自習室の扉が開く気配を感じたものの、私は顔を上げる暇も惜しんでペンを走らせていた。
筆圧が強すぎてペン先でノートが傷ついてしまいそうだ。ややこしい刑事訴訟法の条文を一言一句漏らさず脳に刻みつけようと思うと、つい力が入ってしまう。
キリのいいところまで書き終えて顔を上げると、斜め後ろの席にウェーブのかかった黒髪が見えた。
「お疲れ」
と、松田くんが目を上げずに言った。
「お疲れ。珍しいね、松田くんが自習なんて」
「ちげぇよ。課題だ、課題。鬼塚教官の」
「え、課題なんて出てた?」
「伊達班だけの特別課題だとよ」
なんでも、とある出来事の一部始終を思い出し、その詳細なレポートを提出せよという課題だそうだ。
松田くんが所属する伊達班は、先日の拳銃操法の講義中、ある問題を起こしていた。屋根の補修業者が天井をぶち抜いて落下しかけた時、鬼塚教官が巻き込まれ、業者が腰につけていた命綱で首吊り状態になってしまったのだ。それを見た伊達班のメンバーが連携して、拳銃で命綱を断ち切り、教官の命を救った。
警察官は、省略や付加、改変をすることなく、正確かつ詳細に物事を観察し、記録しなければならない。この事件を利用して、鬼塚教官はその訓練をさせようという腹づもりなのだろう。
「危ないところをところ助けてやったっていうのに、こんな仕打ちはないぜ」
松田くんはため息と一緒にそう吐き捨てた。そのうんざりした顔がおかしくて、私は笑うのをこらえることができなかった。
「それはご愁傷様」
「お前は?」
「自習してただけだよ。私は誰かさんみたいに普段の行いが悪くないから、特別課題出されたりしません」
「あぁ、そうかよ。この優等生め」
松田くんは机にレポート用紙を広げると、右手でくるりとペンを回した。文房具で遊んだら腕立て伏せ二十回、という罰則は鬼塚教場の鉄の掟だけれど、すっかり集中してすらすらとペンを走らせる松田くんを邪魔する気にはなれなくて、私はそれを見なかったことにした。
再び、机に向かう。松田くんとふたりきりの自習室には、二本のペンがノート走る音だけが響き、それさえなければ水を打ったように静かだ。
その沈黙が続くほど、私は気持ちが落ち着かなくてはらはらした。ノートに書き写した条文がちっとも頭に入ってこない。ぎゅっと目をつむって頭を振り、もう一度気合いを入れ直そうとしても無駄だった。頭の片隅にちらちらと閃くものに気を取られて、一度手放した集中力をもう一度捕まえるのはどう考えても無理だった。
こっそり目を上げると、松田くんは驚くほどの速さでレポート用紙を埋めていた。
声をかけてその集中を切らせてしまうのは忍びないし、それでもし松田くんを怒らせてしまったら二度と立ち直れない気がする。松田くんの怒った顔はとても怖いのだ。でも、入校以来、初めてふたりきりになれたこのチャンス、逃す手はないと私の中の何かが叫んでいる。松田くんはいつも伊達班のメンバーとつるんでいて、なかなか気軽に話しかけることもできないのだ。もしかしたら、ふたりきりで話せる機会はもう二度と巡ってこないかも知れない。
私はひっそりと深呼吸をすると、音を立ててペンを机に置いた。
その音に反応して、松田くんが顔を上げる。
「終わったのか?」
「ううん、ちょっと休憩しようかなって。松田くん、コーヒー飲まないの?」
私は松田くんの手元を指差しながら言った。缶コーヒーは蓋を開けられないまま、机の片隅に放って置かれていた。
「別に、俺の勝手だろ」
言葉は乱暴だけれど、声に怒気はない。それをいいことに、私はつい前のめりになってしまう。
「飲まないならちょうだいって言おうと思ったんだけど、それブラックだよね。私、カフェオレしか飲めないんだ」
「そうかよ。てか、別にお前の好みなんてどうでもいいし」
「そんな冷たいこと言わないでよ、同期のよしみでしょ」
松田くんは、はぁ、と大袈裟にため息をつくと、椅子を蹴って立ち上がり出ていってしまった。
あまりにも唐突なことに、私は唖然として何も言えなかった。
松田くんは、決して冗談が通じない相手じゃないと思う。伊達班のメンバーとはいつも冗談を言い合って、大きな口を開けて笑っているところもよく見かける。
あの輪の中に、私も入りたいと思っていた。
松田くんは私の憧れだ。できることなら、もう少しだけ近づきたい。仲良くなりたい。松田くんが好きなものを知りたいし、私が好きなものも知って欲しい。互いのことを理解し合いたい。ずっとずっと、そう思っていたのだ。
けれど、松田くんにとって私は取るに足りない存在で、むしろレポートを書く邪魔をする厄介者にしかなれない。
失敗しちゃった、嫌われちゃった。警察学校で過ごす残りの日数は短い。きっと二度と挽回できないだろう。
私はため息をついてうなだれた。悲しみが胸の奥から溢れてきて、私が男だったら良かったのにと、どうしようもない願いを思い起こさせる。男だったら、こんなに松田くんを意識することなく、気軽な気持ちで友達になれたはずだ。萩原くんや、降谷くん、諸伏くん、伊達くんと一緒に、あの輪の中にいられたかもしれない。みんなが羨ましくて仕方がなかった。あの四人は何の理由もなく松田くんと一緒に居られるのだ。私は松田くんと出会ってからずっと、たったひと言話しかけるきっかけを探していたというのに。
と、その時、大きな音を立てて扉が開いた。松田くんが戻ってきたのだ。
松田くんはつかつかと私の前に歩いてくると、目の前にペットボトルを突き出してくる。ホット専用のオレンジ色のキャップ、カフェオレ色のパッケージ。
「ほらよ、これで満足か?」
「買ってきてくれたの? わざわざ?」
「お前が飲みてぇって言ったんだろうが」
「いや、飲みたいだなんて私はひと言も……」
「いるのか? いらねぇのか? どっちだよ?」
「いる! ありがとう!」
慌ててペットボトルを受け取ると、松田くんは「それでいいんだよ」とでも言いたげに尊大なに頷いた。
松田くんは、私を鬱陶しがって席を立ってしまったのではなかった。私が好きと言ったカフェオレを買ってきてくれた喜びより、嫌われていなかったという安心感で、私は心からほっとした。
両手で包み込んだペットボトルの温かさが、松田くんの心の温かさを教えてくれているようだった。
椅子に座り直した松田くんは缶コーヒーのプルタブを引く。カチッと小気味良い音がして、それを合図に空気が和んだ。
「松田くんって、実はシャイなの?」
思わず笑いそうになりながら言うと、松田くんは仏頂面でぼやいた。
「うるせ」
20201227