お望みショコラ
日売新聞 〇月△日 朝刊25面
〇〇県△△市の海岸で派遣職員の女性が行方不明となっていた事件で、〇〇県警は東京都在住の派遣職員、
さん(28)が遺体で発見されたと発表した。現場は海岸に沿って切り立った崖になっており、
さんの持ち物と思われる荷物と靴が現場に残されていたことから、〇〇県警は自殺と見て調べている。
安室は新聞の片隅に載った小さな記事を見つけると、その記事が表にくるように丁寧に新聞を折りたたんだ。部下に指示したとおりの記事が出ている。優秀な部下を持った幸運に感謝して、安室はその記事を指でなぞった。ほとんどの読者が読み飛ばしてしまうだろう小さな記事だったが、これがどれだけ重要な意味を持つか、安室だけはよく分かっていた。
ほっと肩を撫で下ろしたとき、こんこんっ、と扉を叩く音がした。ところが窓の外に人影はない。見えるのは、古い西洋の洋館を模した大きな屋敷だけだ。真昼だと言うのに締め切ったカーテン、赤い煉瓦の壁を伝う蔦が余計に陰気臭い雰囲気を醸し出している。
聞き間違いかと思ったが、同じ音がもう一度する。
とっさに運転席の扉を開けて、安室は目を丸くした。
「安室の兄ちゃん、こんにちは!」
「なんだ、コナンくんか。こんなところで何してるの?」
「スケボーが壊れちゃったから、阿笠博士に修理してもらいにきたんだ。安室さんこそ、こんなところで何してるの?」
「ドライブ中に眠くなっちゃったから、休憩してたんだよ」
「ねぇ、もしこれからポアロに行くんなら、僕も乗せてってくれない? スケボーがないからちょっと遠いんだ」
安室は苦笑いをして頬を掻いた。
全く、この子どもには敵わない。
「分かった。乗りなよ」
助手席に座ったコナンは車に乗り込むなり、安室が折りたたんでおいた新聞を拾い上げた。こんな顔をして新聞を読む小学1年生を見るのは初めてで、安室は笑い出しそうになるのを堪えて真面目な表情を取りつくろう。
「これ、安室さんの彼女だよね?」
「あぁ、そうだよ」
「亡くなったの? どうして? 安室さん、何か知ってる?」
「自殺だってさ。
のお父さんが死んだって警察から連絡が入ったらしいんだけど、よっぽどショックだったんだろうね。現場に、警察から引き渡された遺骨が残されてたそうだよ」
「それって本当に
さんだったの? 絶対に間違いないの?」
「事情聴取を受けた時に見せてもらった遺留品は確かに
のものだった。新幹線のチケットを買ったクレジットカードも
の名義だったそうだし、駅の防犯カメラにもちゃんと
の姿が映ってたってさ」
本当のところ、新幹線に乗ったのは
ではない。安室が払い戻すふりをして預かったチケットは、
と背格好の似た公安職員が使ったのだ。黒いカットソー、ブルージーンズ、トレンチコートと、変装しやすい服装をしていてくれたのは幸運だった。駅の防犯カメラに映っていたのも
ではなく彼女だ。
けれど、それをコナンに知らせてやる義理はない。
「安室さん、全然悲しそうじゃないね」
案の定、事情を知らないコナンは強い口調で安室を責めた。
「そんなことはないよ。泣きすぎて涙も枯れてしまっただけさ」
「
さんは組織のターゲットだったんでしょう?」
「急に何を言い出すんだい?」
「
さんが持っていた写真に写っていた黒ずくめの男、あれが
さんのお父さんだよね? 安室さんがそれを追っていたんだとしたら、彼は十中八九、組織から逃げ出した裏切り者だ。だから安室さんは
さんに近づいた。お父さんが亡くなったと連絡が入るまで安室さんが動けなかったのは、
さんがお父さんと完璧に連絡を絶っていたから。用が済んだから、組織のルールに従って
さんを自殺に見せかけて殺した。安室さんならこれくらいのこと簡単にできるよね?」
「僕が
を殺すなんて、よくそんなことが言えるね」
「僕だってそんなこと考えたくないけど、安室さんには前科があるでしょ」
「前科なんて、人聞きが悪いな。それにあれは偽装だったってコナンくんも知って……」
と、口を滑らせてしまったことに気づいて、安室ははっと口をつぐむ。けれど、もう遅かった。
「へぇ、そういうことなんだ」
見ると、コナンはしたり顔で笑っていた。
ここまで油断するとは、どうやら自分はずいぶん浮かれているらしい。
「降参だ。君の言うとおりだよ。いつから気づいてたんだい?」
「初めて
さんと会ったときから。もしかして公安の刑事さんかと思ってかまをかけてみたけれど、どうもそんな風には思えなかったし、黒ずくめの男と関わりがあるなら、組織の仲間か安室さんのターゲットかどちらかかと思った。けれど、もし仲間同士ならわざわざ恋人同士のふりをする意味がない。消去法で、
さんはターゲットってことになる。それから、ちょっと気になることもあった。あのパーティーで
さんと話をしていた人がいたでしょう?」
「高校時代の友達?」
「そうじゃなくて、ふたり組のおじさんの方」
「通訳していたんじゃないの?」
「
さん、頬にキスをする挨拶をしていたでしょ。
さんの国ではよっぽど親しい間柄じゃないとしないはずだ。通訳の相手にするのはおかしいよ。それで分かったんだ、
さんは情報スパイなんだって」
「コナンくん、さてはその会話立ち聞きしただろ? カクテルパーティーとはいえ不躾じゃないか?」
「子どもって何かと便利だよね」
コナンは生意気な顔で笑った。
「
さんが情報スパイだったなら、本当なら公安警察の出番だよね。容疑をでっち上げてでも別件逮捕して、国外にどんな情報が流出したのかつきとめなくちゃならない。けれど、
さんは組織に命を狙わている身だ。捜査も済んでいないのにみすみす殺してしまうわけにはいかないから、死を偽装して公安の保護下に置いたってところ?」
「なかなかいい線いってるね」
「お願いしたら、
さんに会える?」
「それはいくらなんでも難しいかな」
「なんだ、残念」
コナンはシートに深く体を沈めると、つまらなさそうに唇を尖らせた。何がそんなに不満なのか、床につかない足をぶらぶらさせている。子ども離れした冷静な表情を見せることもあれば、大人顔負けの推理を披露してくれることも珍しくないコナンだが、今日はそのどちらとも様子が違った。大人に叱られてその理屈に納得できないでいるときのように、年相応に機嫌を損ねている。
「安室さんって、
さんのことただ利用していただけだったの? 本当は全然好きじゃないのに、恋人のふりしてたの?」
「何だい? 急にそんなことを聞いて」
「僕、前に言ったよね。
さんを本当に大事に思うなら、汚い仕事に巻き込まないで上げてって」
「
だって情報スパイとして汚い仕事はしていた。おあいこだよ」
「じゃぁ、本当に好きなふりしていただけだったってこと?」
「コナンくんには分からないかもしれないけど、大人って打算的に恋愛できるものなんだよ」
安室の想像通り、コナンはますますおもしろくなさそうな顔をしてすっかりふて腐れてしまった。安室は口元を押さえて笑い出しそうになるのをこらえる。子どもらしくない子どもだと思っていたけれど、恋愛においてはこんなにも純情なのかと思うと、そのギャップがおかしかった。
「コナンくんはどうしてそんなに
のことを気にするの? たった2回会っただけだろ。もう謎も解けたわけだし、これ以上面倒なことに関わるメリットはないんじゃないかい?」
安室の質問に、コナンはじっくりと時間をかけて答えた。照れくさそうに、そして、大切な宝物にそっと日の光を当ててやるように。
「蘭姉ちゃんが、また会いたいって言ったんだ。パーティーじゃすれ違っちゃったし……」
安室はついに我慢ができなくなって、声を上げて笑ってしまった。あんまりおかしくて、腹がよじれるほど笑った。おかげでらしくもなくハンドルを切り損ねて車体が大きく蛇行する。
「……そんなに笑うことかよ……」
と、コナンは恥ずかしそうに顔を赤らめた。
安室は気が済むまで笑ってから、浮いた涙を指先で払ってハンドルを握り直した。
「コナンくんは、蘭さんのためとなるといつも一生懸命だね」
「悪い?」
「そんなことは言ってない。素敵だと思うよ。蘭さんの存在がコナンくんの原動力になってるんだね」
「じゃぁ、安室さんはどうなの?」
「僕?」
「そういう人いないの? 安室さんの原動力になっている人」
その時、安室の脳裏に浮かんだのは
の顔だった。こういう時、とっさにあの華やかな笑顔を思い浮かべてしまうほど
への思いを強くしていたことを知って、安室は自分のことながら驚かずにはいられない。けれど、悪い気はしなかった。
学生時代の悪友たちが空の上から、からかうような顔をして自分を見ているような気がする。
ゼロ、お前も焼きが回ったな。長く付き合った彼女にプロポーズする直前に不慮の事故で死んだ伊達なら、歓迎するように笑ってそう言ってくれるかもしれない。色恋沙汰は死亡フラグだとか縁起でもないことを言うのは、ペアを組んだ女刑事にひと目惚れしてすぐ殉職した松田で、どこか心配そうに、それでも自分のことのように喜んで祝福してくれるのは諸伏だろう。
あいつらに
を会わせたかった。どうやらこれは大きな心残りになりそうだ。
「たくさんいるよ。そいつらは、もうほとんど死んでしまったけれどね」
「ほとんど?」
安室はそれ以上は言わず、微笑みを浮かべてごまかした。
人を傷つけないほんの小さな謎は、人生を愉快にするちょっとしたスパイスだ。コナンにはこのくらいの謎がきっとちょうどいい。安室は話はこれで終わりと伝えるために、気障なウィンクをしてコナンを黙らせた。
毛利探偵事務所の前でコナンを下ろし、安室はさらに車を走らせた。今日はポアロのシフトは入っていない。
気の赴くままハンドルを操っていたら、いつのまにか海の方向に足が向いていた。海岸線に沿った車道、ガードレールの向こうは崖になっていて、打ち寄せる波をテトラポットが打ち消している。曲がりくねった道をハンドルを切って進む。
と、スマートフォンに着信があった。知らない番号だ。ヘッドセットのスイッチを押すと、遠い潮騒に乗せて愛しい人の声がした。
『番号変えたの。名乗っても平気?』
「大丈夫だよ。まぁ、名乗らなくても分かるけど」
『本当に? 私のこと忘れてない?』
「忘れるわけない。俺が初めて逃がした容疑者だからね」
『よく言う』
電話の向こうで、
は声を上げて笑った。
安室はヘッドセットを右耳から左耳へ付け替えた。そうすると助手席の側から
の声が聞こえて、隣に
を乗せてドライブをしているような気分になる。電話の向こうから聞こえる潮騒と、安室の目の前に広がる海とがひとつになったような錯覚すら覚えて、まだ付き合はじめて間もない頃に海辺をドライブした日のことが思い出された。
「無事に出国できたみたいでよかったよ。もう落ち着いた?」
『うん。どことは言えないんだけど、田舎の方でのんびりしている。母が近くに住んでるの。これから会いにいくところ』
「お母さん、元気にしてる? 会うのは久しぶりなんだろ?」
『元気だよ。もうすっかりこういうことからは足を洗っててさ、なんと再婚するんだって。しかも3回目だよ。私が日本で四苦八苦してた時にも1回してたんだって。もうびっくりだよ』
「俺もびっくりしてるよ」
『え?』
「予想以上に
が元気そうで」
『そりゃ、いつまでも落ち込んでられないでしょ』
「大丈夫? 無理してない?」
ほんの少し、考え込むような間がある。
『……いつかこういう日が来るかもしれないとずっと思っていたから、覚悟はしていたつもり。それでも気持ちの整理をする時間は必要なんだなって、今は実感しているところかな』
「辛い?」
『そうじゃない。新しい環境に慣れるのに時間がかかっているだけ。そういう透はどうなの? あ、今は零って呼んだ方がいい?』
「どっちでも、
が呼びやすい方でいいよ。こっちは何も変わってない。ちょうど今日、
の死亡記事が新聞に出たよ」
『それは私も見た、電子版で。自分の死亡ニュースを見るなんて変な感じ』
「けど、これで組織の目をくらますことには成功したはずだから、もう安心して」
『それはそうと、透はいつから私のこと疑ってたの?』
「え?」
『父が接触してくると読んで私に近づいたんでしょ? っていうことは、私個人を捜査していたわけじゃなかったんだよね?』
「もしかして、それを聞きたくてわざわざ電話してきたの?」
『だって日本にいたら絶対にこんな話できないじゃない。それに私、この10年間本当にうまくやってきたつもりだったの。何かミスをして公安に目をつけられたんだったらちゃんと把握しておきたい』
安室はほんの少しがっかりした。もう何もかも済んだことだと言うのに、わざわざ国際電話を使ってまでする話だろうか。てっきり自分を恋しく思って声だけでも聴きたいと思ってくれたのかと期待したのに。
『ねぇ、いまさら隠し事はなしにしようよ。降谷零?』
安室の気持ちも知らず、
は事務的に言う。仕方がなく、安室は答えた。
「
の身辺を調べ始めた頃から何かあやしいとは思っていたよ。けれど、確信的な証拠を得たのはホテルに泊まった夜だ。俺にノートを預けただろ。何が書いてあったか覚えてる?」
『あんなものもう全部忘れた』
吐き捨てるように
は言う。あのノートは
にとっては思い出すのも嫌なほど不快なものらしい。これが御涙頂戴のヒューマンドラマなら、ノートにびっしりと書き込まれた愛の言葉によって父親の悪行と狼藉は全て許されそうなものだが、現実はそう簡単にはいかないらしい。
「ノートに
のお母さんの本名が書いてあったんだ。調べてみたら、日本警察が把握している諜報員リストにその名前があったんだよ。長く活動記録がなかったから埋もれてたけどね、俺の優秀な部下が見つけてくれたんだ」
と、次の瞬間。
は思いつく限りの罵詈雑言を異国の言葉でまくしたてた。その勢いと言ったらヘッドセットが震えるほどで、安室の左耳はその後しばらく耳鳴りが治らなくなってしまった。
言いたいことを言いきって落ち着きを取り戻すまで、そうとうの時間がかかった。
『ごめん。つい』
肩で息をしていると分かる息づかいで、
は言う。
「すっきりした?」
『まぁね。死んでもなお余計なことしかしないんだから、あの人は』
「けど、お父さんはお母さんが諜報員だっていうことは知らなかったと思うし、ましてや家族を売るなんて意図はなかったと思うよ。異国に長く潜入する諜報員の中には、国際結婚してその国の国籍まで得る者も珍しくないしね」
『とりあえず、私がミスしたわけじゃないって分かって良かった、って言っておこうかな』
「それじゃ、俺からも質問。
、俺の写真を上司に送っただろ?」
上司、というのは
が通訳の仕事をしながら行っていた諜報活動の報告を上げていた人物だ。
が日本を出る直前、安室もその人物に直接対面した。ブロンドを七三分けにした初老の男で、パーティーで
が通訳をしていたと安室が思い込んでいたあの男だった。
はあの会場で安室を隠し撮りして、その場であの男にデータを送信し、すぐに送信履歴を消したのだ。そうすればばれないと踏んでいたようだったが、安室はその日のうちにデータを復元してそれを確認していた。
『あ、やっぱりばれてた?』
舌を見せて笑う
の笑顔が見えたような気がして、安室もすぐそこに
がいるように肩をすくめた。
「それはつまり、俺を疑っていたってことだよね。いつから?」
『初めから。初対面なのにいきなり車に連れ込んで銃を持たせるような男、あやしさ満点じゃない。娘の私を物騒なことに巻き込むふりをして父親を釣り上げたかったんだろうけど、かえって裏目に出たね』
「初めから分かっていたんなら、どうして俺と付き合ったりしたの?」
『それ、また言わせるの?』
はくすくすという笑い声だけを聞かせて、質問には答えてくれなかった。
『次、私の番だよ。父はなぜ組織から脱走して日本に戻ってきたの?』
「これは俺の推測だけれど、組織の計画に賛同できなくなったんじゃないかと思う。データを持ち出したのも組織の仕事にダメージを与えるためだったと思うよ」
『娘に追手がかかることを想像してなかったのかな。本当に馬鹿なんだから』
「逃げ切れたと判断したら、今度こそ
に会いに来るつもりだったんじゃないかな。あのノートを見れば、
に謝りたかったんだろうなと想像はつくよ」
『来てもどうせ追い返してやったけどね』
「前から思っていたけど、どうして
は実の父親をそんなに毛嫌いするの? 殺してやりたいほど憎んでたって言ってたよね」
『それは、透の理由と同じだと思うよ』
心臓にこびりついた焦げ跡のような怒りを思い出して、安室は無意識にハンドルを握る手に力を込めた。
赤井秀一。大切な友人を殺した男。FBIきっての切れ者で、「シルバーブレッド」と呼ばれ組織から唯一恐れられている男。あれほどの男がなぜスコッチを見殺しにしたのか、その謎はいまだ闇に包まれたままだ。
とはいえ、
からそこまで強い怒りを感じたことはなかったのだが。
「……そうとは思えないんだけど」
『そう?』
「もったいぶらないで教えてよ」
電話の向こうからため息が聞こえて、悲しそうに微笑みながら水平線を見つめている
の横顔が見えた気がした。
『……私に、さんざん寂しい思いをさせたから』
「え、それだけ?」
『それだけって何? 私にとってはすごく大事なことなんだよ。10年もひとりぼっちで生きてきた私の気持ちも少しは察して』
「ごめん、否定するつもりはないよ」
『私の父はあの人しかいない、代わりはいないの。あんな父親を持ってがっかりだし、何度も失望させられた。父親らしい父親は私にはいなかった。その空白は一生、埋められない。他の何も父の代わりにはならない。それは、すごくすごく、寂しいことなんだよ』
安室の脳裏に懐かしい友の笑顔が浮かぶ。もう二度と会えなくなってしまった友。他の誰もスコッチのかわりにはならない。山ほど一緒にばかなことをして、飽きるほど笑い合った。一生のうちで、あんなに気を許せる仲間を得られたのは僥倖だった。懐かしい顔を思い出して眠れない夜を過ごすこともある。
あぁそうかと、合点がいった。
の言う寂しさは、あの夜のことを言うのか。埋められない空白は寂しい。だから人は、そこから殺意を芽吹かせるのだ。
『ところで、透が殺したいほど恨んでる相手って誰なの?』
「そんなことまで聞く?」
『私のは知ってるくせにそっちは黙ってるなんて不公平じゃない』
「その理屈は分かるけど、組織にも関わることだから言えないよ。知ったら
が組織に狙われる口実をまた与えてしまうことになるからね」
『それじゃこれだけ教えて。その人は今、生きてる? 死んでる?』
「……生きてる、おそらくね」
『そう。いつかちゃんと殺せるといいね』
「すごいことを言うね」
『私ができなかったことだもの、透はちゃんと実行してくれないと』
の声からは、落胆や失望は感じられなかった。そういうじっとりと暗い感情ではなく、降ってきたもの全てを受け止める覚悟のような、そこまで大袈裟なものではないかもしれないけれど、風が吹くことや水が流れることのように当たり前に受け止めてくれたような気がした。
車を転がした先に海浜公園があって、安室はその駐車場に入り車を降りた。海を見下ろす展望台に上る。今日は穏やかな波の上を白いうさぎが跳ねている。
通話をテレビ電話に切り替えると、海を背景に
が笑っていた。
最後に会った時とはまるで別人だった。ぱっと花が咲くような笑顔で、暖かな日の光を浴びてまぶしそうに目を細めている。日本とは違う空と海の色、櫛をとおしただけの髪が風になびいて踊り、オーバーサイズの白いシャツが風を受けて膨らんでいた。
「
はどうして諜報員になったの?」
は目を伏せて少し考え込んでから答えた。
『父に捨てられた母が心を病んでしまったから、私がその仕事を継いだの。同じ血が流れてるだけあって、私に向いている仕事だったと思う。今ちょっと退屈してるくらいだしね』
「失敗したりしなかった?」
『一度だけ、盗聴がばれたことはある。でも取引をしてなんとか言い逃れしたの』
「へぇ、どうやって?」
『私の恥ずかしい写真をプレゼントしたの。私の高校、制服が有名だったからさ、説得するのは簡単だったよ』
「え、それ本当に?」
『大丈夫。その後すぐ児童ポルノ所持で逮捕させたから、その人』
「そんな目立つことを……。諜報員としてはまずいだろ」
『未成年だったから私の個人情報は流れなかったし、元々そういう写真のコレクターだったから私の写真1枚紛れてたところでって感じだったんだよね』
「けどね、」
『透、怖い顔やめて。笑い話のつもりでしたんだよ。笑ってよ』
スマートフォンを持つ安室の指先が白くなる。液晶の左下に映る自分の顔を見なくとも、体が震えるほどの怒りが湧き上がってきたことが分かる。自分以外の誰かが、しかも少女のいかがわしい写真を集めるような変態が、
のあの透き通るような美しい肌を見た? ふざけるな。
「笑えるわけない」
と、一段と低い声で怒りも露に言った安室を見て、
は困ったように眉を八の字にした。
『もう過ぎたことなんだから』
「殺さなきゃならない男がひとり増えた」
は笑ったが、安室は笑わなかった。本気だったからだ。
いつの間にこんなにも強く
を思うようになったのか、安室自身にもうまく説明ができない。思いあたる節はいくつもあるような気もする。捜査対象であるターゲットに好意を抱くふりをして近づいたというのに、逆にこんなにも惚れ込んでしまうだなんて、ばれたら上から大目玉を食らうこと請け合いだ。自分がまさかこんな失態を犯す日が来るとは思ってもみなかった。
に言った言葉を思い出して、安室は自嘲した。恋愛は理屈じゃない。その言葉を真に理解していなかったのは自分の方だった。
「ねぇ、そんなに私のことが好き?」
『あぁ、好きだよ』
なんのてらいもなくそう答えた安室に、逆に
の方が呆気に取られて目を丸くした。
『いまさら私にそんなこと言ったって、透になんの得もないでしょ。いくら優しくしてくれても、透にしてあげられることは私にはもうないんだよ』
「何もいらない。
が生きていてさえくれればそれでいい」
の上司は大使館に勤務する外交官だ。しかし裏の顔がある。機関員、つまりインテリジェンスオフィサー。その肩書を使って国の重要人物とのコネクションを築き上げて情報収集を行う国際スパイだ。外交特権で逮捕や荷物の検閲を回避でき、治外法権の大使館を拠点とすることにより、安易に本国と情報をやりとりをしているのだろう。その部下の立場にある
はつまり、彼の手足となって働く情報スパイだということだ。
ならば、
が組織に殺されることも、公安警察の保護下に置かれることも良しとはしないはず。そう推理した安室は、
の上司と対面したとき、ひとつ取引をした。
の死の偽装に協力し、その身の安全を保障すること。その代わりに、安室は
のスパイ容疑について一切の捜査を行わないこと。
安室の予想は的中し、その要求を彼は全て飲んだ。
この取引で、公安警察が得することは何もない。
が生きていること、ただそれだけのことを喜ぶ人以外にはなんの利もない取引だ。そんな取引を持ち掛けたことに、彼はひどく驚いていた。
『どうして、私のためにそこまでしてくれるの?』
は難解ななぞなぞを出題されて頭を抱える子どものような顔をして言う。そんなに悩むような謎ではない。ヒントも必要ない、単純なクエスチョンだ。
健全な人間ならば物心つく頃にはすでに持っている。それは両親から与えられる一番最初のギフトだ。
も幼い頃にもらったのかもしれない。けれど、もしかしたらもらわなかったのかもしれない。どちらにせよ今
は、それは特別な理由がなければ与えられないものだと思っていて、そうでなくても安室がした取引のように条件付きでなければ手に入らないものだと思っているんだろう。
けれど、それは間違っている。
それは全ての人間に平等に与えられている。ただあまりにも陳腐なものだから、それが目の前にあることすら気づかない人が多い。
がそれに気づいてくれるまで、何度でもこの言葉を口にしよう。安室はそう心に決めた。
「
を愛しているから。殺してでも守ってあげたいと思うくらいに」
『そこまでして守る価値が、私にあるの』
「あるんだよ」
の表情が歪む。泣き出すかと思ったけれど、違った。照れくさそうにくしゃりと笑った
は、今まで見た中でも一番素直でかわいらしかった。
『そうだったら、うれしいな』
今すぐ力一杯抱きしめてキスをしたい。けれど手が届かない。もどかしくて胸が苦しい。
「全て済んだら、迎えに行くよ。日本で一緒に暮らそう」
『ハロも一緒?』
「もちろん」
『毎日おいしいご飯を作ってくれる?』
「あぁ」
『素敵。楽しみにしてる』
海からいい風が吹いてきて、安室の髪が踊る。同時に、スマートフォンの中にいる
の髪も揺れた。果てのないように見えるこの海は
が立つ海岸と繋がっているのだから、きっとふたりが感じている風は同じ風だ。
『私を殺してくれてありがとう。透』
風のやってくる方向を探して、安室は水平線を見やった。姿は見えないけれど、この海の向こうに
はいるのだ。
『どういたしまして』
20190623