~ ONITA no BOUSHI parody ~
鬼。子どもの頃からずっとそう呼ばれてきた。
一体いつからそう呼ばれているのかは思い出せないが、まだ年端もいかない子どもの頃からだ。剣術の稽古をつけてもらうより前からだ。鬼がこの体に巣食った夜のことを、土方はひとときも忘れたことがない。
義兄の両の目の光が失われた夜。はじめて人を斬り殺した夜のこと。
鬼は悲しい
土方は、顔の造作は良かったが愛想がなく、常に瞳孔が開き気味の瞳は、飢えた獣が獲物を狙うさまにも似ていて、初対面のほとんどの人間から敬遠されるような男だった。
土方と親交のあったほとんど唯一の人間は、近藤の道場に集まってくるどこの誰とも知れない無頼漢ばかりだったけれど、その中にあっても土方の評判は上がらなかった。近藤は、剣を手にしていなければ愛想がよかった。沖田は、まだまだ子どものような顔をしていて、頭の中はその外見以上に幼く、残酷で無邪気だった。そんな個性豊かな門弟の中にあって、土方は最も人好きのしない人間のひとりだった。
ただひたすたら、誰よりも強くなることだけを考え、むやみやたらに剣を振るって生きていた。斬った人間の数は、初めこそ指折り数えていたが、いつのころからかそれも止めてしまった。きりがなかったからだ。
土方を見ると、誰もが、まるで凶暴な獣を前にしたかのように顔色を変えた。目を合わせるんじゃない、恨みを買うようなことはするな、下手に手を出したら噛みつかれるぞ。そう言わんばかりに、遠巻きに土方を見る。
敵は鬼の副長、土方十四郎の名を聞くだけで身を竦ませ、味方でさえ土方の怒声を聞くだけで肩を震わせながら背筋を伸ばす。土方の外面に惹かれた女達は、土方の鬼の一面を垣間見るだけでぱたりと寄り付かなくなった。
鬼は、誰からも嫌われる。
土方がそれをどうこう思ったことは、これまでに一度もない。
「まぁ!」
ある日、血塗れで屯所に戻ってきた土方の姿を見るなり、
は目をまん丸に見開いて青ざめた。
何人かの攘夷志士を斬り殺し、後始末を部下に任せて先に屯所に戻ってきたちょうどその時だった。人間を斬った興奮が冷めやらない体は、独特の熱を持って落ち着かない。こういう時、殺戮に慣れていない女が、悲鳴を上げたり失神したりすることほど鬱陶しいものはなく、
もそういう反応をするのではないかと思うと、土方は身構えてしまった。
けれど、
の口から飛び出してきた言葉は、土方が想像もしていなかったものだった。
「怪我をされたんですか?」
「あぁ?」
「そんなにたくさん、血が……。大丈夫ですか?」
はそう言いながら、土方の体を上から下まで観察するように見やった。怪我の具合を心配して土方に触れようとする手は、おどおどと宙を彷徨っている。
土方は、戸惑った。
「いや、これはほとんど俺んじゃねぇけど……」
戸惑いをそのまま音にしたような声をどうにか絞り出すと、
はあからさまにほっとした顔をして肩を撫でおろした。
「あぁ、そうなんですか。良かった」
土方は右目の下あたりがびくりと痙攣するのを感じて、つい、左手で持っていた刀の鞘をぎゅっと握りしめた。
の言葉に、嘘はないように思えた。土方はとても捻くれた性格をしていて、本当に心を許せる数少ない人間しか信用していない。けれど、
の言葉や、眼差し、土方を心配して伸ばしかけた手のひらは、土方の警戒心なんかものともせず、土方の心の奥にある一番繊細な部分になんの躊躇もなく届いてしまうような気がした。それがこれ以上なく恐ろしくて、土方は一歩、後ずさった。
けれど
はその一歩をあっという間に詰めてしまう。
「上着、洗濯しますから、ここで預かってもいいですか?」
「洗濯って……。ここまで汚れっちまったらどうにもなんねぇだろ?」
「大丈夫です。ほら、脱いでください」
はするりと土方の背中に回り込むと、土方の肩に手を掛けて上着を剥ぎ取ってしまった。あっという間の出来事で、土方はなんの抵抗もできない。背中に立つ
の気配を感じながら、鬼と呼ばれ恐れられてるこの俺が、こんなに簡単に背中を取られてしまったという事実を受け入れ難く思った。じとりとした、怒りに似た感情が湧いてくる。
「腕に怪我をされてますよ。早く手当てをしたほうが……」
「いい。放っとけ」
の手を振り払うように、土方は身をかわした。
がどんな顔をしているかは分からなかったが、その気配が土方のそばから離れていく気配がしない。少しでも距離を取りたくて、一歩体を横にずらすけれど、その距離は簡単に詰められてしまう。
は、鬼を恐れるどころか、鬼の逃げ場をなくして追い詰めようとでもしてるようだった。
「でも、血が止まっていないし、傷も深そうですよ。きちんと診てもらった方がいいんじゃありませんか?」
土方の中で、怒りにも似た感情が爆発寸前まで膨れ上がる。どうして、こんな女ひとり、振り切るなりなんなりして突き放せないのかが分からない。
「大丈夫だって言ってんだろうが」
ついには、壁に背をついて動けなくなった土方の前に、
は立った。血に汚れた土方の上着を腕に掛けて、心から土方を心配している顔をして。
「でも、感染症だって怖いですし……。動くのが辛いなら、誰か呼んできましょうか?」
「だから、いいって言ってんだろうが!!」
土方は、ほとんど無意識に怒鳴った。体中から湧き上がってくる怒りに似たもの、人を殺すときに、刀を通して体に滾る熱、そんなものが瞬間的に沸騰して飛び出してしまったようだった。
土方は感情が高ぶったあまりに、
の顔を見ることができない。目を合わせたが最後、自分が何をしてしまうか分からなかった。きっと、
は善良な顔をして、ただひたすらに優しく土方を見つめているだろう。その善良さに、耐えられる自信がなかった。
鬼。子どもの頃からずっとそう呼ばれてきた。他人を寄せ付けず、敵にも味方にも恐れられ、人を斬り殺すことになんの躊躇もないこの肉体と精神は、本当に今も人の形を保っているのだろうか。体に巣食う鬼の熱が冷めない。
その時、土方の目に映っていた
のつま先が、つい、と動いた。その気配が、土方から遠のく。そのことに驚くほど安堵して、土方はずるずると壁を滑って座り込んだ。
の善良さは、体の中に鬼を飼っている土方には、とても重かった。刀を構え、こちらの命を狙ってくる浪士と対峙する方がよほど気が楽だ。
ほっと、緊張が解けると、腕の傷がびりびりと痛む。仕方がないから救護室にでも行くかと腰を上げようとしたとき、
が戻ってきた。
は、何枚かの手拭いと、水が湛えられた桶、そしてなぜか焼酎の一升瓶を持っていた。何も言わずに土方のそばに膝をつくと、有無を言わさず土方のベストとシャツを剥ぎ取って、深い刀傷のついた二の腕のあたりで、一升瓶を傾けた。こぼれた焼酎は驚くほど傷に沁みて、傷口をペンチでつままれて思い切りひねられたような、逃げ場のない痛みに襲われ、土方は声も出せない痛みに打ち震える。
そんな土方を見やって、どうやら
は笑ったようだった。
「怪我をして苛つくのは勝手ですけれど、八つ当たりはやめて下さいな」
「てめぇ……、今時そんな前時代的なもんでそんなことするか普通……?」
「あら。私が子どもの頃には、これ専用の焼酎が土間にいつも置いてあったんですよ。殺菌効果はあまりないらしいですけど、まぁ、気の持ちようですよねぇ」
は濡らした手拭いで傷跡の汚れを落とすと、乾いた手拭いを細く割いて包帯のようにし、それで傷口をきつくしばる。
傷はまだ痛んだけれど、どうにか痛みの衝撃からは回復した土方は、きびきびとよく動く
の手を見下ろしながら、恐る恐る
の顔を覗き見た。
その善良なふたつの瞳は、深い笑みをたたえていて、まるで底のない海のようだった。
はたぶん、やせ我慢をして痛みに耐える土方に呆れている。呆れて、笑っている。子どもが調子に乗って悪ふざけをして、自業自得で怪我をして泣き喚いているのを見るような瞳。
そこに見えるのは、ただの労りや、親切心ではなかった。それどころか、善良さですらなく、その純粋で透明で真っ直ぐなものに、真正面から向き合う勇気が土方にはなかった。
それを分かっていてか、
は土方とは目を合わせずに囁いた。
「私、専門家ではないので、このくらいしかできませんから。すぐ救護室に行ってくださいね。それとも、誰か呼んできましょうか?」
土方はしばらく何も答えなかった。恐ろしくて、身動きが取れなかった。鬼の熱が冷めていく。その熱の下降を、じっと体中の神経を研ぎ澄ませて感じている。
ひいらぎの枝が見える。その青々とした葉は鬼の目を刺し、光を奪うだろう。それが人間の望みだ。鬼はどこにいたって何をしたって嫌われる。
けれど、
は土方の中に巣食う鬼を踏みつけて、土方の胸の奥の一番繊細な部分に容赦なく触れてくる。
の純粋で透明なものは、いくら土方が拒否しても侵入してくることを止めない。
ひいらぎの枝が鬼の目を刺す。鬼が逃げ出したあと、ここに残るのは果たして土方十四郎という人間なのだろうか。それはもう、土方本人にも分からなかった。
「……あぁ、頼む。悪かったな、手間かけちまって」
土方が鬼を追いやって人の声を発すると、
はほっと安堵したような顔をして頷いた。
土方は、自分のせいで両の目の光を失った義兄のことを思い出していた。
が持つ、純粋で透明で真っ直ぐなそれは、たぶん義兄が持っていたそれと同じ種類のものだ。土方の人間である部分がそれを直感する。
義兄は土方の中の鬼に目の光を奪われた。なら、土方の中の鬼は、
の何を奪うのだろう。
土方が本当に恐れているのは、
自身ではなくその未来だ。鬼は誰からも嫌われる。本当にそうならいいのにと、土方は思っても口には出せなかった。
「土方さんが、無事で帰ってきてくださったら、私はそれで充分です」
嬉しそうにそう呟く
のことを、土方もかけがえなく思っているからだった。
20150208
節分に寄せて。