壱
「やぁ!
ちゃん! お疲れ! やっと会いに来られたよ!」
意気揚々と片手を上げて部屋に入ってくる五条の姿がパソコンの液晶画面に薄っすらと映り込むのを見て、
はげんなりと目を細めた。最悪の邪魔が入ってしまった。今夜は残業確定だ。
「何の用? 私、今すごく忙しいんだけど」
「そんな冷たい言い方しないでよ。忙しい仕事の合間を縫って恋人に会いにきたっていうのにさ」
「忙しいだなんて、悟の口から聞きたくないわ」
何をしていても楽しく遊んでるような姿勢を忘れない五条。その態度は、真面目で勤勉な人間を苛立たせる。呪術高等専門学校事務員のひとりである
も、そのひとりだ。
隠と陽を絵に描いたような正反対のふたりがどうして恋人同士になったのか。それは本人達にも説明しかねることだった。流されるままくっついて、ずるずると別れる理由もないまま時間だけが経った。学生の頃からだから、もうずいぶん、長い付き合いになる。
五条はつかつかとデスクに歩み寄ると、
が手元に積み上げていた資料の山を手のひらで押し倒した。
「ちょっと、何してるの?」
空いたスペースに腰を下ろし、腰を90度に傾けて
の顔を覗き込む。目隠しのせいで目元は見えないけれど、五条の口元はわざとらしく笑っていた。
「実はね、ちょっと疲れてんのよ、僕」
「それじゃ仮眠でも取れば。そこの椅子くっつけて並べてさ」
「それじゃ俺の長い足が収まらないよ」
「それなら床しかないわね。ブランケットくらいなら貸してあげる」
「そんなにつんけんしないでよ〜、本当に冷たいなぁ〜」
「仕事の邪魔されてる私の身にもなりなさいよ」
五条はぐいん、と体を起こすと、口をへの字に曲げて頭をかいた。大きな体で資料の山を押しやったせいで、デスクの上がめちゃくちゃだ。
は額に手を当ててうなだれた。
慢性的な人手不足は解消される兆しもなく、呪霊との戦いで犠牲は増え続けている。それと同じスピードで、
の仕事も増える一方だ。仲間の死を悼む暇もなく押し寄せる書類の山、山、山。心を殺してひたすらキーボードを叩く日々。我ながら、よく心を病まずに続けていられるものだと思う。
そういう意味では、五条も立場は同じだ。旧態依然とした頭の固い上の連中と丁々発止やり合いながら、最強の呪術師として戦いに明け暮れ、子供達の教育まで担っている。決して顔には出さないし、飄々とした態度で誤魔化してばかりいるけれど、疲れているのに決まっていた。
は膝の裏で椅子を蹴飛ばし立ち上がると、デスクに腰掛けたままの五条の前に仁王立ちし、ばっと両腕を広げた。
「ん」
五条はほんの少し首を傾げる。
「相変わらず色気も風情もないね」
はぐうの音も出ない。確かに、今日は寝坊してしまったせいでほぼすっぴんだし、髪もセットしていない。手当たり次第に身につけた服は上下とも黒で、たぶん、下着の上下もばらばらだ。まさか今日、五条に会えるとは思っていなかったのだ、分かっていれば眉毛くらいは書いていた。
「このクソ忙しい時にそんなこと言ってらんないのよ」
やけくそになって吐き捨てた
の腰に、五条の手が添えられ、そっと導かれるように腕の中に閉じ込められる。五条の、鍛え上げられた首に両腕を引っ掛けると、懐かしい匂いがすうっと胸の奥まで伝い落ちた。五条の顎が肩に乗る。その心地良い重さ。
「色気とか風情なんか、俺にもないけどね」
五条は190cmを超える巨体を持つ大男で、その気になれば熊だろうが虎だろうが、素手で倒せてしまうほど強い。まさに人間離れしている。
だからこそ、
に触れる五条の手は、これ以上ないほど優しかった。自分の腕は簡単に弱者を捻り潰せてしまうと分かっているから、大切なものに触れる時、細心の注意を払う。
どんなに憎まれ口を叩いても、五条に触れられるたびに
は思い出す。五条がどれほど強く自分を大事に思っているかを。
「ハグしかしてあげられないけど、いい?」
五条の首の後ろを撫でてやりながら、
は言う。五条の素肌に触れられる場所は、手の届く範囲ではそこしかなかった。
「いいよ」
五条は相変わらず、跳ねるようにふざけた口調で答える。その手は、
の服の裾をめくり上げ、背中の背骨のラインを愛おしそうにたどっていた。
「次はいつ、ふたりっきりになれるかねぇ」
「さぁ、何ヶ月後になるかな」
「月単位? それはさすがに辛いな」
「まぁ、分かんないけど。とりあえずお互い死なずにいよう。死ななければ、必ずまた会えるんだからさ」
「そうだねぇ。それが一番だよね」
額と額をぶつけるようにして正面から向き合うと、五条は目隠しを首のところまで引き下げて
を見つめた。
そして、五条の唇が愛を言う。それはずっと前から決めている、ふたりの約束だ。いつ何が起きても後悔しないよう、一番大事なことは必ず声に出して伝え合うことを。
「大好きだよ。
」
「私も、大好きだよ。悟」
弐
「なんで五条なの?」
険しい顔をした歌姫に問い詰められ、
はすっと目を細めた。
が五条悟と付き合っていると知ると、誰にでも同じような質問をされることには、正直に言って飽き飽きしていた。
「誰を選ぼうが私の勝手でしょう」
「もちろん、
の選択は尊重するわよ。わざわざこんな男はやめておけだの、今は良くてもいつか絶対苦労するだの、お節介なこと言う気もないわよ」
「言ってるじゃない」
「ただ、どうしても解せない。純粋に疑問なのよ」
は両手で湯呑みを包み込んで指先を温めながら、ため息を吐く。
は猫舌だった。入れたてのお茶はまだ湯気の量が多くて、怖くて口をつけられない。
「逆に聞くけど、歌姫はどうしてそんなに悟を毛嫌いするの?」
歌姫は噛み付くように答えた。
「そんなの決まってるじゃない。先輩に対して失礼だからよ。癪に触ることしか言わないし、へらへらぷらぷらした態度も気に食わないわ」
「つまり、生理的に受け付けないわけね」
「そうね。せめて社会人として最低限の礼儀くらいは身につけて欲しいものよ」
は湯呑みを口元に近づけて、ふうと息を吐く。喉が渇いてきた。早くちょうどいい温度に冷めて欲しい。
「でも、見方を変えればそれは、歌姫の問題でもあるんじゃない?」
と、歌姫は頬に傷のある方の目だけをカッと見開いた。
「それ、どういう意味?」
「例えば、身長2メートル30センチあるバスケットボール選手に、悪口のつもりで「チビ」って言ったとするよね。でも、そんなことでバスケ選手は傷つかない。だって、自分のことをチビだなんて思っていないから。つまりね、内面化されていない価値観は悪口にならないのよ。自分がチビであると言う事実を内面化している人間でなければ、腹を立てることはない。己の欠点を自覚しているからこそ、それを他人に指摘されることで感情が動くの。その認識が意識下にあるか、無意識下にあるかは問題じゃないところがちょっと厄介なところだけれど、自分を苛立たせる対象は自分の内面を映し出す鏡と思えば、心を穏やかに保てるんじゃないかしら」
歌姫の額に、青筋が浮かぶ。
はそれを見ないふりをした。
「つまり、何? 私は、度胸がなくて、ヒステリックで、それはまぎれもない事実だと私が無意識に自覚しているからこんなに腹が立つのだと? 五条が正しくて、私が間違っていると?」
「正しい、正しくないの話じゃない。歌姫がその問題どう認識するかが肝なのよ。悟に何か言われた時に、歌姫の意識・無意識がどう反応しているのか、そこをじっくり観察して感情の波を理解すれば、悟の言うことにいちいち苛立つこともない。そうすればきっと、ストレスが減るわ。自分以外の他人の言動を変えることは誰にもできない。だったら、自分を変える方に意識を向けた方がよっぽど効率がいいという話よ」
が最後まで言い終わる前に、歌姫は椅子を蹴立てて立ち上がった。食いしばった口の中で、怒りに満ちた罵詈雑言がのたうっていた。
はそれも見ないふりをして、湯呑みにそっと口をつけ、すぐに放す。もうそろそろ大丈夫かと思ったのに、まだ熱い。
「
、あんたがどうして五条なんかに惚れたのか分かったわ。似た者同士で惹かれ合ったのね」
巫女装束の裾を翻し、ブーツで床を高く蹴り上げながら、歌姫は部屋を出て行った。怒りに任せて扉を閉めると、空気が破裂するような凄まじい音がした。
「なんでそういう話、俺のいるところでするかな?」
五条がずずずっと音を立てて茶をすする。春の陽気の中、ヘソ天で昼寝をする猫のように呑気な態度だ。これが歌姫をますます苛立たせた要因であることは間違いない。とはいえ、これだけ酷く言われても、かすり傷も負わないのが五条という男だ。
はソファの背にくったりと持たれかかった。怒っている人の相手をするのは疲れる。
「嫌がらせのつもりだったんじゃない。なんとか一矢報いたかったんでしょ。本当によく嫌われてるのね」
五条は頬杖をついて気だるそうに首を傾げてみせた。いちいちオーバーリアクションなところも、歌姫が五条を嫌うひとつの要因である。
「別に俺、何もしてないんだけどなぁ。あんまり毛嫌いされて、やりにくくなったらどうしよう? 今後のこと考えると、歌姫とはしっかり繋がり保っときたいんだけど」
「それは大丈夫なんじゃない。歌姫は悟と違って大人だから。公私はちゃんと分けるわよ。それでも気になるなら菓子折りでも送っといたら」
やっとちょうどいい温度にお茶が冷めてきた。唇に触れる湯呑みの縁が温かい。
目細めて温い茶を飲む
を、五条の笑顔が覗き込む。
「他人事みたいに言うけど、
だって俺と同罪じゃない?」
「何が?」
「歌姫の不機嫌の原因は、
にもあるでしょ、どう考えても」
「まぁ、そうかもね」
「珍しいね、
から喧嘩ふっかけるなんて。もしかして、歌姫と何かあったの?」
その瞬間、
の胸は雑巾を絞るようにぎゅっと締め付けられた。思わず眉間に皺が寄る。歌姫が部屋を出たことで、もう勝負はついたのだ。蒸し返さないで欲しい。
「ねぇ、教えてよ。誰にも言わないからさぁ」
の気も知らず、五条は芝居掛かった仕草で甘えるように言う。
どうしようもなく鬱陶しく、始末に負えないこの男。どうしてこんな面倒な男を選んでしまったのだろう。仕方がなかったのだ。まるで運命に引きつけられるように出会って、そして二度と離れられなくなってしまった。五条を選んだことで、手放さざるを得なかったものは多い。けれど今となっては、そのどれを取っても懐かしくも恋しくもない。
なぜなら、この手の中にただひとつ残ったものは、呪術師、いや、世界最強で最高の男なのだ。それ以上を望んだら神様からバチが当たる。
はやっと飲み頃になったお茶をテーブルに戻し、その手で五条の顎を下から掴んで指先で頬を挟んだ。目隠しの向こうでぽかんと目を見開いた五条を見つめて、
は世界を手に入れた勝利の女神のように微笑んだ。
「私の男をコケにされて黙ってられるほど、か弱い女じゃないのよ、私」
参
が普通の呪術師の誰とも決定的に異なっているのは、術式の獲得を後天的に行なったことだ。
が術式を獲得したのは、200X年、列車の脱線事故に巻き込まれ生死の世界をさまよったことが原因とされている。
が、確かな因果関係が確認されたわけではなく、その事故を境にして、それまでに見えなかったものが見えるようになったという、
の証言のみが根拠である。
に霊感はなかった。幽霊を見たことはないし、妙な気配を感じたこともない。中学生の時、友達に誘われて血まみれの女の幽霊が出ると噂の公衆トイレで肝試しをしたことがあるが、清掃の行き届かない不衛生さに眉を潜め、公園で寝泊まりしているホームレスに追い回されて嫌な思いをしただけに終わった。ちょっとしたスリルを味わった、青春の思い出だ。怖くはなかった。
が遭遇した脱線事故は、有史以来、史上最悪規模のものだった。多くの人が死に、その倍以上の負傷者が出た。のちの人生に影響する重い障害を負った人間も数知れない。
の両親は、巨人が雑巾を絞るように捻ったとしか思えないひしゃげ方をした列車の中で、ぺちゃんこに潰れて死んだ。すぐそばにいたはずの
が生き残ったのは、偶然、座席と床の間にできたわずかな隙間に体が挟まったからだ。
そして、怪我の治療のために入院した病院で、生まれて初めて、呪霊を見た。
人間とカブトムシの幼虫を掛け合わせたような気色悪い生き物が、病室の天井からずるり、と這い出してきたのを見た瞬間、あの事故はこういうものの仲間が引き起こしたに違いないと、
は確信した。あの事故については、どうやっても説明のつかない不可思議な現象がいくつも発生していて、世間の話題をさらっていたのだ。
一番大きな謎は、車両6両編成で走行していたはずの列車の1両目が、どこを探しても見つからなかったことだ。あんなに大きな鉄の塊を一瞬で消してしまうだなんて、普通の人間にできることではない。
その直感が当たっていたと知ったのは、病院に現れた呪霊を払った、白髪に丸いサングラスをかけた、浮世離れした雰囲気の男だった。
「これで全部?」
「あぁ。もう問題ない」
「事故の残穢のためだけに、こんなに面倒かけさせられるなんて、信じらんないよ」
「しょうがないだろ、その一件で人手不足なんだから」
「ちょっと待て。……あれ? お前もしかして」
男がサングラスを下にずらして、ベッドに横たわる
を見た。銀色の月光を集めて固めたような瞳に見つめられた瞬間、体が芯から震えた。魂の奥深くに触られたようなあの感覚を、
は今もよく覚えている。
「お前、今までどこに隠れてた?」
五条悟は驚きに目を見張ってそう言った。その六眼には、芽生えたばかりの
の術式がはっきりと映し出されていた。
怪我が癒え、退院した後、
は呪術高等専門学校へ転入した。事故で両親を失い天涯孤独となった
には、その身の振り方に口を挟む親族もいなかった。呪術高等専門学校は学生にも給料が出る。突然芽生えてしまった目に見えない力を持て余して戸惑う
には、その力の扱い方を教えてもらえることだけでもありがたかった上に、衣食住まで保証されるとあっては、それ以上望むものはなかった。似たような境遇の仲間もできた。
のとっての高専は、天国だった。
この後、
と五条が話をしたのは、それから長い時間を置いて2007年の夏ことだ。
その年は残暑が厳しく、秋の足音を蝉時雨がかき消して遠ざけようとやっきになっているような、真夏日が続いてた。
その日、
は高専の蔵で、古い資料を漁っていた。
は事故の後遺症で、人並の体力がなく、体術は苦手だった。日常生活を送るのに支障はないが、激しいトレーニングをすると、すぐに熱が出てしまう。呪術師としての自分は弱い。そう自覚してからは、呪霊の研究に力を注ぐことに決めた。敵を倒すには、まず敵を知らなければならない。仲間の役に立てる呪術師になろうと決め、暇さえあれば蔵に篭り、知識を蓄えることを習慣にしていた。
高専には、過去に発生した呪霊に関する資料が膨大に保管されていて、一番古いものは中国から文字が伝来した頃の木簡だ。そういうものから知識を得ようとすると、時間はいくらあっても足りなかった。
五条が蔵を訪ねてきたのは、室町時代の貴族の日記の写本を読みふけっていた時だった。高専を取り囲む緑の森から、激しい雨音のような蝉時雨が絶えず響いていた。
「事故で死にかけた時って、どんな気分だった?」
昼でもなお薄暗い蔵の中、五条は丸いサングラスを静かに外した。真っ赤に爛れた声帯を無理やり震わせているような、痛々しい声だ。
五条に何があったかは聞いていたし、報告書も読んでいた。五条の同級で親友の夏油傑が、ある村の住人を皆殺しにして行方をくらませた事件は、高専全体に暗い影を落としていた。夏油の一番近くにいた五条ならなおのこと、人一倍深い傷を負ったに違いなかった。
は慰めの言葉のひとつでもかけてやるべきだろうかと思ったが、なんとなくそれは違うと感じて、開きかけた唇を閉じた。
死にかけた時どんな気分だったか、五条はそう言った。脱線事故で生死をさまよった
に求めてられているのは、小手先の言葉ではない。
「……生まれ変わったんだって、思いました」
気がつけば、
はそう呟いていた。長い間ひとりきりで読書にふけっていたせいで、その声はかすれていた。
五条は重ねて言う。
「お前は今、幸せか?」
「はい」
「本当に?」
「はい。私なんかでも、何かの役に立てそうだなって、最近やっと思えるようになってきましたから。でも、なんで、そんなこと聞くんですか?」
月の光のような青い瞳を真っ直ぐに見つめて、
は言った。
五条の口元には、穏やかな微笑みがあった。
「お前は、僕と傑が助けた命だから。ふたりで助けた命が今も無事で、しかも幸せでいてくれるなら、少しは気が楽になるかと思ったんだ」
この時、五条が何を感じて、何を思ったのか、
は今になっても分からない。ただ、五条の少し寂しそうな笑顔だけが、今もまぶたの裏に焼き付いている。
「良かったら、甘いものでも食べに行かないか? 暑いし、かき氷とかどう?」
「甘いもの、好きなんですか?」
「大好き」
「私もです」
それがふたりの初デートになった。
肆
「人には感情がある。悲しいとか、怖いとか、呪霊の元になる負の感情。それは多かれ少なかれ、誰でも持っているものだと思う。
家族が死んだ、大災害に見舞われた。その悲しみや恐れの大きさは他人が推し量れるものではない。でも、悲しみも恐れも、永遠には続かない。
いつまでも悲しみや恐れに縛られているほど人間は暇じゃない。朝起きて、食事して働いて、家族や友人と語らって、眠る。生きるために、人間は悲しみを忘れる。なかったことにする。時間が、心の痛みを忘れさせてくれる。
人間が生きていくために忘れ去った負の感情が呪霊を産むのなら、私達は呪霊に感謝しないといけないのかも。だって、呪霊が悲しみや恐れを引き受けてくれなければ、人間は自らの感情に押しつぶされて死んでいくことになりかねないんだから」
「その呪霊に呪い殺されてたんじゃ、世話ないけどねぇ」
五条の、遠慮のないあけすけな物言いは、
にとって心地の良いものだった。お世辞も気遣いも必要ない。表裏のない本当だけの会話はストレスがない。
書見台にタブレットを置いてデータ化した資料を読んでいる
の膝に寝そべりながら、五条は棒付き飴を舐めていた。1年生の3人が任務から戻ってくるまで時間が空いたのだそうだ。
丸いサングラスの陰からのぞき見える蒼い瞳が、悪戯を企んでいる子供のようにきらきらしていた。
は、五条の銀髪を指に絡めて遊びながら、今日中に目を通しておきたい資料に目を走らせている。長年の訓練のおかげで、
は速読に長けていた。
「そういうこと、あまり言わない方がいいよ。みんな命賭けて呪霊払ってんだから。感謝なんかしてる暇ないって」
五条は飴を咥えたまま、もごもごと言った。
「分かってるわよ。だから悟に話してるんじゃない。他に安心して話せる人いないんだから」
「硝子は?」
「飲みに誘ってるんだけど、なかなかタイミング合わないんだよね。急患が入る時もあるしさ。みんな怪我しすぎだよ」
「それだけ手強い呪霊が増えてるってこと。僕だってくたくたなんだよ。
ちゃん、慰めて~」
「膝貸してあげてるでしょ」
「僕、もっとイケナイことしたい」
「何言ってんの。ここ学校だよ」
「そういうシチュエーション、燃えない?」
「燃えない」
「
ちゃんってば、本当に真面目なんだからなぁ。もっと楽しもうよ。せっかくふたりっきりなんだしさ」
「ねぇ、悟」
「ん?」
「そんなに退屈なの?」
「うん」
は五条の口から某付き飴を奪い取る。ちゅぽん、といい音がして、五条の唇から唾液が糸を引いた。
「私の膝を占領しておいて退屈だなんて、いいご身分ね」
某付き飴はストロベリークリームのフレーバーで、口に含むとくどいほどの甘みがじわりと舌に広がった。疲れた脳にはいい栄養補給になりそうだ。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ」
五条はのそりと体を起こすと、膝を立てて座り直し、頬杖をつく。
は飴を咥えたまま、タブレットの上で指を滑らせ、横目で五条を見やった。
「じゃぁ、何? 答えによっては本気で見損なうわよ。五条先生?」
五条はずいと手を伸ばすと、
の口から飴を抜く。体温で溶け、唾液で濡れた飴をふらふら降りながら、五条は口元だけでにやりと笑う。
「こうやってくだらない話してるだけで、僕は十分楽しいよ、それは本当。っていうか、
こそどうなの? 僕に膝貸してるだけで満足? さすがにそれは清貧がすぎるんじゃない、修道女でもあるまいしさ」
「そんなこと言われても、これ早く読んじゃいたいし」
「じゃぁ、考えてみてよ。仕事が全部終わっていて、疲れもすっかり吹っ飛んで、お金も時間も好きなだけ使えて、やりたいことなんでもできるって言われたら、何したい?」
「何それ、心理テストか何か?」
「違う違う。もしもの話」
「そんなこと急に言われてもな」
「いいから、考えてみてよ」
はタブレットから目を上げて、窓を見やった。部屋の中は冷房が効いていて寒いくらいだけれど、外は陽炎が揺れる真夏日だ。蝉の声がシャワーのように降りそそいでいる。
そういえば、五条と初めて話をした日も、こんな夏の日だった。その瞬間、
の口の中に残った飴のいちご味が、懐かしいストロベリーと練乳の風味に変わる。人間の記憶を司る脳の海馬が、電気信号を受信した音が聞こえたような気がした。
「かき氷が食べたい」
五条はぱちくりと瞬きをして首を傾げた。
「お金も時間も自由に使えるんだよ? 海外旅行でも、帝国ホテルのロイヤルスイートでも、言うだけタダだよ?」
「私、貧乏性だもん。そんなの思いつかないよ」
「それにしても、なんでかき氷?」
「……別に。ただ、暑いから、思いついただけ」
はつい渋い顔になる。初めてのデートで、いちごミルク味のかき氷をふたりで食べたことを、五条は覚えていないのかもしれない。淡い思い出をこんなに大切に胸にしまっているのは自分だけなのだろうか。そう思うと無性に悔しい。
「
はロマンチストだね」
の唇にストロベリークリームの飴が触れる。と、思ったらそのまま口の中に押し込まれた。五条は棒を器用に動かして、飴で
の舌をぞろりとなぶった。
「いちごミルクの味、思い出しちゃったんだ?」
「覚えてたの?」
「そりゃ覚えてるよ。かき氷の代わりに、これでも味わって」
言われた通り、
は、五条から飴を受け取ろうとした。けれど、五条は棒を離さない。にやにやと人の悪い笑みを浮かべて、
の口の中の飴をころころと転がしている。
「ちょっと、くれるんじゃないの?手ぇ離してよ」
「遠慮しないで、僕が食べさせてあげるから」
は前歯で棒を噛んで引っ張る。すると、五条も同じ力で引っ張る。互いに意地になって、引っ込みがつかなくなる。ものすごくスケールの狭い綱引きだ。地味で静かな無言の攻防が徐々に熱を帯びていく。
どれくらいそうしていたか。突然、ノックもなく、扉がスパンと開いた。
「ただいまー! 五条先生いるー!?」
虎杖だった。その後ろには伏黒と釘崎の顔も見える。任務から戻って、さっそく報告に来たらしい。
「何、馬鹿なことやってんですか?」と、伏黒。
「さもしいわね、いい大人のくせに」と、釘崎。
「先生、腹減ってんの?アイス買ってきたけど食う?」と、虎杖。
三人には、
が咥えている棒付き飴を五条が奪い取ろうとしているようにしか見えなかったようだ。
五条はびしりと指を立てて叫んだ。
「君達! まさか僕のこと! かよわい女性から食べかけの飴ちゃん強奪するような、極悪非道の男だとでも思ってるんじゃないでしょうね!?」
三人は同じタイミング、同じ角度で頷いた。
本当に、なんでこんな男に惚れてしまったんだろう。
はそう思いながら、綱引きの勝利を確かなものにするために、飴玉を奥歯で挟んでぱきりと割った。
* 脱線事故の描写については、2005年に発生した福知山線脱線事故を参考にさせていただきました。
title by OTOGIUNION 「日曜日のケーキ嫌い」
20210322