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夏の絵 天城はを知っていた。なぜ知っているのか思い出すのに少々時間を要したけれど、確に彼女を知っていることを思い出した。 グラウンドの端で西遠寺コーチと話をしている彼女は、あの頃より大分痩せたように見える。記憶とは着ているものも髪型も違うからだろうか。あの時も確かに線の細い印象はあったけれど、今はそのひとまわりも体が小さくなってしまったように見えた。 「天城、どうかした?」 問うてきたのは風祭だ。天城は「別に」と曖昧に返事をする。聞かれたからといって、今感じたことをすぐ言葉にしてしまうのには気が引けた。 「そう?」 と、風祭は納得いかないと言いたげな視線を寄越したので、「本当に何でもない」と、安心させてやるために笑った。 視線を戻すと、はもう西遠寺コーチとは離れて一人で手元のボードと向き合っていた。一人でいるとその体の小ささが際立って見えて、なんだかとても心配になった。心配というか、気がかり、といった表現の方が正しい。心配なんて、そんな優しい言葉を何も知らない人間にかけてやれるほど、天城は素直な人間ではない。 喩えるなら、一時強い風が吹いたらそれだけではらはらと消え失せてしまいそうな、儚げな弱さがにはあった。一輪挿しの花瓶が強風で倒れてしまわないか、とか、そんな程度の気持ちだ。 あれは今から二ヶ月ほど前のことになる。 天城は毎日部活が終わった後、駅前にある進学塾へ通っていた。経営者である父親はサッカーでプロを目指すよりも、現実的でより確実性のある将来設計を希望していて、塾通いはその期待に答えるための天城なりの作戦だった。多忙で普段は顔を合わせることすらまれな父親には、余計な不安を与えないことが物事を円滑に進めるために一番いい方法だった。 部活が終わった後、駅前までバスに乗り、帰りはその逆回りのバス。帰宅時間はいつも遅くなってしまうけれど、そのための体力はあったし、父親の言うことを全く理解できないわけではなかったので辛くはなかった。 それは確か5月のはじめだっただろうか。同じバスに乗り合わせてその姿を見たのが始まりだった。駅前のバス停で見慣れない女子の姿を見た。 夜のバスというのは乗客の顔触れが固定されてしまうもので、見知らぬ人が列に並ぶだけで注目を集めてしまうものなのだ。しかも彼女は都内では有名なお嬢様学校の制服を身に纏っていたからなおさらだった。 天城は珍しいこともあるものだと思っただけで、特に気には止めなかった。自分がこの路線を使いはじめた時に同じような視線を感じたことがあるから、彼女の気持ちは想像に難くなかったのだ。 天城が後方の一人がけの席につくと、彼女は前から三つ目の一人がけの席に座った。天城からその後頭部がよく見える位置だった。今夜の新参者に興味があるのは皆同じで、自然と乗客から視線が集まっている。天城の目もそのひとつだ。 座席に座っているのを見て気付いたことは、その体の小ささと肌の色の白さだ。彼女のひとつ前の席に座っているOLらしい女性と比べると、その座席に対する体の大きさがまるで違う。下手をすると小学生に見えないこともない。大概失礼な想像だとは思ったがお世辞にも否定はできなかった。 彼女は天城と同じバス停で降りて、違う方向へ足を進めた。天城はついその背中を目で追ってしまう。 ちゃんと真っ直ぐに歩けるのだろうかとか、果たしてちゃんと家までたどり着けるのだろうかとか、いらない不安を抱かせるような頼りない後ろ姿だった。それくらいに小さかった。 それがはじまりだ。 天城が塾へ通う日には必ず彼女とバスに乗りあわせて、同じバス停で降車した。どうやら彼女は通学にこのバスを利用しているようだった。なぜこんなに遅い時間のバスになるのか気にならないではなかったが、駅前ではでな金髪の男といるのを見て理由は知れた。彼女も俗に言う不良の部類に入る人間なのだろう。繊細で儚げな外見からは想像しにくいけれど、確に見てしまったのだから疑いようがなかった。できるならあまり信じたくはなかったけれど。 初めて声を掛けたのは、彼女がこの路線を利用するようになってから2週間ほど経ってからのことだ。 彼女の背中を眺めながらバスを降りた時、発車する時のエンジン音に隠れてぱたりと小さな音がした。何かと思って振り向いたら、ちょうど天城と彼女の中間地点にパスケースが落ちていた。一目で彼女が落とした物だと分かった。何せバスに乗り合わせるたびに彼女の姿や持ち物や纏う空気、顔色や疲労度までもを観察していたのだから。 天城は足を戻してパスケースを拾い、埃を払ってやりながらのろのろ歩く彼女を追いかけた。 「あの」 声を掛けた途端、彼女の肩がびくりと震えた。しまった、驚かせたか、と少しだけ後悔した。 「これ、落としましたよ」 パスケースを差し出すと、彼女はそれに視線を落として、しばらく考え込んだ後、「あぁ」と呟いた。何を考え込んだのか、迷ったのか、天城には分からない。 パスケースを受け取る彼女の手は病的なまでに細い。夜の暗闇の中でも、それは視覚を通り越して第六感で感じられた。何の病気なんだろうと、本気で一瞬疑ってしまった。 「すみませんでした」 「いえ、気を付けて」 交わした言葉はそれだけだ。彼女はなぜ謝ったのだろうと考えたけれど、天城には分からなかった。まぁ、そういう日本語の使い方も間違いではないだろうが、妙な違和感が耳に残った。 彼女は謝ったのだ。あの細い手で。頼りなく小さな声で。それが天城にはたまらなく不思議に思えて、ひどく気がかりだった。 「さんって綺麗な人だよね」 と、突然風祭がそう言うので、天城は目を見開いて驚いた。どうしてこういうことを恥ずかしげもなく言えるのか。不思議でたまらない。 「見とれてたでしょ?」 にんまりと笑ってそういう風祭はなんだかとても楽しげだ。何を勘違いしているんだか、と天城は溜め息を吐いて答えた。 「別に、そんなんじゃない」 「そうなの?」 「そうだよ」 「じゃぁどうしてそんなにさんのこと気にしてるの?」 どうして風祭はこんなにも鋭いのだろう。初めて会った時から思っていたけれど、毎度毎度、受け答えに困る。 天城は少し考え込んだ後、風祭を見ずに口を開いた。風祭の目はあまりに真っ直ぐすぎて正直苦手だった。 「前に会ったことあるから」 「どこで?」 「バスで。あっちは覚えてないだろうけど」 風祭は意味を理解できないらしいようで首を捻っていたけれど、ちょうどタイミングよく号令が掛かって会話は打ち切られた。 一度だけ、天城はの隣の座席に座ったことがある。その日は酔った年配の親父が大人数乗り込んできた、ある意味特殊な日だった。天城との二人は一番後ろの座席に追いやられて、人二人分ほどの距離を置いて席に着いた。 その時に何をしゃべったわけでもない。二人とも黙って赤ら顔のサラリーマンの後ろ頭を眺めながら、それぞれに暗い窓の外を見ていた。おそらく、それぞれに全く違うことを考えながら。 それがと会った最後だ。数ヶ月後、つまりこの合宿で再会したは、相変わらず無表情で何を考えているのか全く読めない。いや、分かろうは思わない。何か大変な事情を抱えているのかも知れないし、もしそうだとしたらそれに無理矢理触れることなどできない。自分にだって他人に触れられたくない事情の一つや二つ持っている。何より、自分はそんなことをする柄じゃない。 気がかりという曖昧な不安だけ漂わせてすっと立ち続ける、強風の前の一輪挿し。はそういう人だ。 きっと忘れてしまうけれど、いつかふとした風の中に思い出すだろう、遅い夏の絵。 20080122 |