真選組の屯所には、隊士の稽古のための道場がある。日々の鍛錬を積む隊士や、週末には、近藤局長が子ども達を相手に稽古をつける子ども剣道塾を開いていて、いつも人気の絶えない道場だった。

ここから人気がなくなるのは、朝夕の食事時くらいで、その時間にしかここに足を踏み入れない人がいる。土方だ。

夕闇迫る薄い闇の中、道着もつけずに無心に剣を振るう。顎の先から汗が滴り落ちて、床を濡らす。硬くなった足の指がその水滴を踏んで床板を甲高く鳴らす。ひとりきりの道場にその音はよく響いた。人が大勢いればその人熱で蒸し風呂のようになるが、今はしんと空気が冷えていて、土方の周りだけが熱を帯びていた。その肌から湯気さえ立ち昇っているようだった。

最後の太陽が西の空に消える直前、一日の終わり。残光が窓の端にわずかに反射した。

物音がした。土方は竹刀を振る手を止める。研ぎ澄まされた感覚が、入り口から顔を半分だけ覗かせこちらを見ているの姿を捉えた。逆光で表情は暗いが、長時間灯りもつけずにいたので、暗闇に慣れた目にははっきりと見えた。しまった、というように小さな手が口元を抑えた。

「何だ?」

乱暴な声が出る。稽古中の姿をが見にくることはこれまでなかったし、ましてひとり鍛錬する時間は、隊士達にすらほとんど見せたことはない。

「すみません。お邪魔するつもりはなかったんですけど……」

「何の用だって聞いてんだよ」

「洗濯物、片付けに来ただけです」

は抱えた竹かごの中に積まれた手ぬぐいの山を見せた。

土方は息を吐いた。張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまった。竹刀を下ろして、腰にぶら下げていた手拭いで汗を拭う。今日の稽古はここまでだ。

は土方がいる方とは真逆の壁際、ちょうど掛け軸のかかった床の間の隣、小さな桐箪笥がしつらえてある場所で膝をついてかがんでいる。薄暗い中に、のうなじが艶かしく白く存在感を放っていた。

「何で今日に限ってこの時間なんだ?」

土方は声を張り上げた。およそ二十畳ある道場では、それくらいの声を出さないと届かない。

「え?」

はひざまずいたまま、少しだけ頭をもたげた。

「お前がここに来るの初めて見たぜ」

「土方さんがいない時に来てたんですよ」

「じゃぁなんで今日は今なの?」

「お邪魔したんだったら、すいません。もうこの時間には来ませんから」

「そうじゃなくて。俺の質問にちゃんと答えろよ」

肩にかけた手ぬぐいの端を握って振り下ろすと、その勢いでぱんっと高い音が鳴った。その余韻が道場の真ん中に残って、耳の奥にいつまでも響いた。

は道場の隅から土方を見上げている。薄暗い部屋の隅に闇が集まって、の周りに一足早く夜が来たように見えた。すくっと立ち上がったはわずかにうつむいて、口を開きかけて、止めた。

「どうした?」

「いいえ。稽古中の土方さん、初めて見たので。ちょっと驚いたというか、珍しいものを見てしまったなぁというか……」

「人を天然記念物みたいに言うなよ」

「ふふっ、ごめんなさい」

はからの竹かごを持って、やっと表情が見えるくらいのところまで歩み出てきた。

「本当に、お邪魔してしまってごめんなさい。土方さんがいつもひとりで稽古してることは知ってたんですけど、今日この時間にここに来たのは、本当はこっそり土方さんの顔を見てみようかなって思ったんです」

「あぁ?」

「こっそり覗くだけならばれないかなぁと思ったんですけど。全然だめでしたね」

「そうだな。ばればれだった」

「すみませんでした。もうしません」

「俺だけじゃなくて、他の連中がやってる時も邪魔してくれるなよ。気が散ってそれどころじゃなくなっからな」

「はい……」

頷きかけて、は迷うように口元を抑えた。何か言いたいことがあるようだったけれど、土方は見ないふりをして踵を返す。道場のそばに小さな井戸から組み上げるタイプの蛇口があって、手拭いを濡らして汗だくの体を拭う。よく冷えた井戸水は火照った体に心地いい。そこへ柔らかな夜風が吹いてきて肌をなぜた。

「土方さん。やっぱり、また見に来ちゃだめですか?」

「はぁ? ダメだっつってんだろ? 何なんだよお前?」

嫌そうに口をひん曲げて、土方は吐き出すように言った。

はいつもとてもおとなしい性格で、土方や近藤から言いつけられた仕事に嫌といったことは一度もない。小さなこととはいえ、土方の言い分に逆らったのはこれが初めてだ。

「お前を雇うときに言ったよな。お前はあくまでも家政婦で、真選組の任務には一切関わらせねぇって」

「剣術の稽古は任務じゃないでしょう?」

「任務のための稽古だ。隊士たちには道場稽古も任務のうちっつって指導してんだよ。駄目なもんは駄目だ」

土方は語気も荒く、突き放すように言い放ったけれど、その恐ろしい程の鋭い目つきと鬼のように低い声はには全く効果がないようだ。

は平気な顔で土方のそばまで来ると、懐から手拭いを一枚取り出して、土方の額を滴る汗を抑えた。濡れた手拭いを持ったままとっさに身動きができなかった土方は、あっけにとられて目を丸くした。

「そんなに濡れたままでいると、風邪ひきますよ」

「……話をそらすなよ」

「すいません。土方さんがそんなに稽古を見られるのが嫌だって言うなら来ませんよ、私だって。でも、なんだか、いいなぁて思ったんですよ」

「いいって、何が?」

「例えるなら、野球部の女子マネージャーの気分っていうか」

「いや、真選組は部活じゃないからな」

「ふふっ。わがまま言ってすいません」

が何を面白がっていつもいつもにこにこしているのか、土方にはどうしても分からなかった。普段笑顔ひとつ浮かべることのできない土方にとって、の笑顔は不可解極まりなかった。けれど、軽やかなその笑い声は耳をくすぐるように心地良く、耳の裏の柔らかい部分を撫でられるような刺激があって、土方は肩を強ばらせる。

額を拭った時にわずかに触れたの指先は氷のように冷たかった。それが自分の肌から離れていくのが惜しい。無意識にその手を取ろうとした自分に驚いて手の動きを迷った瞬間に、の冷たい手は土方の目の前をすっと通り過ぎていった。

薄闇の中に溶けてしまいそうな風情で、はそこに立っている。ただでさえ白い肌が闇の中では余計に白々しい。この火照った体で触れたらきっと気持ちが良いだろう。込み上げてくる欲求に抗うのが苦しくて、土方は行き場をなくした手のひらに顔を埋めた。

「土方さん? どうかしましたか?」

「……。お前って奴はぁ……」

「え? 私、何かしましたか?」

正直に答えられるはずもなく、土方は内心、地面をのたうち回るような気持ちでため息をついた。

「野球部のマネージャーになる気ならな」

のまっすぐな視線を受け止めきれず、土方はあさっての方向に視線をそらして冷めた態度で言った。

「隊士のやる気を削ぐようなことは絶対すんじゃねぇぞ」

「見に来てもいいんですか?」

「稽古を見に来るのは週一回だ。それ以上は絶対に駄目だ」

「差し入れを持ってきてもいいですか?」

「あぁ、まぁ、いい。甘いもんは駄目だぞ。運動中に食って体にいいもんを持ってこい」

「ありがとうございます! 土方さん」

は目をきらきら輝かせ、幼い少女のように笑った。何がそんなに嬉しいのやら、土方は呆れるやら、恥ずかしいやらで、を直視できない。

視線のやりどころに困ってため息をつきつつ空を仰ぎ見る。そこには、夜のはじめの一番星が光っていた。













照れ隠しに冷めた態度









20140803



稽古中に汗だくの土方を書きたかった。あとマネージャーって使いたかった。