かわいたグロス
翌日。
ホテルをチェックアウトした安室と
は、適当に車を走らせて見つけた全国チェーンのコーヒーショップで朝食をとった。コーヒーとサンドイッチのモーニングセットで、プラス100円でヨーグルトかサラダが付いてくる。
は、泣き腫らした目を隠すためにサングラスをかけたまま、ひどくゆっくりとサンドイッチを食べた。コーヒーカップを傾けながら窓の外を見ているが、その瞳に何を映しているのか、安室には分からなかった。
「変な夢を見たの」
ふと、
が呟いた。
「どんな夢?」
「海の夢。遠浅の海で、イルカとか熱帯魚とかいろんな生き物がいて海藻が森みたいで」
「きれいな夢だね」
「そうでもなかった。ふと見たら岩場があって、そこに頭が挟まって動けなくなった死体が浮いてて、ほら、前にそんな事件の現場見たでしょ。うわーと思ったら雨が降ってきて、でもそれは雨じゃなくて海なの。もう、バケツをひっくり返したように海が降ってきて、でも傘もなくて、海水飲んじゃって苦しいし、イルカや魚も一緒に降ってくるし、ずぶ濡れになっちゃってもう大変だった。まぁ、ただの夢なんだけど」
安室はとっさにどう返していいか分からず、苦笑いした。
「いろいろあったから、疲れてるんだよ」
「そうだね」
「今日は、このまま東京に戻って大丈夫? こっちでやることはもないよね」
「うん。あ、でも……」
「何?」
「ちょっと、わがまま言ってもいい?」
「いいよ」
「海を見たいな」
「分かった」
安室は笑顔で頷いた。
願ったり叶ったりだった。
海へはそこから一時間ほどの道のりだった。
を助手席に乗せて、安室は軽快にハンドルを切る。日差しが温かく、窓を開けると涼しい風が髪を流して心地良い。サングラスをかけて窓枠に肘をかける
は、足元においた骨壷さえ無視すればバカンスにでも向かっているような風情だ。
安室はしばらく車を走らせた後、覚悟を決めて口火を切った。
「ねぇ、
。ちょっと聞いてほしい話があるんだ」
「何?」
「近頃調査してる案件なんだけど、相談に乗ってくれないかな? 俺なりに推理はしているんだけどあまり自信がなくて。客観的な意見を聞かせて欲しいんだ」
「私が聞いてもきっと分かんないよ」
「いや、
ならきっと分かると思う」
はサングラスの縁から安室を見やると、仕方がなさそうに頷いた。
安室はひとつ深呼吸をしてから話しはじめた。
「依頼内容は、ある男が、所属する組織から持ち出したデータの行方を探すことだった。そのデータがないと、組織はとても困ったことになるらしくてね、どんな手段を使ってでも探し出せってことだった。どうやら逃げた先は日本らしいというところまでは分かっていたから、俺はまず、男の家族に接触することにした。幸い、男は離婚歴のある独り身で、血のつながった家族は娘ひとりしかいなかった。妻は外国籍で、何年も前に帰国して以来一度も日本には戻っていないようだったからね。娘を助けるふりをして近づいて、男が接触してくる機会をうかがった。
ところが、男は娘の前に姿を見せるどころか、電話もメールも寄越さない。娘以外に男が接触しそうな人物がいるとは思えなかったし、日本に戻ったのなら娘に会うこと以外にどんな目的があるのか分からない。おかしいなと思った。
そこで俺は、娘についても詳しく調べてみることにした。もしかしたら、父親のやったことを知っていて、うまくかくまっているのかもしれないからね。あらゆる方法を駆使して調べたよ。おかげで、ますます分からなくなった。
結論から言えば、娘が父親をかくまっていると思えるような証拠は見つからなかった。父親と連絡を取っている形跡もなかった。父親に関する情報が皆無というところが、むしろ不自然なくらいだった。普通なら、家族の連絡先くらいアドレス帳に入れておくはずだし、スケジュールに誕生日のメモくらい入れていてもいいはずだ。けれど、その娘の暮らしぶりからは、元々父親なんかいないような、父親を思い起こさせるような要素を一切排除しているような強い意志を感じさせられた。
たったひとつ彼女が持っていたのは写真だ。母親と撮ったツーショットの写真だったけれど、父親の影がうっすらと映り込んでいたのを見つけてくれた子がいたよ。自分で気づけなかったのはちょっと悔しいけれど、まぁそれは結果オーライ。
話を戻そう。
彼女は父親と連絡はとっていないって言ったけど、ある人物にはしょっちゅう連絡をとっていた。おかしかったのは、そのほとんどが彼女からの一方通行だったっていうことだ。彼女は通訳の仕事をしていてね、その仕事を逐一報告しているようだった。
さて、彼女はいったい何者なのか?
都内でも有名なお嬢様学校と外語大学を卒業した秀才で、ビジネス通訳と観光客の通訳案内を得意としている。とても仕事熱心で、当日の朝入った急な依頼も、パーティー会場での突然の依頼も快く引き受けてくれる。しかも、通訳を担当した観光客の写真まで撮ってあげるほど親切だ。おかげで引く手あまたらしくて比較的収入も良かった。ひとり暮らしにはもったいないほど立派な、駐車場付きの高層マンションに住んでいて、ブランドものの洋服や靴が大好きな浪費家で整理整頓が苦手で……。
まぁ、それは置いておこう。おかしな点は、彼女が都内の一等地にある駐車場付きの高層マンションに住んでいるってことだ。いくら普通より稼いでいる優秀な通訳とはいえ、この収入で借りられるような部屋じゃない。車を運転するわけでもないしね。
考えられるのは、部屋を借りているのは彼女本人ではないという可能性だ。会社が部屋を借りて、社員寮としてそこを使わせるっていう事例はたくさんある。けれど、それにしては豪華すぎる部屋だし、彼女の場合は少し事情が違うと思う。
調べてみると、彼女の元に車で定期的に通ってくる人物はふたりいて、その内のひとりが本当の部屋の借主なんだということが分かった。この正体がつかめれば、自ずと彼女が何者なのかということも分かってくるはずだ。
その調査を進めるうちに、突然、彼女の父親の情報が飛び込んできた。棚から牡丹餅、寝耳に水とはまさにこのことだね。おかげで持ち出されたデータは手に入ったよ。あとは、彼女の正体を暴くだけだ。
こんなとき、
ならどうする?」
は何も言わず、窓から吹き込む風を浴びていた。朝食をとった後、
は化粧を直さなかった。かわいた唇は、海に着くまで結局何も言葉を発しなかった。
「思ってたのと違う」
と、車を降りるなり
は不満を言った。
ふたりがたどり着いた海は、海は海でも海水浴場ではなく、断崖絶壁が海岸線に沿って切り立った崖だった。遊歩道を道なりに歩いて行くと、ぱっと目の前に海が開ける。ただし、足元を見ずに歩いて行くと、うっかりすると足を踏み外して数十メートル下の海まで真っ逆さまだ。
砂浜の広がる海辺を想像していたらしい
は、眉根に皺を刻んで言った。
「これじゃサスペンスドラマじゃない」
「一応、観光名所になってるところなんだけどね」
風が強く吹き付けてきて、
はポケットに手を入れ、コートの襟に顎を埋めるようにして体をすくめた。安室はすかさず風上に立って肩を抱いてやる。波が断崖を叩く激しい波音がしてうるさいほどだ。今日はシケている。海は暗い灰色をして光っていた。
「どうして海に来たかったの?」
はなんでもないような顔をして答えた。
「なんでだろう。夢に見たからかな」
「深い意味はなく?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「どうしてって」
安室は
の肩を掴んで自分の方を向かせると、サングラスを取って自分の胸ポケットに差した。化粧っ気のない
の顔は、たまねぎの皮を剥いたところのように白く透明な色をしている。泣き腫らした目元はまだ少し腫れていたけれど顔全体に血の気がなく、今にも消え入りそうに生気がない。
安室はその頬を両手で包み込んだ。
「
、昨日言ったよね。生きる希望がなくなったって」
はコートのポケットに手を入れたまま、直立の姿勢で安室を見ている。
「そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ。まさか死ぬ気じゃないよね?」
至極真面目に言った安室を、
は鼻で笑い飛ばした。
「大袈裟だな、そんな深刻に受け取らないでよ」
「深刻にもなるよ。
の様子を見てれば」
「ないない。絶対に、ない」
「本当に?」
「あんな男のために死ぬなんてありえない!」
吐き捨てるように、
はきっぱりと言った。安室の手に頬を包まれたまま、ふたつの目だけがぎらりと光る。
安室は静かに
を抱きしめ、なだめるようにその背中を撫でてやった。
は直立不動のまま動かず、冷めた口調で呟いた。
「透、前に言ったよね。私を守るって。あの時言いたかったことはこういうこと?」
「広い意味ではね。良かった、安心したよ」
は安室の肩口に頬を押し付けながら言う。
「自分で自分を殺すなんてばかげてる。それだけはどんなことがあってもしちゃいけないって、教えてくれた人がいた」
「へぇ、それは誰?」
「ひとりぼっちになった時、助けてくれた人。いろんなことを教えてくれた。感謝してるし、尊敬してる」
「
の親代わりみたいなものか」
「そうだね」
「今でもよく会うの?」
「うん。家によく来るよ。年末年始とかは一緒に過ごすし、誕生日は毎年プレゼントを贈り合ってる」
「本当に、実の親子みたいだね」
「ある意味では、それよりずっと深い関係かもね」
「それはどういう意味?」
「子どもはいつか独り立ちするものでしょう。私達の場合はそうじゃないの。今までもこれからもずっと一緒。私が困っていたときに親身に話を聞いて助けれくれた人だから、できるかぎり恩返ししたいと思ってる。実は、結構年なんだよね。私が面倒見てあげたいの。だから本当に、死んでる場合じゃないの」
は安室の腕から抜け出ようと頭を持ち上げたけれど、安室はそれを許さなかった。厚い胸板に体を押し付けられて、
は目を白黒させた。
「それじゃ、まだ俺の役割は終わってない」
「透? 何言ってるの?」
「
。君は命を狙われている。君の父親が組織からデータを持ち出したせいで、彼の娘である君も危ない」
「……はぁ? あの人、一体何をしたの? もしかしてこんなところで死んだのもそのせいなの?」
は体を抑え込まれたまま安室に食って掛かる。その必死な様子から、父親が組織に所属していたことは本当に何ひとつ知らなかったのだと分かる。
が隠していることは、全く組織とは無関係のないことなのだ、安室は確信を強くする。
「証拠はないけれど、そのようなものだと思う。組織は裏切り者に容赦がない。家族はもちろん関係者は全て、まるではじめからそこに何もなかったように消し去ってしまう」
「……私もそうされるって言いたいわけ?」
と、その時だった。
は渾身の力で安室の腕を振りほどくと、右手に拳銃を構えて数歩後ずさった。拳銃は安室が腰の後ろに吊るしたホルスターに隠し持っていたもので、
のトレンチコートのポケットの内側には穴が開いていた。ポケットに手を入れたまま、そこからすばやく奪い取ったのだ。
「うそつき」
銃口を安室に向けながら、
は言った。
安室は平気な顔して笑いながら答えた。
「
に言われたくはないな」
「私を守るって言ったじゃない」
「あぁ、言ったよ。今でもその気持ちは変わらない」
「こんなもの隠し持って、どういうつもり」
「初めて会った時も持ってただろ」
ガンっ!
と、耳をつんざく激しい音が鳴る。
が拳銃の引き金を引いたのだ。安室の足元に小さな穴が開いていて、そこからかすかに白い煙が立ち上っている。
の足元には金色の空薬莢が転がっていた。
「今日は本物みたいね」
は痛みに耐えるような顔をして、銃を握った自分の手を恨みがましく睨んだ。
「あの時も本物だったよ」
「それならあの時に撃っていればよかった」
「訓練してないだろ。そんな腕じゃどんなに至近距離から狙われても当たる気はしないよ」
「訓練なんかしていなくて当たり前でしょ、私はごく普通の一般人なんだから」
「なら、そんなもの早く手放した方がいい」
「私の命狙ってる人にそんなこと言われたって、できるわけない」
「
、落ち着いて。俺の話を聞いて」
安室は両腕を広げて武器を持っていないことを示しながら静かに言う。
は拳銃を構えたまま、怯えた顔で安室を睨んでいる。よく見れば、銃を持つ手がかすかに震えて銃口がぶれている。
思えば、初めて出会った日もそうだった。安室が手渡した銃を震える手で握りしめながら、
は小動物のように怯えていた。自分が仕組んだこととはいえ、こんなに無力な
を巻き込んでしまったことが哀れで仕方がなかった。
けれど今、安室の胸にある思いはそれだけではなく、もっと深く熱い、小手先ではない大きなものに変化している。安室はそれを勇気に変えて一歩を踏み出した。
「
は誤解してる。謝るよ、俺のせいで不安にさせたね。本当にごめん」
「……透が何か企んでるってことには気づいてた。私のことを調べていることも、部屋に仕掛けてあった盗聴器も全部気づいてた」
「気づいてたのに黙ってたの? なぜ?」
「本気で透を好きになったからだよ」
その時、
の目から涙がこぼれた。怒りや悲しみや、安室に裏切られたショックから湧き上がる激しい感情が、その瞳に熱い炎を燃やしている。
は泣きながらまくしたてた。
「自分でもばかだと思うよ。だまされてるって頭では分かってるのに、心が止まらないの。どうしてこんなに好きなんだろうってずっと考えてた。考えても考えても分かんなかった。だから、何もかも諦めようって決めたの。これから先、どんなひどい裏切り方をされても、一緒にいる間だけは楽しもうって。パーティーに誘ったのも思い出作りだよ」
「あの夜の
は誰よりもきれいだった」
「最高の夜だったね」
「
は何を諦めたの?」
「透なら分かるでしょ、なんてったって探偵なんだから」
は父親の死亡の連絡を受ける前、失踪届を出そうとしていた。あんなに散らかっていた部屋を片付け、大好きな服や靴がつまったクローゼットをほとんど空にしていた。つまり、身辺整理をしていたのだ。あんな父親のために死ぬつもりはないと断言した言葉は本心だとしたら、残る選択肢はひとつだ。
「別れ話でも、するつもりだった?」
寂しげな顔をして肩をすくめた安室を、
は鼻で笑い飛ばした。
「もっと早くしておけばよかった。せめてここへ来る前に」
「嫌だよ。別れるなんて言わないで」
「私を殺しに来たくせに何言ってるの?」
「あぁ、そうだよ。俺は
を殺すためにここに来た。けれど、本気になったのは自分だけだと思う?」
「え?」
の集中が途切れた瞬間。
安室は一歩、二歩と距離を詰める。
は銃口を安室の額に向けたが、その指先には明らかな迷いがある。安室は少しも臆するところなく、銃口を睨みすえたまま
の目の前に片膝を付いた。初めて出会った日のように。
ヒールの折れた靴を持って途方に暮れていた
、その目の前にひざまづいて声をかけた安室。今日、
はあの日新しく買った靴を履いている。
「俺は
を愛してる。盗まれたデータを奪い返すために近づいたのは本当だけれど、ふたりで過ごすうちに本当に
のことを好きになった。
をもっと知りたいと思ったし、ずっと一緒にいたいと思った」
は唇を噛み締めて安室を睨む。
「口先だけでならどうとでも言える」
「気持ちは分かるけれど、信じて欲しい。ここで俺を撃って逃げたとしても、組織の誰かが
の命を奪いにくるよ。
が生きた記憶がこの世界からひとつ残らず消えるまで。
のお父さんが所属していた組織はそういう組織なんだ」
「だったら私にどうしろって言うの? どっちみち私は殺されるんじゃない」
「俺が
を守る。約束する」
「もう、言ってることわけ分かんないよ……!」
安室は銃を握っていない方の手を取る。
は後ずさって逃れようとしたが、安室はその手を離さなかった。肌に指が食い込むほど強く握られた手を
はなんとか振りほどこうとする。
安室は呆れたように笑った。
「手を振りほどくより、俺を撃った方が早いんじゃないか?」
「撃って欲しいの?」
「
がそうしたいなら」
安室は自ら銃口に額を押し付けてじっと
を見つめる。
の瞳。黒い眼球の縁がうっすらと青いその瞳。
今は、怯えて涙に濡れている瞳。
あぁ、どうか泣かないで欲しいと、そんな場合でもないのに安室は思う。
「
」
名前を呼んだ次の瞬間、
は肩を振るわせて膝から崩れ落ちた。安室は握った手を引いて
を抱きとめる。
は銃を握ったまま安室にしがみついて、嗚咽を漏らして泣いた。
「……撃てるわけない」
安室は
をかき抱き、
の耳元に唇を押し付けて懇願する。
「俺と生きてよ、
」
「そんなことできないって」
は泣きじゃくりながら言う。
「できるよ。時間はかかるかもしれないけれど」
「あんまり夢見させるようなこと言わないでよ」
「信じて」
安室の胸で、
はひとしきり泣いた。その声は波音に紛れ、風にさらわれ、高い空に吸われていった。この広い海辺の景色全てが
を抱きしめてくれているようだった。安室の腕など、この大自然と比べればまるでおもちゃだ。どんなに非力でも、
を守るためにできることはなんでもしよう。子どものように泣きじゃくる湯を胸に抱きながら、安室は目の前広がる海に誓った。
ふたりの影の形が変わるほどそうしていただろうか。
「……分かった」
と、
は唐突に呟いて、膝に着いた土を叩き落としながら立ち上がる。泣き腫らした顔で、それでも真っ直ぐに背筋を伸ばして安室と向き合う。
「私も透を愛してる。透を信じるよ」
そして、
は安室の目を見つめたまま、拳銃の弾倉を抜いた。スライドを滑らせて装填されていた弾を落とし、さらにばらばらに分解して投げ捨てる。それを、手元を見もせずに流れるような仕草でやってのけた。明らかに、素人の手つきではなかった。
泣き腫らして血走った目、乾燥した唇、海風に乱されてぼさぼさになった髪。お世辞にも美しいとは言えなかったが、まっすぐに背筋を伸ばして胸を張る
は誇り高かった。瞳は熱い炎を宿したように鋭く青く光っている。誰よりも気高く、そして美しい女神のようだった。
「それで、私はどうしたらいいの?」
安室はその質問を待っていたとばかりに、にんまりと笑った。
20190617