ジンジャー

















 休日の米花駅前は、子どもから大人まで大勢の人が行き交い混雑していた。空は快晴、絶好の行楽日和である。

 駅前広場の中央で広々と枝を広げている街路樹の下に、子供が4人、元気よく駆けてきた。

「あ! 安室の兄ちゃんだ!」
「こんなところで何しているんですか?」

 安室は腰をかがめて笑顔を浮かべた。子供達はポアロの常連客なのだろうか、よく知った間柄のようだ。

「やぁ、君達か」
「今日はポアロお休みなの?」
「あぁ、人と会う約束をしていてね。お休みをもらったんだよ。君達はどこかへお出かけ?」

 子供達は顔を見合せ、満面の笑みを浮かべて答えた。

「これから、東京スピリッツのホームゲームを見に行くんです!」
「博士がチケット用意してくれたの!」
「へぇ、それはいいね。いつも一緒にいる、もうひとりの子は一緒じゃないのかい?」
「哀ちゃんは風邪気味だから今日はやめておくんだって」
「そうか、お大事にって伝えてね」
「おい! 早くしねぇと電車乗り遅れっちまうぞ!」
「あぁ、そうですね! それじゃまた!」
「気を付けて」

 子供のうち3人は、人波をかき分け、改札口に向かって走り出す。が、黒縁眼鏡の利発そうな少年がひとり残り、安室の袖を引いた。

「ねぇねぇ、安室さん」
「何だい? コナン君」

 少年は口の横に手をかざし声を潜めた。

「会う約束してる人って、組織の人? それとも公安警察の人?」

 安室は驚きに目を丸くする。その表情は混乱や焦りの含んだものではなく、むしろ呆れているという方が正しい驚き方だった。

「君の詮索好きは相変わらずだね。今日はプライベートだよ」
「プライベートって?」

 少年は無邪気に笑って食い下がるが、安室はさわやかな微笑みでウィンクをした。

「実は、デートなんだ」
「え、デート?」
「そう。そろそろ待ち合わせの時間なんだ。君も、友達を待たせちゃいけないよ」

 安室の言うとおり、3人の子供達が大きく手を振りながら「おーい! コナーン!」と少年の名前を呼んでいる。

「ほら、行っておいで」

 安室に背中を押され、少年はしぶしぶと安室から離れた。何度も安室を振り返る目がいかにも名残惜しそうで、よっぽど安室と待ち合わせた人物に興味があるらしい。

 小学1年生くらいだろうか、それにしてはずいぶん大人びた雰囲気のする子供だ。幼く舌足らずな愛らしい声で、組織や公安警察などという言葉を平然と使っている様子は、灰原哀とよく似ているなと、は思った。

「あの子、何者なの?」

子供達の姿が改札に吸い込まれて見えなくなったのを確かめてから、は安室の隣で口を開いた。

「毛利名探偵のところに居候している少年で、なかなか鋭い子なんです」

 安室は少しも動揺することなく、ほがらかな笑顔を浮かべてを見る。

 安室が子供達に話しかけられている最中、は他人のふりをして安室の隣に立っていた。話に割り込む必要性を感じなかったし、好奇心旺盛な子供達にあれこれ質問攻めにされるのはごめんだった。

「デートってどういうこと? 私はあなたに呼び出されたから来ただけよ」

 が不満げに言うと、安室は照れたように後ろ頭をかく。

「会ってからちゃんと言おうと思ったんです。すいません。改めて言わせてください」
「何よ?」
「良ければ、今日一日、僕とデートしませんか?」

 は渋い顔をして安室を睨み返した。わざわざ呼び出されたから何かと思えば、まさかそんな馬鹿馬鹿しい理由だとは思わなかった。

 安室は、がおもしろくない顔をするのを予想していたようだった。

「あなたが部屋に引きこもりがちだと聞いたので、気晴らしでもどうかと思ったんですが」
「呼ばれればのこのこ外に出てくると思ったってことね」
「出てきてくれたじゃないですか」

 それは安室に対するの気遣いだ。は安室に命を救われ、生活費を全て援助してもらっている。恩のある相手の申し出を無視するのは、の道義に反することだった。

「部屋に閉じこもってばかりは体によくありませんよ。少し外の空気を吸いに行きましょうよ」
「あなたってよっぽど暇なのね」

 嫌味のつもりで言った言葉は、安室の笑顔にいとも簡単にはじき返されてしまった。

「それほどでも」

 は観念してため息を吐く。

 安室の言動にケチをつけることはいくらでもできる。けれど、安室に管理され、監視されている立場である以上、最終的には絶対に逆らうことはできない。どんなに優しく丁寧な言葉で差し出される誘いも提案も、にとっては命令に等しい。無茶苦茶で非常な誘いでない限り、断る理由はなかった。

「それじゃ、買い物に付き合ってくれる?」
「いいですよ。何が必要なんですか?」
「女性用のあれこれ。あの眼鏡の公安さんに頼むにはちょっとね」
「分かりました。それじゃ行きましょう」

 ふたり並んで歩き出そうとしたとき、向かいから歩いてきた男の肩がにぶつかった。体格差が大きく、は易々と突き飛ばされてしまう。バランスを崩して転びそうになったを、安室が受け止めて支えた。

「大丈夫ですか?」
「えぇ、ありがとう」
「人が多いですね」

 にぶつかった男は、あっという間に人波に紛れて見えなくなってしまった。

 さすが行楽日和の東京の人出はすさまじい。組織にいた頃は、外出はもっぱら日が暮れてからに限られていた。の仕事は闇がよく似合ったからだ。

 ふと、の手のひらに、安室の手が滑り込んできた。10本の指が絡んで、つながる。驚いて見上げると、安室はいつもと変わらない顔でにっこりしていた。

「どこに行きましょうか」

 これじゃ、本当にデートみたいじゃないか?

 思わずそう口に出しそうになったけれど、言葉にすると本当にそういうことになってしまいそうで、はその言葉だけはぐっと飲み込んだ。

「それじゃ、百貨店に行きましょう。一度にいろいろ揃えられるしね」



 米花百貨店のレディースファッションフロアに足を踏み入れた安室が困った顔をするのを見て、ははじめて安室より優位に立てたような気がした。

「ここ、ですか?」
「そうよ」

 ふたりの目の前には、世界中の美しい蝶や花々を集めてショーケースの中にぎゅっと詰め込んだようなきらびやかな光景が広がっている。女性用の下着売り場である。

「僕、外で待っていましょうか?」

 あらゆる経験を積んでいそうな安室でも、こういう場所は居心地が悪いらしい。

 は少し意地悪い気持ちで言う。

「私をひとりにしておいていいの? 今日は監視の人、あなた以外にいないんでしょう?」
「けれど、プライバシーというものも大事ですし」
「そう。それじゃ、後で合流する?」
「分かりました。1時間後に、7階のカフェで待ち合わせでどうですか?」
「OK」

 安室はが驚くほどあっさりエレベーターに乗って行ってしまった。拍子抜けするほど、あっけなかった。

 が外出するときは必ず監視がつくという約束だったはずだ。安室以外にも監視がいるのだろうか、それにしてはその気配は感じられない。

 正真正銘のひとりになってしまった。ふいに与えられた自由に、足元がぐらつくような不安な気持ちが湧いてくる。

「お客様。何かお探しですか?」

 完璧な微笑みを浮かべた店員に声をかけられて、ははっと我に返った。

「えぇ、サイズを測りたいんですけれど、お願いできますか?」
「では試着室へどうぞ」



 それから1時間後。

 がカフェの入り口をくぐり、広々とした店内を見回すと、窓際の席で安室が手を挙げた。

「お待たせ」
「時間ちょうどでしたね。買い物は終わりました?」
「えぇ、おかげさまで」
「荷物は?」
「大荷物になっちゃったから、コインロッカーに預けて来た」

 注文を取りに来たウェイターに、アイスコーヒーをふたつ注文する。

 窓から外を見ると、向かいのビルの窓が鏡のように空の青を映しているのが見えた。鏡像の青空だ。下を見下ろすと、道を行き交う人々や車がまるでおもちゃのように小さい。

「安室くんは、何か買い物したの?」
「いいえ。店内をぶらぶらしてました」
「そうなの? なんか、私ばっかりごめんね」
「あなたを行きたいところに連れて行くのが今日の僕の役目ですから」

 引きこもりがちなを外に連れ出す、という目的がより具体的になってきた。その物言いはまるで主に付き添う従者のようだ。

 大事に扱われすぎていると、は思う。

 プライバシーを尊重し、必要なだけの生活物資をそろえ、最低限文化的で健康的な暮らしを送るために必要なだけのお金を援助し、組織の目から完璧にを隠した上、何の見返りも求めない。

 安室は一体、どういうつもりでこんなことをするんだろう。は未だにそれが分からないでいる。

「他に行きたいところはありますか?」

 アイスコーヒーを飲みながら、安室が言う。
 はストローで氷をカラカラと鳴らしながら答えた。

「うーん、特には。安室くんは?」
「そうですね、近くに気になる店があるんですけれど、良ければそこでランチにしませんか?」
「気になる店って?」
「最近、新しくできたカフェなんです。ポアロのメニューの参考にできればいいと思っていて」
「潜入先の仕事に、ずいぶんご執心なのね」
「楽しいですよ。元々、料理は好きでしたし」
「楽しみすぎって、言われない?」
「そう言う人もいますけど、僕は大事にしたいんです」
「へぇ、そう」
「あなたも料理は好きなんじゃないですか? 毎日自炊してますよね」
「別に好きっていうわけじゃない。お金を無駄遣いするのが嫌なだけ」
「健康的で、いいことだと思いますよ」

 思わず自嘲したを、安室は首をかしげてしげしげと見つめる。

「何がおもしろいんですか?」
「だって、私みたいな人間に健康なんて言葉に合わないじゃない」
「そうですか?」
「そうよ」

 はこれまで、数えきれないほどの人間を撃ってきた。命を奪い、遺体を弔う機会すら与えなかったことも一度や二度ではない。80代の老人を散々苦しめながら殺したことも、10代のいとけない子どもの未来を奪ったこともある。そんな人間が、自分の命だけは大事に守っているだなんて、滑稽だ。

「一度、聞いてみたかったんですが……」

 安室は胸の前で両手を組み、真っ直ぐにを見る。そのまなざしに一本筋の通ったものを感じて、は背筋を伸ばして両手を膝の上に置いた。

「あなたの安否を気にかけている人は、誰かいないんでしょうか?」
「安否?」
「例えば、という名前を付けてくれた人とか」

 再び笑いが込み上げてきて、は唇を歪め乾いた声で笑った。そんな声しか出ないことが、我ながらむなしかった。

「家族は、ずいぶん前に亡くなってるわ。他に親戚もいないし、友達も、恋人もいない。心配しなくても、私がいなくなったことを不審に思う人はいない」
「いえ、僕が心配しているのはそういうことではないんです」
「どういう意味?」

 安室の目元に影が差して、どこか物悲しい色を帯びた。それはまばたきひとつの間に振り払われてしまうくらいかすかなものだったけれど、の目にその色は鮮烈に焼き付いた。

「せめて、あなたが死んだということを知らせたい相手は、いないんでしょうか?」
「そういうこと、安室くんはしたいと思っているの?」
「あなたが希望するなら」

 安室は何かを探すように窓の外に視線を投げた。組んでいた指をほどき、ぐっしょりと汗をかいたグラスを手に取る。けれどストローに口をつけることはなく、グラスを傾けて溶けかけた氷を一度だけ鳴らす。

 安室の爪は、肌の色より色素が薄く、短く清潔に整えられている。

 この手が、を組織の目から隠してくれた。は、この手の中に閉じ込められた籠の鳥だ。籠の中には食料も寝床も整っていて日々を暮らしていくのになんの不自由もない。けれど、大きく羽を広げて空高く飛んでいく自由はない。

「スコッチ、という名を聞いたことは?」

 それはウィスキーの銘柄のひとつだが、そういう意味で言ったのではないことはすぐに分かった。

「名前だけは知ってるわ。会ったことはないけど」
「彼は警視庁公安部の潜入捜査官だったんです」
「え、そうだったの?」

 だから、ライに殺されたのか。はそれを口に出さなかった。ライとバーボンは犬猿の仲で、何かにつけて互いにいがみ合っていたというのは、組織では有名な話だった。

「彼の兄が、長野県警にいます。僕はあるルートを使って、彼にスコッチの遺品を届けました。スコッチのスマホです。拳銃で撃ち抜かれ、血痕が基盤に染み付いていました」
「どうしてそんなことしたの?」
「彼の兄なら、あのスマホを見ればスコッチがどういう運命をたどったか、理解してくれると思ったんです。スコッチは、組織にもぐりこんだ鼠として殺され、亡骸は無残に捨てられました。葬式をあげるどころか、彼が死んだことを家族に伝えることすらできない。この国のために危険を顧みず任務を果たした彼に対して、それが警察の礼儀なんでしょうか。僕はそれが納得できなかったんです」

 安室の濡れた指がグラスの縁を撫でた。雫が流れ、紙製のコースターにじわりとしみを作る。

 じわりじわりと広がっていくしみを見つめていると、の胸はざわめいた。人間を銃で撃ち殺すと、傷口から溢れた血液がじわりじわりと服を侵食する。どんなに美しく着飾っていても、が狙いを定めた人間は皆こうやって死んでいった。

「彼の家族が、警察関係者で良かったわね」

 はコースターのしみが広がっていくのを見つめながら、ほとんど無意識に言った。

「仕事柄見慣れているだろうから、血塗れのスマホを見ても大騒ぎはしなかったはず。きっと、安室くんの意図も組んでくれたんじゃないかしら」
「それを確かめる術はありませんけどね」

 安室は苦く笑った。

「伝わったはずよ、きっと」
「結局、僕は甘いんだと思います。こんなことを上の人間に知られたら、死んだ捜査官にこだわらず、もっと国のためになる情報を集めろと叱責されるでしょうし」
「でも、そんなあなただから、私を殺さずに生かしてくれてるんでしょう」

 その時、テーブルの下で安室との足がぶつかった。黒いストレートチップの革靴と、白いバレエシューズが爪先でキスをする。は足を動かさず、安室を足を引っ込めない。

 爪先で安室の体を感じながら、は続けた。

「私は、自分が生きている意味が本当に分からないし、私が存在する価値があるかも疑問だけれど、分からないなりに流れに身を任せて生きていくのも、悪くないのかもしれないと思ってるの。あなたのおかげよ」
「僕があなたを生かしたのは、結果的に国の利益になると判断したからですよ」

 安室の謙遜は半分は本当で、半分はでまかせなんじゃないだろうかと、は思う。安室は、スコッチが死んだ後もその存在を大切に思っている、だからこそ、警察のルールを破って家族に遺品を届けるという危険を冒したのだ。そんな情の厚い人間が、国の利益しか考えない冷血漢であるはずはない。

「あなたが協力者になってくれれば、百人力なんですけれどね」

 話題の中心をにずらして、安室は誘うように笑う。はふるふると首を横に振りながらきっぱりと言った。

「それは私を過大評価してる」
「こういうことで、僕は判断を間違ったことはありません」
「なら、私がその前例を覆すことになるでしょうね」
「あなたが自分の価値に気づく日が必ず来ます」
「そう思いたいなら、ご自由にどうぞ」

 ビルの窓に映った空を、雲がゆうゆうと流れていく。

 規則的に並んだ窓ガラスに映る偽物の空。ミニチュアの人や車。目に映る全てが偽物だ。名前を偽って暮らすふたり。粉末を水に溶かしただけのコーヒー。合成皮の靴。化学繊維で編まれたセーター。世の中はどこもかしこも偽物で溢れている。

 だから、死んだはずの人間がカフェでコーヒーを飲んでいようが、誰もそれを気に止めはしない。

「私に県警に勤めてる兄はいないから、私の死を誰に知らせる必要もないからね」

 偽物の景色を眺めながらがそう言うと、安室は深く納得したようにうなずいた。

「分かりました」
「そろそろお腹が空かない?」
「そうですね。行きましょうか」

 安室がオーダー表を手に取ったので、は財布を出さなかった。が持っている金は、安室が毎月融通してくれている生活費だ。どちらが払うにしろ、元の出所は一緒だと思えば遠慮もない。

「そのカフェは近いの?」
「歩いて10分くらいです。荷物はどうします?」
「近いなら、食べてから取りに来ようかな」
「じゃぁ、そうしましょう」

 ふたりはどちらからともなく自然に手を繋いで店を出た。偽物がこの世の中を生きていくための、大切な作法を守るように。









20200921