ローザロッサ
「あぁ、降谷さん。お疲れ様です」
げっそりとやつれた顔をして目の前に現れた風見を見て、降谷は思わず笑い出しそうになるのを堪えた。
「ご苦労。様子はどうだ?」
風見の顔を見ればだいたいの予想はついたが、職務上の義務として尋ねる。風見は深いため息をつきながら、ひょろりとのっぽの背中を猫のように丸めた。
「はぁ、まぁその、なんと言いますか、とりあえず大人しくはしています」
「そう言う割には手を焼いているように見えるが?」
「いえ、決してそういうわけではなく、単純に相性が悪いというか、なんといいますか……」
「相性なんて言葉を報告に使うな。取り調べで口を割らない容疑者にそんな言い訳は通用しない。同じことだぞ」
「はい、すいません」
降谷は慰めるように風見の肩を叩く。
「とりあえず、僕の部屋で待っていてくれ」
「分かりました」
しょんぼりと肩を落とし、両手にぶら下げたビニール袋をがっさがっさと鳴らしながら、風見はとぼとぼと階段を降りていく。その背中を笑顔で見送って、降谷はスーツの襟元を正して背筋を伸ばした。
降谷が愛犬と共に暮らすアパート、ちょうど降谷の部屋の真上の部屋は長いこと空き部屋だったのだが、つい先日、新たな住人が入居した。合鍵を使って、中に入る。
薄暗いダイニングキッチンを通り過ぎ、リビングへ繋がる扉をノックする。「どうぞー」と気の無い返事を聞いてドアを開けると、そこはひどく殺風景な部屋だった。まるで牢屋だ。鉄格子こそないが、まだ日の高い時間だというのに遮光カーテンが引かれ、あるのはフロアベッドだけ。
降谷もあまり多くのものを持つ方ではないが、それでも着替えや日用品は一通り揃っているし、ベランダの家庭菜園は彩り豊かに目を楽しませてくれる。間取りはすっかり同じはずなのに、まるで別世界だ。
ベッドの上からのそりと鼠色の物体が起き上がり、深くかぶったフードの下から降谷を睨んだ。
「バーボン」
「どうも」
降谷はにこりと微笑んで会釈をする。
組織ではアマレットというコードネームで呼ばれていた彼女は、鼠色の上下揃いのスウェット姿を着て、ベッドの上にあぐらをかいて座る。その手には、黒いスマートフォンが握られていた。
「あまり、僕の部下をいじめないでもらえませんか?」
肩をすくめながら言うと、彼女は馬鹿にするような目をして答えた。
「あの程度で根を上げるようじゃ、日本警察のレベルもたかが知れてるわね」
「手厳しいですね。元気そうで安心しました」
「これで元気に見えるなら、あなたの目は節穴よ」
彼女は壁に背を預けて顎を上げる。唇から溢れたため息はなんとも言えない憂いに満ちていた。
「一度は死を覚悟した人間が運良く生きながらえたからって、それだけで元気になれるなんて思ってるんなら相当おめでたいわね」
降谷はジャケットの前ボタンを外すと、部屋の中央に腰を下ろしてあぐらをかく。フローリングを指で撫でると、ざらりと、細かい埃が積もっている感触がした。
「こんなところに閉じ込めていることは、申し訳なく思っています。けれど、あなたが生きていると奴らに知られないためには必要な措置です。今は耐えてください」
アマレットの名を捨て、今は名無しの彼女は、ベッドマットレスの上から降谷を見下ろして言った。
「私を守る意味や価値があると、本気で思っている?」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「私が知った秘密はもうあなたに話したでしょ。これ以上何も出てこないんだから、こんなところに閉じ込めておくだけ経費の無駄だと思うけど」
それは、彼女がベルモットに命を狙われるきっかけとなった秘密だ。バーボンに下った命令は、その秘密が外に漏れる前にアマレットを始末することだった。その命令を利用し、秘密と引き換えに彼女の死を偽装した。組織の中では、彼女は裏切りにより始末されたことになっている。
「あの秘密以外にも、あなたが組織について知っていることはたくさんあるはずですよ。あなたは貴重な人材だ」
「それを言うなら人質でしょ」
「重要参考人であり、保護対象者です。そしてできるなら、僕達の協力者になってもらえたら。それが僕達の望みです」
降谷の申し出を、彼女は鼻で笑った。
「そんなことを、私が望むと思うの?」
「説得するために、僕や部下はここへきているんですよ」
「馬鹿馬鹿しい」
彼女は吐き捨てるように言って、スマートフォンを降谷に投げて寄越した。野球のキャッチャーのようにそれを受け止めた降谷は、それを見て目を見張った。それは風見の私物だった。
「あなた達に協力したところで、私になんの得があるっていうの?」
「その交渉をさせてほしいと思っているんですが、こういうことをされると迷いますね」
風見がこの部屋を出て、入れ違いに降谷がやってくるまで、5分はかからなかったはずだ。その数分で何ができたのかは分からないが、警視庁公安部の人間からいとも簡単にスマートフォンを掏ることのできる彼女の才能には感服する他ない。調べたところで、彼女の痕跡が見つかるとも思えなかった。
「私はハッカーじゃないから、大した情報は見てない。ただ、いつまでも閉じ込められて退屈してたの。ちょっとした暇つぶしよ」
「信じますが、教えてください。あなたの望みは、残りの人生をこんなことをして過ごすことなんですか?」
彼女は膝に肘をついて頬杖を付き、真っ直ぐに降谷の目を見る。
本気で死を覚悟したことのある人間はこういう目をするようになるのか。降谷はそう感じて、彼女の瞳に魅入った。静かな瞳だった。望んだこと全てをやり尽くして思い残すことなく死んでいく老人は、きっとこんな瞳になるんだろう。
けれど、彼女は老人と呼べるほど老いてはいない。降谷と同世代で、人生の山場に向かってますます急な坂道を登っていく世代だ。こんな瞳は、彼女には似合わない。
「あなたの本当の望みは、何なんですか?」
降谷は真っ直ぐ目をそらさずに問いかける。
何を思ったのか、彼女は目深にかぶったフードを背中に落とした。初めて会った日より伸びた髪は、根元の色が数センチ変わっている。
「分からない。望みなんて」
「なぜ?」
「ノストラダムスの大予言って知ってる?」
「世紀末のベストセラーですね。1999年7の月に世界は滅亡するという内容で、社会現象になった」
「あれを本気で信じていた人もいたのよ、どうせ死ぬならそれまで好きなことしようって、全財産を使い果たしたりしたんですって。その人の気持ち、私はよく分かるの」
「というと?」
「私、本当に終わりだと思ってたの。ベルモットの秘密を知ったあの日に覚悟を決めて、いつ死んでもいいように心構えをしてた。まさかこんな形で生きながらえるなんて想像もしてなかった。着々と、この世から消える準備をしていたのよ。だからかな、望みなんて言われても何も浮かばない。たまたまあなたに生かされたから、生きてる。それだけ。これから先のことなんか想像もできない」
彼女は伸びた前髪を鬱陶しそうにかき上げながら、再び壁に背をもたれて天井を仰いだ。備え付けのエアコンが設置されているその上で、小さな黒いレンズが降谷と彼女に目を光らせていた。
「監視するのは勝手だけれど、本当に無駄よ。私には何もないから。組織の情報も、ここから逃げ出す気力も、将来の希望も、何もない。ただのからっぽの抜け殻」
降谷に向けられた微笑みは、ひどくくたびれて切なかった。
「せっかく命を助けてもらったのに、役に立てなくて、ごめんなさい」
「髪を切りたくありませんか?」
「……は?」
あくのない顔で笑う降谷に、彼女はきょとんと目を丸くする。
降谷は立ち上がって上着のボタンを留めながら、畳み掛けるように言う。
「失礼ですが、髪が伸びて鬱陶しそうだったので。良ければ、ここで切りましょう。幸いスペースはありますし。僕、髪を切るのは得意なんですよ」
彼女は降谷を指差しながら首を傾げる。
「あなたが切るの?」
「僕ら以外の人間をこの部屋に入れるわけにはいきませんので。心配しなくても、僕、手先は器用ですよ。僕の髪も自分で切ってますし」
「はぁ、そう」
「次までに用意しておきます」
ドアへ向かってつま先を向ける降谷を、彼女は探るような目でじっとりと睨む。全く生態の分からない生き物を観察する動物学者のような目だ。生きることに希望を持てなくても、ほんの少しの興味を持ってもらえたなら。そんな思いでドアの前に立った降谷は、笑顔で一礼した。
「今日はこれで。おやすみなさい」
自室に戻ると、玄関に大きな革靴が脱ぎ散らかしてあった。土埃で表面はくすみ、かかとが大きくすり減っている。
降谷はよく磨き上げた革靴を脱いでそろえ、ダイニングテーブルを見やった。ふたつ並んだビニール袋の中には、コンビニ弁当の空き箱と使用済みの割り箸、空のペットボトルが乱雑に押し込まれている。その数や賞味期限の日付から察するに、今日一日で出たごみではなさそうだった。
「あ、降谷さん。おかえりなさい」
風見はリビングで、降谷の愛犬・ハロと戯れていた。傷ついた心を動物に癒してもらっていたらしい。
降谷は足元にかけてきた愛犬の頭をなでてやりながら言った。
「いくつか頼みがある」
「はい。何でしょうか?」
「明日までに、ヘアカットに必要なものを一式用意してくれ」
「ヘアカット、ですか? 一体誰の?」
「決まっているだろうが」
風見は眼鏡の奥の小さな目をぱちくりさせる。その口が開く前に、降谷は畳みかけた。
「それから、掃除道具、日用品、家電……、女性のひとり暮らしに必要だと思われるものをひと通りそろえてくれ」
「あの、お言葉ですが降谷さん」
風見はのそりと腰を上げて口を挟む。
「そこまでする必要がありますか? あの女は潜入先の組織で殺しの仕事を担っていた犯罪者なんですよね? 本来なら逮捕してしかるべき人間ですよ」
「それができないから、ここに監禁している。お前も事情は分かっているだろう」
「ですが、どうしてそこまで気にかけなければならないんです? 署の拘置所を見てください。こんな待遇は絶対に許されません。あの女だけが特別扱いされる理由は何ですか?」
「拘置所については大きな問題だと僕も思っているが、今はそれを論じる時ではない。彼女は協力者として仕立てたいんだ。それだけじゃ理由にならないか?」
「あんな強情な人間が、警察に忠誠を誓うと思いますか?」
とても信じられない、と言いたげに風見は吐き捨てる。彼女にはよほどこっぴどくいじめられたのだろう。それを想像するとおかしくて、降谷は思わず笑ってしまった。
風見はほんの少し、傷ついた目をした。
「僕は、彼女が強情だとは思わないよ」
「そうですか?」
降谷が風見の胸にスマートフォンを押し付けると、風見は「えぇ!?」と驚きの声を上げ、熱いものを持った時のように指をばたばたさせた。ハロがそれを見て興奮してしまい、アンッアンッ! と吠えながら風見の足にまとわりつく。降谷はそれを抱き上げ、背中を撫でて落ち着かせた。
「暇つぶしに掏ったそうだ」
「あの女……!」
ぎりぎりと歯を食いしばる風見を、降谷は厳しい声で制する。
「お前の悪い癖は、人を見た目の印象で判断してその実力を見誤ることだ。彼女は組織の中で確固たる信頼を得ていた実力者だ。これ以上見くびると、次はスマホを盗られるだけじゃすまないぞ」
「……すいません」
「暇つぶしでこんなことをされるくらいなら、きちんと部屋を整えてやった方がいい。人は食べなければ生きていけないし、部屋は必ず汚れる。コンビニ弁当ばかり食べさせていないで、自分の面倒は自分で見させるんだ」
「しかし、それでは経費が……」
「上には僕が通しておく。彼女にはそれだけの価値があることを、ちゃんと理解しろ」
「……分かりました」
風見は不承不承頷き、その日はそれで帰っていった。
スーツを脱いで、Tシャツとスウェットに着替え、灯りを落としたヘアの中でノートパソコンを開く。
黙々とキーボードを叩く降谷の膝の上で、ハロがカラーボールを咥えて甘えるように遊んでいたが、やがて疲れてうとうとし出し、ベッドに飛び乗って体を丸め、すやすやと眠ってしまった。
その穏やかな寝顔を眺めながら、降谷は天井を見上げて耳をすませた。この真上に彼女がいる。まだ起きているだろうか、それにしては足音ひとつ聞こえない。時計を見ると、とっくに真夜中を過ぎている。きっともう眠ってしまったのだろう。
彼女が命と引き換えにバーボンに差し出したベルモットの秘密は、バーボンの組織内での立場を決定づけた。もしバーボンが死んだら、その情報は自動的に組織内にリークされる手筈になっている。
それを知った時のベルモットの顔を、降谷は決して忘れない。本気の殺意を真正面から向けられた。そのまなざしだけで人ひとりくらい簡単に射殺せてしまいそうだった。
彼女は、あのまなざしに負けたのだ。凄腕の狙撃者だと思っていたが本当は弱かった、組織内ではそういう噂話をしている人間もいると聞く。けれど、それが正しかったとして、責められるべきことでは決してない。人は誰でも弱点を持っている。当然のことだ。
彼女が潔く負けを認めたことで、降谷は大きな成果を得た。それに感謝こそすれ、犯罪者の烙印を押して牢の中に放り込んでしまいたいと思うほど激しく恨んでもいない。
ふと、指先が滑るように動いて、降谷は鍵のかかったフォルダをクリックした。そこには大切な仲間達との思い出がぎっしり詰まっている。誰にも触れさせない降谷の宝物だ。
一枚一枚写真をめくりながら、ここに写っている者は、自分以外誰ひとりとしてこの世にもういないという現実を噛みしめる。
もしも彼女があのまま死んでいたとして、彼女の写真を眺めながらこんな気持ちを味わう人は誰か、いなかったのだろうか。
20200817