立ち上がるのが酷く億劫だった。殴られた腹は痛むし、足首を捻ってしまったようで動かすことができないし、右のこぶしの皮は破れて血塗れだ。さすがに一対四の喧嘩には無理があった。
どうにか事なきを得たからよかったものの、自棄を起こして後先を考えなかったからこういうことになったのだ。情けない。
ここは衣食住を世話になっている草晴寺の門前を、数メートル左回りにずれただけの所だ。数歩行けば門をくぐれる。けれど火照った体を冷やすのにアスファルトは心地よかった。今夜はここで野宿をするのも悪くない。むしろちょうどいい薬になるくらいだと思う。

「……大丈夫?」

声が降ってきた。体が痛んで顔を上げられず相手の顔は見えない。かろうじて動く左手を振って、強がって笑った。

「……あぁ、……気にせんとって。大丈夫大丈夫」

「どこが……。血、すごいんだけど」

声は女のものだ。けれど頭の芯がぼおっとしてきていてもうよく分からない。

「ちょっと、待ってて。人呼んでくるから……」

目の前を走っていく気配が通り過ぎた。おそらくここが寺の門前だと言うことに気付いて、和尚を呼んできてくれるだろう。そう思えたら体の力が抜けた。自分の認識以上に体はぼろぼろになっているらしい。ほっと安堵の息を吐くと、緊張して張りつめていた糸が切れた。
ずるずると背中で壁を滑ってアスファルトの上に倒れ込む。星が二つ三つ、ちらちらと光る空を見上げて、佐藤成樹はそのまま眠ってしまった。












ドラマチック










「佐藤くん!」

ぱかん、とふぬけた音がして目が覚めた。頭に軽い衝撃を感じて夢の中から急浮上する。机に突っ伏していたから肩が強ばっていた。のそりと体を起こすのと同時に猫みたいに伸びをすると、首の骨がぱきりと鳴って気持ちがいい。

「なに? 夕子先生」

あくびが声に伴って喉の奥から出て行った。
担任で英語の担当教師の夕子はつんと目をつり上げて教科書片手に腕組みをしている。いちいちオーバーアクションな彼女を見ていると、下手な芝居を見ているような気分になっていつも飽き飽きした。

「”なに”じゃない! いつまで寝てるつもり?」

「どーも、すんません」

「心から言いなさい。心から!」

そんなせりふを臆面もなく言ってしまえる、この熱血教師は苦手だ。合わないのだ。好きな食べ物から人生観まで。本人に確かめたことはないけれど分かる。けれどそれを彼女に伝える必要はないから、はぐらかしてしまうことにしている。

「いややわ、センセ。ホントに思ってますって」

軽やかに笑って手を振ってやると、ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴った。



サッカー部の練習を終えて、居残り練習の準備を始めている部員を尻目に真っ直ぐ門をくぐる。
風祭に声を掛けられるけれど、いつものように軽くあしらった。本当に面白い奴で見ていて飽きないとは思うけれど、疲れた体にむち打つ程までに執着があるわけでもない。同じクラスということもあってほとんど一日中顔を合わせているから尚更だ。それに今日は寄り道をしたい場所がある。

住宅街を外れて駅前の大通りに出ると、車のヘッドライトや保険会社の広告がきらびやかだ。日も暮れて夜に近い時間帯だというのに足下がはっきり見える。影さえも落ちている。駅前のロータリーまでやってくると数人でたむろしている学生の姿があちこちに見えた。

軽くその中を見回すと、目的の人は容易に見つかった。という、同級でひとつ年下の女子だ。ひとりでぽつんと公衆電話のボックスの側に立っていて、群れていないのは彼女だけだったからその姿は妙に浮いていた。

彼女は何をするわけでもなく、ただぼんやりと斜め下の方を見ている。視線の先には整然と敷き詰められたタイル以外何もない。
どうやらこちらには気付いていないようだったから、足を忍ばせて近づいて、その視線の先にぬっと顔を覗かせてみた。

「何しとんの?」

は声も上げずに驚いて目を丸くした。その顔が面白くて笑ってしまう。してやったり、という表情になったのだろう、は照れたように頬に朱の色を差した。

「……びっくりさせないでよ」

は耳にようやく届くくらいの小さな声でしゃべる。聞き取りにくくはないが、この辺りにいる他の連中とは真逆だ。奴らは通行人に気を配るということをせず、好き勝手に大声で笑っている。

「ぼーっとしとるからや。こないなとこでそんな呆けとると怖いおじさんに攫われてまうよ?」

「別にぼーっとはしてない」

「してたやんか」

「考え事してただけ」

「それをぼーっとしてるっていうんやって」

これ以上押し問答をしているのも何だな、と思って、の右手を取って強引に歩き出した。
は着いてこいと言って、はい着いていきますと二つ返事できるほど素直ではない。最後には必ずイエスと答えるくせに躊躇いを見せる。どうもそれはただの癖のようだと最近理解できたけれど、それを許してやろうという気は起こらない。

「行こ。ここうるさいから」

は足を絡ませそうに小走りをするけれど、すぐに順応して隣を並んで歩いてくれた。自分にとっては普段より少し遅いくらいのペースだ。

「今日、部活は?」

「もう終わった」

「試合近いとか言ってなかったっけ?」

「あぁ。来週の日曜。見に来てくれる?」

「興味ない」

「言うと思ったわ」

は自分ととてもよく似ていた。他人との関係を避け、夜の灯りを好み、決して群れることはしない。ただ過ごす場所がそれぞれ違うから、誰もそれを知らないだけだ。





「シゲ! 和尚が呼んでるよ!」

草晴寺の居候用の住居は古い木造で、人の声は一階の隅にある出入り口から反対側の一番部屋まですっかり届く。
昼寝に勤しんでいたところにその声は唐突で衝撃的で、枕にしていた雑誌の山から頭を落とした。ごつりと嫌な音がして、痛みよりもそれで目が冴えた。

「シゲ! なに昼間からだらけてんだよ」

「うるさいな。……休みの日くらいええやんか」

「年柄年中休みみたいなもんだろお前は」

「シゲー! 早くしろ! お客さん来てるぞー!」

「おー! 今行くぞー」

「勝手に返事すんなや」

寝起きで乱れた髪のまま、だるい体に鞭を打って立ち上がる。
休日に自分に用があって寺を訪れる人間の見当なんかつかなかったけれど、来ているというのだから出て行かないわけにはいかない。夢のなごりで頭がぼんやりしていた。

御堂に隣接している和尚の家の客間に行くと、見慣れないセーラー服の女子がちゃぶ台を挟んで和尚と話をしていた。見たことのない顔だ。正座をしている姿勢が真っ直ぐで、膝の上に乗った手のひらが繊細だった。表情はそっけなく、感情というものを映していない。

「シゲ。やっときたか」

和尚が気付いて、小さな目をつり上げながら言った。促されて、髪を手櫛で梳きながら茶の間に入る。彼女は視線が合うと、きちんと教育された仕草で会釈をした。いいところのお嬢さんなのだろうか、と思う。

「すみませんな、お待たせしてしまって」

「いえ、お気になさらないで下さい」

中学生にしては敬語の使い方がなっている。感心して、思わず彼女をまじまじと観察してしまう。睫が長い。無表情さの中に確かな存在感があるのは、きっと瞳のせいだ。黒々としたそれには底知れない井戸の底のような光がある。

「黙りこくっとらんで自己紹介せんか」

ふいに、和尚に後頭部を叩かれた。すぱんといい音がする。いきなりだったものだから一瞬脳がぐらりと揺れた。

「ったいなー、なにすんねん。いきなり」

「お前が鼻の下伸ばしとるからじゃ」

和尚は、いや、失礼したと謝罪をして軽く頭を下げた。彼女はさして気分を害した様子もない。もう一度いえ、と短く言って、視線を自分に向けた。

「怪我の方は、もういいんですか?」

「はぁ、まあ。見ての通りですけど」

「そうですか」

「……すんません。どちらさんでしたっけ?」

再び、和尚に殴られた。心なしかさっきより勢いが増している。はずみでちゃぶ台にしたたか額を打ち付けた。
和尚がつばを飛ばしながらこれでもかと怒鳴った。

「馬鹿者ぉ! 恩人に対してその言い草があるかぁ!」

「しゃあないやろ!? ほんまに知らへんねやから!」

「お前が馬鹿をやらかした時に助けを呼びに来てくれた方だ!」

そこまで言われてようやくピンと来た。寺の門前で力尽きてアスファルトの上に倒れ込んでしまったあの夜、確かに助けを呼びに寺へ走ってくれた人がいた。彼女がそうだったのだ。

「あぁ。あの時の」

よほど和尚の気に入らないリアクションだったのか、さっきより格段に強い力で、三度殴られた。





夜中の駅のホームに人影はなかった。駅員は事務室に入っているようで目に届くところに姿は見えない。安っぽいオレンジの蛍光灯に蛾が群がっていて、ベンチの塗りは剥げている。次の電車までは、もう少しだけ時間がある。

「今日はどないしたん?」

隣に腰を下ろしているの横顔を眺めながら問う。彼女はいつもと変わらない表情で、ぼんやりと線路の平行線を見ていた。

「どうもしてないけど。なんで?」

「いや、なんとなく。あーゆーとこおったから」

「駅前にいちゃいけないの?」

「女ひとりで危ないって言うてんの。それくらい分かるやろ」

は答えず、ゆっくりと瞬きをしてベンチの背もたれを少し滑った。
彼女の自暴自棄な様子に少し呆れはするけれど、その気持ちが分からなくもないのでそれ以上は何も言えなかった。人のことをどうこう言えるほど、自分は立派な人間ではない。

「佐藤くんは帰り遅くなって怒られたりしないの?」

「そら怒られるわ。あの和尚やで?」

「だったら付き合ってくれなくてもいいよ。電車じゃないでしょ」

「アホ。それこそ和尚に殴り殺されるわ」

「……おおげさ」

「いやこれホンマやから。まじで」

反対側の斜線に電車が滑り込んで、くたびれたスーツ姿の人間を数人降ろした。彼らの寂しそうな背中を見送って、先に口を開いたのはだった。

「告白されたの」

「告白?」

はまるでどうでもいいことのようにとつとつと話す。ましてや照れたりだとか、中学生らしい反応のひとつもない。けれどの言うことだから冗談とも思えなかった。

「誰に?」

「知らない人。今朝駅で」

「そりゃまた、大胆やな」

「毎朝一緒に電車乗ってたんだって。私は知らなかったんだけど」

「なんて答えたん?」

「ごめんなさいって」

「なんで? 好みじゃなかったん?」

「初めて会った人にうんって言えないよ」

「友達から始めればええやん」

「そういうの面倒くさい」

その理由があまりにらしくて、思わず笑ってしまった。笑い声は人のいないホームによく響く。は心底不思議そうに首を傾げていた。

「何がおかしいの?」

「いや、だって。中2でそんなに悟ってどうすんねん」

「別に悟ってる訳じゃないけど」

「じゃぁなんでそういう出会いを”面倒”とか言うん?」

「だって必要ないんだもの」

とその時、ホームにアナウンスが流れて電車の到着を告げた。は立ち上がってスカートの裾を直す。

白い線の内側に立つの背中を眺めながら、妙に腑に落ちない答えを、頭の中でリピートした。必要がない理由は根本的なものだろうか、それとも、それはすでに手の中にあるものだから、だろうか。もしも後者だとしたら、それは誰だろうか。自分ではないのだろうか。

騒がしい音と共に電車がホームに滑り込んだ。しゅんっと音を立てて扉が開いたけれど、の手を取ってその足を止めた。驚いて振り返る彼女の頬に、だしぬけにキスを落とす。はさらに驚いて後ずさって、掴んでいた腕がぴんと伸びた。

「……佐藤くん?」

呆然としたの顔を見ていると、何を言っていいのか分からなくなってくる。何のために引き止めたのかも、衝動的な行動の意味も、見失ってしまいそうになる。急に情けない気分になった。何をやっているんだと、に気付かれないように心中で吐き捨てた。

「ごめん。なんでもないわ」

発車のベルが鳴って、ようやく彼女の手を解放する。はまだぼんやりしてたけれど、それでも扉の向こうに足を置いた。同じ音を立てて扉が閉まる。灯りのついた車内にいるの姿ははっきりと見えた。軽く手を降ってやると、遠慮がちにも手を振り返した。

ゆっくりと発車する電車に背を向けて、ひとりで歩き出す。次にに会えるのはいつになるだろうかと、少し火照った頭の片隅で思った。






20070606