![]() 大江戸病院の五階、外科病棟の一室の扉をノックしてが訪ねたのは、怪我をして入院している土方だった。 「失礼します」 「おぉ、ごくろーさん」 四つあるベッドのうち、窓際のベッドに横になっている土方は、病院着を着て、頭と肩に包帯を巻いている。布団の下になって見えないが、左足にも怪我をしているので、ひとりでは立ち上がることもままならない。他のベッドに住人はいないらしく、きちんとたたまれたふとんと枕が規則的に重なっているだけだった。 「お加減いかがですか?」 が言うと、土方は欠伸を噛み殺した涙目で答えた。 「暇で死にそうだ」 「何よりじゃないですか。いつも忙しいんですから、こういう時くらい、ちゃんと休まないと」 「日がな一日寝てるだけってのは性に合わねぇんだよ。病院じゃたばこも吸えねぇし」 「じゃぁ頑張って早く治してください。りんごを持ってきたんですけど、食べますか?」 言って、は小さなかごに入ったりんごを軽く持ち上げてみせた。見舞い用にりぼんがかけられたそれは、赤く艷やかに光ってとても美味しそうだった。 はテーブルの上にりんごを置くと、窓を開けた。外はよく晴れていて、爽やかな風がカーテンを揺らす。 はりんごだけではなく、近藤から預かった書類を持ってきていた。土方はベッドの上でそれを読み、必要があればはんこを押し、必要があれば書き込みをし、考え事をしてじっと黙り込む。 その間に、は沖田が嫌がらせに持ってきた鉢植えの花に水をやり、冷蔵庫の中に残っていた、山崎の見舞いの品らしい賞味期限切れの真選組ソーセージを処分し、洗濯した着物とタオルを汚れたそれと入れ替えた。 雑用がひと段落してから、はカバンの中から手ぬぐいに包んだ果物ナイフと皿を取り出す。りんごはの手のひらにちょうど収まるくらいの大きさで、くるくるとりんごを回しながらナイフの刃を立てる様はまるで手品のようだ。 しゃりしゃりという規則的な音が耳に心地良く、土方はの手元をじっと見下ろした。 「器用なもんだよな」 「そうですか? 簡単ですよ」 「女って、そういうのどこで覚えてくんの?」 「私の場合は、昔の仕事場ですね。居酒屋の厨房で働いてた時に覚えたんですよ」 「居酒屋?」 「フルーツの盛り合わせって、メニューにあるでしょう? あの飾り切りをやってたんです」 「へぇ、そんな仕事やってたのか」 「その気になればうさぎりんごも白鳥りんごもできますよ。やりましょうか?」 「いや、別にいいけど。てか白鳥って何だよ?」 「白鳥は白鳥ですよ」 「そんなんあるのか?」 「あるんですよ」 言って、はくすくすと笑った。 土方はの指がりんごの表面をするする滑る様子を眺めながら、頬杖をついて考え込む。 そう言えば、が真選組の家政婦として働きはじめる前のことは何も知らないなと思って、少し虚しい気分になった。の面接をした時に履歴書を見たはずだけれど、そこに何が書いてあったかなんてもう忘れてしまったし、そもそもの過去なんて、攘夷戦争で家族を失ったことがきっかけで上京した、ということくらいしか知らない。 「お前って、昔どういう仕事してたんだ?」 「あら、お話したことありませんでしたっけ?」 思いがけないことを聞かれて、は意外そうな顔をした。 「少なくとも俺は聞いてねぇな」 「そうでしたか。でも、言う程のものでもないですよ?」 「例えば? 居酒屋の他に」 「うぅん、そうですねぇ」 は手を止めずに、少し考え込んでから、慎重に言葉を選んで言った。 「ここに勤める前は、深夜のコンビニですね」 「深夜? 何で?」 「昼よりも時給が良いんですよ。それに、昼間はクリーニング屋さんで働いていたので」 「掛け持ちしてたのか? そんなに金無かったのかよ?」 「無かったですよ。戦争孤児でしたし、頼れる人もいないし、とにかく出来るだけたくさんお金を貯めて、安心したかったんですよね」 は何でもない口調で淡々と話した。まるで昨日の天気や、夕飯の献立を思い出すような調子だ。口元は微笑んでいるけれど、目が笑っていない。 これは何か隠しているな、と踏んで、土方はを睨むように目を細めた。面白くなかった。 「で、他には?」 「他には、お弁当工場とか、引越し屋とか、スーパーのレジ打ちとか、あとは……風俗店でも働きましたね」 はそう言って、りんごの皮を剥く手を止めた。 「風俗? 何やってたんだよ? ホステス?」 「えぇ、まぁ、そんなところです」 「嘘だろ」 ずばりと言った土方に、は口を真横に曲げた。 「えぇ? どうしてそうなるんですか?」 「顔に書いてあんだよ」 「本当ですよ。上京して、一番最初の仕事だったんです。嘘なんかついてません」 「嘘じゃねぇんなら、誤魔化してるか、都合の悪いことを隠してるかだな」 「……どうしてそう、根掘り葉掘り……」 「気になるんだからしょうがねぇだろ。いいから、本当のことちゃんと教えろよ」 土方はまっすぐにを見つめていた。その視線には有無を言わせない力があって、は言い逃れる術を見失ってしまう。素直に答えなければ、きっと許してもらえないだろう。 けれど、もし、お世辞にもきれいとは言えない過去を暴露して、土方に嫌われてしまったら。そう思うと体の芯が冷えた。今度こそ、真選組に、土方のそばにいられなくなってしまうかもしれない。 左手にりんご、右手に果物ナイフを握った手に無意識に力を込めて、は表情を曇らせた。 「……ファッションヘルスを、やっていました」 土方は何も言わず、先を促すようにを見つめ続けている。 「あの頃は、お金も、住むところもなくて、どうしたらいいか分からなくて……。そのお店は、店長が持ってるアパートに従業員を住まわせてくれていたので、そこで2年くらい働きました」 「何でそこ辞めたんだよ?」 「年齢のこともあって、指名が減ったからです。2年間で少し貯金も出来たし、アパートを出て、ちゃんと自分で部屋借りて、その後、さっき話したお弁当工場とか、引越し屋とか、レジ打ちとか……。いろいろ掛け持ちしてました」 「そんなに働いて……、体壊したらどうするつもりだったんだ?」 「はい。だから、壊したんですよ」 「はぁ?」 土方は顎が外れそうな顔で驚いた。は土方のその反応に驚いて、思わず果物ナイフを振り上げてしまった。 「そんなに驚くことですか?」 「だってお前、健康なところが取り柄ってツラしてっから。ってか、危ねーよ」 「すいません……。今は、気をつけてるからですよ。あの時は、過労で1ヶ月くらい入院したんです」 「1ヶ月って、入院費とかどうしたんだよ?」 「貯金でなんとかしました。まぁ、その入院でほとんどすっからかんになりましたけど」 土方は返す言葉が見つからないのか、金魚のように口を開いては閉じ、閉じては開く。 は、土方に驚かれたことに、驚いていた。ヘルス嬢の経験があることを知られたら、きっと気分を害するだろうと思っていたし、最悪の場合は嫌われてしまうかもしれないと思っていた。けれど、そうはならなかった。むしろ、土方はこんなにも自分の体を気遣ってくれる。安心して、ため息が出た。緊張して冷えた体の中の空気を吐き出して、代わりに温かな何かで体中が満たされた気がした。 「……苦労したんだな、お前」 何とか言葉を見つけた土方は、ぽろりとこぼすようにそう言った。 その瞬間、は目頭が熱くなって、とっさに顔を伏せた。のどがぎゅっと締め付けられて、呼吸が止まる。胸の奥が熱くて、その塊を吐き出してしまいたいのにやり方がわからない。土方に顔を見られたくなくて顔を伏せた。 「?」 土方は、急にうつむいたの顔を上げさせようと、頬に手を伸ばした。は小さく抵抗するけれど、怪我をしているとは言え、土方の力には敵わなかった。 「泣いてんのか?」 土方は心配そうにの顔を覗き込んだ。その瞬間、堪えていた涙が頬を伝って、それを誤魔化すために、は笑った。 「違います。欠伸が出たんです」 「嘘つくなって。俺、何か悪ぃこと言ったか?」 「いいえ、そんなんじゃないんです。本当に、何でもないんです」 「何でもないなら泣くな。あれこれ聞いて悪かったよ」 土方の親指が、の涙を拭う。その手のひらがとても温かくて、は心から安心して、熱い息を吐いた。 あの頃、が何よりも欲しかったものは、他の何でもなく安心だった。お金があれば安心できると思って必死に働いた。けれど、働くことは希望ではなく苦痛だったし、頑張ればきっと明るい未来があると信じていたけれど、結局は体を壊しただけで何も得られなかった。それが苦労でなくてなんだろう。土方のおかげでやっとそのことに気づいた。あの頃はただ毎日を生きるだけで精一杯だったけれど、本当はとても、辛かったのだ。 けれど、過去は過去だ。今ここには、手を伸ばせば届く距離に土方がいる。は、甘えるように土方の手に頬をこすりつけた。この手があれば、これから何が起こっても自分は大丈夫だと思えた。これ以上ないほど満たされた気持ちになって、は自然に微笑んだ。 「りんご、食べましょう。美味しいですよ」 その笑顔に、土方は心臓をわし掴みされたような気分になった。泣きながら微笑むは、今までに出会ったどんな女よりも綺麗だった。自分が傷つけて泣かせてしまったというのに虫のいい話だが、得体の知れない支配欲が背筋を這い上がってきて、とっさにの首を掴んで体を引き寄せた。 「……マヨネーズ取ってくれ。冷蔵庫に入ってっから」 そうして、ふたりは短いキスをした。窓から優しい風が入り込んで、祝福を贈るようにふたりを包んだ。 20140915
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