は、真琴や遙が通っていたスイミングスクールで働いていたスタッフだった。真琴にとっては小学校低学年の頃から顔なじみの優しいお姉さんで、家も近所だったこともあって子どもの頃はとても可愛がってもらったものだ。夏休みにはスクール生の皆と一緒に海水浴に行ったし、冬にはスクールで一緒に雪だるまを作った。
練習がうまくいかなくてひとり、プールの片隅で膝を抱えていたとき、そっと隣に座って話を聞いてくれたこともあった。
がスクールを辞めることになったとき、
に懐いていたスクール生は涙ながらに彼女を送り出したものだった。寿退職だった。高校生のときからずっと付き合っていた彼氏が漁師になるので、その仕事を支えるために専業主婦になるという話だった。
あの頃の
は、心底幸せそうだった。
今の
は、定職にもつかず、週に何度か七瀬家を訪れては遙の面倒を見ている。他に何をしているのか、真琴は知らない。母の話によると、年を重ねて体が弱った両親の世話をしているのをよく見かけるらしい。
そんな
に何をしてやれるのか、真琴はときどき考える。思い通りに泳げなくて落ち込んでいた小学生の時、
が自分を元気づけてくれたように、真琴も
を元気づけてやりたかった。けれど、自分よりずっと大人な
を元気づける方法なんか、何度考えても思いつかなかった。
「ただただ、不安なのよ。私は」
そうひとりごとのように呟いた
は、泣きそうに目を細めてじっと夜の海を見つめていた。真琴は
に何も声をかけてやれない自分の無力さを呪っている。
ふと家に続く石段を見上げると、見慣れた背中が大きな荷物を抱えてふらふらと階段を上っていた。
「
さん!」
静かな住宅街に真琴の声はよく響いた。そのせいか否か、
は文字通り飛び上がって驚いて、悲鳴を上げながら持っていた荷物を盛大に取り落とした。
の足元から、じゃがいもやら玉ねぎやらにんじんやらがごろんごろんと転がり落ちてきて、反射的に野球の守備練習よろしくそれを受け止めようと手を伸ばしたけれど拾いきれない。足の間をすり抜けて下へ下へ落ちていく野菜を追いかけて、遙が石段を駆け下りていくのを尻目に上を見上げると、
はぺたんと石段に座り込んで目を丸くしていた。
「
さん、大丈夫? 怪我してない?」
真琴は慌てて駆け寄って、両手にひとつずつもったじゃがいもと玉ねぎをカゴバッグの中に戻してやると、
はやっと状況を理解したらしくへらりと笑った。
「もう、真琴ってば。びっくりさせないでよ」
「ごめんごめん。こんなに驚くとは思わなくって。立てる?」
「うん」
が立ち上がるのに手を貸してやると、
はかすかに眉をひそめて体を傾けた。右手と左肘を取って支えてやると、
は片足を浮かせて苦笑いした。
「もしかして、くじいた?」
「かもね。ちょっと痛いかな」
「本当に? 歩ける?」
「うん、大丈夫大丈夫」
とは言っても、浮かせた片足には体重がかかっていないし、真琴の手を握った手にも力が入ったままだ。
随分下まで転がり落ちてしまった玉ねぎを拾って、遙がゆっくりと階段を上がってくる。真琴はそれを見下ろして、背負っていたリュックを肩から滑らせた。
「はる! 悪いけど俺の荷物持ってくれない?」
遙は野菜を両腕で抱えながら真琴と
を交互に見やる。それだけで何もかも了解したような顔をして、「あぁ」と頷いた。
「家まで一緒に行くよ。乗って?」
真琴はそう言うと、
に背を向けてその場に膝まづいた。
「えぇ? いいよ、自分で歩くって」
「そんな足じゃ、階段登るのきついでしょ? いいから乗って」
「いや、だって私重いし……」
「なに言ってんの。これでも鍛えてるから平気だよ」
「でも……」
「いいから、おぶってもらえ」
渋り続ける
の背中を押したのは、真琴のリュックと
のカゴバックを両手にささげ持った遙だった。
「くじいたんだろ。無理するな」
いつも冷たい態度ばかり取られている遙にふいに優しい言葉をかけられて、やっと
は折れた。
遠慮がちに真琴の背中に寄りかかってきた
を、膝に力を入れて持ち上げる。少しだけ覚悟はしていたけれど、予想に反してふわりと軽く持ち上がってほんの少し驚く。水泳部を復活させて鍛えた成果か、それとも
が軽いのか、たぶんそのどちらもだろう。
「ごめんね、重くない?」
「全然。平気だよ」
耳元で
の声がして、息がかかる頬がこそばゆかった。
遙が台所に立っていて、まな板と包丁がリズミカルな音楽を奏でている。ぐらぐらと鍋が煮立つ音と重なって、香ばしくスパイシーな匂いがふわふわと漂ってくる。たぶん、今日の夕飯は鯖カレーだ。
「本当、ごめんね。迷惑かけて」
が本当に申し訳なさそうな顔をして謝るので、真琴は苦笑いをして俯いた。
真琴の目の前には
の白い脚があって、足首にのっぺりと白い湿布が乗っかっている。固定用の包帯を巻きつけてやりながら、真琴はちょっと目のやり場に困っていた。
の肌は手のひらに吸い付くようにしっとりとしていて、手当のためとは言え自分なんかが触っていいものなのかどうか戸惑ってしまう。なんの色も付けていない爪が綺麗な形をしていた。
「いいよ、こんなの全然。もう痛まない?」
「うん、もう大丈夫」
「なら良かった。帰りも送るからね」
「ありがとう」
手当が終わると、
は膝まで捲り上げていたジーンズを下ろして、両足を投げ出すようにした。つま先が縁側に少し飛び出して、素足で板の間に触れるのが気持ち良さそうだった。
真琴は救急箱を片付けてから、
の足元に腰を下ろして縁側から両足を下ろした。夏の夕暮れが深いオレンジ色から紫色に色を変えていて、なんだか世界が不思議な色彩に染まっている。遙が作るカレーの匂い。
「それにしても、真琴は大きくなったね」
「え?」
振り返ると、
は興味深そうな顔をして真琴の背中をじっと見つめていた。
「さっきおぶってもらったときにも思ったんだけどね。ついこの間まではると変わらないくらいの背丈だったのに、いつの間にそんなに大きくなっちゃったの?」
耳のあたりがぼっと熱くなったような気がして、真琴は照れかくしに頬をかいた。
「はるを追い越したのは、6年生のときかな? 中学に入ったらぐんぐん伸びたんだよね。成長痛がひどくて大変だったな」
「膝が痛くなるっていうあれ?」
「俺の場合は、寝てるときによく背骨が鳴ったんだよね。ぴしぴしって」
「へぇ、音を立てて背が伸びたの? 成長期ってすごいのね」
は感心したように深く頷くと、横目で台所の方を見やった。いつものイルカのアップリケがついたエプロンを付けた遙の後ろ姿が見えた。
「はるも大きくなったのよね、本当のところではきっと」
「どういうこと?」
の言わんとしていることが理解できず、真琴は首を傾げた。
は遙の背中を見つめたまま、懐かしそうな顔をして微笑んだ。
「だって私、ふたりが声変わりする前のこんな小さい頃から知ってるのよ?」
そう言いながら、
は畳から30cmくらいのところで手のひらで円を描くような仕草をして見せた。いくらなんでも大袈裟で、真琴はついぷっと吹き出してしまう。
もそれにつられて、せきをするように笑った。
「そんな真琴が私を背負ってくれるなんてさ。びっくりだよ」
「……
さん。もしかして、何かあった?」
「どうして?」
「うん、なんとなく、そんな気がしたんだけど……」
は少し考え込むと、意を決したように畳を滑って、真琴のすぐそばに体を寄せた。台所の方を気にするように視線をやりながら、真琴を手招きする。真琴は内心どぎまぎしながら耳を寄せると、
は片手を口元に当てて囁いた。
「実はね、私、この間お見合いしたの」
「え? お見合い?」
「しっ! 声が大きい!」
の手が真琴の口元をふさぐ。よほど遙に聞かれたくないことなのか、鋭い目で台所の方を見やる。幸いにも遙はなんにも気づいていないようで、小皿でカレーの味見をしていた。
「なんではるに黙ってるの?」
真琴は口元をふさいでいる
の手を掴んで、しどろもどろになりながら言った。口元に触れた
の手のひらは驚くほど冷たくて、真琴の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さかった。
「だってまだ何も決まってないんだもの。はるに余計な心配かけたくないし」
「大事なことだよ? っていうか、
さん、なんでそんな急に……」
「急じゃないよ。ずっと前から考えてたの」
手のひらから滑り落ちてしまいそうになった
の手を、真琴は反射的に握り返した。
は少しだけ驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「……真琴にも、黙っててごめんね」
その笑顔に、真琴はほんの少し傷ついた。どうしてそんな気持ちになるのか、真琴にもよく分からなかった。少し力を緩めれば滑り落ちてしまいそうな
の手のひらにしがみついているのは、もしかしたら真琴の方だったかもしれない。
「どうして?」
「私ももうこんな歳だし、いつまでも親に甘えてるわけにもいかないしね」
「でも、
は……」
「彼のこと?」
真琴はぐっと息を飲んだ。あの海の事故で亡くなった
の夫。真琴は直接会ったことはなかったけれど、街で行われた合同慰霊祭で遺影を見たことがある。とても若くて利発そうな青年だった。
が大好きだった、
の夫。この世を去って、もう10年近い月日が流れている。
「心配してくれてるのね」
「……そりゃするよ。当たり前でしょ」
「ありがとう。でも、私はずっと結婚したかったのよ」
はそう言いながら、真琴の大きな手のひらをぎゅっと握り返した。
「結婚?」
「そう。子どもの頃からの夢だったの」
は真琴が握り締めた自分の手をじっと見下ろしていた。真琴はそんな
のふせたまぶたをじっと見つめていた。
「彼と結婚したときは、夢が叶って本当に嬉しかった。彼のこと大好きだったし、家族も友達も祝福してくれたしね。私は世界一の幸せ者だって思ってた」
「俺も覚えてるよ。幸せそうに笑ってた
さんのこと」
「ふふ。そう?」
「……それなのに、別の人と結婚するの?」
はいたずらっぽく目を細めて真琴を見上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「言ったでしょう? 私は結婚がしたいの。結婚して、家庭を持って、子どもを産んで母親になって……。それが夢なの。それを叶えたいの」
真琴には、
の言うことの半分も想像できなかった。例えば、自分が将来誰かと結婚して、家庭を持って子供を育てるという未来を想像してみる。なんとなくそんな風に生きていくのだろうなとは思えても、そこに具体的なビジョンはない。
の目には、一体何が見えているのだろうなと思う。真琴よりもずっと先の未来を歩いている
。たぶん、真琴にはまだ見えない遠いところにある未来が
の目には見えているのだろう。だから、
の描く地図は明確なのだ。けれど、真琴にはその明確さを受け入れることは難しかった。
「そんな顔しないでよ、真琴」
「だって、
さん……」
「私、幸せになるために頑張ってるのよ? 応援してよ」
真琴は唇を噛み締めた。がんばってと、一言言うだけのことがどうしてこんなに難しいのだろう。
「……相手は、どんな人なの?」
「銀行員なの。真面目で優しそうな人だった」
「
さんはそれで、幸せになれる?」
「なるよ。きっと」
はそう言って、真琴の手を力強く握り締めた。いつの間にか、
の手はほんのりと暖かくて、真琴は仕方なく笑った。
「分かった。応援するよ」
「本当に?」
「うん。はるにはいつ言うの?」
「はっきりしたことがちゃんと決まったらかな」
「今日にでも言えばいいのに」
「うーん、でも、はるは、変化を嫌うからね」
は再び台所に目をやる。遙は付け合せのサラダにするレタスとトマトを流しで洗っている。
の声は全然耳にも入っていないようだった。
「もし私が結婚したらきっと今までみたいにはるの面倒見てあげられなくなるし、そんな小さな変化でも、はるはたぶん、気にするからさ」
「だから言わないの?」
「うん。ちゃんと決まるまでは話さない。真琴からも、何も言わないでいてくれる? 時期が来たらちゃんと自分で話すから」
「でも……、大事なことだよ? はるだってもう子どもじゃないんだから、そこまで心配しなくてもいいんじゃない?」
「でも、はるには私のことで気に病んだりして欲しくないのよ」
はそう言うと、小さい子どもを見守るような大人の顔をして遙を見つめた。その顔は、真琴が子どもの頃、思い通りに泳げなくて悩んでいた時隣に座って話を聞いてくれた
そのままの顔だった。優しくて、どんなちっぽけな悩みもまるごと優しく包み込んでくれる優しい
の笑顔。
「私のことなんか、口うるさい大人だなって思っていてくれればいいし、反抗してくれたっていいし、むしろ私がいなくなることで、はるの気持ちがすっきりするくらいでちょうどいいの」
「はるはそんなこと思ってないよ。口には出さなくても、
さんのこと大切に思ってるし、感謝だってしてるよ」
「ふふっ。だったら嬉しいけどね。とにかく、はるにはまだ言わないでいてね。ね?」
にそこまで言われては、真琴も頷かざるを得なかった。けれど、納得がいかない。飲み込みたくても、喉に詰まってうまく腹の中に収まらない。
どうしたらいいんだろうと思う。思い通りに泳げなくて落ち込んでいた小学生の時、
が自分を元気づけてくれたように、真琴も
の助けになりたかった。あの頃よりずっと大人になってできることも増えたはずなのに、どうしてこうもままならないんだろう。
「……分かった。でも、何か俺にできることがあったら、言ってね」
たったひとこと、その言葉を絞り出すだけで精一杯だった。
はふわりと笑った。あの日、プールサイドで落ち込んでいた自分に笑いかけてくれたときと同じ顔で。
「真琴はいい子ね」
その言葉は真琴の胸にぐさりと刺さった。
はきっと真琴を褒めたつもりだろうけれど、そんなことを言われても全然嬉しくなかった。
俺はいい子なんかじゃないよ。物分りがいいふりをしているだけだよ。
さんの言うことひとつもうまく飲み込めなくて、どうにか作り笑いを浮かべているだけだよ。引きつった頬が、少し痛い。
その時、遙の裸足の足が畳を踏みしめる音がした。ふたりいっしょに振り返れば、おたまを片手に持ってイルカのエプロンを着けた遙がいつもの無表情でぶっきらぼうに言った。
「夕飯、できたぞ。ふたりとも食っていくだろ?」
「あら、いいの? それじゃお言葉に甘えて呼ばれようかな」
真琴の手の中から、
の手がそっと滑り落ちる。たぶん遙は気づかなかっただろうけれど、真琴は笑顔を浮かべた裏でこっそりと傷ついた。手の中に残った空白を見下ろして、真琴はこっそりため息をつく。それは自分の無力さを呪う魔法のため息だった。
「真琴はどうする?」
遙の声に、真琴はすっと背筋を伸ばして今日一番の作り笑いを浮かべた。呪いを振り払うたったひとつの術は、笑うことだ。そうして強くなっていく。そのために東京の大学へ進学することに決めた。強くなるのはこれからだ。いつか、
と肩を並べるために、これから強くなるのだ。
「うん。俺も呼ばれてく」
事情は何も知らないはずなのに、遙は何もかも了解したような顔をして、うん、と頷いた。
20151220
真琴に優しい言葉をかけてもらえたら寿命が1年くらい伸びる気がするよね。