フレンチコネクション


















 ピンポン、と玄関のチャイムが鳴ったけれど、無視する。どうせ内側から扉は開かない。そういう特別な細工が施してある。賃貸物件なのにあんな大掛かりな工事をして、絶対敷金戻ってこないんだろうなぁと、他人事のように思う。実際、他人事だ。この部屋の借主は日本警察なのだから。

 玄関を開けて入ってきたのはバーボンだ。白いTシャツに、黒い上下のスウェットを着ていた。

「こんばんは」
「どうも」
「お邪魔でしたか?」
「いいえ」

 バーボンが後ろからこちらの手元を覗き込み、鍋から立ち昇る湯気の匂いを嗅ぎながら言う。

「野菜スープですか、いいですね」
「こんなの適当よ」
「経済的かつ健康的だと思いますよ。どうやら僕はおせっかいだったらしい」

 バーボンは紙袋をシンクの上に置くと、中から大きなタッパを取り出した。

「肉じゃがです。作り過ぎたのでおすそ分けに」
「あなた料理するの」
「好きですよ」

 冷蔵庫を覗き込んで、味噌のパックを取る。菜箸で適当な量をすくって、野菜スープに溶かす。
 バーボンが何か言いたそうな顔をしている。その前にこちらから何か言わなくてはならないような気がして、とっさに言葉がまろび出た。

「こっちの方が合うでしょ」
「そうですね」

 と、バーボンが微笑む。



「どうして着替えないんですか?」

 バーボンが、部屋の片隅に積み上がった衣料品を眺めながら言った。どれもブランド名がプリントされた紙袋に入ったままで、ここに届いてから手つかずのままだ。

 味噌汁と肉じゃがの夕食を取りながら答える。

「分からない?」
「もしかして、好みに合わないとか? 生憎、僕は中身をチェックしていないんですが、見向きもしたくないほどでしたか?」
「好み以前の問題よ」

 バーボンは先を促すようにこちらを見つめてくる。口の中のものを飲み込んでから、想像力の足りない男でも理解できるよう、簡単に説明してあげた。

「私がこの部屋から出られないことは、当然だけれど分かってるわよね。閉じ込めてる張本人なんだから」
「えぇ、もちろん」
「外に出られもしないのに、フレアスカートだの、ラップドレスだの、シルクブラウスだの持って来られても困るのよ。部屋にひとりでいるっていうのになんでめかし込まなきゃいけないわけ? 囚人服でも持ってきてもらった方がまだ納得できるわ」

 バーボンは何が面白いのかくっくっと喉を鳴らして笑っている。こっちはまじめに言っているというのに、失礼な人だ。むかっと腹は立ったものの、それと同じくらい新鮮な驚きもあった。バーボンがこんな風に笑う男だったとは、ちっとも知らなかった。薄暗いホテルの部屋の中、この胸に銃口を押し付けて意味深な顔で微笑んでいた男。あの時とはまるで別人のように、肩の力が抜けた笑顔。

「それは、気がつかなくてすいません。けれど、部屋に閉じこもりきりだからこそ、少しでも気分転換になればと思ってのことだと思いますよ」
「私はそういうやり方で気分転換はしないの」
「分かりました。風見に伝えておきます。どんな服が好みなんですか?」
「動きやすい服」
「幅が広そうですね。気分転換の方法は?」
「体を動かすこと、かな。散歩するだけでも気分が変わるもの。まぁ、どうせ無理でしょうけど」
「いいですよ、行きましょう。散歩」
「は?」

 バーボンはにっこりと笑った。ぽっと、蝋燭に火がともるような笑みだった。



 バーボンが一度部屋に戻って準備を整えている間に、食器を洗って歯を磨く。洗面所の鏡の前に立って肌と髪を整える。化粧道具はひと通り揃っていたけれど、どうせ夜中だ、すっぴんでも構わないだろう。

 無意識に右手が肩のあたりを払うように動いて、はっとした。背中を覆うほどの長い髪は密かな自慢だったのだけれど、この幽閉生活ですっかり傷んでしまったので、バーボンにばっさり切ってもらったのだ。けれど、髪を払いのける癖だけはなかなか手から抜けない。

 鏡の中の自分は、まるで赤の他人のようだ。自分のことは自分が一番よく知っているはずなのに、どこかよそよそしい。妙な感じだ。

「おまたせしました。行きましょう」

 玄関から、バーボンが呼ぶ。着の身着のままそちらへ向かうと、バーボンは白い犬を抱いて待っていた。

「何? それ」
「僕の犬です」
「それは見れば分かるけど」
「ついでです。それとも、犬は嫌いですか? アレルギーとか?」
「それはないけど」
「それじゃ、行きましょう。この子も待ちくたびれていたんですよ」

 この人には、本当に驚かされてばかりだ。予期せず命を救われたり、突然髪を切られたり、真夜中の犬の散歩に付き合わされたり。

 全く、訳がわからない。



 アパートを出ると、湿気を含んだ夜の冷たい空気が肌を撫でた。透明で爽やかな匂いが一瞬で胸の奥にすっと入り込んでくる。気持ちがいい。新鮮な空気の味がする。窓もカーテンも閉めきっているあの部屋とは大違いだ。空気は動くと風になる。

「久しぶりの外はどうですか?」

 バーボンが犬のリードを引きながら言う。

 ただ部屋の外に一歩出ただけで新鮮な驚きに身を震わせているのが、なんだか恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな態度を取ってしまう。

「別に、なんとも」
「そうですか。とりあえず、河川敷の方に行きましょう。いつもの散歩コースなので」

 住宅街ということもあって、道に人影はほとんどなかった。主役のいない舞台を照らすスポットライトのような街灯が、虚しくアスファルトの表面を照らしている。その道を、白い毛並みの犬がのっしのっしと我が物顔で歩いていく。足取りは軽く、尻尾がリズミカルに左右に揺れている。

 バーボンが腕にぶら下げている、エチケット袋が擦れる音がしている。

「どうして、私を連れてきたの?」

 バーボンは何を今更とでも言いたげな顔をした。

「気分転換ですよ。言いましたよね」
「聞いたけど、どうしてそんなことする気になったのか聞いてるの」
「ずっと部屋に閉じ込めておくのは良くないと判断したからですが、そんなに不思議ですか?」
「不思議よ。だって私は、」

 言葉が、喉に引っかかった。うまく言えない。

「……どうして、私は逮捕されないの?」

 バーボンは、河川敷に出る道に近づいて興奮し今にも走り出しそうな犬を、リードを引いて落ち着かせながら答えた。

「あなたの存在が明るみになるのは、まだ時期尚早です。組織に関してはまだ内偵中ですし、逮捕して、情報を公にするにはいかないんですよ」
「組織の目からも、世間の目からも、私は隠れていなくちゃならないわけね。だったら、私はあの時死んでいた方が、手間もお金もかからなくて良かったんじゃない?」
「そんなこと言わないでください。せっかくあなたを助けた僕の気持ちはどうなるんですか」
「知らないわよ。あなたが自分で決めてやったことでしょう」
「ひどいな」

 そうは言っても、バーボンはちっとも傷ついたそぶりも見せず、ほがらかに笑っていた。こちらの言うことなど、鼻から本気にしていないような笑い方だったが、それも当然のことだ。バーボンに情報を売ったことと引き換えに生きる選択をした、それは他でもない自分なのだ。いつまでも悲観的なことを言って、我ながら大人気ない。

 もやもやした気持ちを抱えたまま、河川敷に出る。闇に沈む黒々とした川から吹き上げてくる風はひんやりとして、ほとんど寒いくらいだ。左手に河を眺めながら、犬の後をついて歩いていく。

 髪が風に巻かれて踊り上がる。とっさに伸ばした手は、もうそこにはない長い髪を探して空をつかんだ。

「まだ慣れませんか?」

 と、バーボンが言った。

「まぁね。こんなに短くするのは、もう、何年振りか分からない」

 こそばゆい気持ちがして、首の後ろから地肌に指を通して乱暴に髪をかきあげてみる。バーボンの散髪の腕前は悪くはなかった。むしろ、プロの美容師としても十分やっていけるんじゃないかと思うほどだった。ただ、新しい髪型と髪色にまだ慣れない自分の心を持て余している。まるでサイズの合わない靴に無理やり足を突っ込んで歩いているような気分だ。

「今の髪型も、よくお似合いですよ」
「それはどーも」
「今の生活で、不便なことはありませんか? 服のこと以外で」
「言ったら全部叶えてくれるの?」
「できる限りのことはしますよ。あなたを閉じ込めているのはこちらの事情なんですから」
「そうねぇ、自由に買い物ができればありがたいけど、せめてネットスーパーとか使いたい」
「風見に言いつけても構いませんよ」
「あの人、食材を見る目がないんだもの。この間なんかほとんど腐りかけの玉ねぎが混じってたんだから。勘弁して」
「それはすいませんでした。何なら、食材の買い出しは僕がしましょう」
「え?」
「自分の買い出しもありますし、ついでに。欲しいものがあればいつでも言ってください」
「そう、ありがとう」
「他には何かありますか?」
「そうね、強いて言えば、洗濯物、室内干ししかできないのがちょっと気になるかな」

 暮らしにまつわる何気ない会話ができることが、降谷は嬉しかった。生きることに何の希望もないと彼女は言ったけれど、日々の食事や家事には人並み程度の関心はあるようだ。食欲は人間の三大欲求のひとつ、そこに意識が向きはじめたのは希望への第一歩だと思う。

「それにしても」

 ふと、彼女はまじまじと降谷を見、ひと際大袈裟にため息をついた。

「あのバーボンが、肉じゃがを作ったり犬の散歩をしたり、スーパーで買い出ししたりするなんてね」

 何を言いたいのか察しがついて、降谷はわざとおどけた笑顔を浮かべて見せた。

「仕事中の顔と、プライベートのギャップが大きい人間なんです」
「ゼロ所属の潜入捜査官ならそりゃそうでしょうよ」
「意外でしたか?」
「スーツ姿の方が意外だった。あなた、あれ似合ってないわよ」
「ひどいな、結構気に入ってるんですよ」
「きっと、あなたの悪い面しか知らないせいね」
「自分で言うのもなんですが、良いところもたくさんあります」
「例えば?」
「勤勉で仕事熱心、命じられた任務は確実にこなします。特技は料理にボクシング。それから、中学生の時にテニスで全国大会に出場した経験があります。今でもそれなりにやりますよ。それから、喫茶店で働いているので、コーヒーを淹れるのも上手くなりました。今度ごちそうします。どうかしましたか?」

 彼女は呆れ半分、苛立ち半分が混ざったような顔で降谷を見ていた。

「いや、よくもそうすらすらと喋れるなと思って」
「事実を話すだけなんだから、簡単です」
「自分の長所を事実と言って話す人は普通いないんじゃない? 少しは謙遜するものよ」
「僕はそうは思いませんが」
「あぁ、そう。さすがはバーボンね。組織でも指折りの探り屋さん」

 ふと気になって、降谷は口調を改めた。

「ところで、その呼び方なんですが」
「何?」
「僕をコードネームで呼ぶのは、もう止めにしませんか? もう組織を通じての関係じゃないんですから」

 彼女はほんの少し困ったような顔で笑った。

「ごめんなさい。くせが抜けなくて」
「仕方ありません。けれど、犬の散歩をしているところでバーボンと呼ばれると、おかしな感じがして」
「じゃぁ、なんて呼べばいいの? 降谷くん?」
「この町では、安室透という名で通っています」
「安室くん、ね。分かった。そうする」
「あなたは? なんと呼べばいいですか?」

 降谷が調べた限り、彼女の個人情報は見つからなかった。おそらく、戸籍がないのだ。この国にはさまざまな理由から国籍を取得しないまま生活している人間が一定数いると言われている。正確な数は分かっていないが、一説によれば一万人はくだらないそうだ。無国籍の人間は貧困に陥りやすい傾向があり、貧困家庭に育った子供は犯罪組織に目をつけられやすい。想像でしかないが、彼女はおそらく、そういう人生を歩んできたのだ。

「何とでも、好きに呼んでくれて構わないけれど」

 彼女は試すような目をして笑う。いい名前を付けて見ろと、挑戦状を突きつける目だ。こんな風に楽しそうに目を光らせる彼女を見るのは初めてだった。わけもなく、降谷の胸が躍った。

「そうですねぇ、山田花子、は単純すぎますか?」
「書類の記入例じゃないんだから」
「目立たない名前の方がいいですよね、組織から身を隠さなくてはなりませんから」
「降谷、って名前も珍しいわよね」
「そうですね。元々、呼ばれていた名前はないんですか?」

「……それが、本当の名前ですか?」
「公的な書類には載っていないから、本当と言っていいかは分からないけれど。家族から受け継いだ名字と、母からもらった私の名前はそれ」

 夜風に髪をなびかせ街灯の光を浴びながら、は誇らしげに微笑む。笑顔はまるで、スポットライトを浴びる舞台女優のようだ。くたびれたグレーのスウェットの姿のノーメイクでも、その威厳は全く損なわれていない。

 生きる希望はないと、は言った。けれどそれは、誇りを失うことと同義ではない。

さん、と呼んでいいですか?」
でいい」
「それじゃ、
「なに? 安室くん」
「僕はあなたに、自由に生きて欲しいと思っています。僕にできることはなんでもしましょう。あの部屋から出て、好きな場所にひとりで出かけることもできるようにします。戸籍も用意します。普通の女性として、普通の暮らしを送れるようにします」

 は腕組みをして、暗い川面を見つめる。考え込んでいるポーズだろうか、それとも、体が冷えただけだろうか。夜の河川敷は冷気が上がって冷えやすい。

 降谷は続ける。

「その代わり、僕達に協力してください。必ず、自由は保障します。組織の手からあなたを守ります。あなたの力が必要なんです」
「……少し、考えさせて」
「もちろん」

 それからは、他愛もない話だけをした。アパートから一番近いスーパーマーケットの場所、病院や薬局、国産小麦と天然酵母を使ったカンパーニュがおすすめのパン屋、地元でも知る人ぞ知る小さな居酒屋。それから、降谷が働く喫茶店の常連客、草野球チームのこと。この町のおもしろい場所や、愉快で優しい人々のこと。

 確かな愛情を持って町のことを語る降谷を、は穏やかな目をして見ていた。








20200824