ボッチボール
風見裕也は憂鬱だった。
この国を守るという重大な使命を持つ公安警察の仕事に、どんなに強い誇りを持っていても、その中にひとつくらいは気の乗らない仕事があっておかしくはない。風見にとって、組織から来た女に会うことがまさにそれだった。
彼女は、降谷が潜入している組織において、要人暗殺の役目を担っていたらしい。降谷の報告書に目を通したときには、度肝を抜かされた。あんなにも多くの人命を奪ったにも関わらず、これまでひとつも事件化されず、捜査すらされていないだなんてとても信じられなかった。
風見個人の意見は、彼女がこれまでに犯した罪を事件化し、逮捕することで、大々的に組織の存在を明るみに出すべきだと思う。けれど、降谷がそれを許さない以上は従うほかない。上からの命令と、自分の意見が食い違うことは珍しくはない。が、そこから生まれるストレスは何度繰り返しても小さくはならなかった。
降谷は彼女を協力者に仕立てたいと言う。組織の内情に精通した貴重な人材だという言い分は理解できるが、風見にはとうてい無理なことに思えた。あんなに我が強くてわがままな女が、他人の言うことを素直に聞くようになるとは、とても思えない。
ピンポン、とチャイムを鳴らし、専用の鍵を使って部屋の中に入る。鍵があるのだからわざわざチャイムを鳴らす必要はないが、降谷が「女性の部屋に合図をするのは最低限のマナーだ」というから従っている。この勤勉さだけは誰かに褒めてもらいたいものだ。
元組織の殺し屋の女・
は、部屋の真ん中で逆立ちして風見を出迎えた。
「……何をやっているんだ?」
思わず顔を引きつらせて言う。
は面倒くさそうに目を細め、優雅に足を下ろした。黒い細身のヨガパンツに白いTシャツ姿で、床には青いヨガマットが敷かれている。
「今日は何の用?」
「何をやってるのかと聞いてるんだ」
「見れば分かるでしょ」
ヨガマットが敷いてあるのだから、おそらくヨガをしていたんだろう。逆立ちもヨガのポーズの一種なのだろうか? その手のことに疎い風見には分からない。
は風見の無知を嘲笑うように唇の端をくっと持ち上げた。それを見て風見はカッとなったが、こんなことで声を荒げるほど大人げなくはない。そう自分に言い聞かせて、咳ばらいをする。
「1時間後に出掛ける。準備しろ」
「えぇ? 嫌よ」
は間髪入れずに拒否し、ますます風見の神経を逆なでた。
「これは命令だ。お前に拒否権はない」
語気を強めて脅すように言うが、
は素知らぬ顔をして風見に背を向ける。
「あなたに従うと決めた覚えはない」
風見は体の横で強く強く拳を握る。相手が男で、降谷の命令がなければ一発殴ってやるところだ。
「言うことを聞かないと、どんな目に合うのか分かっているのか」
「なによ、暴力に訴える気? 日本警察はすっかり品位を失ったわね」
「お前の命は我々が握っているということを忘れるなと言っている」
「私にまだ命があると思ってるの?」
「何を言っているんだ?」
「安室くんがなんて説明しているのか知らないけど、人の話はよく聞いた方がいいわよ」
は右手で右足の親指を掴んで頭の高さまで持ち上げて静止する。そのまま黙り込んでしまい、風見はますますいらいらした。
体にぴったりしたヨガパンツ姿の
は、女性らしい体のラインがはっきりとしていて、目のやり場に困る。風見は
に背を向けて苦虫を噛んだ。
この女の、横柄で尊大な態度が気に食わない。降谷の報告によれば、彼女はある秘密を知ってしまったがために組織の仲間から命を狙われたのだそうだ。そこから命を救ってやっただけに止まらず、住む場所を与え、組織から身を隠すために最大限の措置を施し、食事や服は望むものを買い与えている。それに感謝こそすれ、この待遇が当然のような振る舞いは、一体どういう了見なのだ。
それで大人しくしてくれていればいいが、彼女は違う。服を買ってくればケチをつけ、用意した食材が腐っていたと文句を言い、人が親切でしていることにいちいち文句ばかり、まるで女王様気どりだ。
だいたい、出掛ける1時間も前に声をかけてやっているだけで十分過ぎるほど親切ではないのか。「女性は支度に時間がかかるから、時間には余裕をもって声をかけるように」と、言ったのは降谷だ。そんなことまでしなくても、無理矢理車に押し込んで連れ去ってしまえばいいのに。それくらいのことをする権利はこちらにはあるはずだ。だいたい降谷が親切すぎるから、彼女がつけあがるのではないのか?
そう思っていても、降谷の目が怖くて命令に従わざるを得ない自分。その途方もない無力さ。なんだかむなしくなって、風見はぐったりとため息をついた。
「で? 私をどこに連れていく気なの?」
と、
が言う。
振り返ると、左右の足を変えて同じポーズを取っているところだった。
「降谷さんの潜入先だ」
「そういえば喫茶店で働いてるんですってね」
「分かったらさっさと支度をしろ」
は優雅な仕草で足を下ろすと、つかつかと風見に歩み寄り、腕を組みをして高飛車に笑った。風見より頭ふたつ分ほど小柄な女だ。そのはずなのに、高いところから見下ろされているような錯覚を覚えて、風見は言葉を失う。
「そういう時はね、一緒に美味しいコーヒーを飲みに行きませんか? って誘えばいいのよ。分かった? 眼鏡さん」
の指が、風見の胸ポケットをぱちんとはじいた。
は一時間半かけて身支度を整え、風見の運転する車の後部座席に乗り込んだ。
空の色を染め抜いたようなライトブルーのストレートデニムに、白いスニーカー、肌馴染みのいいベージュのプルオーバーを合わせる。荷物は帆布素材の小さなサコッシュだけだ。中身はハンカチとポケットティッシュ、そしてルージュだけで、財布はない。櫛を通しただけの髪は規則性なくうねっていて、なかなかいい味を出している。
安室の指示で風見が買い直してきた服は、誰もが耳にしたことのあるチェーン店の量産品だった。ワンシーズンで御役御免となりそうな安っぽい作りだが、人ごみに姿を隠すのにはうってつけで、ストレッチ素材で動きやすい。
ただ、その中にいくつか含まれていた黒い色の服だけは、持ち帰ってもらった。黒い服を着るだけで、私はあの組織に身を置いていた人間なのだと世界に向かって宣言しているような気持ちになるのだ。今、
が身につけている黒いものは、顔を隠すための大振りのサングラスだけだった。
「着いたぞ」
風見が車を止めたのは、ポアロという名前の喫茶店の前だった。
「自分で車を降りて、真っ直ぐ店に入るんだ。下手な真似をしてみろ、二度と外へ出られないようにしてやるからな」
意地を張った子どものような言い方をする風見を、
はバックミラー越しに見て苦笑いした。
「あなた本当にそういう話し方しかできないのね。心配しなくてもどこにも逃げやしないわよ」
「いいから黙ってさっさと行け」
先に口出してきたのはそっちじゃないの、本当に嫌な男。と、口の中だけで言って、
はひとり車を降りる。後ろ手に扉を閉めてサングラスを取り、サコッシュにしまう。
辺りの様子を伺いながらおそるおそる扉を引くと、どこか懐かしいカウベルの音が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。おひとりですか?」
ウェイトレスが笑顔で言う。
安室と風見以外の人間と話をするのはずいぶん久しぶりだ、
は笑顔が引きつらないよう気をつけながらこたえた。
「はい。あの、安室くんはこちらで働いています?」
「えぇ。安室さんならあちらに」
ウェイトレスが指差した方に、安室はいた。カウンターの中に立って、小柄な白髪の老女とおしゃべりしている。常連客なのだろうか、ずいぶん打ち解けている様子だ。
「お好きな席でお待ちください」
ウェイトレスは手のひらを上げてそう言った。
ぐるりと店内を見回して、カウンター席に座る。ウェイトレスが給仕してくれたお冷で唇を湿らせていると、見計らったように安室が目の前に立った。
「いらっしゃいませ」
とびきりの笑顔がまぶしくて、
は思わず目を細めた。
バーボンの時も、降谷零の時も、こんな顔で笑ったところは見たことがない。この人は一体いくつの顔を隠し持っているんだろう、想像すると空恐ろしいような気持になって、愛想笑いを返すだけで精いっぱいだ。
「どうも」
「急に呼び出してすみません」
「私は構わないけど、どうせすることないし」
「お腹、空いてますか?」
「少しね」
「それじゃ、サンドイッチをテイクアウトするので、一緒に外で食べませんか?」
「仕事はいいの?」
「もう上がりの時間ですから」
ふと、思う。
は風見の計画より30分遅れてアパートを出た。風見に時間を指定したのは安室に違いなく、それはアルバイトのシフトが終わる時間を見越しての指示だったのではないか?
「……もしかして、待たせちゃった?」
かすかな罪悪感を感じて、
は形ばかり申し訳なさそうに首を傾げてみせた。
「今日は少し忙しかったですし、ちょうどよかったですよ」
は安室の笑顔に、自分を責める気配が少しでも見当たらないか目を凝らす。けれど、そんな影はひとかけらも見つからなかった。
カウベルの音に見送られ、ふたり一緒に店を出る。安室が持っている紙袋には、御手製のサンドイッチとポアロオリジナルブレンドのコーヒーが入っている。紙袋から立ち上るコーヒーのいい匂いに誘われながら、
は安室の後について行った。
5分程歩くと、小さな児童公園があった。滑り台、鉄棒、ブランコ、砂場、昼時だからだろうか、人の姿はない。空に向かって両手を広げるように枝葉を広げた樹木の影の中に、ペンキが禿げたベンチがあった。安室がそこに座ったので、その隣に腰を折ろす。
紙袋の中からコーヒーを取り出しながら、安室が言う。
「コーヒーに砂糖は入れますか?」
「いらないわ」
カップを受け取ると、素手で持つには熱すぎて、あちち、と思わず声を出してしまった
を、安室は笑った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。わたし、猫手なの」
「ねこて?」
「熱いものが食べられないのが、猫舌。触れないのが猫手。言わない?」
「てっきり、暗器のことかと思いました」
「暗器?」
「昔、忍者が使っていた暗殺の道具で、手に付けると猫の爪のように見えることから、猫手と呼ばれたそうです」
「へぇ、それは知らなかった」
「ハムサンドです、どうぞ」
「ありがとう。あなたが作ったの?」
「はい。お口に合えばいいんですが」
長方形の食パンに、レタス、ハム、チーズが挟んであるシンプルなサンドイッチだ。断面が三色になっていて、彩りがきれいだ。レタスは草原で、ハムの赤身は草原に咲く花のよう。チーズはそこで草をはむ牛だろうか。口に含むと、ふわふわのパンの触感の中から爽やかで柔らかい酸っぱさと香りが広がった。マヨネーズと、ビネガーの風味。
「美味しい」
安室は嬉しそうににっこりすると、
よりも大きな口でサンドイッチを頬張る。もぐもぐと口を動かしながら、空を流れていく雲を見ていた。
一体、何を考えているのか、少しでも手掛かりがないかと、
は安室の横顔をじっと観察する。
が一番理解に苦しんでいるのは、安室が自分に見出している価値についてだ。死んだふりをして、こっそり組織を抜け出した人間は他にいないかもしれない。けれど、命令に従って人を殺してきただけの自分が、大した情報を持っていないことは、すでに分かりきっているはずだし、もし
が生きていると組織に気づかれてしまったとしたら、一番に疑われるのは
の殺害を命じられ、それを実行したバーボンだ。新たに得られる情報もなく、生かしておくだけで立場を危うくする可能性のある人間を、どうしてこんなに近くに置いておこうとするんだろう。
ベルモットの秘密を教えたことで、バーボンの組織内での立場は盤石なものになったと聞いている。その恩を感じてくれているのかもしれないが、それは過大評価だ。あれはほんの偶然耳に挟んでしまっただけのことで、努力をして手に入れたものではない。
にとってあの秘密は、自分のキャリアを完全に絶ち、自分を奈落の底に突き落としたものでしかないのだ。安室がそれを評価してくれているとしたら、それは
にとって屈辱だった。
口の中のサンドイッチから、急に味がしなくなる。ぶよぶよのゴムを噛み続けているだけのようだと思った瞬間、チーズが歯にくっついて取れなくなってしまった。気持ちが悪くなって、まだ熱いコーヒーで無理矢理流し込む。
安室の方が先にサンドイッチを食べ終わった。ワックスペーパーを綺麗にたたんで、紙袋にまとめる。コーヒーで口直しをしてほっとした顔をすると、ジャケットの内ポケットから小さな封筒をひとつ取り出した。
「今日は、これを渡したくて来てもらったんです」
は食べかけのサンドイッチをワックスペーパーに包んで膝の上に置き、ハンカチで指を拭ってそれを受け取った。封はされておらず、手のひらに向けて逆さにしてみると、カードが2枚ひらりと落ちてきた。国民健康保険の被保険者証と、マイナンバーカードだ。
「あなたの身分証です」
「偽造したの?」
安室は声を上げて笑った。
「ある意味ではそうですけれど、作ったのは日本警察ですから、限りなく本物に近い偽物ですね」
「こんなことして平気なの?」
「問題ありませんよ。僕の身分証だって同じ方法で作ってもらっていますから」
はカードを空に掲げるようにして、まじまじと眺めた。まるで死人のような顔をした自分が、小さな四角い窓からこちらを見ていた。白いブラウスはまるで白装束のようだし、背景のわざとらしい青色が悲壮感を煽っている。これは死人の身分証だ。
「こんなの、使うことあるかしら?」
「病気になったら保険証が必要ですし、マイナンバーカードがあるといろいろと便利ですよ」
「ふぅん」
「それから、これも」
安室が握った拳を差し出してくる。その下に手を広げると、ぽろりと銀色の鍵が落ちてきた。
「あなたの部屋の鍵です。今日からひとりで自由に出入りできるようになります」
「本当に?」
「はい、もちろん」
「私の監視はどうなるの?」
安室は両手を組み合わせ、真面目な顔で説明する。
「部屋の監視カメラは、残念ですが外せません。けれど、あなたを常時監視することが目的ではありません。録画した映像は保存しますが、万が一のことがない限りは誰も確認しないことになっています」
「万が一、っていうのはどういう場合を想定しているの?」
「あなたが再び組織に寝返ること、ですね」
「自分からわざわざ殺されに行くような真似、するわけないわ」
「分かっています」
「自由に行動していいって言ったけど、外での監視は?」
「計画があります。残念ながら、これは詳しくはお伝えできません」
確かに、監視対象にその監視計画をばらしてしまう馬鹿はいない。そのことに不満はなかったし、むしろそれくらいされて当然の立場だ。
気になるのは、身の丈にそぐわないあまりに大きな自由だ。
「……こんなこと、望んでない」
思わずそんな言葉がこぼれる。
安室は首を傾げながら、先を促すように
を見つめている。
「だって、なんの意味もないじゃない。行きたい場所もないし、したいこともない。病気になったって別にかまわないし、それで心配するような人も私にはいないもの」
は思わず、食べかけのサンドイッチを握りつぶしてしまった。手のひらの中で柔らかく冷たいパンがつぶれ、指と指の間からマヨネーズソースが押し出されてこぼれる。
自由。
その言葉を思い浮かべると、足元がぐらつくような不安が押し寄せてきて、居ても立っても居られないような気持ちになる。自分が知らない間に、自由の翼を背中に取り付けられてしまったような、そんな気分だ。どう扱っていいのか全く分からなかった。
マヨネーズソースが滴る
の手に、安室がそっと触れた。
「あなたを心配する人はいますよ。ここに、ひとり」
ソースで汚れるのも厭わず、安室は
の手を覆うように握りしめる。
「行きたいところがなくても、したいことがなくても、いいじゃないですか。その内に何か思いつくかもしれません。それまでのんびり心と体を休めればいいですよ」
は安室の手を振り払い、サコッシュからポケットティッシュを取り出して手を拭いた。それでもべたつきが取れなかったので、公園の水道で軽く手を洗う。すっかり綺麗にしてベンチに戻ると、安室がつぶれたサンドイッチをワックスペーパーに包んで紙袋にしまおうとしている。
はそれを横から奪いとった。
「捨てないで。ちゃんと食べる」
「いいですよ、無理しなくても」
「食べたいの」
握りつぶされたサンドイッチはぐにゃりとゆがみ、お世辞にも美味しそうとは言えなかった。チーズは溶けかかっているし、マヨネーズソースも温まって風味が落ちているだろう。けれど、せっかく安室が自分のために作ってくれたものを、その手で捨てさせたくなかった。
「つぶしたりして、ごめん」
は手の中のサンドイッチに向かって頭を下げ、ひと回り小さくなったそれを口の中に押し込んだ。
ハムスターのように頬を膨らませる
を、安室は温かく、見守っていた。
20200831