鍵
【Isn't it too much fun?】
昨夜届いたベルモットからのメールに、安室は頭を抱えていた。
この任務には少し時間をかけすぎている。催促のメールだけで留まっているならいいが、あの女のことだからいつ目の前に現れて茶々を入れてくるか分からない。文字通り他人の顔をして現れたら、その正体を見破れる自信は安室にもない。
考えても仕方がないので、ドライブでもして気を紛らわせようと車のキーを手に取った時だった。安室のスマートフォンが震えた。見ると、
からの着信だ。
「もしもし?」
『あ、透?』
その声に違和感を感じて、安室はドアノブを握りしめたまま立ち止まる。名前を呼ぶ声がかすかに震えたような気がした。雑音が混じっていて、外からかけていることが分かる。
『急にごめん。今、話しても大丈夫?』
「あぁ。どうしたの? 何かあった?」
『……本当は、知らせるかどうか迷ったんだけど、透以外に相談できる人いなくて……、ちょっと混乱してるの、助けて』
「
、落ち着いて。最初から話してごらん」
電話の向こうで息を飲む気配がする。
安室は何ひとつ聞き漏らさないよう意識を集中した。
『今朝、警察から連絡があったの。私の父が死んだから遺品を引き取りに来てほしいって……』
「え?」
『実は父はずっと行方不明で、捜索願を出してたの。それがこんな風に見つかるなんてもうびっくりで……』
「ちょっと待って、
。今どこにいるの?」
『東京駅。とりあえず、行ってからどうするか考えようと思ったんだけど』
「分かった。すぐに行くから、そこを動かないで」
『え? でも透、仕事は?』
「俺のことは心配しないで。15分で着くよ」
電話を切ると、安室は一度部屋の中に取って返し、必要なものだけ掴みとって足早に家を出た。
赤煉瓦造りの東都の中央駅、その東口で
は待っていた。
ブルーデニムに黒のパンプス、黒いカットソーにトレンチコート。髪は櫛を通しただけだ。荷物は少し大きめのトートバッグで、ポケットにサングラスを引っかけていた。
助手席に乗り込んできた
は珍しく薄化粧で、安室に向かって微笑もうとしたようだが不安を隠しきれていなかった。
「お待たせ」
と言った安室に、
は小刻みに頷いた。
「来てくれて、ありがとう。ごめんね、こんなことで呼び出して」
「こんなことなんて言わなくていいよ。チケットの払い戻しは終わってる? すぐに出発していい?」
「え、どうしてチケット取ってるって知ってるの?」
安室はナビの入力画面を開きながら答えた。
「東口にいたってことは、新幹線に乗ろうとしてたってことだろ。警視庁なら地下鉄のはずだ。新幹線を使うんなら、お父さんが見つかったのは地方ってことだ」
「その通りだけど、なんで払い戻す必要があるわけ?」
「俺の車で行くからだよ」
「車じゃ半日以上かかるよ、それに、私、ちょっと話を聞いてもらおうと思っただけで、一緒に行ってほしいだなんて頼んでない」
「ひとりで行かせられないよ。自分が今どんな顔してるか分かってる?」
はあっという間に言い返せなくなり、ぐっと唇を噛んで黙り込む。
安室は
の手を包むように握ってやった。
「チケットを出して。払い戻してくるから。それから、何か体が温まるものを買ってくるよ、どうせ朝食べてないんだろ?」
は目元を覆うと、背もたれにもたれかかってて深いため息を吐いた。どうやら、観念したらしい。
「……探偵って、これだから、もう……」
行先を聞いてから、安室はガソリンを満タンにして高速道路をひた走った。人目をはばかることのない車内、長い道のりだったので、時間だけはたくさんあった。
はまだ冷静さを完全に取り戻したわけではなさそうだったけれど、ゆっくりと、長い話を聞かせてくれた。
「両親は、私が高校生の頃に離婚してるの。原因は父親の浮気だって聞いてる。母は父に裏切られたことが相当ショックだったみたいで、その時抱えてた仕事をほったからして国へ帰ってしまって、私と父で日本に残ったのね。けど、しばらくしてから父も家に帰ってこなくなっちゃって、それで学校とも相談して捜索願を出すことにしたの。でも、大人の行方不明って事件性がない限りきちんと捜査してもらえないから、何も情報がないままずるずる10年も経っちゃった」
「その時、まだ高校生だったんでしょ? ひとりでどうやって生活してたの?」
「母の仕事関係の人が助けれくれたの。まぁ、なぜかお金の蓄えだけはあったし、学生寮に入れたから身の回りのことには大して困らなかったんだけど、いっぺんに両親を亡くしたようなものだったから、精神的にすごくまいった。あの時世話してくれた人や、支えてくれた友達には今でも感謝してる」
「お父さんは、どこで見つかったって?」
「詳しくは聞いてないんだけど、公園でホームレスが死んでて、警察が調べたら荷物から期限切れの免許証が出てきたんだって。それを警察のデータベースで照合して、私のところに連絡がきたみたい。死因は何かの発作だろうって」
「病気だったの?」
「さぁ。もう10年以上も音信不通だったから分からない。実は、そろそろ失踪届を出そうって考えてて、準備していたところだったんだよね」
「失踪届?」
「7年以上生死が不明になっていれば、家庭裁判所から失踪宣告を受けて失踪届が出せるのね。つまり、父が亡くなったと法的に認めてもらうためのものなんだけど、もう10年も経つし、気持ちを整理するためにもこのあたりできちんとしておきたいなと思って、弁護士に相談してたんだ。もう、父と生きて会うのは叶わないと思って、諦めてたの。でも、諦めたとたんにこんな連絡が来て、本当に驚いてる」
「どうして?」
「どうしてって?」
「どうして、俺に相談してくれなかったの? こう見えて探偵の端くれなんだよ」
はたった今それを思い出したとでも言うように、乾いた声で笑った。
「それは、気づかなかったな」
サービスエリアで休憩を取りながら車を走らせ、目的地にたどり着いた頃にはすっかり日は傾いていた。
警察署で
が対面した父親は、白い骨だけになって小さな骨壺に納まっていた。骨壺は大きさのわりにずっしりと重く、安室は手助けようとしたけれど、
にきっぱりと断られた。遺品は薄汚れたリュックサックひとつで、中にはぼろぼろの小銭入れ、古いアドレス帳、期限切れの免許証、使い古して膨らんだノート、くたくたのぼうしと手袋が入っていた。現金は雀の涙ほどしかなく、電子機器はなかった。
は署員に言われるまま書類を整え、印鑑を押し、言われたことをうんうんと頷いて聞いていた。ものわかりのいい優等生のような顔をしていたけれど、目には力がなく、署員が元気づけるようなことを言っていても無表情に頷いただけだった。
車に戻り助手席に座った
は、骨壺と遺品のリュックを両足の間に挟んで置いた。
安室はエンジンをかけずに、膝の上に手を置いて言う。
「今日はこっちで泊るところを探そうか。いい?」
は腕組みをしてじっと黙り込んでいる。
安室はしばらく待ったが、
は答えなかった。
仕方なく、安室はエンジンをかけて静かにアクセルを踏んだ。適当に車を転がして、
が何か言うのを待つつもりだった。日はすっかり暮れている。東京から遠く離れた田舎道は車通りが少なく、RX-7のヘッドライトが2本、流星のように走っているだけだった。
車内は暗かったが、目が慣れれば困るほどではない。ハンドルをさばきながら、安室は注意深く
を見守った。シートに体を深く沈め、トートバッグを胸に抱いてじっと暗い窓の外を睨んでいる。ガラスに映る表情は険しい。今にも泣き出すか、怒り出すか、そのどちらかに見える。信号で一時停止したとき、安室は
の足元をのぞき見た。
はブーツのつま先で骨壺を納めた霧箱を足蹴にしていた。
と、
は不意にトートバックを後部座席に移すと、膝の上に遺品のリュックを持ち上げた。手や服が汚れるのも構わずにファスナー開ける。何かを探すようにリュックの中をかき回した後、取り出したのは1冊のノートだった。ハードカバーの上製本で、表紙にはあちこちしみが付いて汚れている。端も擦り切れてボロボロだ。ページに何かを切り貼りしているらしく、膨らんできちんと閉じられなくなっていた。
は片手にスマートフォンを持ってライトを付けると、ノートの最初から目を通しはじめた。
「酔うよ」
「平気」
安室はできるだけ車を揺らさないよう、慎重にハンドルを握った。
ノートを半分ほど読み進めたころ、ふいに
が呟いた。
「ねぇ、ふたりで海に行った日のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ」
安室は答える。
エンジン音に乗せて、
の声が低く響く。
「あの時、私聞いたよね、殺したいと思うほど人を憎んだことがあるかって」
「そんな話したね」
「私にとって、それは父のことだったの」
「それは、どうして?」
「私の人生、こんな風になったのは父のせいだと思ってるから。不倫して、母を傷つけてぼろぼろにして、なんて悪い男だろうって軽蔑した。あまつさえ娘の私まで捨てて姿消して、無責任にもほどがある。お金だけは残してくれたけど、そんなものは自分でどうとでもできたからどうでもよかった。いつか父を見つけたら、全力で殴って、ナイフで突き刺して、殺してやろうってずっと思ってた。何度も想像した。夢に見るくらい」
淡々と語りながら、
の目はじっとノートの文字を追っている。
「母を不幸にした父を許せなかったし、たった16歳だった私を捨てた父が許せなかった。ずっと憎んでた。今思えば、そのエネルギーがあったから今まで生きてこられたんだと思う。いつか父を殺してやるって怒りを燃やして、たとえそんな物騒な気持ちだったとしてもそれは私の生きる希望だった。でも、もうそれもなくなっちゃった」
と、その時だ。
は助手席側のウィンドウを開け、そこからノートを投げ捨てたのだ。
安室はとっさに急ブレーキを踏む。車は女の悲鳴のような甲高い声を上げて停車した。
「ちょっと、急に何!?」
悲鳴を上げて怒鳴った
を無視して、安室は素早く車を降りる。車を回り込んで見ると、目の前には夜の田んぼが広がっていた。ガードレールの向こうが土手になっていて、そのすぐ下を農業用水が流れているのが音で分かる。安室はペンライトを取り出すと、ガードレールをまたいで土手を降りた。
「透? 何してるの?」
も車を降りてくる。安室はノートが落ちたあたりに目星をつけて雑草をかき分けた。
「そんなもの探さなくていいよ、いらないの! ねぇ、透、聞いてる!?」
「あぁ、聞いてるよ!」
「汚れるよ。もう、いいから。戻ってよ」
「すぐに見つけるから大丈夫。待ってて」
「だから、いらないんだってば! 私は今それを捨てたいの! 放っておいて!」
「だめだ!」
安室の大声に、
は押し黙った。
用水路の中に落ちて水草に引っかかったノートが、ペンライトの明かりの中に飛び込んできた。そちらへ足を踏み出した途端、足が滑って用水路に落ちてしまう。生い茂る雑草と闇のせいで境目が分からなかった。もう仕方がないので、安室はざぶざぶと用水路をたどってやっとノートを回収した。
ペンライトを口に咥えて、ノートを広げてみる。水を吸ってぐっしょりと濡れていたのでめくりにくかったが、なんとか文字は読み取れた。
それを見た安室は拍子抜けして、思わずその場に座り込みそうになった。
こんなもののために、どうして
はあんなにも苦しまなければならなかったんだろう。人によっては、何の苦労もなく手に入れられはずのもの。恵まれている人なら、それをすでに持っていると気づかないまま一生を過ごすこともありえるもの。どこにでもあるはずなのに、本当にそれを必要としている人ほど手に入れるのは難しい。けれど本当は、誰のそばにも必ず、全ての人に平等に与えられているはずのもの。こんなものの、ために。
「透? 大丈夫?」
ガードレールの向こうから身を乗り出して
が安室を呼んだ。その背後に、丸い月が浮かんでいた。明るくまぶしい月だった。逆光で
の表情までは見えなかったけれど、その声の調子から心底心配してくれているのが分かる。
「あぁ、大丈夫だよ」
安室が土手を上っていくと、
はガードレール越しに手を差し出してくれる。その手を借りて車道に戻った安室は、ペンライトをしまってから濡れたノートを差し出した。
「こんなことしちゃだめだよ」
は困った顔をして、ノートを受け取らない。腕組みをして、じっと安室の手を睨んでいる。
「こんなもの、本当にいらないの」
「お父さんはきっと、
に持っていて欲しいと思ってると思うよ」
「だったらなおさら、あの人の望みを叶えてあげるようなことしたくない」
「頑固だな」
「そんなに言うなら、透が持ってて」
「分かった。必要になったら言って」
「だから、いらないってば」
車に戻り、今夜の宿を探すことにする。こういう田舎ならば、高速道路のインターチェンジの近くに広い駐車場を抱えたビジネスホテルがあるはずだ。ナビで検索すると、そう遠くない場所に全国チェーンのホテルが一軒見つかった。念のため、部屋が空いているかどうか電話で確認してから向かうことにする。
車を発進させてしばらくして、安室は気が付いた。
が片手で顔を隠して、肩を震わせていた。寒さに震えているようにも、泣いているようにも見える。
「
? 大丈夫?」
安室は勤めて優しく声をかけたが、次の瞬間目を丸くした。我慢の限界を突破したらしい
が、声を上げて笑い出したのだ。
「どうしたの?」
しどろもどろに問いかけた安室を見て、
はますます激しく笑った。
「だって、透ってばドブ臭いんだもん」
安室の両足の膝から下は、用水路にはまったおかげでずぶ濡れだった。泥と水草となんだかよく分からないものが混ざった水だったらしく、確かに少し臭う。
「仕方ないだろ、元はと言えば
のせいじゃないか」
安室は苦笑いしながら言い返す。
けれど、
は腹を抱えて笑っている。なんとか落ち着こうとしているようだが、止まらないらしい。
「だから拾わなくていいって言ったのに」
「そんなわけにいかない。
、笑いすぎだよ」
「だって、いつもいい匂いさせてる透が、まさかこんなさ」
「ホテルに着いたら洗うからそれまで我慢して」
「ねぇ、せめて窓開けてよ」
「ダメだよ。そう言ってまた何か捨てる気だろ」
「そうだよ、例えばこの骨壷とかね」
「それは違法」
「ねぇ、捨てないから開けて。臭くて鼻が曲がりそう」
「だめ。こんなことした罰だよ」
は笑いすぎてこぼれた涙をハンカチで拭う。しまいにはほとんど呼吸困難のようになって、ぜえぜえと息を切らせてハンカチで顔を覆って俯いてしまった。
たぶん、笑っているふりをして泣いているんだろう。安室はそれに気づいていないふりをした。
「お腹空いたね。このあたりの名物って何なんだろう。まぁ、今日はもう遅いから、明日探してみようか。ホテルのレストランももう閉まってるかな、今日はコンビニで我慢しようか。いい?」
はハンカチに顔を埋めたまま小さく頷いた。
20190610