ナイフの男
ホテルの部屋に入るなり、
は糸が切れた操り人形のようにベッドに倒れ込んでしまった。
安室はあえて声はかけず、先にシャワーを浴びて汚れたズボンを洗う。完璧にきれいにはならなかったが、ドブの臭いはなんとか取れた。備え付けのドライヤーである程度乾かしてからハンガーにかけ、念のためにスプレータイプの消臭剤を吹きかけておく。
バスルームから戻っても、
は全く同じ姿勢のまま身動きひとつしていなかった。
「
、もう寝たの?」
返事はなかったが、おそらく狸寝入りだろう。
「コートくらい脱ぎなよ」
安室は
のトレンチコートを剥ぎ取って、クローゼットにしまってやる。ベッドの下に靴が脱ぎ捨ててあったので、それもそろえ直してやる。
「シャワーくらい浴びたら?」
「……明日の朝にする」
「そう。それじゃ、せめて着替えなよ」
「疲れてるから」
「じゃぁ、手伝ってあげようか?」
安室は
の腰にそっと触れると、手を滑らせてカットソーの下に指を忍び込ませる。裾に控えめなレースがあしらわれていて、めくり上げると白い肌が透けて見えた。
は身じろぎをして抵抗した。
「やめて。そんな気分になれない」
けれど、安室は手を止めなかった。しっとりと湿った素肌を指先に感じながら、安室は
の腰を抱く。そのまま寄り添うように横になって、
のうなじに鼻先を押し付けた。
「分かった。何もしないよ」
「ありがとう」
「いいよ、たまにはこういうのも」
「他にも、いろいろ、本当にありがとう」
「ん?」
「こんなところまで、付き合ってくれて、面倒見てくれて……。私ひとりじゃ絶対にできなかったと思う」
「俺は車出したくらいで」
「そんなことないよ。全然、そんなことない」
安室の腕の中で、
の体がぐるりと回転する。カットソーがめくれあがって、
の色の白い肌が安室の筋肉質な腹に重なった。
の体は驚くほど冷たく、安室は背筋がぞくぞくと粟立つのを感じる。まるで死人を抱いているようだった。泣き腫らした
の顔を見るとますます胸苦しくなって、安室は唇を噛んだ。なんとか
の体を温めて慰めてやりたくて、安室は
の腰をぐっと引き寄せた。
「本当に、ありがとうね」
「もういいんだよ、気にしなくて」
「何回言っても足りないよ。どうやって恩返ししたらいいか分からない」
「恩なんて感じなくていい。俺がしたくてしてることなんだから」
ふいに、
の目に涙の粒が浮いた。それはみるみる大きくなって、目尻からぽろぽろと零れ落ちる。まるで生まれたての真珠が転がるような光景に、安室は思わず見入った。
からのキスを受ける。
安室は少しだけ戸惑ったけれど、すぐに自制心を失って
をかき抱いた。
「ごめん、やっぱりがまんできない」
切羽詰まって懇願した安室を、
は泣きながら受け入れてくれた。
いつもより少し激しいセックスをしただけで、
はぐっすりと寝入ってしまった。念のため用意しておいた睡眠薬を使う必要がなくなって、安室は少しほっとする。ただの睡眠薬とはいえ、こっそり薬を盛るのはあまり気分のいいことではない。
安室はそっとベッドを抜け出して生乾きの服を着直すと、部屋の扉の隙間から差し込まれていたカードキーを拾い上げて、音を立てないようにそっと外に出た。一度駐車場に降りて骨壷とリュックをその部屋に運び込むまで、誰ともすれ違わなかったのは幸運だった。
部屋はエコノミーシングルで、標準の部屋よりひと回りもベッドが小さいが、事前に指示しておいたものは抜かりなくそろえてあった。古新聞、マスク、大小さまざまなピンセット、工具箱、ゴム手袋。
安室は早速、作業に取り掛かった。
大きさ6寸の白い円筒型の骨壷だった。新聞紙を敷いたテーブルの上で蓋を開け、慎重に中身を取り出していく。ピンセットでつまみあげ、灯りの下でよく確認し、軽く叩いて骨のひとつひとつをよく確認する。何度かそれを繰り返して行くと、目当てのものは意外とすぐに見つかった。他のものより整った形をしていて、ほんの少し光沢がある。叩いてみると明らかに音が違う。小型のハンマーで慎重に叩いてみると、ひびが入って骨が割れた。中から出てきたのは、超小型の記録媒体だ。
すぐさまパソコンにつないでデータを確認する。火葬場で1000度を超える炎に焼かれたにも関わらず、データは無事だった。他に同じような骨がないかどうかくまなく確認してから、安室は骨壷を元の状態に戻した。
次に、薄汚れたリュックに取り掛かる。中に入っていたものを全て取り出し、リュックの内ポケットや、裏地の内側まで確認したが、ここからは記録媒体は見つからなかった。
なんだかあまりにもあっけないような気がして、安室はテーブルに広げた荷物を見下ろしながら手を組む。
の父親が組織から持ち出したデータは本当にこれで全てだろうか。
彼は組織の優秀なプログラマーだった。詳しいことは安室は把握していなかったが、何らかのシステム開発の一部を担っていたらしい。ところが、ある日突然、開発中のデータと共に研究所から姿を消した。そのおかげで件のシステム開発は頓挫している。
安室の任務は、持ち去られたデータを回収し、彼に関わった人物を始末することだ。この任務を完遂すれば、組織の幹部からの信頼を得て、組織のさらに奥深く食い込むための足掛かりになる。決して失敗はできない。
パソコンで読み取ったデータは、聞いていたよりもずいぶん容量が少ない気がする。
ふと思いいたって、安室は水に濡れたノートを引っ張り出した。タオルでくるんでおいたがまだ乾いてはおらず、本体は大きく波打ってますます大きく膨らんでいる。幸い、油性ペンを使っていたらしく文字は判読できた。もしかするとここにデータのありかを示す暗号でも隠されているのかもしれない。安室は慎重にページをめくりはじめた。
読み進めるのはなかなか困難だった。ノートにびっしりと書き綴られていたのは、
やその母に対する謝罪と愛の言葉ばかりだった。
ふたりを捨てて組織に加入してしまったこと、組織の闇に巻き込まないために失踪したのだという言い訳、寂しい思いをさせて心底申し訳ないと思っていること、ふたりのことが愛おしくて恋しくて仕方がないこと、毎年の誕生日や記念日には愛の言葉がほとばしっていた。
数年にわたって書き綴られたそれは、組織の目をかいくぐって父親から家族に贈られた遺書だった。
新聞紙の上にノートを広げ、安室はため息を吐いた。家族を組織から遠ざけようと失踪までした男が、家族のために残したノートに組織の機密情報を隠すかどうか疑わしかったが、念のため気になったキーワードをいくつか部下にメールで知らせておく。
はこのノートをいらないと言った。安室が持っていろとも。ならばこのノートごと組織に送って詳しい解析は任せてしまうこともできる。けれど、それはある意味で
に対する裏切りだ。
ふと、安室は閉じ切らないノートの表紙をよく見て、気が付いた。丸背の上製本は、背と本体の間にわずかに隙間があって、何かが挟まっている。表紙と背表紙を合わせるように開いてみると、そこに記録媒体が張り付けてあった。本体に紙を切り貼りしたのはカモフラージュで、記録媒体を隠すためのしかけだったのだ。
安室は記録媒体を丁寧に本から外すと、ほっとため息を吐いた。一度水没しているからこの場でデータを確認するのは憚られるが、部下に依頼すればデータの復元はわけもないだろう。
それにしても、こんなところに組織の重要機密を隠すとは。
「……案外、
は正しいのかもしれないな」
と、スマートフォンが震えて見てみると、警視庁公安部の風見だった。
「どうした?」
『あ、降谷さん。至急お伝えしたいことが』
「なんだ?」
風見の報告を聞いて、安室はしばらく言葉が出なかった。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのか。チャンスは山ほどあったはずだ。思い返してみればあれもこれも、このたったひとつの真実で説明のつくことだった。
安室は頭を抱えてうなだれた。恋は盲目。言葉だけは理解していたが、こんなに何もかもが見えなくなるものだとは思いもしなかった。
『降谷さん? 聞いてますか?』
「あぁ、大丈夫だ」
『降谷さん、もしかしてこの人物と接触を?』
「どうしてそう思う?」
『だって、こんなことを調べさせるんですから……。降谷さんが接触している相手がもし本当にこの件と関係があるのなら私も……』
「心配ない。報告ご苦労だったな」
『あ、降谷さん……!』
安室はスマートフォンをベッドに放り投げると、両手で顔を覆って深く俯いた。
やるべきことはやった。謎は解けた。だから、きっと今夜が最後の夜だ。戻って
の隣で眠りたいと思う。けれど、なんとなくそうするのはためらわれた。
しばらく考えて、安室は拳銃の手入れをすることにした。幸い道具はそろっている。何百回、何千回と繰り返してきた毎日の習慣は、安室を原点に立ち返らせてくれた。次にこの銃を使うときのことを考える。人を傷つけるためではなく、大切なものを守るために使いたいと思う。
仲間の情報が詰まったスマートフォンごと自分の心臓を撃った男、多くの人を守るために自ら爆弾に身を投じた男、捜査中の事故であっけなく死んだ男。あまりにも若くして命を散らしてしまった友のことを想う。
今の自分を見たら、あいつらならなんと言うだろう。
それを想像して、安室は苦笑した。
生乾きの服とノートが、やっぱりまだ少し臭った。
20190610