月の綺麗な夜だった。
明るくてまんまるで、表面の凸凹がひとつひとつ指先でなぞれそうなほどくっきりしていて、うっすらと赤い光が妖しい。まるで魔法にかかってしまったみたいに目を離せなくなる。こんな夜には、どんなに不思議な事が起こってもおかしくないような気がして、見知らぬ男に声をかけられても私はちっとも驚かなかった。
「こんな時間に、ひとりで何してる?」
声のした方を振り返ると、ベンチの背もたれの上にゆうゆうと立つ一本歯下駄をはいた足が見えた。鳥の羽音がしたと思ったらほとんど同時に風が起こって髪が乱れた。
「別に何も」
鼻緒をしっかりと掴んでいる骨張った足の指を眺めながら、私は答えた。
「若い女が真夜中にひとりでいるもんじゃない」
「関係ないでしょ」
「家に帰れねぇ理由でもあんのか?」
「放っておいてくれないかな」
「そういうわけにはいかねぇ」
その声を聞いていると、どうしてか懐かしいような気持ちになって鼻の奥がつんとした。深く澄んでいて、とても力強い声だった。
「何があった? 話してみろよ」
「別に、大したことじゃない」
そう、大したことじゃない。少し疲れてしまっただけだ。一晩眠ればまたなんとか頑張れる。けれど、寝ても覚めても憂鬱だ。今だって風で巻き上げられて乱れた髪を手櫛で整える余裕もない。体に力が入らなくて、どうやってこの薄汚れたベンチから立ち上がればいいのか分からない。
月を見上げて思う。竹取物語のかぐや姫みたいに私をここから連れ去ってくれる誰かがいたらいいのに。でも、私はお姫様じゃない。
再び羽音がして、大きな鳥が私の目の前に舞い降りてきた。と、思ったけれどそれは鳥ではなく、光るような黒色の翼を持った人だった。鴉の面で顔を半分隠していて、山伏の装束を着ている。腰には一本の刀、手には金色の錫杖、たった今までベンチの上に立っていた一本歯下駄。鴉天狗だ。月の光が逆光になって顔は分からなかった。
「誰か、頼れる奴はいねぇのか?」
「……いたらこんなところにひとりでいない」
情けなくて惨めで、我慢していた涙がこぼれてしまった。頼れる人なんて、生まれてこのかたひとりもいたことなんかなかった。
母はいつも最初から「何にもできなくてごめんね」と言って、私のために何かしようと努力してくれたことはない。父は仕事にかまけて家によりつかず、「何かあったら友達に相談しなさい」とだけ言った。そんなことを言われても、何かあったら相談に乗ってくれるような友達を持てたことは一度もなかった。恋人だっていない。私はずっとひとりだった。どうしてこんなことになってしまったのか、私の何がいけなかったのか、何を間違えたのか、どうして私だけが誰からも愛されないのか、いくら考えてもさっぱり分からなかった。考えて考えて考え尽くして、もういい加減何もかも嫌になっていた。
「だったら、俺と一緒に来るか?」
鴉天狗はそう言うと、私の目の前に膝まづいて私の手を取った。鉤爪のように尖った爪が触ったら痛そうだったけれど、私の肌を傷つけないように慎重にさわってくれたのがその仕草で分かった。
「昔、俺はお前に命を救われた」
「なんのこと?」
「覚えていないか? 子どもの頃、巣から落ちて死にかけていた鴉を拾っただろ」
言われてみれば、そんなことをしたことがあるような気がする。確か、野良猫に襲われそうになっていたところを助けて、母鴉と巣を探してやったのだ。あちこち探し回ったせいで結局は自分が迷子になって大目玉を食らったことは覚えている。あの子鴉はどうしたのだったろう、全く記憶にない。
「お前が忘れても、俺は覚えてるよ」
鴉天狗の指が、私の手の甲をさするように撫でた。柔らかい暖かさが脈打つように伝わってきて、その途端に、あの子鴉の記憶が蘇ってきた。手のひらの上でとくとくと小さな心臓を震わせていた小さな鴉。ふわふわの羽、巣から落ちた衝撃で今にも気を失ってしまいそうに目を細めていたあの子。もしかしたらこのまま死んでしまうのではないかと心配で不安で、泣きそうになりながら木の上の巣を探してやったこと。
「ずいぶん立派になったのね」
思わずそう呟くと、鴉天狗が面の向こうで笑う気配がした。
「お前を迎えにきてやれるくらいにはな」
「迎えに?」
「本当に帰るところがねぇんなら、一緒に来い」
鴉天狗の住処はどこにあるんだろう。どこかの山奥の木の上か、それとも祠かなにかだろうか。なんにせよ、それはこの世よりもあの世に近い場所にあるように思えた。きっと、行ったら二度とこの世には帰ってこれないだろう。
だからといって、それがなんだ。
「分かった。行くわ。一緒に」
「後悔しないか?」
答える代わりに、私は鴉天狗の首に両腕を回して抱きついた。その拍子に鴉の面がずれて鴉天狗の顔があらわになる。面の向こうの素顔は、優しい目で微笑んでいた。
「これでやっと恩が返せる」
鴉天狗は心底嬉しそうに呟いた。
抱き上げられた途端、体が宙に浮いたのが分かった。力強い羽音。耳元で風が巻いて、ぎゅっと目を閉じる。風がおさまってから恐るおそる目を開けると、今度こそ本当に手が触れられそうなほど近くに月があった。
月の綺麗な夜だった。
明るくてまんまるで、うっすらと赤い光が妖しい。まるで魔法にかかってしまったみたいに目を離せなくなる。こんな夜には、どんなに不思議な事が起こってもおかしくないような気がして、鴉天狗に抱きかかえられて空を飛んでいるというのに、私はちっとも驚かなかった。
20180717
初出:ツイッターです。