フライデーナイト・トーキョーナイト









 ある金曜の夜。
 都内のあるビジネス街である。

 は途方に暮れていた。ガードレールに腰を預けてなんとか片足で立っているが、許されるならそのまま膝を抱えて座り込んで、声を上げて泣きたかった。

 今日はなんて厄日だ。こんな街中でヒールがぽっきり根元から折れてしまったのだ。そのヒールはのお気に入りだった。ピンクベージュのスーツに合わせた、クリーム色のエナメル。気合のいる仕事の日には必ずこれを履くと決めている勝負靴だった。きちんと手入れをして大事に履いていたのに、マンホールの縁にヒールが引っかかった瞬間、小枝のように簡単に折れてしまった。ほんの一瞬のことだった。

 街行く人々は、歩道の片隅に片足で立ち尽くしているに目もくれず、その姿が見えないふりをして通り過ぎていく。誰かひとりくらい立ち止まって声をかけてくれたっていいじゃないかと、誰へともなく恨みがましい気持ちが湧いたけれど、逆の立場なら同じことをするだろう。誰だって面倒事には関わりたくないものだ。

 こんな時、誰か心優しい人がひと言「大丈夫?」と声をかけてくれたなら、どんな気持ちがするだろう。はストッキングに包まれたつま先の、コーラルピンクに染めた爪を見下ろしながらそんなことを考えた。本来なら靴の中にしまわれているはずのつま先が風にさらされてすうすうする。やけに無防備な感じだ。まるでどこへ行くにも母親に抱かれる赤ん坊になってしまったような気分だった。

 本物の赤ん坊ならば、泣けばすぐに母親が駆けつけて抱きしめてくれる。けれどは赤ん坊ではないから、ここで泣いても通行人に白い目で見られるだけだろう。それを分かっていてみっともないことはできない。はだしで家路に着いても、道中白い目で見られるだろうが、泣いて来るわけもない助けを待つよりは現実的な選択に思えた。

 仕方がない、このままはだしで帰ろう。ストッキングは伝線するだろうし、悪ければ足の裏に傷がつくだろうけれど、こうするより他にない。

「大丈夫ですか?」

 がガードレールから腰を浮かしかけた時、はまさかその声が現実のものとは思わなかった。自分の想像が作り出した幻か、空耳かと思った。だから、突然見知らぬ男に顔をのぞき込まれて、は飛び上がるほど驚いた。

「ひゃぁ!」
「大丈夫ですか? お加減でも?」
「あぁっ、いえ、大丈夫です。お気遣いなく……!」

 端正な顔立ちをした男が、の目の前にひざまづいていた。薄い色の金髪、日に焼けた肌、黒のジャケットに白のコットンパンツを合わせていて、よく手入れされた革靴を履いている。

 男はが握りしめている壊れたハイヒールを見て、納得したように指を鳴らした。

「あぁ、ヒールが折れたんですか」
「えぇ、すいません」
「謝る必要はありませんよ。怪我はありませんか? 足首をくじいたりとか?」

 は狼狽した。誰かに声をかけて欲しい、優しくして欲しいと思ってはいたけれど、いざ見知らぬ人に声をかけられるとどうしたらいいか分からなくなってしまう。何か下心があるんじゃないかとか、もしかして親切心に見せかけた追い剥ぎだろうかとか、悪い想像ばかりが浮かんで、は強い警戒心からぎゅっと脇を締めた。無理矢理鞄をむしり取られないとも限らない。

「大丈夫です。ご親切にありがとうございます」
「それは良かった。僕でよければ、何かお手伝いしましょうか?」
「え?」

 驚いて眉を釣り上げたに、男は笑顔を向けて指を2本立てた。

「誰かに連絡を取って助けを呼びますか? それとも、新しい靴を探しに行きますか?」
「はぁ?」
「前者ならば近くの喫茶店にでもお送りします。そちらで待ち合わせされたらいいでしょう。後者ならば店までお送りします」
「いや、そんな、ご迷惑はかけられません」
「かまいませんよ。僕は車で来ていますから」
「そういうことではなくてですね」
「で、助けてくれる方はいますか?」
「……いませんが」

 そんな人がいるならこんなところで立ち往生していない。気まずい気持ちで口ごもったの胸の内を見透かしたように、男は笑って頷いた。

「では、ここで待っていてください。車を回してきます。すぐに戻ります」

 言った通り、男はすぐに戻ってきた。ガードレールのすぐそばに横付けされた車はマツダのRXー7だ。

「お待たせしました。どちらまでお送りしましょうか、シンデレラ?」

 軽快に運転席から降りてきた男は、胸に手を当てて歯の浮くようなセリフを言う。
 とっさに言葉が出ずに苦笑いするの返事を待たず、男はを抱え上げて横抱きにした。

「きゃぁ! ちょっと! 何するんですか!?」
「暴れないでください。落としちゃいますよ」

 男はを抱きかかえたままガードレールをまたぐ。その様子をさっきまで見向きもしなかった通行人がまじまじと見ていて、は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。思わず顎を引いてうつむくと、自然と男の肩にすがりつくような格好になってしまって、たった今出会ったばかりの男にこんなことをしてしまう自分に唖然とした。一体何をしているんだろう、自分のことながら信じられなかった。

 を助手席に座らせてから運転席に回り込んだ男は、開いた口がふさがらず唖然としているを見やって、まさに今気がついたように膝を打った。

「あぁ、すいません。初対面の男にいきなり車に連れ込まれたらそりゃ驚きますよね」

 言うと、男はジャケットの中から黒いものを取り出した。はぎょっと眼を見張る。黒光りするその鉄の塊は、一丁の拳銃だった。男は笑顔を浮かべて銃身を持つと、の目前にグリップを差し出した。

「僕が何かしたら、どうぞ引き金を引いてください」
「え、まさか本物?」
「サバイバルゲーム用のモデルガンですけど、撃たれれば結構痛いです」

 手にとったそれは、片手がずっしりと沈むほど重かった。はそれを両手で持ち直し、男に銃口を向けたまま唾を飲む。運転手に銃をつきつけるなんて、まるでバスジャックの犯人にでもなったような気分だったけれど、男の余裕綽々な態度を見ているとジャックされているのはどちらだか分からない。

 の気も知らず、男は平然とバックミラーを確認する。

「どちらにお送りしましょうか? 行きつけのお店がありますか?」
「……じゃぁ、百貨店までお願いします」
「かしこまりました」

 男はエンジンをかけると、ギアを入れてアクセルを踏んだ。



 この時のことを振り返って後にふたりが共感したことは、あれはいくらなんでも強引過ぎた、ということだ。あんなに人目のある場所でほとんど人さらいのように車に連れ込んでは、心ある人に通報されてもおかしくなかったし、しかも拳銃まで取り出したりしたのだから事件化しなかったのがおかしいくらいだ。

「運が良かった」

 と、は文句を言ったが、

「全て計算済みだったよ」

 と、安室は笑った。

 今となっては笑い話だ。






20190520