ミスト

















『夜分に失礼します。今、よろしいですか?』

 安室のスマートフォンに風見からの着信があった時、すでに深夜0時を回っていた。部屋の明かりを消し、ノートパソコンの液晶の明かりだけを頼りに仕事をしていた安室は、電話口から聞こえる風見の声の乱れに、神経を尖らせた。

「どうした?」
『それが、あの、申し訳ありません。たった今、を見失いました』
「何?」

 不穏な気配を感じたのか、ベッドの端で体を丸めていたハロが目をしょぼしょぼさせながら頭をもたげた。

『つい先ほどアパートを出てコンビニに入ったのですが、ちょっと目を離した隙に姿が見えなくなってしまって……。今、手分けして探しているんですが』

 安室は音声をスピーカーにしてテーブルに置き、壁に引っ掛けている上着に手を伸ばす。

「どこのコンビニだ?」
『そこから一番近い、2丁目の角です』
「分かった。10分で行く」

 安室は黒いスウェットとTシャツ姿のまま、上着とスマートフォンと車のキーを掴んで慌ただしく部屋を出た。ノートパソコンの電源は入れたまま、出かける時には必ずハロの頭をひと撫でする習慣も忘れていた。

 約束通り10分後、コンビニの前に安室が車をつけると、すぐに風見が駆け寄ってきた。安室は内側から助手席のドアを開け、風見を招き入れる。

「降谷さん、ご苦労様です」

 風見は大きな体を折りたたむようにして、車内に頭を突っ込む。

「彼女は見つかったか?」
「いえ、まだ何も……。本当に不甲斐ない、弁解のしようもありません」

 おろおろと言う風見を、安室は厳しく叱咤した。

「言い訳をしている暇があるなら早く乗ってくれ。行くぞ」
「え? どういうことですか? 何か手掛かりが?」
「話は移動しながらする。乗れ!」

 安室の剣幕に押されて、風見はすかさず車に乗り込む。風見がドアを閉めるのも、シートベルトも締めるのも待たず、安室はぐんとアクセルを踏み込んだ。

 風見が挙げる悲鳴をまき散らしながら、白いFDは闇夜を切り裂いて走る。法定速度はぎりぎり守っているが、鋭いハンドルさばきで前を走る車を次々と追い越していくので、歯を食いしばっていないと舌を噛んでしまいそうな乗り心地だ。

「ど、どこへ向かっているんですか?」

 風見が冷や汗を流しながら言う。

 安室は前方を睨みつけたままわずかに顎をしゃくった。

「米花百貨店だ。後ろの荷物を見てみろ」

 後部座席には、紙袋がひとつ置いてある。桃色がかった白地に蔓草が巻くようにデザインされた英文が印刷された、女性用下着ブランドのショップバッグだ。

 紙袋を膝の上に抱えて中身を見た風見は、ぎょっと目を見開いた。

「なんですかこれ!? 札束じゃないですか!?」
「彼女の部屋を改めたら、置いてあったんだ」
「どういうことですか!? 何なんですか、これは!?」

 まるで膝の上に爆弾を抱えているような慌てようの風見を、安室は鋭く睨みつけた。誇り高い公安警察の捜査官である者が、こんなことで狼狽えるな、とでも言わんばかりのまなざしに、風見は蛇に睨まれた蛙のようになって、ぐっと唾を飲み込む。

 安室はアクセルを緩めないまま、静かに口火を切った。

「何か手掛かりがないかと思って、彼女の部屋を見てきた。お前も知っての通り、彼女には内密に合い鍵を作っていたからな。

 部屋は綺麗に片付いていた。いや、綺麗すぎるくらいだった。床には埃ひとつ落ちていないし、ベッドメイキングも完璧。浴室、洗面所、キッチンには水滴ひとつなかった。まるでモデルルームだ。札束が入った紙袋は、リビングのテーブルの上に置いてあった。紙袋は一週間前に行った米花百貨店で買い物をしたときのものだ。

 あの時から違和感はあったんだ。百貨店で、僕達は分かれて買い物をした。彼女は3階のレディースフロア、僕は店内を無作為にぶらぶらしていた。1時間後、7階のカフェで待ち合わせをしたが、彼女は荷物をコインロッカーに預けてきていた。

 なぜか、彼女が使ったのは地下の食料品売り場のコインロッカーだったんだ。あの日、彼女は食品を買っていない。待ち合わせ場所は7階なのに、なぜわざわざ地下に下りたんだ? そこに用があったからだ。

 誰かと約束していたんだろうか。だが、公安の監視の目がある中で、誰にも気づかれずに外部の人間と連絡を取ることは不可能。だとしたら、考えられる可能性はひとつ。

 あの日、駅前で待ち合わせをしたとき、彼女にわざと肩をぶつけてきた男がいた。当たり屋かとも思ったんだが、よく思い返せばあれは掏りの手口だ。けれど、違う。彼女は何かを掏られたのではなく、握らされたんだ。米花百貨店のロッカーの鍵を。僕はその日の予定を決めていなかった。百貨店へ行きたいといったのは彼女だ。あそこに、何かあるはずだ」

「ですが、一体何が目的なんです? どうして逃げたりなんか? 彼女に行くあてはないんじゃなかったんですか?」
「それはまだ分からない。嫌な予感が当たらなければいいが」

 信号が黄色に変わる交差点を、安室はスピードを落とさずハンドルを切る。女の悲鳴のような高音を響かせてスリップする車の中、遠心力で体を振られた風見が窓に側頭部をぶつけて低く呻いた。



 百貨店はとっくに閉店時間を過ぎていた。

 ふたりは百貨店の裏に周り、貨物車両が出入りする裏口の守衛室で警察手帳を提示して捜査協力を求めた。頭に白いものが混じり始めた初老の男は、始終驚いた顔をしながら、ふたりコインロッカーに案内してくれた。

「コインロッカーは、毎日営業が終わり次第、マスターキーで中身を改めます。中に残っていたものは忘れ物として預かって、警察が定める決まりに則って処理していますから、何も残っていないと思いますよ」

 と、守衛が言う。

 風見は側頭部の痛みを表に出さないよう細心の注意を払って、警察手帳を開いていた。

「一週間前に、不審物が見つかった記録はありませんか?」
「いいえ、特にそういう話はなかったと思いますが」
「では、この女性に見覚えはありますか?」
「いやぁ、ちょっと分からないですねぇ」

 風見が定石通りの手順を踏んで捜査を進める間、安室はコインロッカーを隅々まで観察した。

 が使ったコインロッカーは44番だ。スマートフォンのライトで奥まで照らすが、何も見つからない。床に這いつくばってロッカーと床のわずかな隙間をのぞいても、埃がもこもこと積もっているだけだ。

「お、おい、ちょっとあんた、何してるんだ?」

 扉を開けたままにしたロッカーに爪先をかけ、天井とロッカーの隙間をのぞき込んでいた安室に、守衛が思わず声を上げる。安室は忠告に構わず、そこで見つけたものに腕を伸ばした。

 はがきほどの大きさの白いカードだ。他の場所に比べ積もっている埃の量が少なく、最近この場所に紛れ込んだものだと分かる。

 裏返すと、アルファベットと数字が無作為に印刷されたていた。一見するだけでは意味が分からないが、数字の一部が、ショップバッグの中に入っていた札束と同額だった。

「降谷さん、何か見つかったんですか?」

 カードをじっと見つめたまま黙り込んでいる安室に、風見がおそるおそる言う。安室はそれに答えるのに、たっぷり30秒の時間を使った。

「……分かった」
「え、何がですか?」
「行くぞ」
「え、どこへですか?」

 安室は守衛に向かって腰を90度に折る礼をした。

「夜分にご迷惑をおかけしました。僕達はこれで失礼します」
「い、いいえ。そちらこそ、お仕事ご苦労様です」
「行くぞ、風見」
「え、降谷さん、ちょっと待ってください! 降谷さん!」

 訳も分からず後を追ってくる風見に目もやらず、安室は全速力で走った。



 ポケットの中に忍び込んできた鍵に触れた瞬間、指先から電流が走るような衝撃に襲われたことが全てのはじまりだった。

 人混みの中で肩をぶつけてきた男がポケットに何かを放り込んだとき、はそれを追いかけるようにポケットに手を忍ばせた。指先の感触だけで分かったのは、それがひとつ鍵であることと、キーホルダーに「米」という文字を図案化した米花百貨店のロゴマークが彫り込まれていることだけだった。

 米花百貨店に行きたい。思わずそう口にしたのは、指先に感じる冷たい鍵の感触が、を未知の世界へ連れ出そうと甘く誘惑していたからなのかもしれない。

 は暇を持て余していた。気が向いた時に近所を散歩するか、料理をするか、ヨガや簡単な筋トレをして体を動かす以外は、目的のない無為な日々を送っていた。

 謎の男に託された鍵は、眠っていたの好奇心を揺り起こすことに成功したのだ。

 安室が1時間もそばを離れて、をひとりにしてくれたことはラッキーな誤算だった。それがなくとも、試着室や女子トイレに入ったときを狙おうとは思っていたのだけれど、安室はよほどを信用しているらしい。それとも、文句のつけようのない条件で暮らしを保証していることで、の信頼を完璧に勝ち得たと驕った結果だろうか。

 どちらが正解にしろ、好都合だ。はわけもなくわくわくしていた。あるはずがないと思っていた自由がふいに目の前に差し出され、追い風を受けて飛び立つ直前の鳥になったような開放感があった。

 下着売り場の店員に鍵を見せてたずねると、それは地下1階の食料品売り場近くのコインロッカーの鍵だということが分かった。場所をど忘れしちゃっていたので助かりました、どうもありがとうと、とぼけた女を演じて、ショップバッグ片手にエスカレーターを地下1階まで降りる。

 食料品売り場は、誰かの肩を押しのけないと前に進めないほどの混雑だった。コインロッカーは、上階での買い物を済ませた客が手ぶらでこの人混みの中に身を投じるための戦支度の場所として使われているらしい。

 44番のロッカーを探し当て、鍵穴に鍵を差し込む瞬間、は胸の高鳴りを抑えることができなかった。こんなにわくわくするのは久しぶりで、白いバレエシューズを履いた足が勝手に踊り出してしまうのではないかと不安になるほどだった。

 監視付きの生活に不満はなかったし、むしろ自分の身の丈にふさわしくないほどの十分な自由を与えられていると思っていた。

 けれど、それは錯覚だったのだ。社会的に抹殺され、全く別の人間として生まれ変わったことで、すっかり感覚が鈍くなってしまったけれど、本来のは、あれはだめこれはだめとあらゆるもの制限された窮屈な暮らしに満足できるほど、無欲な人間ではなかった。何にも興味を持てないふりをして、その裏ではずっと自由に恋い焦がれてきたのだ。

 そっと開いた扉の向こうでを待っていたのは、一枚の白いカード、そして紙袋に包まれた札束と拳銃だった。

 白いカードの文面にざっと目を通す。アルファベットと数字を無作為にプリントアウトしただけのように見えるカードは、と同じ世界を生きる者にはよく知られた暗号だった。内容を覚えたらすぐに手放すことがルールで、は人目を忍んでそれをロッカーと天井の隙間に投げ入れた。

 自分持っていたいくつかの紙袋を44番のロッカーに詰め込み、その足で安室との待ち合わせ場所に向かう。カフェでコーヒーを飲みながらおしゃべりをし、安室のおすすめの店でランチを食べ、計画もなく街をぶらぶらするだけのデートをしている間、は札束のことも拳銃のこともひととき忘れ、穏やかな時間を楽しんだ。不安はなかった。

 暗殺の依頼が舞い込んだことが安室にばれてしまったら、その時はその時だと思った。ベルモットの恐ろしい秘密を知ってしまい、命を狙われると悟ったときの方がずっと怖かった。あの時と比べれば、小さな秘密と拳銃を隠し持っていることくらい物の数にも入らない。本気で死を覚悟する経験をしたことで、神経がひと回り図太くなったのかもしれなかった。

 札束と拳銃を部屋に持ち帰った後は、簡単だった。

 部屋に仕掛けられた監視カメラの画角はすでに頭に入っていた。その死角になる場所に紙袋を置き、買ってきたものを整理するふりをして拳銃をタオルに包んで浴室に持ち込んで隠した。安室の好意のおかげで、最低限のプライバシーを尊重してもらっているので、バスルームと洗面所に監視カメラはない。は毎日1時間は半身浴をする習慣があったから、長く浴室に閉じこもっていても怪しまれはしないだろう。

 洗面所で服を全て脱ぎ、拳銃だけを持って浴室に入る。湿気が邪魔になるので湯は張らず、バスタブの縁に腰かける。

 そして、右手に持った拳銃のずっしりとした重さを味わった。しっとりと冷たい鉄の塊は、徐々にの体温を移して温まっていった。

 メジャーなタイプのオートマチックだ。グリップから弾倉を外してみると、弾は3つ装填されていた。三発で相手を仕留めるというの作法を知っている者の依頼だと分かる。は銃を分解して隅々まで点検し、すみずみまで綺麗に手入れをした。

 組織専属の殺し屋として働いていた頃、銃の手入れは、食事や歯磨きと同等の日常的な習慣だった。体の一部と言ってもいいほど、銃はいつもとともにあり、の肉体や精神と強く結びついていた。コインロッカーから届けられたこの銃は一度失ってしまった体の一部だ。そう思うとたまらない愛おしさが胸の奥からせり上がってきて涙が出そうだった。嬉しかった。

 本当に大切なものほど、失った時にその価値の大きさに気付かされるという。にとって銃は、あまりに当たり前にそばにあったかけがえのない半身だったのだ。

 ぴかぴかに磨き上げ、組み立て直した銃を、浴室の鏡に向かって構えてみる。素っ裸で銃を構える自分の姿はひどく滑稽だったが、待っていられなかった。

 銃の具合はとても良かった。試し撃ちはできない。本番の前に、完璧にイメージトレーニングをしなくてはならない。

 その日、は目的もなく無為に過ごす日々にピリオドを打ったのだ。



 白いカードに書かれた暗号は、に一週間後の殺しを依頼していた。銃と一緒に入っていた札束は前金で、殺しが成功すれば成功報酬として前金の3倍を支払うとあった。

 大金に興味はなかったが、それだけあれば安室がを匿うために用意したアパートや、家具家電、そして毎月振り込まれる生活費を返済するには十分だった。

 を監視している公安警察の行動パターンも十分把握できた。本気で逃げようと思えば、できるだろう。

 安室には、深い恩を感じている。

 命を救ってもらったこと、組織の手から守ってくれていること、日々の暮らしをつつがなく過ごすために潤沢すぎるほどの援助をしてくれていること。風見の態度を見ていると、の待遇について不満を持っている人間は少なくないのだろうと容易に想像はつく。この生活は、努力のたまものだ。

 安室はこれ以上ないほど、を大切に扱ってくれている。

 けれど、はもう気づいてしまった。喉から手が出るほど自由が恋しい。一度失った自分の半身を取り戻したことでその願いは炎が勢いを増すように日に日に強くなっていった。

 せめて世話になっただけの恩を金にして返して、安室の前から消えよう。

 は強い覚悟を持って逃げた。もう二度と、安室の元に戻るつもりはなかった。









20200921