ゴッドファーザー
上昇するエレベーターの中にいるのは、バーボンひとりだけだった。
鉄の滑車をロープが滑る微かな音と振動を全身で感じながら、目を閉じる。ロープが鉄の箱を引き上げるときのわずかな軋み、鉄の箱のわずかな揺れ、直前にエレベーターを降りた誰かの香水の残り香、その銘柄。五感を反応させる全ての感覚に、今、自分のコンディションは抜群に整っていることを理解する。
チン、とエレベーターのベルが鳴り、扉が開くのと同時に目を開けた。
わざと灯りを落とした廊下を左に折れて少し歩くと、暗い色のガラス戸があり、その目の前に立つとやっとガラスに印字されている文字が読めた。
BAR Godfather
取っ手を引いて中に入ると、まず目に入るのは壁の一面のはめ殺し窓から望む都内の夜景だ。藍色のベルベットに宝石を無造作にぶちまけたようなきらめき。店内の照明はそれを最大限美しく見せるため、ほんのわずかなフットライトと、優しく揺れるキャンドルの灯りしかない。その数も位置も全て計算し尽くされた配置で、まるで物語の中に迷い込んだような気分になる。
バーボンはバーテンダーのエスコートを断り、事前にベルモットに指定された席に向かう。
テーブルを挟んで革張りのパーソナルソファが向かい合う形で配置されたテーブルに、黒いドレスの女がひとり座っていた。こちらに向かって背中を向けていて、顔は見えない。
バーボンは、その女と背中合わせになる席に腰を下ろした。
「あなたが、アマレットですか?」
「バーボンね」
背後から、女が言う。深煎りのコーヒーような、濃く苦く落ち着いた声だ。
テーブルの側に立ったバーテンダーに、自分のコードネームと同じ名前の酒を注文する。
「お会いするのは初めてですね」
「私とあなたとでは、役割が違うから」
「初めての共同作業、よろしくお願します」
アマレットは険を含んだ笑い声を上げた。
「噂には聞いていたけれど、あなた、馴れ馴れしいわね」
「挨拶をしているだけのつもりなんですが」
「この仕事をしていて、そんなことをする人間には会ったことがないわ」
「そんなに意外ですか?」
「別に。ただ少し、新鮮な気持ちがしただけ」
カラン、と、カットグラスと氷がぶつかる軽やかな音がバーボンの耳を刺激した。アマレットが傾けたグラスの音だ。
バーテンダーが、ウィスキーグラスを持ってバーボンの前に立つ。店名が印字された紙のコースター、こっくりと深い飴色のバーボンウィスキー。一切空気の入っていない透明な球形の氷。その美しさを目で十分に楽しんでから、バーボンは冷たいグラスに唇を押し当てた。
「ベルモットから計画は聞いていますが、変更はありませんか?」
アマレットが答えるまでに、ほんの少し間があった。
「悪いけれど、ひとつだけあなたの手間を増やしても構わないかしら?」
「何でしょう?」
「難しいことじゃないわ。ほんの少しだけ、手を貸して欲しいだけ」
バーボンは静かに目を伏せる。アマレットとは今日初めて会ったばかりだ。下調べはしたが完璧とは言い切れない。罠の可能性もある。けれど、虎穴に入らずんば虎子を得ずという。リスクを冒さなければ。安全な道を選んで得られるものなど何もないのだから。
バーボンはうっそりと挑むように笑った。
「分かりました。やりましょう」
「よろしく」
その時、バーにひとりの男がやってきた。一目でただ者ではないと分かる光沢のあるスーツ、ワックスで撫で付けた髪、光の強い瞳、バーテンダーに案内され、男はアマレットの座るテーブルについた。
先程までの口調とはうってかわって、アマレットは鈴を転がすような声で偽の名前を名乗る。甘く軽やかで、その中にもわずかに毒を含んだような声。どうやらアマレットはベルモットに負けず劣らずの名女優らしい。
しばらく酒と会話を楽しんだ男とアマレットは、やがて互い腕を絡めあいながらバーを出ていった。
バーボンが動いたのは、それから15分ほどたってからだ。バーを出て、下降するエレベーターに乗り込む。指定の階で降り、右に進む。床に敷き詰められた毛足の長い絨毯が完全に足音を吸い、耳鳴りがしそうなほど静かだ。
しばらく歩くと、指定された部屋番号を見つける。革の手袋をはめた手でノックをし、一歩下がる。
少しの間があって、扉は内側から開かれた。黒いドレスの女が顔を半分だけのぞかせた。ほとんど爪先立ちになるほど高いシルバーのハイヒール、足は肩幅に開かれている。
「どうぞ」
アマレットは右肩を引いてバーボンを部屋に招き入れた。
すぐ目に飛び込んできたのは、クローゼットとバスルームの間の通路にうつ伏せで倒れている男だった。後頭部と背中に穴が開いていて、そこから赤黒い血が流れていた。振り返ると、右手に拳銃を握っているアマレットが無表情にバーボンを見ていた。拳銃の先には黒く細長いサイレンサーがついたままで、硝煙の臭いがまだ新しい。
「お見事ですね」
バーボンは笑顔でアマレットを讃えた。
アマレットはつんと顎をそらす。
「いつもの仕事よ」
そして、バーボンを追い越し、うつ伏せに倒れている男を踏み越えで部屋の奥へ歩いていった。
バーボンは男の側にひざまずき、男の胸ポケットに手を突っ込む。手探りで財布とスマートフォンを取り出し、それを持って男の頭をまたぐ。
アマレットはベッドの縁に腰掛けて高く足を組み、ハンドバッグの中を探っていた。サイレンサー付きの拳銃は、ベッドの上、手の届く位置に無造作に放り出してあった。
バーボンはデスクに向かって椅子に座ると、引き出しの中からラップトップを取り出して電源を入れる。男のスマートフォンから記録媒体を抜き出してそれに読み込ませる。
デスクはドレッサーを兼ねていて、バーボンの目の前には大きな鏡がある。その鏡越しに、アマレットの姿が見えた。いつのまにかハイヒールを脱ぎ捨てていて、明るい色で染めた足の爪があらわになっていた。ハンドバッグから取り出した手鏡を見つめながら、ルージュを引き直している。
「どのくらいかかりそう?」
アマレットが言う。
バーボンは答える。画面は自動的に動き続け、膨大なデータを読み込んでいる。
「データ量にも寄りますが、1時間程度かと」
バーボンは組織の中でも一、二を争う腕前の探り屋だ。対してアマレットは組織専属の殺し屋だった。
組織は殺しの手段に、狙撃を好む傾向がある。ライフルを使い、安全な場所からの遠距離射撃は、組織の正体を隠すために最善の手段だ。しかし、それをするためにはいくつか必要な条件がある。このホテルは周辺に都合のいい建物がなく、しかもターゲットは夜にしか現れない。このように条件が満たされない場合、アマレットのような殺し屋に仕事があてがわれるのだ。
画面上に流れては消えていくデータを眺めながら、バーボンは横目で男の遺体を見やった。
背後から、頭部と胸部に一発ずつ、的確に銃弾を撃ち抜いている。先に立って部屋に入った男の背後から、引き金を引いたのだろう。おそらく、拳銃はハンドバッグの中に忍ばせておいたのだ。男が抵抗した痕跡はどこにもなかった。
「何か気になることでも?」
アマレットが鏡の中で首をかしげる。
バーボンはにこりとわざとらしく微笑んだ。
「いえ。素晴らしい手際だなと感心していました」
「そうかしら。男が無防備すぎるだけよ」
「けれど、そうさせたのはあなたの手腕でしょう」
「女に対する警戒心の低さは、全ての男共通の大きな課題だと思うわ」
「身につまされます」
鏡の中のアマレットは、組んだ足の膝頭に肘をついて頬杖を付き、ゆるく巻いた長い髪を揺らしながらバーボンを見る。探るような、誘うような瞳。
「あなたは、こういう仕事はやらないの?」
バーボンは、極力情けなく見えるように目尻を下げて見せる。
「僕はただの探り屋です。必要な情報を探し、整理して、真実を導き出すのが仕事です」
「命じられたことはないのね」
「あなたのような人がいれば何も問題はありませんしね。適材適所ということでしょう」
「でも、例えば、仕事中に止むを得ず、という経験は、これまでに一度もなかった?」
バーボンは鏡の中のアマレットと目を合わせた。どうやら彼女は、バーボンが人を殺せる人間なのかどうか見極める必要があるらしい。
バーボンは椅子の背にもたれて背筋を伸ばし、できるだけ言葉が誠実に響くよう、気をつけて答えた。
「僕は有能なので。命じられた任務から逸脱することはないんです」
アマレットは笑った。ばかにされたのかと思ったが、その表情は柔らかかった。
「そう、さすがね」
「どうも」
「でも、それの使い方を知らないわけじゃないでしょう?」
アマレットの目が、バーボンの腰のあたりに向く。スラックスのポケットが隠れるほどの丈の黒いベストはゆったりとした作りになっていて、素材は革だ。内側に仕込んでいるものを隠すためには便利だが、熟練の殺し屋の目はごまかせない。
使い慣れた拳銃を、バーボンはベストの上からそっと撫でた。
「鍛錬はしています」
「腕前は?」
「ベルモットは、まぁまぁだと」
「それじゃ、無抵抗の女を撃つくらいは簡単ね」
「どういうことですか?」
アマレットは真っ直ぐ立ち上がると、ベッドの上に放り出していた銃を手に取った。鏡の中で、アマレット姿が大きく目の前に迫ってくる。バーボンの肩越しに手を伸ばし、アマレットは銃をデスクの上に置いた。黒く長いサイレンサーのついた、頭でっかちなオートマチックだ。
「頼みがあると言ったでしょう。撃って欲しいの」
「誰を?」
アマレットは皮肉っぽく口元を歪めた。笑おうとしたようだったが、目はちっとも笑っていなかった。
「私しか、いないでしょう」
「手間を増やしてもいいかと言ったのはこれですか」
バーボンは、鏡の中のアマレットを真っすぐに見つめてみた。が、なんだか掴みどころがなくて考えがまとまらない。鏡に映る姿は、左右反転して、実物よりも歪む。今見えているのは彼女の本当の姿ではないのだ。バーで対面した時も後ろ姿しか見えなかった。
――この人の本当の姿を、僕はまだ知らないのだ。
バーボンは声に出さずに思う。
「理由をお聞きしても?」
「あなたは知る必要のないことよ」
「理由もなく人を撃つ趣味はないんですが」
「手を貸すと言ったでしょう」
「ただで、とは言ってませんよ。せめて理由くらいは教えていただくのが筋では?」
背中から、小さな舌打ちの音が聞こえた。
「面倒な人」
アマレットは長い髪をひるがえしてくるりと向きを変えると、元の場所に座り直してそのまま後ろ向きにベッド倒れた。ドレスの裾がふわりとなびき、角張った膝に照明が当たる。
バーボンはテーブルの上の、アマレットの銃を手に取った。セーフティかかっていることを確認して、グリップの中のマガジンを左手の中に落とす。中は空だ。スライドを引いてみると、チャンバーの中に弾が一発だけ装填されているのが確認できた。ハンマーを下ろして、銃の全体を観察する。よく手入れされていて、黒光りする銃身にバーボンの青い瞳と金色の髪が映り込んだ。
「いつもは、三発使うの」
アマレットがうわ言のように言った。
「眉間に一発、心臓に二発。合わせて三発よ」
「あなたのセオリーですね」
「でも、今日はそうしなかった。一発残したのはなぜだと思う?」
「僕にあなたを撃たせるため?」
「正解」
「どうして、僕の手を借りる必要があるんですか?」
「どういう意味?」
「どこを撃てば苦しまずに死ねるか、あなたほどの人がよく知っているはずでしょう。それとも、自分で自分を打つ勇気はないとでも言うんですか?」
ふいに、アマレットが黙り込む。鏡の中の彼女を盗み見ると、白い足がベッドの縁から幽霊のようにだらりとぶら下がっていた。その膝が、かすかに震えている。その震えは徐々に大きくなり、足だけでなく体全体が震え出した。一体どうしたのだろうと振り返って、バーボンは拍子抜けした。
アマレットはベッドに横たわったまま、腹を抱えて笑っていた。
「大丈夫ですか?」
「ふふ、ごめんなさい」
アマレットはそう言ったが、笑いを納めるまで数分かかった。笑いすぎて浮いた涙をぬぐいながら、アマレットはなんとも形容しがたい、顔をして薄暗い天井を眺めていた。母に捨てられた子どものような、それとも、今目の前に迫ってくる死に為すすべもない老人のような。
「あなたの言うとおり。私は自分で死ぬ勇気がないの。だから頼んでる」
「……理由を聞いても?」
「秘密を知ってしまったから」
とっさに、バーボンは銃を握る手に力を込めた。無意識だった。グリップに貼られた滑り止めのゴムと、革手袋が擦れる音が驚くほど大きく響いた。
「私、その内、ベルモットに殺されるの。分かるのよ」
「逃げようとは思わないので?」
「そんなの無駄よ。組織を裏切った連中の末路は知ってるもの。みんな悲惨な死に方をしたわ。私も同じ道を辿ることになる」
「あなたは組織にとって大事な人材ではないんですか? みすみす殺して、戦力を削るようなことをするでしょうか?」
「私は、決して知ってはいけないことを知ったの。私の能力なんてなんの問題にもならないくらいに大きな秘密」
アマレットは腹筋を使ってがばりと起き上がると、髪を振り乱してバーボンを睨んだ。
「ベルモットは私を許さない。確実に私を殺しに来る。それは、もう、いい。あがいても、謝罪しても、結果は変わらない。けど、あの女の手にかかるくらいなら、自分の死に方くらい自分で決めてやる」
バーボンはくるりと椅子を半回転させ、軽く開いた両膝の間に銃を持った両手を垂らした。少しだけ前かがみになり、アマレットと視線の高さを合わせる。
引き直したばかりの口紅の鮮やかな赤だけが生々しく、ふと、バーボンは納得した。これは彼女なりの死に化粧なのだ。
「どうして僕に頼むんです? たまたまですか?」
「そうね、今夜あなたと仕事をすることになったのは偶然だけれど、殺されるならあなたがいいと思う」
「どうして?」
アマレットの瞳が、揺れるように光った。
「あなた、言ったわね。よろしくお願いしますって」
「えぇ、言いました」
「そんな風に、丁寧に言ってくれた人は、あなたが初めてだったからよ」
「単なる挨拶ですよ」
「それができない人がこの世界には多いのよ。コードネームを確認した後はひと言もなし、それが普通の世界」
「礼儀のなっていない方とばかり、仕事をされてきたんですね」
「あなたが異端なのよ」
「異端者に殺されたいと?」
アマレットは甘い酒を口に含んだように笑った。
「いい思い出になるわ」
バーボンは膝の間に視線を落とし、親指を使ってゆっくりとハンマーを下ろす。アマレットはその音に心地良さそうに耳を澄ませ、ほっと安心したようにため息をついた。
「ハンドバッグに、鍵と、パスワードのメモが入ってる。米花駅のコインロッカーの鍵よ。中に金庫が入っているから、手間賃と思って、もらって」
「そうですか。それはそうと、ひとつお伝えしたいことがあるんですが」
「何?」
バーボンは拳銃をアマレットの胸に向けた。サイレンサーをつけた銃口を、左胸のふくらみの付け根に押し当てる。肋骨と肋骨の間の柔らかい皮膚に、黒く固い鉄の塊を押し当てる。アマレットは右手でそれを握って、照準がずれないよう、支えた。
「実は、今夜、僕にはもうひとつ、やらなければならないことがあるんです」
「なに?」
「この部屋であなたを殺すことです。ベルモットに命じられました」
アマレットは静かに目を見開いた。息を詰めて、呼吸をしていない。
バーボンはアマレットの瞳を探るようにのぞき込んだ。湖底の砂に埋もれた宝石を探して、目いっぱい手を伸ばすように、慎重に。
「ここで僕に殺されたら、ベルモットの思う壺ですよ」
選択肢を失ったアマレットは、体の力が抜けてしまったのか、サイレンサーを握りしめていた手をほどいてだらりと腕を垂らしてしまう。ベッドの縁にぽとりと落ちた小さな手は、ついさっき、ひとりの男の命を奪ったとは思えないほど小さく頼りない。握りしめると、指の内側はふかふかと柔らかかった。この指先は、これまでどれほどたくさんの命を奪ってきたのだろう。
その手を握る手に力を込めて、バーボンは言った。
「それでも、本当に、僕に殺されたいですか?」
20200817