ミルク
ついさっきまでいい天気だったのに、突然激しい雨が降り出した。最初はぽつぽつと、そしてざあざあ、やがてざんざんざんざんと、あっという間に空の上で神様がバケツをひっくり返したような雨になる。
とっさにバス停の小さな屋根の下に駆け込んだ
は、サコッシュからハンカチを取り出して濡れた髪を拭った。
アパートの近くを散歩しようと家を出たばかりだというに、ひどい目にあってしまった。夕立だったらそう長く降り続きはしないだろうけれど、まだ早い時間なのに、一足早く夜を連れてきたように薄暗い。先の空模様は読めなかった。
心配ばかりしても仕方がないので、
はひとまずバス停のベンチに腰を落ち着けた。ベンチには先客がひとりいる。小学校低学年くらいの女の子が目深にフードをかぶり、ランドセルを背負って座っている。水色のパーカーのフードや肩が濡れていて、そこだけ色が濃く変わっていた。どうやら彼女も
と同じ理由でここにいるようだった。
雨はますます強くなり、アスファルトを鋭く穿っている。地面に弾かれた雨粒が白い靄になって地面を覆い、その上を車が水しぶきを上げながら走り抜けていく。雨で煙たい景色を眺めながら、
は雨脚が弱まるのをじっと待った。
組織と縁を切ってから、何も考えずにぼーっと過ごす時間が増えた。はじめは、何もすることがないという現実が手持無沙汰でがまんがならず、いらいらしてばかりいたけれど、人間はどんな状況にも慣れるものらしい。今では、目に映る景色の中の小さな変化に目を凝らす楽しみを覚えた。
道路の向かい、ガラス張りのカウンター席でコーヒーカップを傾けているふたり組の男が何を話し合っているのかを想像してみたり、同じ建物の2階のヘアサロン、窓際の席でパーマを当てている女性が何の雑誌を読んでいるのか目を凝らしてみたり、傘を差して足早に歩いていくトレンチコートの男性のこめかみを撃ち抜くタイミングを計ってみたり、走る車の運転席にいる男を射殺するにはどの銃を使って、どんなタイミングで引き金を引けばいいか考えを巡らせてみたり、無意識の内に殺し屋としての脳が活性化されて物騒なことを考えてしまう自分を自嘲したり。
体はじっとしていても、頭の中はいつも忙しい。
「……て」
ふと、小さな声が聞こえて、
は少し離れた場所に座っている女の子を見た。
女の子はランドセルに押し潰されそうに背中を丸め、膝の上でぎゅっとこぶしを握り締めている。その手がぶるぶると震えていた。
「ねぇ、もしかして具合が悪いの?」
が声をかけると、女の子はびくりと肩を震わせた。まるで怯える子猫のようだった。
「寒い? もしかして熱でもあるのかな? 話せる?」
「……えて」
「ん? ごめん、聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「場所を、変えて」
は目を丸くして首をかしげた。言葉は聞き取れたけれど、意味が分からない。何の場所を変えて欲しいんだろう。彼女の周りには邪魔になりそうなものは何もない。
はベンチの端に座っていて、彼女とはこれ以上距離を取れない。
「ごめんね、どういう意味なのか分からないんだけど」
「……」
「なんの場所を変えて欲しいのかな?」
「……私の死に場所」
は耳を疑った。こんなに小さな女の子が使う言葉だとは思えなかった。空耳だっただろうか、長年染みついた習慣のせいで耳がおかしくなったのかもしれない。
は眉をしかめてもう一度尋ねた。
「死に場所?」
「私を殺しに来たんでしょう? 誰の差し金?」
「えっと……」
「見つかってしまった以上、もう逃げも隠れもしないわ。けど、今ここで私が死んだら、組織にとっても不都合でしょ。せめて人気のないところで」
彼女の声は、激しい雨音でかき消されそうなほど小さい。雨はまるで機関銃のようにアスファルトを撃っている。耳を塞ぎたくなるほどの轟音だ。彼女は雨の弾丸に撃たれたように背中を丸めて深く俯いた。
は腰を滑らせると、彼女と体をぴったりくっつけるようにして肩を抱いた。
「大丈夫よ。私はあなたを殺しに来たんじゃない。安心して。あなたと一緒で、ただ雨宿りをしてるだけよ。何も怖くないわ。大丈夫、大丈夫」
そう声をかけ続けながら、ごしごしと肩をさすった。細くて小さな、とても頼りない体だった。
彼女が何を言っているのかはさっぱり分からなかったし、どうしてこんなに怯えているのかも分からない。
もしかしたら、何か、怖い本でも読んでしまったのかもしれない。だとしたら、
にも覚えがあった。小さな子供の頃、図書館で「おしいれのぼうけん」という絵本を読んだことがある。主人公がおしいれの中の深く広い世界で冒険をする話だ。独特な白黒の絵で、押し入れの中の深い暗闇が地の底まで続いているようだった。その夜、怖い想像ばかりして眠れなくなってしまったことを覚えている。
彼女はきっと今日、おしいれのぼうけんを読んだのだ。
腕の中でがたがた震えていた小さな体は、
のぬくもりに包まれてやがて落ち着いていった。
「……変なことを言って、ごめんなさい」
「いいのよ。落ち着いた?」
「えぇ、ありがとう」
彼女は
から体を離すと、濡れたフードを取って顔を見せてくれた。肩のあたりで切りそろえた薄い茶色の髪に、灰色の目。つんと尖った目尻が猫に似ている。
どこかで見たことがあるような顔に思えたけれど、これまでの人生でこんなに小さな子どもと関わり合ったことはないから、きっと気のせいだろうと、
は結論した。
「あなた、名前は? 私は
っていうの」
「はい……、いえ。志保。宮野志保よ」
彼女はそう言った。
は、同じ名前の女の子が組織にもいたことを思い出した。コードネームはシェリー。組織の科学者だ。
と年はそう変わらなかったが、人を殺すことしか能のない
とは違い、彼女はとても頭が良くて器用で、組織でも指折りの秀才だった。確か、組織の命令で海外へ留学していたこともあったはずだ、そんな特別な待遇を受けてた人間はほとんどいない。
詳しいことは分からないが、上にたてついたことが原因で、始末されたと聞いている。ベルモットが自分の命を狙っていると知ったとき、
は自分もシェリーと同じ運命をたどるのだと思って絶望したのだ。
「私の知ってる人と、同じ名前だわ」
「その人は、どうしたの?」
は言葉を選んでこたえた。
「いなくなっちゃった」
「そう」
「あなたと知り合えて嬉しいわ。あの子とまた会えたみたい」
「仲が良かったの?」
「そういうわけじゃないけど。すごく頭が良くて、かっこいい女の子でね。ちょっぴり近寄りがたかったな。仲良くなれたら良かったけど、深く知り合うチャンスがなかった。まぁ、組織の仲間同士だからと言って、仲良しこよしするような雰囲気でもなかったし、こんなこと考えてた私はそもそも甘かったのね。だからこんな目にあったんだわ」
「あなたは、その組織を、追い出されたの?」
「うーん、追い出されたというか、追い出されそうになったところを、救い出されたというか、それを踏み台にして飛び出しちゃったと言うかねぇ……」
どうして年端もいかない小さな子どもにこんな話をしているんだろう。
は自分の言っていることがおかしくてしょうがなかった。彼女を前にしていると、言葉が勝手に口から滑り出ていく。するすると、まるでセーターから糸がほどけていくように。
ざんざんと降り続いている雨を見つめながら、
はひとり笑った。
「
さん」
と、彼女は不安そうに言う。
「何?」
「
さんは、お仕事は何をしているの?」
「私? 今は何もしてないの。ニートよ、ニート」
「そう」
「志保ちゃんは? 何年生?」
「1年生。あのね、
さん」
「うん?」
「私の名前、宮野志保って言ったけど、今は灰原哀という名前なの」
「へぇ、そうなの」
それはずいぶん大胆な改名だ。日本の法律では姓名両方を一度に変えることはできたのだろうか。ふたつどころか、三つの名前を使い分けて生きている男を知っているけれど、まさか彼女が彼と同じ事情を抱えているわけでもあるまい。
でも、もしも彼女も、そうだとしたら?
不思議な違和感を覚えて、
はじっと彼女の目を見つめた。彼女は、
の知っている宮野志保によく似ている。見れば見るほど、瓜二つだ。他人の空似かもしれない。けれど、赤の他人がこんなにも似るものだろうか。
ベルモット
秘密
その言葉が脳裏に浮かんだ時、
の体に電流が走った。
「……あなた、もしかして、シェリー?」
彼女は大きな目をしばたいて、かすかに微笑んでみせた。
「あなたは、アマレットね」
雨はますます激しさを増す。バス停の屋根を叩く雨音は、まるで太鼓をどんどんと打ち鳴らすように、腹の底に響く音色を奏でていた。
豪雨の真っただ中で、ふたりは自分がどうやって組織を抜け出し生き永らえたかを、事細かに話し合った。
には監視がひとりついていたが、この雨のせいでそばに近寄ることができず声も聞こえず、たまたま居合わせた少女と話がはずんでいるようにしか見えていなかった。
2度、ふたりの目の前にバスが止まった。
はそのたび「乗らない」と大声を上げた。けれどその声も雨音で書き消されてしまったので、両腕で大きくバツ印を作って意志を伝えた。
雨脚はなかなか弱まらず、二人の足元を雨水が川のように流れていた。
「だいたい分かったわ。そういうことだったのね」
シェリーの名前を捨て、今は灰原哀と名乗っている彼女は、高く足を組み、思案気な顔で腕を組んでいる。ランドセルを背負っている小学一年生の子どもには似合わない大人びた雰囲気がして、本来の彼女は自分と同世代の女性なのだとまざまざと実感させられた。
は足を組んだ膝を両手で抱えながら頷いた。
「さっき、あんなに怖がっていたのは、私のことを、組織が差し向けた刺客だと思ったからね」
「そうとしか思えないわよ。あなたほど腕の立つ暗殺者はいないって、組織では評判だったもの。組織から逃げ出したことも知らなかったし」
「驚かせてごめんね。でも私も驚いたのよ。まさかこんな、かわいらしい子どもがあなただなんて、夢でも見てるみたい」
「本当に、全部夢ならどんなにいいかしらね」
「あなたと話せて私は嬉しいわ」
彼女は照れくさそうに頬を赤らめ、つんとそっぽを向く。そして、雨音にかき消されそうなほど小さな声で、ありがとう、と言った。宮野志保はシャイな性格なんだ。
はふふふと笑った。
「そんなことより、あの安室って人よ」
と、灰原が叱りつけるように言う。
「彼が何?」
「
さん。あなた、よく組織の人間を信用して何もかも預けてられるわね? 信じられないわ」
「組織じゃなくて、日本警察の人よ」
「そうだとしても、組織の探り屋であることには変わらないでしょう」
「確かにそうだけど、仕方がないじゃない。成り行き上、こうするしかなかったんだもの」
「だとしても、完全に信用しちゃ絶対にだめよ。どんな風に利用されてしまうか分かったもんじゃないし、最悪、殺されてしまうかもしれないわ」
「そうかもしれないけれど、私はそれでも悪くないかなって、思ってる」
「何を馬鹿なこと言ってるのよ?」
灰原は思い切り顔をしかめて
に詰め寄った。
は一度、死を覚悟した。この人生はもう終わった、そう本気で悟ったのだ。思いもよらない形で命拾いをしたものの、今はその命を持て余して、どうしていいか分からないでいる。未来のことを考えようとすると頭がぼーっとして、真っ白い霧の中に放り出されたような気分になる。前に進もうにも、どちらが前なのかすら分からないのだ。
「もう、これからどうなるにせよ、流れに身を任せていくしかないのかなって、思ってるんだよね」
のほほんとして言った
に、灰原はぴしゃりと言った。
「そうかもしれないけど、自分の人生のハンドルを他人に預けちゃだめよ。自分のハンドルは、自分で握っていなくちゃ」
「わぁ、すごいいいこと言うね」
「私だって、日々いろいろ考えて生きているの」
灰原の小さくて柔らかい手が、
の手をぎゅっと握った。子どもは体温が高い。雨に打たれて冷えた体に、灰原の手は湯たんぽのようにじんわりと温かかった。
「自分の人生から、逃げちゃだめよ」
灰色の瞳が、
の目をじっと見つめている。真っ直ぐで、迷いのない瞳だ。彼女はきっと、
の知らない葛藤をいくつも乗り越えてきたんだろう。並々ならぬ覚悟を感じる。
は小さく温かい少女の手を握り返した。
「ありがとう。よく考えてみる」
「また、ふたりで話しましょうね」
「もちろん。私もまた話したい」
それから少しして、ようやく雨が止んだ。降りはじめたときと同じように、雨脚が弱まったと思ったらあっという間に雲が切れ、雲間から光が差す。夕暮れの赤みがかったオレンジ色の光が、雨に濡れた町を照らし、アスファルトを覆った水面がその光を弾いて、あたり一面を金色に染めた。
奇跡のように眩しい光を浴びながら、
は灰原と見つめ合って微笑んだ。
20200907