合鍵を鍵穴に差し込むと、私の意に反して鍵が閉まった。
 半ば呆れながらがらりと引き戸を滑らせると、やっぱりたたきの隅に見慣れたスニーカーが並んでいた。時間はまだ午後2時半だ。学校が終わるにはまだ早い。どうやらあの子はまた学校を早退してきたらしい。
 台所にねぎの飛び出たカゴバックを運び込んでから、私は気合いを入れて風呂場の扉を勢いよく開けた。

「遙!」

 水が満たされたバスタブから透明なあぶくがこぽこぽと登ってくる。それをしばらく眺めていると、ややあってざぶんと遙が水面から顔を出した。濡れた髪を振って水滴を飛ばして私のジーンズの裾を濡らしてから、遙は恨めしそうに私を睨みあげた。

「……勝手に入ってくるな」
「鍵開いてたよ。また早退したの? 具合悪いの?」

 遙は視線を右に左に動かして、明らかな嘘を吐いた。

「……ちょっと、寒気が」
「だったら水風呂なんか入ってないで寝てなさい。お昼は食べた?」
「まだだけど」
「作ってあげるから、さっさと上がって、服着てあったかくしておいで」

 遙は面白くなさそうに水の中で目を伏せたけれど、

「分かったら返事しなさい」

 と、私がひと睨みきかせると、しぶしぶと小さく頷いた。





 私が台所に立って野菜といかを炒め合わせていると、遙がぺたぺたと湿った足音を立ててやって来た。頭にタオルを引っ掛け、Tシャツとショートパンツを着ただけの寒々しい格好をしていて、なにが「寒気がする」なんだか、もう嘘を吐く気もさらさらないらしい。

「もう一枚何か着たら?」
「別に、これでいい」
「あっそ。もうできるから、座って待ってて」

 フライパンにうどんを放り込んでじゅっといい音をさせる。さすがにお腹が空いたのか、遙はお腹をさすりながらダイニングテーブルについた。
 ほどよく炒まったうどんと野菜にソースを絡めて、ほどよく焦げ付いたところで火を止める。皿に盛り付けて鰹節をたっぷり振りかけて、いか焼きうどんの完成。

「はい、できた。どうぞ」

 遙は両手を合わせて「いただきます」と小さく呟いた。



 私が七瀬家に出入りするようになって、もう1年ほどになる。七瀬氏の長期出張が決まり、夫人もそれに同行することにしたため、一人息子である遙はこの大きく古い一軒家にひとり取り残された。その世話を私が頼まれた理由は、子どもの頃から遙をよく知るご近所さんのうちで私が一番の暇人だったからだ。七瀬のおばさんには子どもの頃からお世話になっていたし、小学生時代の遙とは、私がスイミングスクールで働いていた頃からの顔見知りだ。遙は人見知りなので、身の回りの世話をするのにはよく顔を見知った私がちょうどよかったのだ。それにまぁ、とにかく私は暇だった。そういう意味で、私以上の適任者はいなかったのだ。
 身の回りの世話をすると言っても、遙はひとりで洗濯も掃除も料理もできるし、食うに困らないだけのおこずかいも毎月振り込んでもらっているので、私が七瀬家でする仕事は遙が使っていない両親の部屋の現状維持と、遙が面倒くさがってやらないいくつかの家事だけだったけれど、私の本当の役割は別にある。七瀬さんがそれを私に期待しているかどうかまでは分からないけれど、少なくとも私だけは、その役割を何よりも大事な使命みたいに思っている。





 洗い物を全て済ませてしまってから、遙が朝に干しておいたらしい洗濯物を取り込んでたたみ、衣装箪笥にしまってから、台所に戻ると、遙は焼きうどんを食べ終わって、ひとりでお茶を入れて一息ついていた。椅子の背もたれに軽く寄りかかって、両足を投げ出すようにしてぼんやり空中を見つめていて、けれどその目線の先には何もない。ただ古い木目の天井が広がっているばかりで、年月を重ねてできたシミが人の顔のように見えなくもなかったけれど、そこに何か重要な意味があるとはとても思えない。けれど、もしかしたら遙の目には何かが見えているのかもしれない。私の目には見えない何かが、遙をどこか遠いところへ連れて行こうとしているのかもしれない。

「遙。食べ終わったらお皿水につけておいてね」

 たまらなくなって声をかけると、遙は夢から覚めたような顔でまばたきをし、私の姿を見咎めると鬱陶しそうに眉根を寄せた。やっと年頃の高校生らしい表情してくれて、私はほっと胸をなでおろす。あぁ、遙はまだ人間なのだと思う。

「……今やろうと思ってた。ていうか、自分で洗う」
「あらそう。それはごめんなさいねぇ。あ、うちで作った肉じゃが、冷蔵庫に入ってるから、夕ご飯にでも食べてね」
「頼んでない」
「あんた放っておくと鯖ばっか食べるでしょ。もうちょっとバランスよく食べなきゃ大きくなれないよ?」
「別にこれ以上でかくならなくても」
「いいから食べなさい。食べなかったら次から人前で『はるちゃん』って大声で呼ぶからね!」

 遙は声を詰まらせて心底鬱陶しそうに眉根を寄せた。
 と、そのとき、玄関のガラス扉が開く音と一緒に遙の幼馴染の柔らかい声が響いてきた。真琴が学校帰りに今日の課題のプリントを持ってきてくれたのだった。





 それから遙と真琴は、一緒に課題をし、他愛ない雑談をし、おやつのするめいかを一緒に食べた。毎日顔を合わせているのに何をそんなに話すことがあるのか不思議だったけれど、ふたりの会話と声はとても穏やかで、耳に心地よいBGMのようだった。私は遙のワイシャツにアイロンをかけながら、穏やかな気持ちで耳を傾けた。





 すっかり日が落ちてから、真琴と一緒に七瀬家を出た。鳥居の前を通って石段を下りながら、真琴が穏やかな声で呟いた。

さん来てると、はるはいきいきするね」
「そう?」
「うん。なんかこう、表情豊かになるっていうか、子どもに戻ったみたいになる気がする」

 真琴は高校生とは思われない落ち着いた表情で笑った。
 生まれた頃から、遙と真琴はずっと一緒だった。家が近所で、幼稚園も小学校もスイミングスクールも中学校もずっと一緒で、遙は真琴以外の友だちがほとんどいない。だから、遙のことは真琴に話すのが一番だった。私はなんとなくそうしたいような気分になって、そっと口を開いた。

「うざがられてるだけだと思うけどね。私結構口うるさいし」
「そんなことないって。はるはわがままなだけだよ。さんがいろいろ世話焼いてくれるから、甘えてるんだって」
「そうかな? 私にはそうは思えないけど」
「俺にはそう見えるけどな」

 その時、真琴の足元でなにかが鳴いた。ふたり同時に視線を落とすと、真っ白な毛並みの子猫が真琴の足元に体をこすりつけていた。真琴はくすくすと笑いながら大きな手でその体を抱き上げて、柔らかな毛並みに鼻先を押し付ける。ずいぶん真琴になついているらしいその野良猫は真琴を魅了して離さなかったので、ふたりで石段に腰を下ろしてしばらくぼーっとした。猫は、にはちっとも興味を示さなかった。

「はるってさ」
「うん?」

 猫とじゃれ合っている真琴の横顔を眺めながら、は呟いた。

「ふわふわしてるっていうか、どこか地に足がついていない感じがするから、ちゃんと見ていてあげないとって、思うんだよね」
「うん」
「でも、はるはその自覚がないと思う。なんにも考えてないと思う。自分でも気づかないうちに、無意識に、こっちの心配もよそに、ある日突然ひょいって、どこか遠いところに行ってしまいそうな気がする」

 真琴は「うーん」と曖昧に首をかしげたあと、困ったような顔をした。

「まぁ、さんの言うことも分からなくもないけど、そこまで心配するほどのことかな?」
「そこまでって?」
さんが大人だから子どもの俺にはそう見えるだけかもしれない。さんははるの親代わりみたいなものだから、俺がはるを心配する気持ちとは、違って当然なのかもしれないし……」

 真琴は自分でも何を言いたいのか分からなくなったようで、ぼんやりと言葉尻を濁した。
 私は、イカ釣り漁船が暗い海の上で星のように光るのを眺めながら、頬杖をついてため息をこぼす。夜の海はどこまでも続く深い闇のようで、じっと眺めていると背筋が冷たくなった。

「はるはさ、お風呂場で水に浸かってひとりでぼんやりしてることあるじゃない」
「うん。この間、朝迎えに行ったときもそうだった」
「今日も寒気がして早退してきたとか言いながら水風呂に浸かってるのよ。嘘つくならもっとうまい嘘つけってのよね」
「あははっ! はるらしいね」
「水に沈んでいつまでも浮いてこなくて。本当に、いつまでもいつまでも、浮いてこないの」

 言っていて、なんだかたまらなくなってしまった。深い海の底に沈んでいつまでもいつまでも浮いてこない。真っ暗な深い闇、生きたままでは決してたどり着けないそこは、いったいどんな世界なのだろう。私は自分の二の腕をぎゅっと握りしめた。

「もしも、そのまま溺れちゃったらどうするつもりなんだろうね」
「……さん」
「ただただ、不安なのよ。私は」

 たぶん、遙は人魚なのだ。人間の世界に憧れて美しい歌声と引き換えに人間の足を得たけれど、もしかしたら、人の世は遙の想像とは少し違ったのかもしれない。だから遙はあんなに恋しそうに海を眺め、水に溺れ、水を感じたいと言って憂鬱そうに人間の体を持て余している。遙はいつか、泡になって海に帰るのだろうか。そう思うと、心臓がぎゅっと縮こまった。




 数日後、七瀬家を訪れると、鍵はきちんとしまっていて、遙は学校に行っていて留守だった。ダイニングテーブルには肉じゃがを入れていたタッパが空になって置いてあって、私はこっそり口元をほころばせる。肉じゃがは、もしかしたら遊びに来た真琴や渚や怜や江に食べさせたのかもしれないし、手をつけずに生ゴミに捨てたのかもしれない。もしそうだとしても、証拠を残さないくらいには嘘は上達したらしい。
 嘘は人間の特性だと、何かの本に書いてあった。遙はちょっとずつ、人間に近づいている。私はそれが何よりも嬉しい。






はるちゃんは海に還ったらいい。いや、還るな!!






20151207