鍵穴に気をつけろ









「魚介料理の美味しいお店を見つけたんだけれど、今度の休みに行かない?」

 そう安室透に誘われたのは、ふたりが出会ってからひと月ほど経った頃のことで、遠出をするのはこれで3回目だった。ちょうど大きな仕事をひとつ片付けて肩の荷を降ろしたに、その誘いは嬉しいご褒美だった。

 その日、約束の時間ぴったりに待ち合わせの場所に現れた安室の愛車を見つけて、はスマートフォンを持った右手を大きく振った。

「おまたせ」

 と言って、運転席から降りてきた安室の手には、ささやかな花束があった。

「そういうのいいって言ってるのに」
に似合うと思ったんだ」

 は照れくささに苦笑いした。一カ月足らずの付き合いではまだ、安室の率直な愛情表現に慣れることはできない。けれど、胸の奥をくすぐるような嬉しさは隠せなかった。

「ありがとう」
「どうぞ」

 花束のせいで手がふさがったの代わりに安室が助手席のドアを開けてくれる。はお姫様になったような気分で車に乗り込んだ。

 安室ほど運転に長けている男に、はこれまで会ったことがない。発進するときの静かなすべり出し、一時停止する時にがくんと前方につんのめるようなこともまずない。それなりに道が混み合っていてもすいすい他を追い越して、あっという間に進んでしまう。いいお天気の休日だからそれなりの渋滞を予想していたは、心配が杞憂に終わったことに驚きとも安心とも言えない妙な気分を覚えた。

 安室と一緒に過ごしていると、ときどきこういう不思議を味わうことがある。不安や心配が肩透かしを食らう。けれどその着地点はいつも太陽の光をたくさん浴びた羽毛布団のように温かくて柔らかいので、その瞬間を過ぎれば最初に抱いていた不安が自分の中にあったことさえ忘れてしまうのだ。

「置いておいていいよ」

 と、安室がハンドルをさばきながら花束のことを言う。
 は花束を胸に抱えたまま首を横に振った。

「いいの。いい匂いだから」

 甘い香りを胸いっぱいに吸って満足げに笑ったを、安室は愛おしいまなざしで見つめ返した。

「晴れてよかった。ドライブ日和だね」
「本当。お店探してくれてありがとうね」
「半分は俺の勉強なんだけどね。付き合わせて悪いかなと思ったけど、もきっと好きだと思うんだ」
「透の選ぶお店が美味しくなかったことないもん。今日も期待してる」
「ハードル上げてくるね」
「自信あるんでしょ」
「もちろん!」

 はからりと笑った。自信たっぷりだけれどそれが嫌味でないところが、安室の長所だ。自分を大きく見せるのではなく、かといって小さく見せるでもなく、持っている能力をありのまま隠さない。口で言うのは簡単なことだけれど、多くの人はそれができないことをは知っている。

 長距離のドライブだったが、安室は疲れも見せず、そしてを飽きさせなかった。安室が働いている喫茶店・ポアロで起きたおかしなできごとや、名探偵・毛利小五郎が解決した事件の逸話、安室の生活は愉快な話題に事欠かない。涙が浮くほどを笑わせた。

 ふと、窓の外に光るものを見つけて、は嬉々としてウィンドウを下げる。潮風にあおられて安室との髪が躍った。

「あ、海」
「海が見えたなら、もうすぐ着くよ」

 眼前に広がる一面の青に、白いうさぎが跳ねるような白い波が立っている。海水浴のシーズンはまだ先なので浜辺に人影はほとんどなく、波乗りを楽しむサーファーがちらほらと見えるだけだ。ところが、海岸の隅のほうに見える岩場に人だかりが見え、は窓の外に身を乗り出すようにして首を傾げた。

「どうしたんだろう。人が集まってる」
「どこ?」
「ほら、あそこ。スーツを着た人達がぞろぞろと」

 安室は視線だけを動かしてそれを確かめた。

「あぁ、そういえばこの海岸、ちょっと前に事件があったんじゃなかったかな。警察が現場を調べてるんだよ、きっと」
「そうなの?」
「このあたりの海の岩場で死体が見つかったんだ。岩場の隙間に体が挟まって動けなくなったところに潮が満ちて溺れたらしい」
「そんなことよく知ってるね」
「これでも探偵だからね。報道されてる事件はひと通りチェックしてるんだよ」
「職業病ってことね」

 ふと、は嫌な想像をしてしまって口をつぐんだ。これから向かう店は、魚介料理が名物だという。それは新鮮な魚介類が近くで手に入る立地に店があるということで、つまりつい最近、人の死んだ海でとれた魚が料理に使われているということだ。それを思うと、一気に食欲がなくなってしまった。

「心配しなくても大丈夫だよ」

 と、安室が見計らったように言った。

「え、何が?」
「店で調理している魚介はこの海岸で取られたものじゃなくて、こことは逆方向にある港から仕入れてるらしいよ。潮の流れも向こうが上流だし、間違っても遺体と一緒に泳いだ魚が料理されることはないよ」

 まるで心を読んだような言い方に、は驚いて体をのけ反らせた。

「なんで私が考えてることが分かったの?」
「全部顔に出てるよ」
「出してないよ!」
「じゃぁ、俺の言ってること的外れだった?」
「いや、合ってるけど……」
「ほら、やっぱり」

 安室はこらえ切れなくなったようにぷっと吹き出した。その笑い方がいかにも人をからかうような雰囲気があって、は思わずかっとなる。

「笑わないでよ、もう! ひとをからかうために無駄に推理しないでよね! これだから探偵は!」
「別にからかってないよ。はかわいいなって思っただけ」

 は花束を振り上げて安室の肩を殴った。その勢いで散った花びらが安室の肌を撫でて、安室は肩をすくめて笑った。

 ひと際強く吹き付けてきた潮風が窓から吹き込み、ますますふたりの髪を乱して花びらを散らす。安室の肩にあたって砕けた花が車のフロントに落ちて、まるではじめからそこにあったようにふたりの旅路を彩った。



 目当ての店には、ちょうど昼時に到着した。混みあってはいたが、ちょうどテラス席が空いてほとんど待たずに席に着くことができた。テラスからは広い海原が見下ろせ、海と空が溶け合う水平線までくっきりと見渡せる。ウミネコが空をすべり、海岸に打ち寄せる波は風に揺れるレースのようだ。

 料理もの期待以上のものだった。白身魚のアクアパッツァ、地元で採れた野菜をふんだんに使ったサラダに、あさりを使った和風のパエリア。

「全部ほっぺがおちそうなくらい美味しい」

 と、大袈裟に感動するを見て、安室は満足そうに笑った。

「気に入ってもらえてよかったよ」
「やっぱり素材の新鮮さに勝るものはないね」
「シェフの腕もいいよ。素材そのものの旨味がよくいきてる」
「透には作れない?」
「俺はまだ修行中の身だよ」
「それじゃ、一人前になったら?」
、さては俺にこれ作らせようとしてるだろ?」
「あ、分かった? さすが名探偵!」
「そんなの推理するまでもないよ」

 ふたりで笑い合っていると、ふいに、店の中から騒がしい気配がしてきた。見ると、黒いスーツに身を包んだ男が数人、店の入り口に固まっている。真ん中に立つ貫禄のある男が二つ折りのパスケースのようなものを店員に見せている。

 もしかするとあれは、警察手帳だろうか。

 がそう考えるのと、安室がテーブルから立ち上がったのはほとんど同時だった。

「顔見知りの警部がいるみたいだ。ちょっと挨拶してくるよ」

 安室はの肩に手を置いて笑いかけた。

「分かった。いってらっしゃい」
「すぐ戻るから。俺の分、残しておいてよ」
「そんなに食べないよ」

 が見守る中、数人の警察官が連れ立って店の奥へ入ってきた。そしてあるテーブルにやってくると、居丈高に警察手帳を振りかざす。そのテーブルではふたりの女性が食事をしている最中だった。ひとりは40代前半、もうひとりは10代半ばだろうか。目鼻立ちがどことなく似ている。おそらく親子だろう。警察がひとこと何かを言うと、ふたりは戸惑いながらも警察の後について店を出ていった。

 一体何があったんだろう。

 の脳裏に浮かんだのは、ここへ来る途中、人気のない浜辺に集まっていた警察官の姿だった。あの海で起きた死亡事故に、あの親子が何か関係あるのだろうか。

 海を眺めながら想像を巡らせていると、安室が戻ってきた。

「おかえり。何かあったの?」
「まぁね。気になる?」
「そりゃね」
「それじゃ、早く食べちゃおう」
「話してくれないの?」
「今話してもいいけど、いいの? 海で溺死した男のあれこれの話になるけど」
「やっぱり、後にして」

 食い気味に拒否したを、安室は笑って慰めた。



 食事を終えたふたりは、腹ごなしに海岸を散歩した。潮風はまだ冷たいが、太陽に暖められた砂浜を歩くのには心地いい天気だ。靴を脱いで素足で砂を踏みしめると、指の間を細かい砂の粒がさらさらと流れてくすぐったい。規則正しい波の音が、ゆりかごのなかで揺れているような錯覚を起こさせて心地良い。

 は安室の手に自分の指を絡め、海岸の端にある岩場を見やった。

「あそこで男がひとり溺死した。どうやら、ライターを岩のくぼみに落としてしまったらしい。それを拾うために海に入り、運悪く岩場の隙間にはまって動けなくなって、そのまま潮が満ちてきてしまったんだ」

 安室が言った。

「かわいそう。苦しかっただろうね」
「そうだね。けれど、おかしな点がいくつかある。どうして海水浴のシーズンでもないのに海に入ったのか? そして、どうやってあの岩場に行ったのか」
「よっぽど大切なライターだったんじゃないかな。なくしたくなかったんだよ」
「でも、どこにでも売ってる量販物だったらしいよ」
「何を大切にするかは人それぞれだよ。安物だからって断定することないと思うけど」
「それじゃそれは死んでしまった彼にしか分からないことだね。それじゃ、あそこに行った手段は?」
「舟、かな。浜辺にたくさんあるし」

 は海岸に放置してあるいくつかの小舟を見やった。そばには櫂が投げ出すように置いてある。あまり古びては見えないし、砂浜に筋が残っている。つい最近動かしたばかりのように見えた。

「けど、あの岩場の周辺に乗り捨てられた舟はなかった」
「流されちゃったとか」
「ありえそうだけど、またそんな舟は見つかってないらしい」
「さっき警察に連れて行かれた親子はなんなの?」
「あのふたりは被害者の知り合いだよ。死んだ男は母親と再婚する予定だったらしい」
「再婚を間近にして恋人を失ったわけか」

 はぞっとして、安室と繋いだ手に力を込めた。あの店で見かけた親子は、どこにでもいそうな普通の親子だった。親子で食事を楽しむ、そんなありきたりな休日を過ごすような人にも、突然婚約者を失うという悲劇は襲いかかるのだ。

 砂浜を優しく撫でるように打ち寄せる波、太陽の光をはじいてきらきら光る海。水平線はあまりにも遠く、見つめていると、足元が揺れるような果てしない気持ちになる。

「大丈夫?」

 ふと、安室に顔をのぞき込まれて、は力なく笑った。

「うん。なんかいろいろ想像したらしんみりしちゃった」
「これ、さっき警部から聞いただけのことだから、真に受けなくていいからね。ごめん、余計なこと言ったね」
「本当に大丈夫だから」
「それならいいけど」

 安室はの手を引いて歩き出す。その後を追うように白波が追いかけてきたが、それはふたりには届かず、静かに引いていった。



 帰り道、ふたりきりの車内は来た時と比べてしんとしていた。人が死んだ海を見て回ったせいで、はすっかり意気消沈している。安室は面白半分にを現場につれていったのは失敗だったかと後悔して、思いつく限り明るい話題を振ってみたが、の反応は薄かった。

 しばらくして、車窓からの景色を眺めていたが口を開いた。

「ねぇ、ちょっと変なこと聞いてもいい?」
「なんだい?」
「殺してやりたいと思うほど、人を憎んだことってある?」

 安室は目を丸くして、横目でを見やった。窓の外を見ているの耳元で、小粒の貴石をあしらったピアスが揺れていた。

「もしかして、あの事件は事故じゃないって思ってるの?」
「うん。ただの勘だから真に受けなくていいんだけど……。あの女の子がやったんじゃないかな」
「でも、まだ高校生くらいだったよ」
「少年犯罪って言葉があるんだから、高校生だって人は殺せるよ。透だってそう思わない? 本当は警部さんにつきそって謎解きしたかったんじゃないの?」
「まさか。僕はあの探偵小僧とは違うよ」
「それ誰のこと?」
「まぁ、それは置いておいて。俺は事件よりと一緒にいたいよ」
「もうごまかさないでよ」

 は軽く安室の肩を叩く。安室はそれを笑って受け流した。

「どうしてそんなこと聞くの?」
「気になったの。あの子がもし本当に人を殺したんだとしたら、何がきっかけでそんなにも相手を憎むようになったのかなって」
「まだあの子が殺したって決まったわけじゃないよ」
「例え話としてだよ」

 安室はつまみをしぼって、ステレオから流れる音楽のボリュームを下げた。
 はどこを見るともなく視線を投げながら話し出した。

「あの子、母親の再婚に反対だったんじゃないかな。あの男に母親を取られてしまって寂しかったとか。それか、母の婚約者に恋してしまって、母親に好きな人を奪われたくなかったか」
「あの年の女の子が母親の恋人に嫉妬するものかな? それに、好きになった男を殺したりする? こういったらなんだけど殺すなら母親の方じゃないかな、そうすればあの子と男は心置きなく結ばれるわけだから」
「ふたりっきりの家族だったならありえるんじゃないかな。それに、他人のものになるくらいならいっそ、っていう思考回路はありだと思う。いとしさ余って憎さ百倍って言葉もあるし」
「なるほどね」
「よく知りもしない相手を好きになることが難しいように、憎むことだって難しいよ。彼女は、少なくともいっときはあの男に心を許したんだと思う。けれど、ひどいことを言われたか、されたかして男に裏切られたんじゃないかな。信頼していた相手に裏切られることほど、残酷なことってないもの」
「なんだか真に迫ってるね。もしかしてそれはの実体験?」

 は景色を眺めながら押し黙った。
 安室は続ける。

も、誰か信頼した人に裏切られたことがあるの? そして、その人を殺したいと思うほど憎んだことがあるの?」
「……悪い男に引っかかったの。あの頃は若かったから」

 は乾いた声で、ひとりごとを言うように呟いた。その横顔が、だんだんと傾いてきた日差しに切なそうに照らされている。

 安室は手を伸ばしての肩を撫でてやった。

「辛かったね」
「もう昔のことだよ」
「でも、思い出しちゃったんでしょ? 俺がこんなところ連れてきたからだね、ごめんね」
「透のせいじゃない」

 が振り向くと、その肩を流れて冷たい髪が安室の手を撫でた。安室はの頬を指でつまんで笑いかけた。

「今は俺がいるだろ。だからそんな顔しないで」
「……」
「ねぇ、途中で道の駅に寄っていい? 地元の新鮮な野菜を買っていこうよ。確かこの辺りでは果物も有名なはずだよ」
「透が料理してくれる?」
「もちろん。何を食べたいか考えといて」
「じゃぁ行こう。おいしいお酒もあるといいな」
「あるよ、きっと」

 安室の勇気づけるような笑顔に、はなんだかほっとした。

 妙な話をしたのに、安室はばかにしたり聞き流したりせずに聴いてくれた、それだけでもありがたくってうれしいのに、文句ひとつもなく慰めてくれる。優しすぎて、怖いくらいだ。

 は安室が触れた頬と髪をそれとなく触って、その皮膚と爪の硬さに想いを馳せた。乾いていて、熱い指だった。その指でもっと触って欲しい、けれどとても口に出しては言えなかったので、代わりに別のことを言った。

「ねぇ、さっきの答えまだ聞いてないよ」
「ん?」
「透は、殺してやりたいと思うほど、人を憎んだことってある?」

 その瞬間、安室の瞳に暗い光が射した。その光は、まるで地獄まで続く奈落の穴のような、底知れない闇だった。そう見えたのは車がトンネルに入ったからなのだと気づいたとき、は自分でも驚くほどほっとした。

「あるよ」

 と、安室は静かに答え、標識に従って道の駅へ続く道を折れた。






20190520