さくらポケット
目当ての店がすぐに見つかるか不安だったけれど、取り越し苦労に終わった。駅から歩くこと数分、ガラス一枚に一文字ずつ記されたその目印を探すのは簡単だった。毛利探偵事務所の1階、「coffeeポアロ」。安室が働いている喫茶店だ。
は店名を確かめてからドアノブに手をかけたが、それをひねるよりも先に向こうからドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
と、営業用の笑顔を見せたのは安室だ。
「びっくりした。来るのが見えてたの?」
「窓越しにね。どうぞ」
夜が目の前に迫っている夕方、客足はまばらだ。テーブル席は年の離れた姉弟が少し早めの夕食を取っていて、ナポリタンとイカスミパスタ、セットのサラダとドリンクがテーブルに並んでいる。奥のテーブルではケーキを囲みながら若いカップルが会話に花を咲かせていて、カウンターに座っている初老の男はウェイトレスに自慢話を聞かせながらコーヒーを啜っていた。
「ご注文は何にしますか?」
安室が言った。
「じゃぁ、ラテ」
「かしこまりました。好きな席で待ってて」
はテーブル席のソファを選んだ。店は空いていたし、ここなら店全体が見渡せる。カウンターに座って間近から安室がコーヒーを淹れるところを見るのもいいけれど、この素朴な喫茶店で立ち働く安室の姿を、店全体の雰囲気を感じながら見つめてみたかった。
ふと視線を感じて横を見ると、テーブルひとつ空けて隣に座っている客が
を見ていた。高校生くらいの女の子と、つま先が床に届かないほど小さい子どもだ。
「もしかして、安室さんのお友達ですか?」
と、女子高生が言う。
は居住まいを正して答えた。
「えぇ、あなたは?」
「私、毛利蘭と言います。ここの2階で探偵事務所をやっている毛利小五郎の娘です」
「あぁ、彼が弟子入りしてるっていう名探偵の」
「はい、そうです」
「いつも彼がお世話になってます。私、
といいます」
「こちらこそ、安室さんにはいつもお世話になってます」
「そちらは弟さん?」
は蘭の向かいに座ってる少年を見やって首を傾げた。この少年はさっきからしげしげと
を見つめていて、猫が何もない中空をじっと見つめたまま動かないでいるような、そんな姿を想像させた。
蘭は少年の口元についたケチャップをナフキンで拭ってやりながら笑った。
「違うんです。この子は知り合いの子で、今うちで預かってるんす。コナンくん、ご挨拶は?」
少年はフォークを置くと、天使のような顔をして笑った。
「こんにちは、お姉さん。僕は江戸川コナンだよ!」
「よろしくね、コナンくん」
「あれれ? お姉さん、かばんから何か落としたよ?」
コナンは椅子から飛び降りると、
の座るテーブルの下に頭をつっこむ。次の瞬間、コナンは嬉しそうな声を上げて飛び上がった。
「わぁ! これ警察手帳だよね?」
コナンはそれを得意げに掲げて言った。確かにそれは
のもので、席に着いた拍子に鞄の外ポケットから落ちてしまったらしかった。
「え、
さん、警察の方なんですか?」
蘭が意外そうに言い、
は慌てて否定した。
「いいえ。私はただの派遣社員で……」
「だって、黒い革の手帳で、金色のバッジがついてるよ。僕、警部さん達の手帳を見たことあるからよく知ってるもん!」
「それはただのパスケース。まぎらわしいデザインでごめんね」
「えー、違うの? なんだ、つまんないのー」
いかにもがっかりした、と言わんばかりに唇を尖らせるコナンを、蘭が慌ててたしなめた。
「もう、コナンくんってば、そんなこと言っちゃ失礼よ。すいません、変なこと言って」
「いいえ。子どもらしくてかわいいですね」
「
さんは、こちらにはよく来るんですか?」
「いえ、今日が初めて。透が働いてるところ、ずっと見てみたかったんだ」
「それじゃ、今夜はデートなんですね。仕事帰りにデートなんて素敵」
「そうかな、大人になれば普通のことだけど」
「ねぇねぇ、お姉さん。この写真の人誰?」
いつの間にか、蘭と
の間にコナンが座っていた。膝から下をぶらぶらと揺らしながら、パスケースを開いて中を
に見せつけてくる。
蘭は顔を赤くしてコナンをたしなめた。
「こら! コナンくんってばもうー! 人のものを勝手に見ちゃダメでしょ!」
「いいんですよ、見られて困るものでもないですし」
のパスケースは二つ折りで、黒の本革で盾と剣をあしらったエンブレムが付いている。中を開くと、交通ICカードと写真が入っていた。写真は年季が入っていて全体がくたびれている。写っているのは、若々しい母親とようやく歩き始めたばかりの子どもだ。
「これはね、子どもの頃の私と、私のお母さんよ」
はそれぞれ指を差しながら教えてやった。
「どうしてパスケースに入れてるの?」
「私のお守りなの。母は外国で暮らしていてめったに会えないからね。こうして写真を持ち歩いていると、いつも一緒にいるみたいでしょ」
「そうなんだ! それじゃお姉さん、僕と一緒だね!」
「いっしょ?」
「うん。僕のお母さんとお父さんも、外国に行ってるんだ」
「へぇ、そう。コナンくんは、お母さんと離れて暮らしてて寂しくない?」
「うん! だって蘭姉ちゃんが一緒だもん!」
「そうか、それなら良かったね」
「でも、お姉さんにはこの写真しかないんだよね。日本にひとりで寂しいんじゃない? お母さんやお父さんに会いたくならない?」
コナンは小首を傾げながら、澄んだ眼差しで
を見つめてくる。何も知らない子ども特有のあどけなさに、
は笑顔を浮かべながらもほんの少し胸が痛んで言葉に詰まった。
「大丈夫だよ、俺がいるんだから」
と、いつの間にか、安室が
の真正面に立っていた。深く香ばしい匂いの湯気を上げるコーヒーカップ、砂糖とミルクをテーブルに置き、腰に手を当ててコナンを睨む。
「
を寂しくなんかさせないよ」
「そうよ、コナンくん。そんな言い方は安室さんに失礼よ」
蘭がすかさず助け舟を出して、それでコナンは納得したようだった。
「ごめんなさーい。ぼくちょっとトイレ行ってくるー!」
コナンは
に笑いかけると、ぺこりと頭を下げて店の奥へ駆けて行った。
安室はそれを見送ってため息を吐いた。
「全く、困った子だ。じゃ、
。ゆっくりしてて。あと30分で上がりだから」
「うん。待ってる」
安室がカウンターの奥へ戻っていくと、蘭がこっそり耳打ちしてきた。
「あの、
さん。ちょっと聞いてもいいですか?」
「なに?」
「安室さんとはどんなきっかけで……?」
「え、興味あるの?」
「そりゃありますよ! なんですか今の!? ラブラブじゃないですか!?」
「私もそれ聞きたいです!」
逆方向から突然声をかけられて、
は危うくコーヒーをこぼしそうになる。振り向けば、銀色のトレーを胸に抱えたウェイトレスが、神妙な眼差しで
の隣に座っていた。さっきまでカウンターで話し込んでいた客は帰ったらしい。
「安室さんってば店の常連のJKに大人気で、私なんか一緒に働いてるだけなのに言い寄ってるって誤解されて、ネットで大炎上したりしてるんです! 本物の彼女がいるって知られたらどんなことになるか分かりませんよ!」
「本物って」
「で、
さん! 告白したのはどっちなんですか!?」
「それは、透からだけど……」
ふたりは両手で頬を押さえて黄色い悲鳴を上げ、
の両耳をきんきんさせた。
安室は洗った食器を清潔な布巾で磨き上げながら、見て見ぬふりをした。他に唯一いる客は若いカップルですっかりふたりの世界に浸りきっているし、梓が少し仕事の手を休めても支障はない。これくらいのことでマスターは怒らないだろう。
と、「ねぇねぇ、安室の兄ちゃん!」と姿の見えない声がする。注意深くカウンターを見張っていると、モグラ叩きのモグラのようにひょこっとコナンが顔を見せた。どうやら椅子によじ登って来たらしい。
「僕、クリームソーダが食べたいなー!」
と、何も分からない子どものふりをして笑う顔が憎たらしくて、安室はその額を指ではじいてやった。
「だめだよ。ナポリタンを食べ終わってないじゃないか」
「えぇー、けちんぼー」
「そんなわがまま言うと、蘭姉ちゃんに怒られるぞ」
「僕がわがままなら、あのお姉さんは嘘つきだね」
コナンはテーブルに頬杖をつくと、嫌味な顔をして目を細めた。
安室は手を止めてコナンを睨む。
「どういう意味だい?」
「だって、安室の兄ちゃん、前に言ってたじゃない。僕の恋人はこの国だって。だったらあのお姉さんとデートするのはおかしいでしょ」
「デートしたくても国とはできないからね」
「それじゃ浮気だ」
「大人の事情に首を突っ込むもんじゃないよ」
「ねぇ、僕なりにあのお姉さんのこと推理してみたんだ。聞いてくれる?」
声のトーンを落としたコナンを、安室は注意深く見やった。見た目は小学1年生の子どもだが、この年で信じられない量の知識と、並外れた洞察力と観察力で数々の難事件を解決してきた探偵た。
安室がカウンターに両手をついてコナンを見下ろすと、コナンは毅然として話し出した。
「
さん、28歳。仕事はきっと、通訳。鞄の中に電子辞書と通訳案内士の資格案内本が入ってたからね。今は派遣会社に所属して経験を積んで、ゆくゆくは独立しようとしてるのかも。日本語と英語のバイリンガルで、たぶんもう一ヵ国語練習してる」
「どうしてそう思うの?」
「鞄の中を見たからだよ、ファスナーが開きっぱなしになってたから。お姉さんってば不用心だよね。それにさっきコーヒーを注文するときラテって言ったでしょ? 海外では、カフェオレを注文するときにこう言うけど、日本語が母国語の日本人だったらこうは言わないよ」
「彼女が外国語が得意なのは分かった。けど、他人の鞄の中をのぞくのは良くないよ」
「でも、どうせ安室さんも見てるでしょ?」
「僕は
の恋人だからいいんだよ」
「ならもちろん、お姉さんの家族のことも知ってるんだよね、あのパスケースの写真、安室さんも見た?」
安室はこっそり
を盗み見る。蘭と梓ふたりにはさまれて質問攻めに合っていて、話はまだまだ尽きなさそうだ。
「見せてもらったことはあるよ」
「家族の写真を持ち歩いてるなんて、珍しいよね」
「彼女の母親は外国の出身だから、
がそういう習慣を持っててもおかしくないだろ」
「それじゃお父さんが日本人なんだね、写真じゃそこまでは分からなかったけど」
「パスケースの写真には写ってないだろ」
「写ってたよ、お姉さんとそのお母さんの後ろのガラス窓に。ふたりを写真に収めようとする、黒ずくめの服装のお父さんの姿がね」
安室は驚いてぱちくりと瞬きをした。動揺を悟られたくなくて、安室はくるりと後ろを向いた。
コナンは続ける。
「本当に家族を大事に思っているなら、3人一緒に写っている写真を持ち歩くものなんじゃない? お姉さんはどうしてお父さんの写真を持ってないの?」
「どうして君が彼女の父親にそんなに興味を持つんだい?」
「安室さんなら分かるでしょ?」
「分からないよ」
安室は音を立ててフロートグラスをテーブルに置いた。鮮やかに透きとおるグリーンのソーダ、グラスの底から魔法のように細かな気泡が立ち、完璧な半球をかたどるバニラアイスにぶつかって消える。照明の灯りをはじいて光るサクランボのシロップ漬けは、まるでまがいものの宝石のようだ。
グラスの足に指を添えてそれを差し出す安室の笑顔は、コナンが寒気を覚えるほどの迫力だった。
「コナンくん。これだけは言っておくけど、人の恋路を邪魔するつもりなら、たとえ子どもだろうと容赦しないからね」
「あぁ! コナンくん、何勝手に頼んでるの!?」
蘭の怒鳴り声は青天の霹靂だった。コナンは思わず椅子から転げ落ち、したたか背中を打ってしまう。
「ご飯も食べ終わってないのにだめでしょ!?」
「だ、だって、どうしてもクリームソーダ食べたかったから……!」
腰に手を当ててコナンを叱る蘭に、安室は背を向けてこっそり舌を出した。子ども相手に意地悪が過ぎたかとも思ったが、子どもは子どもでも相手がこの探偵小僧ならしかたがない。コナンが本気になったら、安室にも手に負えるかどうか分からないのだ。
仕事が終わって、安室と
はふたりで店を出た。コンビニで買い物をしてから安室のアパートへ向かう。安室の部屋は2階の角にあって、その扉を開ける前に安室は意味ありげに微笑んだ。
「
、動物は平気だよね?」
「うん、大丈夫だけど」
「それじゃ、家族を紹介するよ」
安室が開いた扉の向こう、玄関にちょこんと座って尻尾を振っている子犬を見て、
は思わず息を飲んだ。
「なんで今まで教えてくれなかったの?」
「びっくりさせようと思って」
「かわいい! 名前は?」
「ハロだよ。ただいまハロ。お客さんだよ」
安室に答えるように、子犬は嬉しそうに一声吠えた。
「何か適当につまみ作るから、待っててくれる?」
「手伝おうか?」
「それより、ハロと遊んでやってよ。1日家にひとりで退屈してただろうから」
「分かった」
安室の部屋の居間は寝間と兼用らしく、ベッドマットが敷いてある。テーブルがひとつと、段ボールに立てかけてあるギター。押し入れがあるけれど、そこにも大して物は入っていなさそうだった。
は少し迷ってから、ベッドマットの足元の方に浅く腰掛けた。すると、ハロが
の膝頭に鼻先を押し付けてきて、興味深そうに匂いを嗅ぎだした。初めて会う人間がどんな人間なのか確かめているらしい。前足を膝の上に乗せてじっと見上げてくるので、そっと手を伸ばして喉の下の辺りをかいてやった。ハロは
の手の中に鼻先を押し付けて、冷たい舌でそこを舐めた。
ハロはどこからかカラーボールをくわえてきた。それを
の膝の上に落とすと、尻尾を振って軽くジャンプする。
「投げて欲しいの?」
は下手で軽くボールを転がしてみた。ハロはうきうきとした足取りでそれを追い、くわえて戻ってくる。今度はもう少し遠くまで届くように強めに投げてみる。ハロはますます嬉しそうに駆けて行き、自慢げな顔をして戻ってくる。
「えらいね、じゃこれはどう?」
少し力を入れすぎて、ボールは今からダイニングを抜け、玄関まで転がってしまった。ハロは大はしゃぎで走っていき、
のハイヒールを蹴っ飛ばした。
右手にフライパン、左手に皿を持った安室がそれをたしなめた。
「ハロ。あんまりはしゃぐなよ」
「ごめん、私もつい調子に乗っちゃった。うるさかった?」
「
に迷惑かかってないならいいけど、こいつびっくりするくらい元気だろ」
「まだ若いんでしょ。いくつなの?」
「はっきりとは分からないんだけど、獣医さんには1歳半くらいだって言われたよ。こいつ、元々野良だったから」
ハロがボールを咥えたまま、安室の足元にじゃれている。安室が手を出すとそこにボールを落として自慢げに吠えた。安室はこれでもかとハロの頭を撫でてやり、ハロの皿にたっぷりとドッグフードを開けてやった。
安室を見つめるハロのまなざしときたら、もうとにかく安室のことが大好きで仕方がない気持ちがあふれんばかりで、体全部を使って気持ちを表現できるハロに、
はほんの少しだけ嫉妬した。
「透は本当に優しい人なんだな」
「え、何?」
「ううん、何でもないよ」
それから、安室が作ったつまみと一緒に、コンビニで買ってきたワインボトルをふたりで空けた。
終電に間に合うよう、安室は
を駅まで送った。ハロは安室が持ったリードの先で、リズミカルに尻尾を揺らしながら歩いている。ときどき並んで歩いている安室と
を振り返って、ふたりがちゃんと後を付いてきているか確認する仕草がかわいくて、ほろ酔いの
は始終笑顔だった。
「せっかく来てくれたのに、泊めてあげられなくてごめんね」
「私も明日早いし、いいよ。ハロに会えて癒されたしね」
「ハロだけ?」
「おつまみも美味しかったよ」
「つまみだけ?」
は声を押さえて笑いながら、安室の腕に手を絡める。安室の二の腕に頬を押し付けると、安室の体温とまだ馴染みの薄い安室の匂いが感じられて胸がいっぱいになった。
「うそ、冗談だよ」
「そんなに酔っぱらって、ひとりでちゃんと帰れる?」
「大丈夫」
「ならいいけど、家に着いたらちゃんと連絡して。心配だから」
「透ってばお父さんみたいなこと言うね」
「本当にお父さんだったらこんなことしないでしょ」
安室は
の手を取ると、指を絡めてぎゅっと握りしめる。親指の腹で
の手の甲を撫でていたずらっぽく笑う顔は、確かに父親というよりはいたずら好きな少年のようだった。
駅までの道のりを、ふたりはあまり会話をせずに歩いた。酒を飲みながら十分話をしたような気もしていたし、繋いだ手、重なった肌を通して言葉ではない何かでやり取りができているような気がした。静寂がふたりを包み込んでいる。柔らかい膜のような暖かな安心感、それはほんの少しの刺激で壊れてしまいそうで、小さな声を出すことすら憚られた。
駅に着く頃、それはシャボン玉がはじけるように消えた。
「これ、あげるよ」
次の電車の到着時間を確認してから、安室は
の手のひらに何かを押し付けた。
「何?」
手のひらを開いてみると、
の手のひらに銀色の鍵が乗っている。
安室は照れくさそうに笑いながら髪をかき上げた。
「いつでも、好きな時に来ていいよ。よかったらハロと遊んでやって」
「いいの?」
「うん。俺は調査で長く家を空けることもあるからさ。
が迷惑じゃなければ面倒見てくれると助かるんだ」
「つまり、ハロの世話係が欲しかったってこと?」
「それだけじゃないよ」
「本当に?」
「本当に」
は口元にのぼる笑みを押さえきれなかった。酔いが回って気が高ぶっていることや、足元にじゃれついて見上げてくるハロのあどけないまなざしや、そういうもの一切を差し置いて嬉しくてたまらなかった。その気持ちをうまく言葉にできなくて、鍵を握りしめたまま動けない。何か言わなくてはと気持ちばかり焦って、焦れば焦るほど喉が張り付いてしまう。
「ハロ、おすわり」
ふと、安室がリードを引いてハロを自分の足元に座らせた。ハロを膝の裏に隠すようにして立つと、指先で
の顎を捕まえる。
が何か言う前に、安室は自分の口で
の唇をふさいだ。安室の金色の前髪がさらさらと
の肌を撫で、その心地良さに
はまつ毛を震わせる。安室のキスはふたりで飲み干したワインの豊潤な香りがした。
はますますそれに酔ったが、次の瞬間、電車の発車メロディがホームに鳴り響いた。
「電車、来たね」
安室は名残惜しそうに体を離す。
は電車が滑り込んでくる方を振り返りながら微笑んだ。
「鍵、ありがとう。本当にいつでも来ていいの?」
「いいよ」
「分かった。来るときは連絡するね」
「うん」
は安室に背中を押され、ドアが閉まる直前に電車に飛び乗った。ドアの向こうで、安室とハロが
を見送っている。鍵を握りしめたままの手を振ると、安室も手を振り返してくれ、ハロも尻尾を振ってくれた。
ゆっくりと電車が滑り出す。安室は
の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
はドアにもたれかかり、夜を透かして鏡のようになった窓を見つめながら、じっと安室とのキスの余韻に浸る。柔らかい唇と、熱い吐息。それを思い出すだけで足元がふわふわした。
「まいったなぁ……」
は口の中でつぶやき、目を伏せた。
まぶたの裏には、別れ際に見た安室の笑顔が残像となって焼き付いている。
これは間違いなく恋だ、なんとも厄介なことに。
20190526