星のない夜空の闇を溶かしたような川が、眼下をとうとうと流れていた。
堤無津川にかかる橋の歩道から、墨を流したように黒々とした水面を見下ろしながら、私は川から吹きあがってくる冷たく湿った風に髪を躍らせている。
片側二車線の車道は、真夜中だというのに車の流れが途切れることがない。絶え間ないエンジン音がごおごおと耳障りな重く激しい音を響かせ、まるで嵐の中に頬りこまれたような気分にさせられる。
こんなに騒がしい場所を待ち合わせ場所に指定するなんて、あの眼鏡の男はなんてセンスが悪いんだろう。確かにこの時間は、車通りはともかく人通りの少ないし、次々と通り過ぎていく車の中から歩行者に気を留める人もいないだろう。けれど、快適な待ち合わせ場所だとはとても言えないし、女をひとりで真夜中に呼び出すだなんて無神経にもほどがある。
行き交う車の音に、リズミカルな足音が混ざる。水面から目を上げると、歩道の向こうから男がひとり走ってきた。
太陽が時間を間違えて昇ってきてしまったのかと思う。明るい金色の髪、黒いランニングウェアの腕や足に縫い付けられた反射材が、ヘッドライトの明かりを弾いてきらきら光っている。
「お待たせしてすいません」
安室くんはゆったりと走るスピードを緩め、私の目の前で止まった。
「あなたが来るとは思わなかったわ」
私を呼び出したのは風見という男だったはずだ。
安室くんは乱れた髪をかき上げながらにっこりした。
「彼は都合が悪くなってしまったので、僕が代わりに」
「そう」
「歩きながら話しましょう」
強い風にあおられながら、私達は並んで歩き出す。風が弱まるのを待って、私はプラスチックケースに入れた小型の記録媒体を安室くんの手に握らせた。
「頼まれていたものよ」
「ありがとうございます。ずいぶん早かったですね」
「迷惑だった?」
「まさか。助かります」
安室くんは記録媒体を大切そうに上着のポケットにしまった。
「ランニング中だったの?」
「えぇ。なんだか眠れなくてこの辺りを走っていたら、風見から連絡があったんです」
「わざわざ運動して汗をかいたら、ますます眠れなくならない?」
「そんなことないですよ。適度な疲労感はいい睡眠導入剤になります」
「私なら手っ取り早く睡眠薬でも飲んじゃうけどな」
「あなたも眠れないことがあるんですか?」
荷物を満載した10トントラックが、ものすごい音を立てながら走り抜けていく。耳元に唇を近づけて大声を出しても声が届かないほどの轟音だ。耳がおかしくなりそうだった。
列をなして通り過ぎていくトラックを何台も見送る間、私はなんと答えたらいいものか頭を悩ませていた。
私の仕事は夜に似合う。おかげで夜型の生活がすっかり板についているが、それを眠れないというのは正しい表現なのだろうか。一日当たりの睡眠時間はごく平均的だ。
それに、私の生活リズムや睡眠時間というごくプライベートな話題を持ち出すほど、私達は近しい間柄ではない。
「すいません」
車の流れが途切れた隙をみて、安室くんは私の顔色を伺うように頭を下げた。
「何が?」
「いえ、立ち入ったことを聞いてしまったかと思って。急に黙り込むので」
「あぁ、いや、そういうわけじゃ。ちょっと考え事してて」
「何を考えてたんですか?」
私はうっ、と言葉に詰まって、思わず安室くんを睨みつけた。
私は公安警察の協力者だ。頼まれた仕事はそれなりにこなすし、強風つきつける橋の上に真夜中に呼び出されても素直に応じている。自分で言うのもなんだけれど、真面目で勤勉な良い協力者だと思う。
だけれど、雇い主である安室くんと親しくなりすぎるのはいかがなものだろう。公安警察とその協力者、この関係に馴れ合いは禁物なのではないか。
扱う情報は機密事項ばかり、友達のように付き合って、気を許して、油断や隙が生れないとは言い切れない。その結果最悪の事態を引き起こしてしまったらどうする?
再び川から吹き上げる強い風にあおられ、バランスを崩してしまった私を、安室くんはぐっと肩を抱いて支えてくれた。
適度な運動で温まった安室くんの体の熱をナイロンの生地越しに感じる。均整な筋肉に覆われた腕が私の背中をすっぽりと包んで、力強く守ってくれている。まるで太く大きな樹にもたれかかるようにたくましい体。
「大丈夫ですか?」
と声をかけてくれる安室くんに、返す言葉がうかつにも震えた。
「えぇ、大丈夫」
「家まで送ります。もう遅いですから」
安室くんは私の肩をぽんと優しく叩いた。
「ありがとう」
安室くんの顔を見ないよう、私は足元を流れる堤無津川を見下ろした。
墨を流したような川面は、まるで私のようだ。昼間は空の色や太陽の光を弾いてきらきらと青く輝き、日常の中に溶け込んでいる。一方、夜になると、昼間とは真逆の、何もかもを飲み込んでしまいそうな深い闇を見せる。
普段は何食わぬ顔で一般人に擬態しているけれど、人には言えないことばかりして生きてきた。安室くんに手渡した記録媒体も、いくつかの法を犯して手に入れたものだ。
私にはこれしか得意なことがないから、この方法で生きていくしかない。
「もしまだ眠れそうにないなら、少し散歩しませんか?」
安室くんが私の顔をのぞき込みながらにっこりして、私の胸が高鳴った。
「散歩?」
「睡眠薬に頼るよりは、健康的だと思いますよ」
「健康的?」
それは私にはあまりにも不似合いな言葉に思えた。犯罪者が健康に気を遣うとは、なんだか滑稽だ。私は思わず口をへの字に曲げたけれど、安室くんは私の気持ちなんか知ったこっちゃないとでも言いたげに、にこにこしている。まるで前の晩から心待ちにしていた約束に胸を躍らさせてやってきたような、わくわくを絵に描いたような笑顔。
「……楽しそうね」
「えぇ、楽しいですよ」
私のような人間も、人生を楽しむ権利はあるんだろうか。闇に沈んだ騒がしい夜の散歩がどう楽しいのかは知らない。けれど、誰かと一緒に夜の散歩をするのは初めてだ。
「それじゃ、少しだけ」
安室くんは私の手を取り、ゆっくりと歩き出す。夜の闇は深い。けれど、安室くんの存在は道行を照らす懐中電灯のように頼もしかった。
title by OTOGIUNION
20210322(拍手再録)