
「さぁね。まぁ、好き勝手やれるのは子どもの間だけだし、七瀬さんがそれを許してんなら私が何言ってもね」

 の手が耳元を滑って、凛の長い前髪をかき上げた。夏だというのに氷のように冷たいの指がこめかみを撫でて、凛は身動きが取れなくなった。子猫の喉を撫でるように凛の喉を撫で、はふふふと笑った。

「私が凛のこと子ども扱いするのは、凛にもっとわがまま言って欲しいからなんだよ」
「わがままって、なんだよ……?」
「ひとりで頑張るのもいいけど、たまには誰かに甘えたりしたらいいんだよ」

 はそう言いながら、凛の頬を優しく叩いた。

 子どもの頃から、自分がしっかりしなくちゃと思っていた。大好きだった父は海にさらわれてしまった。江のために、母のために、家族のために、できることを男の自分がやらなくちゃと思っていた。

 あぁ、だからはこんなことを言うのだ。子ども時代に父の不在という傷を負った自分のために。

「そろそろ戻ろうか。みんなお腹空かせてる頃だよ、きっと」

 膝に手をついてよいしょと立ち上がったに続いて、凛も立ち上がる。硝子戸を開ければ真夏の太陽が目を焼くほど眩しくてほんの少し眩暈がした。

 そういうことにして、凛は外へ出ようとしたの腕を掴んで引き止めると、その肩に額を押し付けてもたれてみた。

「凛? どうした?」

 返事をせずにしばらくそうしていた。は何も言わなかったけれど、その冷たい手でそっと頬を撫でてくれた。

 凛の足元には重く長い鎖が絡み付いていて、時々まったく身動きが取れなくなることがある。頭を空っぽにしてひたすらランニングをしたり泳いだりしてどうにか鎖を振り切ろうとしても、それは根本的な解決にはならない。ずっと前から、こんなときどうしたらいいのか知りたかった。やっとそれが分かって、凛は驚くほど安心していた。






20151214




自分に自信がなくて意地っ張りで熱くって泣き虫な凛ちゃんを甘やかしたかっただけ