![]() 今夜、真選組の屯所で酒宴が催されることになった。長期間掛かりきっていた大きな任務がひと段落したらしく、その準備では一日中大わらわだった。 いきつけの酒屋に朝一番注文の電話を掛け、つまみ用の材料の買い出しをし、徳利とお猪口、ビールグラスやワイングラスなどあらゆる酒器を棚から出して洗って、宴会用のテーブルを倉庫から出して拭く。その作業をすべて午前中に終わらせて、午後からは料理の仕込みを片っ端からこなした。隊士全員が参加する宴になるという話だったので、準備をするだけで一日作業だ。 やっと全てがひと段落したと思えば、隊士に酌を頼まれ宴会場に引っ張り出され、酔っ払った男達の笑い話や自慢話や愚痴に耳を傾け、にこやかに相槌を打ち、酔い潰れた隊士を介抱して寝かせてやった。 結局、がこの仕事から解放されたのは真夜中を過ぎてからだった。まだまだ飲み続けている隊士たちのそばから、汚れた食器を片付けるついでに逃れて台所に戻ると、一日の疲れがどっと押し寄せてくる。 ひとりっきりの台所はとても静かで居心地よかったけれど、酔いつぶれて寝てしまった隊士の大きないびきや、大きな笑い声がときたま響いてくる。 あの人たちのために、私は身を粉にして働いているんだわ、と思うと、ため息がこぼれた。 汚れた食器が流しに溢れていて、それを今夜のうちに洗って片付けようという気にはとてもなれなかった。食洗機を使うにしても、下洗いをしてからでないと汚れが落ち切らない。酔った隊士たちは無駄に酒やつまみをこぼすので、汚れたふきんも籠の中に山積み、酒の染みがついた畳も放ってきてしまったので、きっと明日の掃除が大変だ。プロのクリーニング業者に依頼したほうがいいかもしれないし、場合によっては畳も替えなければいけないかもしれない。近藤に頼んでお金を出してもらおうかしら。 酒の空き瓶から匂い立ってくる甘く苦い香りが余計にの気持ちを萎えさせる。頬杖をついて、窓の外をじっと眺めているともうそこから一歩も動く気がしなくなった。今夜は大きな満月が出ていて、街のネオンも相まって灯りをつけなくてもとても明るい。このまま夜の中に閉じ込められて、二度と朝が来なくてもいい。そうすれば、食器を洗わなくても、ふきんを洗濯しなくても、畳を替えなくてもいい。 いい夜だもの。日々の雑用に体をすり減らせることないじゃない。いつになく自暴自棄な気持ちになって、はひたすらぼんやりすることに専念した。 「? いるか?」 そんなを夜の中に見つけたのは、青い顔をした土方だった。どうやら飲みすぎて戻してきたところらしい。 「あら、土方さん」 「水くれねぇか?」 「水道水でいいですか?」 「何でもいいからくれ」 は力の入らない体をなんとか起こして、最後に残っていたグラスに水をくんで土方に渡す。土方はがいつも料理をするときに使っている作業用の丸椅子に足を開いて座り、両肘を足について深くうつむいて今にも吐きそうなゲップをした。 「大丈夫ですか?」 「おぉ。久しぶりに飲みすぎた」 ぐい、と水を飲み干す。それでも息が酒臭くて、は前髪の下で眉間にしわを寄せた。 「お酒強くないのに、無理な飲み方するから」 「今日くらいハメ外したっていいだろ。大変だったんだよ、今回の仕事は」 「そうですか。それはお疲れ様でした」 「そんなつれない言い方すんなよぉ」 酔っているせいで、土方の口調はだらしなく間延びしている。さっきまで相手にしていた隊士の愚痴を思い出して、は辟易した。せっかく屯所の中でが唯一主導権を握れる場所に逃げてきたというのに、ここで酔っ払った土方の相手をするなんてごめんだ。ここは何とかして土方を部屋に追いやらなければならない。 そうしたいのは山々だった。けれど、皿にもふきんにも畳にも手をつけたくない今、土方を部屋まで送り届けて寝かせることはとても力のいる仕事に思えた。は散々迷ったあげく、丸椅子をもう一つ持って来て、土方の前に座って話を聞いてやることにした。 土方は酔って潤んだ目で瞬きをして、不思議そうにをじっと見つめた。 「何してんの?」 「話を聞いてほしそうだったので」 「酌してくれんの?」 「そんな青い顔して、お酒なんてもういいでしょう」 「訳わかんねぇ奴だな。酒もなしに話も何もねぇだろ」 「お話がないならもう休んだらどうですか? 部屋までお送りしましょうか?」 「馬鹿言ってんじゃねぇ。部屋ぐらいひとりで帰れるわ」 「じゃぁ、お水を飲んだらちゃんとひとりでお部屋に帰って寝てくださいね」 土方はちびりとグラスの水を舐めるように飲む。テーブルに頬杖をついて、どろりと溶けそうな目でを眺めていて、何を考えているのか分からない。酔いつぶれる寸前のようだから、大したことは考えていないだろうけれど、その目は粘りつくようにを絡め取って離さない。 は困った。こんなに疲れていて、なんにもやる気が起きない。だから土方を無理矢理部屋に追いやることもできない。土方の方がここにいることに飽きてくれればいい。水を飲んで少しすっきりして、睡魔に襲われてくれたらいい。もしくは、また吐き気をもよおして厠にでも駆け込んでくれたらいい。 「」 「何ですか? ビニール袋ですか?」 「いらん」 「洗面器のほうがいいですか?」 「だからいらねぇって」 土方は水の入ったグラスをカタンッと音を立ててテーブルに戻した。 「お前。なんか怒ってる?」 「はぁ? 何にですか?」 「それは俺が聞きてぇよ。何怒ってんのお前?」 酔っているとはいえ、あんまりな言い草には呆れた。そんなに不機嫌そうな顔をしていただろうか。 「怒ってませんよ」 「怒ってんだろ。顔に書いてあんだよ」 「私がどんな顔してるって言うんですか?」 「なんかこう、安月給の旦那を持つ嫁の給料日前みたいな?」 「安月給の旦那なんかいません」 「こう、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでる感じだよ」 「はぁ」 「何? そんなに楽しくなかったか? 今日は」 「はぁ?」 「何そんなに驚いてんの?」 「土方さんこそ、今日、私が楽しめるポイントがどこにあったとお思いですか?」 「楽しかっただろうがよ。あんなに飲んで食ってしたの久しぶりだぜ? 隊士らもずいぶん羽伸ばしてたしよぉ。お前も楽しそうに連中に酌してたじゃねぇか」 は頭に何か熱いものが込み上げてきて、こめかみの辺りを引きつらせた。 「あの、土方さん。こういう酒宴の時って、お酒やら食器やら食べ物やら、全部準備しているの、私なんですよ。後片付けもこれからしなくちゃいけなし、自分でお酒飲む暇もないですし、こういうこと言うのも何ですけど、結構大変なんですよ?」 「おぉ、そうだったか。そりゃぁ悪かったな」 「そうなんですよ。私は忙しいんです。これから後片付けするんですから、土方さんはそろそろお部屋に帰ったらどうなんですか?」 「そうだな。そろそろ夜も更けてきたしな」 「そうですよ。早く寝ないと明日の仕事に差し支えますよ」 「そうだな」 そう言いつつ、土方はぴくりとも動こうとしない。目を開けたまま眠っているのじゃないかしら。と思ったらまたグラスの水を舐めた。そもそも土方は酔っているのだから、まともに会話をしようというのがそもそもの間違いだったのだ。 一日の激務で疲れ果てて、酔った土方の言葉に腹を立てて、これ以上何をする気にもなれない。はため息をついて肩を落とす。 それを見て、土方は突然音を立てて立ち上がって、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。それは普段隊士たちが愛飲している第3のビールで、誰かに横取りされないよう「小林」と名前が入っていた。 土方はグラスの水を飲み干すと、プルタブを引いてあいたグラスにビールを注ぐ。 「ほれ」 「………何の真似ですか?」 「いや、疲れてるみたいだから」 「まぁ疲れてますけど」 「誰もお前に酌もしねぇで悪かった。ほら、飲めよ」 土方は、に無理矢理グラスを持たせ、中身が半分ほど残った缶をグラスに打ち付けて乾杯した。グラスとアルミ缶が鈍い音を立てて、白い泡が波立った。 土方が喉を仰け反らせてビールを飲むので、仕方なくもグラスに口をつける。酒を飲むのは久しぶりで、ビールの苦味が舌をじわりと覆う感覚が新鮮だった。よく冷えた液体が喉を通っていく。気持ちが良かった。 「……美味しい」 「そうか、そりゃ良かった」 「これで私は機嫌を取られているわけですね?」 「酒は美味いんだから、いいだろ。ごくろーさん」 ビールの泡がしゅわしゅわとグラスの中で踊る。窓から差し込んできた月灯りがそれを照らして、ほんのりと黄金色に輝いた。グラスのそこから昇るあぶくは真珠のかけらのようで、海の底にひっそりと眠る小さな宝物のように思えた。 はグラスの中にある小さな黄金色の海に見とれながら思う。土方のたった一言ですんなり浮上してしまうなんて、我ながらなんて単純なんだろう。少し悔しい。は無意識に唇が尖らせて俯いた。 「? どうした?」 「いいえ、何でも。ちょっと自分の感性を疑いたくなりました」 今日はもう、何にもやりたくない。ただ夜が更けるに任せていたい。遠くの宴会場から、隊士たちの下品な笑い声や大きないびきが聞こえてきて夜の静寂を彩る。手のひらにある小さな海と真珠のかけら。月灯りがいっそ眩しい。そして何より、土方が隣に座っていてくれている。 今、もしかしたら、私はとても幸せなのかもしれない。 「……いい夜ですね」 はため息に乗せてつぶやいた。軽くすねて尖らせた唇はそのままに、穏やかに微笑みながら。 「あぁ、そうだな」 そんなを、土方はいつまでも飽きずに眺めていた。 20140818
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