ゴッドマザー

















 のどかな日曜日の朝。米花公園。

 子ども達が元気な声を上げながら駆け回っている。少し離れた場所でそれを見守っているのは子ども達の親だろうか、女性が3人ほど集まって世間話に花を咲かせている。大きな犬のリードを引いて散歩をしている初老の男、ランニングウェアにサングラスをかけたスポーツマンが颯爽と駆けていく。

「平和だねぇ」

 は公園のベンチでコーヒーを飲みながら、膝の上に頭を乗せている少女の髪を撫でた。

「呑気ね、あなたは」

 少女、灰原哀は青白い顔を隠すようにハンカチを目元に乗せていた。唯一見えている口元は、不機嫌そうにへの字になっている。

「こんなに人の集まる場所で、どうしてそんなにリラックスしていられるの? よっぽど図太い神経してるのね」
「それを言うなら志保ちゃんもでしょ。熱中症になるまで夢中でサッカーしてたくせに」

 灰原は、小学校の友人達と一緒に朝からサッカーの練習に励んでいた。ボールを追いかけるのに夢中になりすぎて、水分補給をすっかり忘れていたらしい。ビッグ大阪のキッズユニフォームに身を包んでいるところに、灰原の本気が現れている。

「志保ちゃんがこんなにサッカー好きだったなんて、知らなかったな」

 灰原はハンカチを下にずらし、じろりとを睨んだ。

「その名前で呼ばないでくれる? 今の私は灰原哀よ」
「あ、ごめん。哀ちゃん、ね」
「まぁ、あなたがたまたまこの公園のそばを通りがかってくれたおかげで助かったけどね」
「膝を貸してあげてるだけよ」
「大人がいてくれるだけで心強いわ。子どもの体は体力もないし」

 その時、おーい! と声がして振り返ると、灰原と同じ年頃の少年がひとり、ペットボトルを抱えて走ってきたところだった。

「買ってきたぞ。はい、お姉さん、これお釣り」

 少年はペットボトルを灰原の手に渡し、尻ポケットから取り出したものをの手のひらの上に落とした。100円玉が3枚、五円玉が1枚、10円玉が2枚。自動販売機でペットボトルを一本買うための持ち合わせがなかった子ども達のために、が500円玉を援助したのだ。

「ありがとう、助かったわ」

 灰原は、と少年ふたりに向けて言うと、ゆっくりと起き上がってベンチに背を預けた。ペットボトルのキャップを捻って喉を潤すと、心地良さそうなため息をこぼす。

「ったく、熱中症で倒れるなんて、子どもじゃあるまいし」

 と、少年があきれ顔で言う。
 灰原はむっとして反論した。

「仕方ないでしょ、子どもの体の扱いにはまだ慣れてないのよ。この程度の運動量で熱中症になりかけるなんて、予想外だったわ」

 どこからどう見ても子どものふたりが、やけに大人びた口調でそんなことを言い合っているのがおかしくて、は必死で笑いをこらえた。
 口論は続いている。

「体の扱いって。最近じゃ、毎朝、熱中症注意情報も出てるんだから分かるだろうが」
「今朝のその時間は、地下室にこもってたのよ」
「地下室なんてじめっとした暗い部屋に閉じこもってっから、外気温になかなか体が順応しねぇんだよ。それでいきなり激しい運動したら、倒れて当たり前だな」
「だから、反省してるってば。うるさい男ね。推理オタクの次は健康オタクにでもなるつもりなの?」

 ついに、はこらえ切れずに吹き出してしまった。はっとしてなんとか笑いを収めたものの、子ども達は白けた目でを見ている。

「あぁ、ごめん。笑ったりして」
「別にいいけど。あなたのおかげで助かったんだし」
「お姉さん、灰原と知り合いなの?」

 少年が眼鏡の奥の目を丸くして言う。は少年と目の高さを合わせて答えた。

「えぇ。一度、一緒に雨宿りしたことがあるの」
「へぇ、そうなんだ」
「ちょっと、江戸川くん。私の人間関係を勝手に詮索しないでくれる?」

 灰原は不愉快そうに言い、江戸川と呼ばれた少年は腰が引けたように苦笑いした。

「べ、別に、詮索してるつもりなんかねぇよ。人聞きの悪いこと言うなよな」
「どうだか。また頼まれもしないのに、さんのことじろじろ観察して、勝手に推理してたんでしょ。あぁ、いやらしい」
「いやらしいって、お前……」
「江戸川くんは、推理が好きなの?」

 は江戸川に助け船を出すつもりで口を挟んだ。江戸川に対して、灰原はずいぶん当たりがきつくて、少し可哀想になったのだ。

「好きなんてレベルじゃないわ、オタクよオタク」

 江戸川を罵るときの灰原は、どこか生き生きしていた。クールでスマートな組織の科学者・シェリーのイメージとはずいぶんかけ離れているけれど、は今の灰原も好きだった。

「まぁまぁ。そんなに推理が好きなら、何か推理してみせてくれない?」
「推理? いいの?」
「どうぞ」

 江戸川はを頭のてっぺんからつま先まで舐めるように観察すると、一度厳しく顔をしかめてから口元に手を当てて考え込む。こんなこと言ってもいいのかな、どうしようかな、と悩むような間があって、江戸川は慎重に口火を切った。

「お姉さん。教会でボランティアしてるでしょ?」
「どうしてそう思うの?」

 はきょとんと目を丸くすると、江戸川はぱっと得意げに笑って見せた。

「お姉さんが飲んでるコーヒーカップに、教会の名前が入ってるよ。今日はバザーがある日だから、そこでもらったものなんじゃない? それに、お姉さんの靴、土で汚れてる。その赤茶色の土は、おそらく教会が管理してる畑のもの。あそこの教会は、畑で育てた野菜を使って子ども食堂をやったり、ホームレスの人のための炊き出しをやってるんだ。その畑に入れるのは牧師さんの家族か、ボランティアだけのはず。牧師さんは奥さんとのふたり家族だから、お姉さんはボランティアで決まりってわけさ」
「すごーい! 大正解! 江戸川くん、すごいね!」

 は思わず胸の前で両手を合わせて拍手した。江戸川はまんざらでもなさそうに後ろ頭をかく。

「いや、それほどでも」
「そうだ、正解したご褒美におやつあげる。バザーで作ったマフィンの余りものなんだけど、良ければどうぞ」

 は使い慣れたサコッシュから、チョコバナナマフィンと、アーモンドとくるみとマフィンは子どもの手のひらにちょうどいいひと口サイズで、教会の婦人会の活動に混ざってが作ったものだ。

「いいの?」
「どうぞ。今度、バザーにも遊びに来てね。とれたての野菜で作ったスープも出してるし、楽しいよ」
「うん! ところでお姉さん、僕……」

 と、その時、大きなクラクションが鳴り響いて、三人は同時に振り返った。ベンチの真後ろはフェンスを挟んで車道になっていて、そこに白いRX-7が停まっている。

 運転席の窓を開けて顔を見せたのは安室だ。

「やぁ、こんなところで何してるの?」

 は、上半身をひねってベンチの背もたれに腕を引っかけて答えた。

「そっちこそ、今日は仕事じゃなかったの?」
「それが、急に予定が変更になってね。このあたりをドライブしてたんだ」
「あ! 安室の兄ちゃん! こんにちは!」

 江戸川はベンチを回り込むと、フェンスを掴んで安室に駆け寄っていく。その隙に、灰原はパーカーのフードを目深にかぶって体を小さくした。

「やぁ、コナンくんじゃないか。ふたりは知り合い?」
「ううん。しゃべったのは今日が初めてだよ」
、もし良ければ、これから少し付き合ってくれないか? 無理にとは言わないけど」
「うーん、どうしよかっな」

 は背中を丸めると、ベンチの背もたれに体を隠した灰原に耳打ちする。

「もし、まだ具合が悪いなら、彼に家まで送ってもらったらどう? 私から頼めばそうしてくれると思うけど」

 灰原は厳しい目で断固拒否した。

「いくらあなたの申し出でも、それだけは遠慮するわ」
「まぁ、そう言うと思ったけど。体は本当に大丈夫?」
「おかげさまでずいぶんいいわ。無理しないから、もう行っていいわよ」
「そう? 辛かったら、江戸川くんにちゃんと送ってもらうのよ」
「分かったってば」

 が顔を上げると、安室と江戸川がフェンス越しに顔を突き合わせておしゃべりしていた。声を落として内緒話をしているようで、声は聞き取れない。江戸川という少年は推理にとても興味があるようだから、探偵業を生業にしている安室に興味津々なのだろう。

「ちょっと」

 ふと、灰原がの服の袖を引いた。

「あなた、あの男とまだつるんでるの?」

 灰原は、安室の正体が公安警察の降谷零だという事実を知っても、決して警戒を解かない。徹底的に避け、組織側の人間と関わるのは危険だという姿勢を崩さない。

 は灰原の小さな手をぎゅっと握って、安心させるように微笑んだ。

「利害関係が一致してるから、一緒にいるだけよ。前にあなたが教えてくれたんじゃない。自分の人生から逃げちゃだめだって。私はもう逃げてないわ」
「でも、あなたのやり方はあまりに無謀で、投げやりにも見えるわよ」
「そう? どんなところが?」

 灰原は不潔なものでも見るように目を険しくする。そのまなざしではようやく灰原が何を言いたいのか理解した。灰原の本来の年齢は、確か18歳だ。それではの気持ちを推し量るに若すぎるのかもしれない。

 は苦笑しながら、そっと灰原の手の甲を叩いた。

「私はただ、人生を楽しんでいるだけよ。哀ちゃんがサッカーに夢中になってるのと同じようにね」
「でも私は、わざわざ敵の領域に足を踏み込むような危険は冒してない」
「私だってそうよ。ねぇ、哀ちゃん。私を心配してくれてありがとう。その気持ちはすっごく嬉しいし、こういうことを面と向かって言ってくれる友達がいて、私はとても恵まれてると思う。感謝してる」
「だったら、私の忠告にも耳を貸しなさいよ」
「もちろん、絶対に忘れない。だから、哀ちゃんも私を信じてよ。大丈夫だから」

 まだ何か言いたそうな灰原の手を解き、は灰原をぎゅっと抱きしめてからベンチを立った。灰原は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっていた。

 灰原とは、組織から逃げて生き延びたという共通点において、他には代えがたい価値を互いに見出している。けれど、魂の奥に刻まれているゆずれない価値観や信念は、全く違っている。別の人生を生きてきた人間なのだから当然のことだ。

 その違いさえ認め合えれば、ふたりの関係はきっと長く続いていくだろう。複雑なまなざしで自分を見送る灰原に手を振りながら、は、灰原との関係ができる限り長く良いものとして続くようにと願わずにはいられなかった。



「お前、あの人と知り合いなのか?」

 を乗せた安室の車が走り去ったのを確認してから、江戸川コナンは真剣なまなざしで言った。

「まぁね」

 灰原はフードを背中に落とし、風に髪を躍らせながら答えた。

「どういう人なんだ?」
「あなた、自分で推理してたじゃない」
「そうじゃなくてよ、お前、気づかなかったのか?」
「何を?」

 江戸川は、にもらったバナナチョコマフィンを、まるで小さな爆弾を持ったように見下ろした。

「あの人のサコッシュに、拳銃が入ってた」

 灰原は無表情にアーモンドとくるみのマフィンのフィルムを剥がしながら目を細めた。

「見たの?」
「布のふくらみ方で分かった。マフィンからかすかに火薬のにおいがするし。間違いない」

 灰原はマフィンに鼻先を近づけてみたけれど、ナッツの香ばしいかおりと甘い匂いしか感じなかった。

「そうかしら?」

 江戸川の嗅覚は警察犬なみだな、と考えながら、灰原は小さな口でマフィンの端をかじる。

「他に何か気が付いたことはある?」
「あぁ。あの人、安室さんの恋人らしい」
「へぇ、そう」

 江戸川は安室の車が走り去った方を睨み、口元に手を当てる。

「安室さん、仕事が急になくなったって言ってたけど、ポアロは今日、町内会の慰安旅行で元から休みの予定なんだ。ということは、急になくなったのは公安の仕事なのかも。あのって人、安室さんと関りが深いんなら、公安の捜査員かな。けど、安室さんが誰かと一緒に捜査しているところなんて見たことないし、何か新しい作戦が動き出してるのか、それとも……」
「あの人が組織の人間だとは思わないの?」

 まさか、と言いたげに、江戸川は肩をすくめた。

「もしそうだったら、お前があんなに安心しきって膝枕なんかさせてもらってるわけないだろ?」
「まぁ、それはそうね」

 灰原は、内心ではほっとしていた。

 組織に関することであればどんなに小さな情報でも欲しがっているこの推理馬鹿には、絶対にを関わらせたくなかった。

 の正体を江戸川に告げれば、きっとしつこくの周りを嗅ぎ回るに違いない。彼の執拗さと執念深さは折り紙付きで、組織の情報ならばどんなにささいなものでも喉から手が出るほど欲しがっている。

 江戸川の好奇心からを守りたい、そう思うくらい、灰原はのことが好きだった。

 が安室と付き合うことは、正直に言って大反対だ。利害関係が一致していると言うけれど、大きな危険を冒しているとしか思えない。

 けれど、それを決めたのは本人なのだから、その選択は尊重しなければならないとも思う。

 が安室と付き合い続ける限り、の友人として付き合うことにはリスクが伴う。灰原はそのことについてよく考えた上で、との関係を諦めないとを決めた。

「おい、灰原。もしかしてお前、何か知ってるのか?」

 江戸川が不満そうに言った時、公園の向こうから、少年探偵団の3人が走ってくるのが見えた。歩美が先頭を走っていて、元太と光彦が阿笠博士の手を取り、重そうな体を引きずっている。

「哀ちゃん! 待たせてごめんね!」
「博士、連れてきましたよ!」
「今日はもうサッカーは終わりにして、博士んちでカレー食おうぜ!」
「哀くん、具合はどうじゃ? 心配したぞ」

 騒々しく声を上げながら駆け寄って来た四人を見ると無性にほっとして、思わず口元がほころんだ。ここは灰原にとって心から安心できて、手足も心も自由にのびのびとできる場所だ。

 子ども達とは仲良くやっているし、好かれているとも思う。博士は見ず知らずの自分を助け、家に迎え入れてくれた。あの雨の夜、工藤邸の前で行き倒れた時からずっと、本当の祖父のように温かい目で見守ってくれている。自分はとても幸運だし、恵まれていると思う。

 けれどその一方で、ほんの少しだけ、物足りなさも感じていた。大人同士の会話に飢えていた。

 灰原は、解けない謎にしかめっ面をしたままの江戸川をふふんと笑い飛ばす。推理馬鹿の好奇心ために、大切な友達を犠牲にしない。それが灰原の矜持だ。

「えぇ、ずいぶん楽になったわ。心配かけてごめんね。みんな、マフィン食べる?」
「マフィン? どうしたんじゃ、それは?」

 阿笠が不思議そうに言う。
 灰原は胸を張って答えた。

「もらったの。私を助けてくれた友達にね」



 が助手席に乗り込んでシートベルトを締めると、安室はギアを変えて丁寧にアクセルを踏んだ。なめらかに滑り出したRX-7は、公園を離れ、住宅街を抜け、広い車線の表通りに出て加速する。

「あの女の子とは、知り合いなの?」

 は車内にざっと目を走らせ、盗聴器や監視カメラがないことを確認しながら言った。

「熱中症で倒れたところを、面倒見てあげただけよ」

 灰原があれほど強く拒否している以上、安室に彼女の話をする気は毛頭なかった。安室との関係は大切だけれど、それとはまったく別の意味で灰原との関係も大切だ。

 ふと、ヘッドレストにきらりと光るものがある。指先でつまんでみると、金色の毛髪だった。安室の髪より色素が薄く、明らかに長い。

 安室は口元を抑えて苦笑いをする。

「何?」
「いや、なんだか浮気を疑われているような気分になって」
「馬鹿ね、どうせベルモットでしょ」

 は窓を細く開け、隙間からそれを外に投げ捨てた。

 安室がベルモットと行動を共にすることが多いことは知っている。車という動く密室は、人に聞かれたくない話をするにはぴったりの場所だ。きっと昨夜も、ベルモットを助手席に座らせて、組織のさまざまなことについて意見を交わしたのだろう。

 組織を抜けるきっかけを作った女と同じ場所に座っていると思うと決していい気分はしなかったけれど、それよりも、自分の髪の毛をベルモットが見つけたときのことを想像すると、空恐ろしいような気分になる。

 の不安を察したように、安室は言った。

「ベルモットに毛髪の主を聞かれたら、探偵業のクライアントを乗せたと言うから安心して。日本人女性の頭髪はほぼ同系色だし、黒い髪の毛を見てすぐを連想することはないよ」
「そうだといいけど。ところで、今日は何の用?」

 安室は体のどこにも力の入っていないリラックスした仕草でハンドルを切る。

「特にこれといったことはないんだけれど、と話をしたいなと思って」
「それじゃ、ドライブでもする?」
「せっかくだから、少し遠出しないか? 米花水族館でイルカを見ない?」

 ただ話をするためだけに、なぜ水族館へ行ってイルカを見なければならないのか、にはさっぱり分からない。話だけなら車の中でいくらでもできるじゃないか、そう突き放してしまうことは簡単だったけれど、はぐっとこらえてその言葉を飲み込んだ。

 ふたりで楽しい時間を過ごそうと、安室なりに考えてくれたのかもしれないし、逃げずにそばにいると決意を固めたばかりだ、わざわざ口答えをして関係に亀裂を生むようなことはしたくない。

「いいね。水族館なんて、久しぶり」

 が作り笑いを浮かべると、安室はうなずいて次の信号で左折した。

 車はますます加速し、ほんの少し開けた窓から鋭い風が吹き込んでくる。はサイドミラーを見ながら風に踊る髪を手で整えた。こんなことなら、もう少しおしゃれをしてくるんだった、そんなことを考えながら。



 日曜日の水族館は、親子連れやカップルでごった返していた。展示物に見入っているとうっかりはぐれてしまいそうで、安室とはしっかりと手をつないで寄り添い合いながら、ゆっくりと館内を巡った。

 カラフルな熱帯魚、ゆったりと泳ぐウミガメ、人魚伝説のモデルになったというジュゴンや、イロワケイルカ、バイカルアザラシを眺めながらたわいない話をする中、クマノミとサンゴ礁の水槽を見つめながら、安室は全く声のトーンを変えずにこう言った。

「岸倉財閥の会長が行方不明になっているって、知ってる?」

 も至って冷静に答える。

「岸倉財閥と言えば、鈴木財閥とも引けを取らない日本経済を牽引する大財閥のひとつよね」
「実は、岸倉会長が最後に目撃されたバーに、君がいたという報告が上がってる」
「へぇ、そう」

 ふたりのそばには小学生くらいの子どものグループや、20代頃のカップルがいたが、人の流れが速く、隣に立つ人の顔触れはあっという間に変わる。おかげで会話を立ち聞きされる心配はなさそうだった。

「大した内容じゃない。ただ、同じ店にいただけ。君を監視していた捜査官は決して目を離さなかったし、怪しい動きは一切なかったと言っている。監視カメラの記録でも証明されてるしね」
「私にそれを言うってことは、安室くんなりに考えたことがあるのかな?」

 隣の水槽に移動しながら、安室は続けた。

「同じ日に、杯戸町で身元不明の焼死体が発見されたんだ。近辺に住むホームレスのひとりじゃないかと言われていて、原因は煙草の不始末。その場所が、岸倉会長と君が利用したバーと距離が近い」

 安室はぎゅっと力を込めての手を握る。その圧迫感から、絶対に言い逃れはさせない、という強い意志を感じて、は覚悟を持って安室を見上げた。

 水槽を照らす青い照明が安室の青い瞳に差して、まるでふたり一緒に海の底に沈んでいくようだった。

「この事件、の仕業だろう?」
「どうしてそう思うの?」
「僕の推理はこうだ。君はなんらかの方法で会長をバーに呼び出し、店の裏に誘い出して撃ち殺した。今もそのバッグに入っている銃でね。君が公安の監視を逃れたのは、唯一、バーのトイレに入った時だけらしいけど、間取りを見るとトイレには小窓があった。そこから外にいる会長を狙って撃ったんじゃないか。そして、会長の遺体にホームレスの扮装をさせ、火を着けた」
「私はずっと公安の監視下にあったのよ。トイレに隠れて銃を使うことはできたかもしれないけれど、ホームレスの扮装をさせたり、火を着けるなんて無理ね」
「最近、教会のボランティアに参加するようになったって言ってたね。ホームレス支援の炊き出しにも関わっているとか。遺体の始末は、そこで知り合ったホームレスに頼んだんじゃないか? 教会の活動には熱心だと聞いたよ」
「それが真実だとして、証拠でもあるの?」
「いや、ない。そもそも僕の管轄外の事件だから、これ以上おおっぴらに捜査もできない」
「それじゃ、何が言いたいのよ?」
の口から、真実を聞きたい」

 は小首を傾げて安室の顔をのぞき込む。ここが本当に海の底なら、何もかもを真実の光で照らす太陽の力は及ばない。真実を告白する声も、泡になって消えるだろう。

 は安室の腕を引っ張って背伸びをすると、耳元に唇を寄せてにやりと笑った。

「だいだい、当たってる」
「やっぱり」

 推理が当たって嬉しいのか、それともが正直に告白してくれたことに安心したのか、安室はほっとしたように目元をほころばせた。殺人の告白を聞いてこんな顔をする人間は、安室の他にはきっといないだろう。

 は安室の手を引いて移動する。

「手を貸してくれた人のことは、教えられないからね」
「かまわないよ。僕はの動向を把握しておきたいだけだから」

 次に足を踏み入れた展示室では、ガラスケースの中でくらげがふわりふわりと漂っていた。

 くらげには自力で泳ぐ力はなく、水の流れに身を任せて漂っているだけなのだという。自分がどこへ流れていくかも分からず、ただ潮の流れに身を任せるのはどういう気分なんだろう、透明な膜のようなくらげを見つめたまま、は想像した。

 きっと、悪い運命ではないのだろう。ぼんやりと透ける白い膜のような体をふわり、ふわりと膨らませながら漂うくらげ、こんなに美しいものが定められた運命に絶望しているとは考えたくなかった。

「教会のボランティアをしようと思ったのは、風見さんが喜ぶからよ」

 がそう言うと、安室は意外そうに目を見張った。

 公安警察とは長い付き合いになる。ならば、少しでも良好な関係を築くために最低限の礼儀は守ろうと、の方から態度を改めたのだ。

 はじめ、風見は肝をつぶしたような顔をしていたけれど、が毎週のように教会に出入りし、ボランティアに加わり、子ども食堂やホームレスへの炊き出しに自ら進んで参加するのを見て、少しずつに対する認識を改めていった。出会ったばかりの頃は高圧的で偉そうで、なんとかの優位に立とうという魂胆が見え見えだったけれど、今ではすっかり物腰が穏やかになっり、のことを「さん」と敬称で呼ぶまでになった。

 顔色ひとつ変えずに人を殺す冷血な犯罪者が心を入れ替えた、そう思い込ませるの目論見は、驚くほど簡単に達成されたのだ。

「風見さんの信頼を得られて良かったわ。おかげでこれからは動きやすくなりそう」

 安室は眉を下げて苦笑いした。

「それを知ったら、風見はどう思うかな」
「日陰で生きてきた人間をそう簡単に信じちゃだめなんだって、学習するんじゃない」
は人が悪い」
「知ってて付き合ってるんでしょ」

 米花水族館の目玉は、長さ20メートルにも及ぶ海中トンネルだ。360度を巨大な水槽に覆われ、まるで海の底を歩いているような幻想的な景色が楽しめる。頭上を巨大なサメがゆうゆうと横切り、マンタやエイが空を舞うように優雅に漂う。色鮮やかな小魚達が珊瑚や海藻と戯れ、まるであでやかに着飾った貴婦人達が集まった舞踏会を見ているようだ。

「ひとつ、聞いてもいい?」

 空を舞う凧のようなエイの姿を目で追いながら、が言う。

「安室くんはどうして、私が人を殺すことに、そんなに寛容でいられるの?」

 安室はと同じものを見つめながら、表情を変えずに答えた。

「警察官は正義感にあふれた人間だと思われているかもしれないけれど、正義感と言うのは曖昧なもので、諸刃の剣だ。自分が信じた正義に捕らわれてしまうと、身動きが取れなくなる。行き過ぎると、自分が決めた善と悪、この基準だけで何もかも判断しようとしてしまう。
 けれど、この世の中、白黒はっきりつけられるほど単純なことばかりじゃない。警察官はそのことを良く分かっていなくてはならない、というのが僕の持論。
 善悪の判断は全て法に基づいてなされるべきだと思ってる。それが法治国家のあるべき姿のはずだ。
 人を殺すことは、確かに悪だろう。けれど、の仕事は事件化されていないから、法で裁くことができない。つまり、善悪を判断する土俵にすら上がっていないことになる。だから、かな」
「感情的に怒りが湧いてくることはない?」
「もちろん、僕も人間だからそういうこともある。でも、に関して言えばない」

 は内心、がっかりしていた。落ち込んだ。どうしてそんな気持ちになるのか、自分でもよく分からなくて、胸の中に浮かんだ感情をじっと追いかけてみる。すると、ひどくつまらなさそうな顔をした子どもが小石を蹴っている姿が見えるような気がした。

「もしかして、僕に責められて、罪を追及されたいと思ってる?」

 安室が見透かしたように言い、は苦笑いした。

「そりゃ、責められるべきだと思う。悪いことをしている自覚があるし、だからこそこそ隠れてやってるわけだしね。全部バレてるのに、何の罪にも問われないのは変な感じ」
「つまり?」

 その時思いついた言葉に、は内側から笑いが込み上げてきて、困ってしまった。本当に、自分はなんて幼稚なんだろう。自分のことながら呆れてしまうけれど、それが本心だった。

「張り合いがない! と、思ってるの。もっと、丁々発止やり合いたい。その方がスリルがあるから。それが私の仕事の醍醐味だと思うし、だから私は仕事が大好きなの」

 言葉尻が笑みに紛れてしまうにつられて、安室も声を上げて笑った。

「僕はとやり合うのはごめんだ。風見とならできるんじゃないか?」
「そうかもね。今度、喧嘩売ってみる」
「お手柔らかに頼むよ。見た目より繊細な奴だから」

 穏やかなまなざしで海の青い光を浴びている安室を見て、は思う。

 安室が恥も外聞もかなぐり捨てて、激情を露わにすることがあるならがそれを見てみたい。一体何をすれば、このきれいな横顔を恨みと憎しみで醜く歪めることができるだろう。まったく、我ながら嫌な性格をしているけれど、そのための策を練るのはいい暇つぶしになりそうだ。

「私は、殺しを悪だとは思わない。むしろ、環境汚染や動物虐待の方がよっぽど大きな悪だと思う。人より得意なことで、誰かの役に立つ。そして、働きに見合った報酬をいただく。それが働くことだと、私は思ってる。私にとって、たまたまそれが殺し屋稼業だった」

 安室は応用に頷くと、秘密めかして笑った。

「僕は、が無事でいて幸せに暮らしていてくれたらそれでいい」
「安室くんは無欲だね」
「でも、実はそれが一番難しいことだと思うんだ」

 と、その時だ。ふたりの目の前に大きなエイが迫ってきたかと思うと、真っ白な腹と水槽の間に小魚を追い込み、ガラスにぎゅっと押し付けた。小魚はエイの笑っているような口元に吸い込まれ、あっという間に見えなくなってしまった。

 満足げに泳ぎ去るエイを見送って、ふたりで顔を見合せる。

「食べちゃった」
「みたいだね」

 途端、笑いが込み上げてきて、ふたりは声を上げてけらけらと笑った。明らかに餌ではない展示物の魚が食物連鎖の犠牲になった。その衝撃的なシーンを見ていた人も何人かいたようだったが、多くの見物客は気づいておらず、笑うふたりを怪訝そうに見ていた。

 の仕事は、エイの捕食に似ている。じっとを観察している安室だけは気が付くけれど、多くの無関係の人間は目にも止めない。

 水族館という偽物の海は、本物の海と比べれば米粒ほどの小さな世界だ。限られた自由の中で、ときどき誰にも気づかれずに小さな罪を重ねながら、つつがなく穏やかに暮らしていける小さな箱庭。イルカやエイや、色とりどりの熱帯魚にとって、なんて甘くほろ苦い、幸せな暮らしだろう。

 は安室の腕に腕を絡めながら、ゆっくりと偽物の海の底を歩く。安室のそばは、想像していたよりずっと温かく、平穏だ。

「今度、マフィンを焼いてあげる。ボランティアで覚えたの。安室くんの腕には敵わないと思うけど、味見してくれる?」
「それは楽しみだ」

 海の底はますます混み合ってきた。人波に押し流されてはぐれないよう、ふたりはきつく互いの手を握り合った。










20201005