ミスト2
そこはオフィス街の裏通りにひっそりと立っている古い雑居ビルだった。
一本道を外れれば、地下鉄の駅がある大通りで、比較的築年数の浅い瀟洒なガラス張りのビルが立ち並んでいる。ビルとビルの間に車を滑り込ませると、タイムスリップしてしまったかのように景色が一変した。時代に取り残され昭和の残り香を漂よわせている寂れた界隈だ。
ビルの外壁は風雨にくすみ、窓ガラスは今は生産されていない竹の葉が浮き上がるデザインの磨りガラス。1階部分が駐車場になっていて、車が2台停められるスペースがある。奥の方に階段があり、車のヘッドライトに照らされてふたりの人影が黒く浮かび上がる。
ひとりは階段に座り込んでいて、もうひとりはその正面に立っている。その手に握られている黒いものは拳銃だ。
安室が車のエンジンを切ってサイドブレーキを下ろしている間に、風見が助手席から飛び出して大声を上げた。
「そこのお前! 動くな! 警察だ!」
安室は舌打ちをしながら、一歩遅れて車を降りる。風見はドアを盾にして両手で銃を構えていて、銃口は拳銃を握っている人間に向けられていた。
「風見やめろ! 銃を下ろせ!」
安室はたまらず怒鳴った。
「なぜですか!? 相手は銃を持ってます!」
「いいから言うことを聞け!」
いつもならば、意にそぐわなくともそれをぐっと飲み込んで安室の命令に従う風見が、今度ばかりはてこでも動かない。
安室はとっさに車を回り込み、風見の構える銃の前に自ら立ちはだかると、銃槍を掴んでその手をひねり上げた。
「銃を下ろせと言っているんだ!」
痛々しい悲鳴を上げながら膝をついた風見を冷たく一瞥し、安室はヘッドライトに照らされた
を振り返った。
半身で安室を振り返っている
は、眩しそうに銃を握った手を顔の前にかざしている。ニットのプルオーバーにスラックス、ローヒールのパンプス、ブリーフケース、全て濃淡のある灰色で揃えている。その手に握られているものを無視すれば、残業で帰宅が遅くなったOLのように見えた。
「安室くんじゃない。どうしたの、こんな時間にこんなところで」
は街角で偶然鉢合わせてしまったときのような気安さで微笑んだ。
安室は少しだけ無理をして、口元だけ笑みの形を作った。階段に座っていると見えた人間は、額と胸から血を流して倒れていた。遠目にも、すでに絶命していることは明らかだった。
「あなたを探しに来たんですよ。監視を巻いたそうじゃないですか」
「あら、そうだった? 気づかなかったわ。心配かけてごめんなさい」
「いいんです。ところで、そちらの方はどうされたんです?」
「降谷さん、何を悠長なことを……!」
悲鳴にも似た声を上げる風見を、安室は片手を上げて制する。
は男の死体を一瞥すると、銃を持っている方の肩をすくめた。
「今夜の私の仕事相手よ。ちょうど今終わったところ」
「そうでしたか。あなたは無事ですか? 怪我は?」
はきょとんと目を見開くと、子どものようにあどけない声で笑った。
「安室くんってば、他に言うことないの?」
「そうですねぇ、新しい仕事が決まったのなら、もう少し早く教えてもらいたかったですね」
「ねぇ、この茶番劇、いつまで続けるつもり?」
「茶番だなんて、僕は真剣ですよ。ひとまずアパートに戻りませんか? そこでゆっくり話をしましょう」
の笑顔が、がっかり、を絵に描いたように歪んだ。せっかく友達と楽しく遊んでいたのに、母親に水を差されて家に帰らざるを得なくなった子どものようだった。
素直な表情の変化に、安室は嫌な予感を覚えた。今夜の
は妙に陽気で、はしゃいでいる。明らかにいつもの
とは違っている。
人殺しを生業とする人間にはふたつのタイプがいる。人を殺すことに快感を覚え、それを味わうために罪を重ねることを厭わない愉快犯タイプ。そして、感情を殺して与えられた仕事を淡々とこなす職人タイプ。組織にいた頃の
は後者だった。
久しぶりの殺しに気が高ぶっているのだろうか。安室は
の様子を探りながら、慎重に
と距離を詰める。
「さぁ、帰りましょう。車に乗ってください」
「そんなこと言って、そのまま警察に連れて行く気なんじゃないの?」
「そんなことはしません。信じてください」
「悪いけど、言うことは聞けない。私の部屋に置いてあったものは見た? 今まで公安警察が私のために使ったお金は、あれで返済する。命を救ってもらったことには心から感謝してるわ、でも、やっぱり私にはこっちの世界が性に合ってるの。私が知っていることは全部話したし、あなたに差出せるものはもう何もない。だからと言ってはなんだけど、見逃してくれない?」
「お断りします。僕はまだあなたと話したいことがたくさんあるんです。こんなにあっけなくさよならだなんて、あんまりじゃありませんか」
「ねぇ、さっきから話がズレてない? 私はたった今、人を殺したの」
「分かっています。後処理は任せてください。お願いですから、僕と一緒にアパートに帰ってください」
「殺人の現行犯よ」
「帰りましょう」
「どうして私を見逃すの?」
安室はゆっくりとした足取りで
に近づいたが、
は拳銃を持ち上げもしない。弾切れなのかもしれないが、それを脅しにも使わないということは、安室に対して完全に心を閉ざしたわけではないのかもしれない。その証拠に、安室が手の届く距離に立っても、
は指先ひとつ動かさなかった。
安室はどこまでも穏やかな声で説得した。
「帰りましょう。話はそれからです」
はだだをこねるように首を横に振った。
「私は人を殺すことしか能が無い人間なの。協力者になってほしいと言われたけど、そういう勤勉な仕事は私には向いてない。さんざん罪を重ねてきた私が逮捕もされずに警察の世話になるなんて、どう考えても受け入れられない。私もうはあなたの世話になりたくないの」
「自分を卑下することを言うのはやめてください。世話になっているだなんて、そんな風に思う必要はないんですよ」
「警察に飼い殺しにされるくらいなら、お尋ね者になって一生日陰で生きていくほうずっとがいいわ。それを許せないなら、さっさと逮捕すればいいじゃない」
「
」
頬を打つように強い声で、安室はその名前を呼んだ。
はひたと安室を見つめている。揺るがない意志を示して、その瞳は真っ直ぐに澄んでいる。誇りを持って孤高を生きる一匹狼の目だ。
安室の助けがなくとも、
は何も問題なくひとりで生きていけるのだろう。公安の監視の目をくぐって銃を手に入れ、姿をくらまし、人ひとり殺すことのできる能力があるのだから。狼のように、誰の力も借りず、険しい山々も厳しい荒野も走り抜ける地力が、
にはある。
それでも、安室はどうしても
の手を離したくなくて、とっさに
の首を掴むと、有無を言わさず唇を押しつけた。
は目を見開いて体を強張らせ、安室の手を引きはがさそうともがく。けれど、片手は銃で塞がっている上、腕力でもとても敵わない。安室の腕が強く
の腰を抱き、ますます逃げ場を無くした
が陥落するまで長い時間はかからなかった。
あんぐりと口を開けた風見だけが、ふたりを見ていた。
結局、
は大人しく安室の車に乗った。
「この場はお前に任せる。くれぐれも彼女の名前は出すな」
安室は風見に強く言い含めてから運転席に乗り込んだ。先に助手席に座っていた
は、むっと唇を尖らせ、へそを曲げたように両膝を抱えている。
安室はそれを横目で見やりながら、スマートフォンを耳に押し当て、その向こう側にいる相手に向かって言った。
「私です。今、〇〇町□丁目の、△△ビルヂングです。これから警視庁に入電がありますので、詳細はそちらで。指定暴力団の龍澤組の組員で指名手配されている……、そうです。彼をこの件に絡めて引っ張れませんか? えぇ、よろしくお願いします。詳しい報告はまた。失礼します」
通話を切ったのを見計らって、
は横目でぎろりと安室を睨んだ。
「私の成果を横取りしないでもらいたいわ」
「そういうわけにいかないでしょう」
安室は苦笑いをして、車のキーを捻る。ドルン、と独特なエンジン音が響いて車体が震える。
ヘッドライトに照らされた風見が、スマートフォンで警察に通報しているのがフロントガラス越しに見てとれる。真夜中にこんな場所に置き去りにされ、意に沿わない仕事を押し付けられた風見には不満しかないだろう。表情にその気持ちが強く現れている。
安室が去り際に風見に向かって片手を上げて見せたのは、部下に対する労いと、無茶な要求を押し付けてしまったことに対する謝罪の気持ちの表れだったが、それが風見に届いたかどうかは分からなかった。
細い道を抜け、深夜にも関わらず煌々と街灯が照っている表通りを、車はゆっくりと滑り出した。
車通りは多くはないが、少なくもなく、それぞれの事情を抱えて夜の底を這っている。こんな夜に車を走らせている人間なら誰でも、人に言えない秘密を抱えているに違いない、安室は共感を持った眼差しですれ違う対向車の運転手を眺めた。たった今人を撃ち殺し、その凶器をブリーフケースの中に忍ばせている
を助手席に乗せている安室と同じように、行き交う車それぞれにほのかな罪悪感が滲んで見えるようだった。
その気になれば時速170キロ越すスポーツカーには不似合いなほど、安室は甘くアクセルを踏んだ。
「少し、話を聞いてもらってもいいですか?」
はうんともすんとも答えなかったけれど、その沈黙を肯定と捉えて、安室はフロントガラスを見つめたまま話し出した。
「スコッチの話をしましたよね。米花百貨店のカフェで。
彼のことを考えるたび、僕は激しい怒りで体中を焼き尽くされそうになるんです。どうして彼が死ななければならなかったのか? 助ける手立てはあったんです。それができる人間もそばにいた。あの男ほどの能力があれば不可能ではなかったはずだ。にも関わらず、どうしてスコッチを救えなかったのか。
僕は恨みました。あの男を、そして自分を。この国を守るために警察官になった。なのに、たったひとりの親友も守れない自分が国を守りたいと思うだなんて傲慢だと、自分でも呆れました。
今でも、その記憶は僕にとって楔です。
シェリーというコードネームを聞いたことはありますか? 組織の科学者のひとりです。そもそも、僕が米花町にやってきたのは、組織から逃げた彼女の行方を追ってのことでした。彼女と会ったのは、ベルツリー急行ミステリートレインの車内。ほんの少しだけ言葉を交わしましたが、結局、橋の上で切り離された貨物車で爆死してしまいました。僕の計画では、死を偽装した上で公安警察で保護し、組織の情報を聞き出す算段だったんです。
悔しかった。完璧と思った計画を覆されたこともそうですし、彼女とはゆっくり話をしたかった。ずいぶん昔の話ですが、彼女の家族とは少しだけ縁があったんです。
僕は、いつも失敗してばかりだ。
あなたを殺せとベルモットに命じられた時、最後のチャンスだと思いました。二度あることは三度あると言います。けれど、その言説を絶対に覆してやろうと思いました。今度こそ救い出してみせよう。もう二度と、激しい後悔に苛まれたり、恨みや憎しみに身を焦がしたくはなかった。
僕は、心の底から、あなたを救いたかった」
赤信号に捕まって、ブレーキを踏む。安室が助手席を振り返ると、
はいつの間にか床に足を付き、全身の力を抜いて椅子にもたれかかっていた。目を閉じているが、眠っているのではないことが呼吸に合わせて膨らむ胸の動きから分かった。
は目を閉じたまま、静かに言った。
「ようやく、あなたのことが分かった気がする。私を助けたことも、協力者になれと言ったことも、あの時死んでいた方がましだったと言った私を慰めてくれたことも、全てはあなたの過去に対する贖罪だったのね」
「きっかけのひとつです。あなたがあの部屋に住むようになって長くはありませんが、一緒に多くの時間を過ごしましたよね。犬の散歩をしたり、サンドイッチを食べたり、買い物をしたり。僕は楽しかったですよ。あなたはどうですか?」
「……」
「あなたは素敵です」
は不信感もあらわにぎろりと安室を睨む。
「何よ、突然」
安室はその鋭い視線を笑顔でいなした。
「毎日きちんと自炊するところとか、食べ物を無駄にしないところとか。それから、お金にきちんとしているところも。健康的という言葉は自分に似合わないと言いながら、毎日体を動かして、決まった時間に食事をして眠って、丁寧に暮らしているところ。他にもいろいろあります。いくら言っても言い足りません。あなたの全てが素敵です」
は照れくさそうに頬を赤らめ、それを安室に見られないように顔を背けた。口元を隠している手が、居心地悪そうに忙しなく動いていた。
「私のことを、そうやって贔屓目に見ているから、罪を見逃すの?」
「それは違います。もしあなたを逮捕したら、あなたが生きていると組織に気づかれてしまう。そうなるくらいなら、別の人間を犯人にでっち上げる方がリスクが低いし、簡単なんです」
「でっち上げられた方はたまったものじゃないでしょうに」
「元々、公安が目を光らせていた指定暴力団の組員です。あなたが撃ち殺したのは、その暴力団が対立する組織の青年部幹部でした。動機は十分あります。公安としても、暴力団の力を削ぐことができるんですから、あなたには感謝したいくらいです。殺しを依頼してきた人間のことは、何か分かっていますか?」
「名乗りはしなかったけれど、あなたの話が本当なら、その暴力団に対抗している組織の誰かなんじゃない? 私をどこで知ったのかは分からないけど」
「あなたの腕は、業界では結構有名なんですよ。組織の存在は闇に隠されていますが、組織専属の殺し屋として働いていたあなたの仕事についてはまことしやかに噂が流れていたんです。知りませんでしたか? 僕と初めて会ったホテルでも、あなたを見ていた人間が何人かいましたよ」
「あれ、組織の監視じゃなかったの?」
「えぇ。全く無関係です。小物っぽかったので無視したんですが、今回の件は、あの中にいた人間の誰かの依頼だったのかもしれませんね」
は体中の空気が抜けるような大きなため息をつきながら、背もたれをずるずると滑った。
「なんだ、あの時からはじまってたの。あーあ、何にも知らずに落ち込んだりはしゃいだりしてただなんて、馬鹿みたい。もっと冷静に状況を見極めて、よく考えて計画を練るべきだった」
「あなたの脱走計画はなかなかでしたよ。監視の目を巻く俊敏さと視野の広さはさすがですし、監視カメラ付きの部屋で一週間も銃を隠し続けるなんて、なかなか真似できることではありません。けれど、僕はこの短い期間であなたのことを知りすぎてしまいました。それだけがあなたの誤算でしたね」
「それは褒めてるの? それとも自慢話?」
「あなたは僕から決して逃げられないという話です」
鞭を打つように有無を言わさない安室の物言いに、
は息を飲んで黙り込む。安室はその瞬間、自分が口にしたことの意味に気づいてぞっとした。
腹の底に眠っていた凶暴な獣が、目覚めてしまった。体が燃えるような強い激情。何としてでも言うことを聞かせたい強い支配欲。正しさのものさしで測れないもの全てをなぎ倒してしまいたくなるような、乱暴な正義感。それらを内包した隠しきれない暴力の気配が、
を委縮させ、黙らせてしまったのではないか。
安室はそっと深呼吸をして、体の内側で暴れる獣を必死になだめた。
どうやって次の言葉を継いだらいいのか悩む安室の代わりに、気まずい沈黙を破ったのは
の方だった。
「結局、私は一生、組織から完全に逃れることはできないのね」
安室が横目で見やると、
は無表情に暗い車窓を眺めていた。
「どういう意味ですか?」
「私は組織で銃の扱いを学んだ。人の殺し方を学んだ。居心地のいい場所ではなかったし、面倒な人間関係ばかりで嫌だったけれど、私という人間を形作っているのは、あそこで身に付けた知識と知恵なの。だから、私は殺し屋を生業にできる。私は銃が好き。体の一部みたいに感じられるくらい、私にとってかけがえのないもの。これは組織にいたから得られた宝物だと思う。でも、どんなに組織を疎ましく思っても、組織や、組織で得た知恵を私の中から完全に消し去ることはできない。そう考えると、組織が敷いたレールの上をいまだに走り続けている気がするの」
「あなたは言いましたよね。自分が生きている意味が分からないし、存在する価値があるかも疑問だけれど、分からないなりに流れに身を任せて生きていくのも悪くないかもしれないって。その気持ちは今も変わりませんか?」
「それしか道がないからね」
「なら、組織が敷いたレールがあなたの流れなんじゃないでしょうか」
「だとしたら、あまり嬉しくはないな」
「けれど、そのレールは必ずいつか終わります。僕はそのために組織に潜入しているんです」
「それ、成功する見込みあるの?」
は半信半疑な気持ちで目を細める。
にとって組織の存在はあまりに巨大で、安室ひとりの力で太刀打ちできるとはとても思えなかった。
「もちろん。期待していてください」
その自信は一体どこからくるのか、
には理解不能だった。
やがて車は、安室がアパートの近くに借りている月極駐車場に滑り込む。サイドブレーキを引きエンジンを切った安室は、ハンドルから手を離すと
を真っすぐに見つめた。
「あなたが組織のレールの上にいる限り、僕も同じレールの上です。一緒にいます。最後まで」
20200928