「お前、思ってたよりもデブだったんだな」
そのひと言で彼氏に振られた私は、ショックのあまりご飯が食べられなくなり、そのままするすると8キロ痩せた。脂肪という名の分厚い着ぐるみを脱ぐような大変身である。
私は食べることが好きだ。いや、大好きだ。おいしいものには、とにかく目がない。ダイエットや美容には人並みに興味があるけれど、お肌がつやつやぷるんぷるんになる高級化粧水と、最高級の米沢牛、どちらかを選べと言われたら、迷わずにおいしいお肉を選んでしまう。もちろん、食べ過ぎた翌日にはカロリーを控えるとか、野菜中心のメニューにするとか、可能な限りの努力はするけれど、いつもダイエットをしている友人に言わせると、私のやり方はちゃんちゃら甘いらしい。
太っている、とまでは言わないまでも、ほんの少しぽっちゃりしている自覚はあった。けれど、そんな自分が嫌いではなかった。
おいしいものを、おいしく食べる。その幸せを大きく塗りつぶすほどの不幸に見舞われたのは、生まれて初めてのことだった。
闇に飲まれたように落ち込んでいる私に声をかけてくれたのは、学生時代からの友達のひとり、榎本梓だった。
「気分転換に、コーヒーでも飲みに来こない?」
梓は喫茶店でウェイトレスをしている。まだ私がセーラー服だった頃、友達と学校帰りに立ち寄った思い出の場所だ。イカスミパスタを食べたら口の中が真っ黒になって、狂ったようにげらげらと笑い合ったことを昨日のことのように覚えている。騒がしくて迷惑な客だったと思うけれど、マスターは何も言わずにデザートをサービスしてくれた。
失恋のショックでまるで食欲がない今、外食できる気がしなかったけれど、その懐かしさには心が惹かれた。
そうだ、おでかけのついでに新しい服を買いに行こう。短期間で急激に痩せてしまったおかげで、手持ちの服が全く似合わなくなってしまったのだ。ショッピングはストレス発散にぴったりだし、そのついでに、梓の働く喫茶店に寄ってコーヒーを飲もう。
そうすればきっと、失恋の悲しみも忘れられるに違いない。
大きなショップバックを両手にふたつずつ抱えて、喫茶ポアロの扉を開けると、梓が待ち構えていたように駆けよってきてくれた。
「いらっしゃい! 久しぶりね!」
「本当、久しぶり。誘ってくれてありがとうね」
「ううん、私も会いたかったし。好きな席にどうぞ」
店内は空いていた。荷物も多いことだし、テーブル席を使わせてもらうことにしよう。
椅子に荷物を置こうとしたときだ。
「よろしければ、お荷物お預かりしましょうか?」
と、声をかけられた。ポアロのエプロンをつけたウェイターだ。金色の髪と浅黒い肌、見上げるように背が高くて、思わず圧倒されてしまう。
その柔らかい笑みに、胸が高鳴った。まるで後光が差しているような笑顔だ、わけもなくありがたい気持ちになって、両手が塞がっていなければ手のひらをあわせて、「南無阿弥陀仏」と拝んでしまったかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
ショップバッグを持ってカウンターの中に入っていく彼と入れ替わりに、梓がお冷とメニューを持って来てくれた。
「ねぇねぇ、あんな人、前からいたっけ?」
私は体を乗り出して梓に耳打ちした。
「あぁ、安室さん? 最近働きはじめたのよ。上の、毛利探偵事務所、知ってる?」
「あぁ、あの名探偵の」
「その毛利さんのお弟子さんなの。ここでバイトしながら、勉強させてもらってるんですって」
「へぇ、そうなんだ」
「何にする?」
差し出されたメニューを見る。イカスミパスタ、ナポリタン、オムライス……、懐かしいメニューがずらりと並んでいて目移りしてしまう。けれど、まだ前のような食欲は戻っていない。カフェインの強いコーヒーは胃が受け付けないかもしれない。せっかく誘ってもらったのにこれじゃなぁ、申しわけない。梓がにこにことそばで待っている。少し焦る。
ふと、ハムサンド、という言葉が目にとまった。
「あれ、こんなのメニューにあったけ?」
「あぁこれ、安室さんが考案した新メニューなの」
「へぇ」
サンドイッチなら軽く食べられそうだ。もし食べきれなかったら、残りはテイクアウトさせてもらおう。
「それじゃ、これにしようかな」
「はい。それでは少々お待ちくださいね」
伝票を持ってカウンターに戻っていく梓の後ろ姿に、私は無性にほっとした。
激やせしてから梓に会うのは今日がはじめてだ。自分でも鏡を見て戸惑うほど姿形が変わってしまったのに、梓はあれこれと詮索せず、これまでと変わりなく接してくれる。それだけのことが染みるように心強かった。
空っぽの胃袋がきゅう、となる。久しぶりの空腹感。
ハムサンドをひとくち食べて、私は感激のあまり目を丸くした。薄切りのハム、レタス、チーズがサンドされたシンプルなサンドイッチだ。ソースに独特の風味があって、鼻に抜ける香りが素晴らしい。パンは綿雲を食べているようにふわふわで、ほんのりと温かかった。ずっとまともなものを食べていなかったからなおさら感動的で、私は思わず、お冷やを継ぎ足しに来てくれた梓の手を掴んでしまった。
「これ、すっごくおいしい! こんなにおいしいハムサンド、生まれて初めて!」
「よかった。お客さんにも人気なんだよ」
そういえば、友達とこんなふうにたわいもない話をするのも久しぶりだ。ここ最近は、家と職場を往復するだけで精一杯で、急な坂道を転げ落ちないように、地面に這いつくばって何とか前に進んでいるような日々だった。
けれど、どんなに険しい坂道にも花が咲くように、小さな幸せはこんな近くに咲いているものなのだ。
帰り際、会計を済ませると、他のテーブルの接客にかかりきりになっている梓の代わりに、安室さんがショップバッグを手渡してくれた。
「ごちそうさまでした。ハムサンド、すっごくおいしかったです」
「それは良かったです」
「私、最近ずっと落ち込んでいて、こんなにしっかり食べたの久しぶりでした。私、おいしいもの大好きだから、本当に嬉しくて。うるさくてごめんなさい、でもどうしてもちゃんとお伝えしたくて」
安室は眉を八の字にして、はにかむように笑った。
「大変なことがあったんですね。もしまた落ち込むことがあったら、食べに来てください。おいしいもの作りますから」
その照れくさそうな声に、私の胸はきゅんとした。爽やかで優しそうな人。ショップバッグを手渡してくれたときにぶつかった指先は、はっとするほど温かかった。
「はい、また来ます!」
と言ったものの、昨日の今日で店に行くのも気が引けたので、機を見計らって一週間後、私はもう一度ポアロを訪れた。
先週買ったばかりの下ろしたてのワンピースとスニーカー、お化粧にも少しだけ気合を入れた。痩せるとおしゃれが楽しくなるという話はよく聞いていたけれど、まさか自分がそれを体感するときがくるとは考えてもみなかった。
「でも本当、元気になってよかったよ」
と、梓がほっとした顔で言う。
今日は他にお客さんがいないので、梓はエプロンを外して私の向かいに座っていた。安室さんは、カウンターの向こうで、ひとり黙々と働いている。
「心配かけて悪かったね」
「ううん。私こそ、辛い時に力になってあげられなくてごめんね」
「そんなわけないじゃん。梓がここに誘ってくれたからやっとご飯が食べられるようになったんだし、感謝してるよ」
「それを言うなら安室さんのハムサンドにでしょ?」
「まぁ、半々ってところだね」
ふたり目を合わせてくすくす笑っていると、安室さんがトレーを両手に持ってやってきた。
「お待たせしました。ハムサンドのセットです」
先週と同じメニューが私の目の前に並ぶ。あの味を思い出すだけで口の中によだれがじゅわりと湧いてきて、それだけで幸せな気持ちになって思わずにっこりしてしまう。
おいしいは、正義だ。
「安室さん、彼女のこと覚えてます?」
さっそくハムサンドにかぶりついていた私を、梓は手のひらで指差した。
「えぇ、梓さんの友達ですよね」
「先週はありがとうございました。また来ちゃいました」
「こちらこそ。梓さんのお友達は綺麗な方が多いですね」
げほっ、とむせてしまった私をかばって、梓は安室さんの肩を叩いた。
「もう、安室さんってば! 最近ではそういうのもセクハラになるんですよ!」
「え、そうなんですか? 褒めたつもりだったんだけどな」
「彼女、困ってるじゃないですか」
パンのかけらが変なところに入ってしまって、落ち着くまでにしばらくかかった。
梓に怒られて反省したのか、安室はそそくさとカウンターに戻ってこちらに背を向けてしまった。それが彼なりの反省のやり方らしい。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっとびっくりしただけ」
「ごめんね、急にあぁいうこと言う人なの」
「梓も言われたことあるの?」
「あるある。一緒に買い物してたら突然、梓さんはきっといいお嫁さんになりますねって」
「うわ、それはまた、不用意な」
「でしょ? もう私、その場で怒っちゃったよ」
泡立て器がかしゃかしゃとボウルにぶつかる音が響いてきて、私はカウンターの中でひとり働いている安室さんを盗み見た。
自然にすっと伸びた背中には力みがなく、肩幅が広い。半袖のシャツから伸びる腕は、まるで名匠が彫り上げた彫刻のようだ。あの腕が作ったハムサンドが、今、私の口の中にある。
「ねぇ、実は今日これ持ってきたんだ」
安室さんに見惚れていると、梓が鞄の中から何かを取り出した。それは、1冊のアルバムだった。表紙には油性ペンで【箱根温泉女だらけの湯けむり旅情】と書いてある。数年前、女友達4人で行った温泉旅行で撮った写真だ。
「懐かしい! 持ってきたの?」
私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「久しぶりに一緒に見ようと思って」
「やだ! その時の私、人生で一番太ってた時なんだよ!」
「だからこそだよ。過去の自分を供養してあげよう」
「供養って、別に死んだわけじゃないんだけど」
「だって、なんだか生まれ変わったみたいに見えるんだもの」
そう言われて、私ははっとした。生まれ変わった。本当にその通りかもしれない。ひとりになって、8キロも痩せて、服を買い換えて。
写真の中でふっくらとした顔で笑っている私は、もちろん私自身に違いないのだけれど、まるで双子の妹をみているような距離を感じた。
「ねぇ、見て見て、これ」
「うわ、ひどい顔」
「これもこれも」
「わぁ! こんなの残しておかないでよもう!」
梓と額を寄せ合って笑いころげていると、安室がトレイを持ってカウンターを出てきた。
「失礼します。デザートの試作品を作ってみたので、味見していただけませんか?」
それは、二色のプリンだった。ひとつは卵色、もうひとつは若草色。ホイップクリームとカラメルソースが添えられていて、甘い香りが食欲をそそる。
「いつの間に作ったんですか?」
梓が目を丸くする。
「昨日、家で。店の冷蔵庫を借りて冷やしてたんです。どうぞ遠慮なく召し上がってください」
プリンはさっぱりと甘く、卵のまろやかな風味が口いっぱいに広がった。やっぱり、おいしいは正義だ。
「これ、もしかしておふたりですか?」
と、安室が広げっぱなしになっているアルバムを指差した。そこには、満月みたいにまん丸顔の私と梓が、浴衣姿で肩を寄せ合いながらお刺身を食べている。
「わぁ! 見ちゃだめです!」
私はとっさにアルバムを奪い取ってしまった。
「なに? どうしたの?」
と、梓が目を丸くする。
こんなに太っていた私を見て、安室さんはどう思うだろう。私の体を見た時の元彼の、冷たい目が蘇る。もしも安室さんがあんな目で私を見たら? そう考えると胃がぎゅっとなった。
「だって、恥ずかしいじゃない!」
「でも、もう見ちゃいましたけど」
と、安室さんは私の必死の抵抗を、いとも簡単になかったことにした。頼むから乙女の気持ちを察してよ、と心の中でなじる。
「この頃からちっとも変っていらっしゃらないんですね」
と、安室さんは感心したように言った。
「いや、でも、この時と今とじゃ別人ですよ」
私が思ったことを、梓が代わりに言ってくれた。
「確かに、少し痩せたみたいですね」
「どの辺が変わらないと思うんですか?」
「ご飯をおいしそうに食べるところが、とってもかわいらしいところ、かな」
もう、安室さんってばまたそんなこと言って! と、梓が笑う。
私はアルバムに顔を押しつけたまま、顔を上げられなかった。照れくさくて恥ずかしくて顔から火が出そうだ。梓が必死に間を持たせようとあれこれしゃべり続けてくれたけれど、それはなんの救いにもならない。
おいしいは正義だ。
そして、おいしいものを作り出す人も正義だ。
アルバムの縁から目だけを出すと、にっこりと笑う安室さんと目が合った。
笑顔の素敵なこの人は、ハムサンド以外にどんな料理を作るんだろう。その手で作り出されたものなら、このお腹がはちきれようともパンの一片、スープの一滴すら残さず平らげてあげるのに。
私の正義は、おいしいものをおいしくいただくこと。
こうして、喫茶ポアロに通い詰める私の新しい日々がはじまった。私が店を訪れるたび、安室さんは初めて会った時と同じように、優しく私に微笑みかけてくれる。
その笑顔とおいしい料理に、私はいつも励まされている。
「お前、思ってたよりもデブだったんだな」
そのひと言で彼氏に振られた私は、ショックのあまりご飯が食べられなくなり、そのままするすると8キロ痩せた。脂肪という名の分厚い着ぐるみを脱ぐような大変身である。
私は食べることが好きだ。いや、大好きだ。おいしいものには、とにかく目がない。ダイエットや美容には人並みに興味があるけれど、お肌がつやつやぷるんぷるんになる高級化粧水と、最高級の米沢牛、どちらかを選べと言われたら、迷わずにおいしいお肉を選んでしまう。もちろん、食べ過ぎた翌日にはカロリーを控えるとか、野菜中心のメニューにするとか、可能な限りの努力はするけれど、いつもダイエットをしている友人に言わせると、私のやり方はちゃんちゃら甘いらしい。
太っている、とまでは言わないまでも、ほんの少しぽっちゃりしている自覚はあった。けれど、そんな自分が嫌いではなかった。
おいしいものを、おいしく食べる。その幸せを大きく塗りつぶすほどの不幸に見舞われたのは、生まれて初めてのことだった。
闇に飲まれたように落ち込んでいる私に声をかけてくれたのは、学生時代からの友達のひとり、榎本梓だった。
「気分転換に、コーヒーでも飲みに来こない?」
梓は喫茶店でウェイトレスをしている。まだ私がセーラー服だった頃、友達と学校帰りに立ち寄った思い出の場所だ。イカスミパスタを食べたら口の中が真っ黒になって、狂ったようにげらげらと笑い合ったことを昨日のことのように覚えている。騒がしくて迷惑な客だったと思うけれど、マスターは何も言わずにデザートをサービスしてくれた。
失恋のショックでまるで食欲がない今、外食できる気がしなかったけれど、その懐かしさには心が惹かれた。
そうだ、おでかけのついでに新しい服を買いに行こう。短期間で急激に痩せてしまったおかげで、手持ちの服が全く似合わなくなってしまったのだ。ショッピングはストレス発散にぴったりだし、そのついでに、梓の働く喫茶店に寄ってコーヒーを飲もう。
そうすればきっと、失恋の悲しみも忘れられるに違いない。
大きなショップバックを両手にふたつずつ抱えて、喫茶ポアロの扉を開けると、梓が待ち構えていたように駆けよってきてくれた。
「いらっしゃい! 久しぶりね!」
「本当、久しぶり。誘ってくれてありがとうね」
「ううん、私も会いたかったし。好きな席にどうぞ」
店内は空いていた。荷物も多いことだし、テーブル席を使わせてもらうことにしよう。
椅子に荷物を置こうとしたときだ。
「よろしければ、お荷物お預かりしましょうか?」
と、声をかけられた。ポアロのエプロンをつけたウェイターだ。金色の髪と浅黒い肌、見上げるように背が高くて、思わず圧倒されてしまう。
その柔らかい笑みに、胸が高鳴った。まるで後光が差しているような笑顔だ、わけもなくありがたい気持ちになって、両手が塞がっていなければ手のひらをあわせて、「南無阿弥陀仏」と拝んでしまったかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
ショップバッグを持ってカウンターの中に入っていく彼と入れ替わりに、梓がお冷とメニューを持って来てくれた。
「ねぇねぇ、あんな人、前からいたっけ?」
私は体を乗り出して梓に耳打ちした。
「あぁ、安室さん? 最近働きはじめたのよ。上の、毛利探偵事務所、知ってる?」
「あぁ、あの名探偵の」
「その毛利さんのお弟子さんなの。ここでバイトしながら、勉強させてもらってるんですって」
「へぇ、そうなんだ」
「何にする?」
差し出されたメニューを見る。イカスミパスタ、ナポリタン、オムライス……、懐かしいメニューがずらりと並んでいて目移りしてしまう。けれど、まだ前のような食欲は戻っていない。カフェインの強いコーヒーは胃が受け付けないかもしれない。せっかく誘ってもらったのにこれじゃなぁ、申しわけない。梓がにこにことそばで待っている。少し焦る。
ふと、ハムサンド、という言葉が目にとまった。
「あれ、こんなのメニューにあったけ?」
「あぁこれ、安室さんが考案した新メニューなの」
「へぇ」
サンドイッチなら軽く食べられそうだ。もし食べきれなかったら、残りはテイクアウトさせてもらおう。
「それじゃ、これにしようかな」
「はい。それでは少々お待ちくださいね」
伝票を持ってカウンターに戻っていく梓の後ろ姿に、私は無性にほっとした。
激やせしてから梓に会うのは今日がはじめてだ。自分でも鏡を見て戸惑うほど姿形が変わってしまったのに、梓はあれこれと詮索せず、これまでと変わりなく接してくれる。それだけのことが染みるように心強かった。
空っぽの胃袋がきゅう、となる。久しぶりの空腹感。
ハムサンドをひとくち食べて、私は感激のあまり目を丸くした。薄切りのハム、レタス、チーズがサンドされたシンプルなサンドイッチだ。ソースに独特の風味があって、鼻に抜ける香りが素晴らしい。パンは綿雲を食べているようにふわふわで、ほんのりと温かかった。ずっとまともなものを食べていなかったからなおさら感動的で、私は思わず、お冷やを継ぎ足しに来てくれた梓の手を掴んでしまった。
「これ、すっごくおいしい! こんなにおいしいハムサンド、生まれて初めて!」
「よかった。お客さんにも人気なんだよ」
そういえば、友達とこんなふうにたわいもない話をするのも久しぶりだ。ここ最近は、家と職場を往復するだけで精一杯で、急な坂道を転げ落ちないように、地面に這いつくばって何とか前に進んでいるような日々だった。
けれど、どんなに険しい坂道にも花が咲くように、小さな幸せはこんな近くに咲いているものなのだ。
帰り際、会計を済ませると、他のテーブルの接客にかかりきりになっている梓の代わりに、安室さんがショップバッグを手渡してくれた。
「ごちそうさまでした。ハムサンド、すっごくおいしかったです」
「それは良かったです」
「私、最近ずっと落ち込んでいて、こんなにしっかり食べたの久しぶりでした。私、おいしいもの大好きだから、本当に嬉しくて。うるさくてごめんなさい、でもどうしてもちゃんとお伝えしたくて」
安室は眉を八の字にして、はにかむように笑った。
「大変なことがあったんですね。もしまた落ち込むことがあったら、食べに来てください。おいしいもの作りますから」
その照れくさそうな声に、私の胸はきゅんとした。爽やかで優しそうな人。ショップバッグを手渡してくれたときにぶつかった指先は、はっとするほど温かかった。
「はい、また来ます!」
と言ったものの、昨日の今日で店に行くのも気が引けたので、機を見計らって一週間後、私はもう一度ポアロを訪れた。
先週買ったばかりの下ろしたてのワンピースとスニーカー、お化粧にも少しだけ気合を入れた。痩せるとおしゃれが楽しくなるという話はよく聞いていたけれど、まさか自分がそれを体感するときがくるとは考えてもみなかった。
「でも本当、元気になってよかったよ」
と、梓がほっとした顔で言う。
今日は他にお客さんがいないので、梓はエプロンを外して私の向かいに座っていた。安室さんは、カウンターの向こうで、ひとり黙々と働いている。
「心配かけて悪かったね」
「ううん。私こそ、辛い時に力になってあげられなくてごめんね」
「そんなわけないじゃん。梓がここに誘ってくれたからやっとご飯が食べられるようになったんだし、感謝してるよ」
「それを言うなら安室さんのハムサンドにでしょ?」
「まぁ、半々ってところだね」
ふたり目を合わせてくすくす笑っていると、安室さんがトレーを両手に持ってやってきた。
「お待たせしました。ハムサンドのセットです」
先週と同じメニューが私の目の前に並ぶ。あの味を思い出すだけで口の中によだれがじゅわりと湧いてきて、それだけで幸せな気持ちになって思わずにっこりしてしまう。
おいしいは、正義だ。
「安室さん、彼女のこと覚えてます?」
さっそくハムサンドにかぶりついていた私を、梓は手のひらで指差した。
「えぇ、梓さんの友達ですよね」
「先週はありがとうございました。また来ちゃいました」
「こちらこそ。梓さんのお友達は綺麗な方が多いですね」
げほっ、とむせてしまった私をかばって、梓は安室さんの肩を叩いた。
「もう、安室さんってば! 最近ではそういうのもセクハラになるんですよ!」
「え、そうなんですか? 褒めたつもりだったんだけどな」
「彼女、困ってるじゃないですか」
パンのかけらが変なところに入ってしまって、落ち着くまでにしばらくかかった。
梓に怒られて反省したのか、安室はそそくさとカウンターに戻ってこちらに背を向けてしまった。それが彼なりの反省のやり方らしい。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっとびっくりしただけ」
「ごめんね、急にあぁいうこと言う人なの」
「梓も言われたことあるの?」
「あるある。一緒に買い物してたら突然、梓さんはきっといいお嫁さんになりますねって」
「うわ、それはまた、不用意な」
「でしょ? もう私、その場で怒っちゃったよ」
泡立て器がかしゃかしゃとボウルにぶつかる音が響いてきて、私はカウンターの中でひとり働いている安室さんを盗み見た。
自然にすっと伸びた背中には力みがなく、肩幅が広い。半袖のシャツから伸びる腕は、まるで名匠が彫り上げた彫刻のようだ。あの腕が作ったハムサンドが、今、私の口の中にある。
「ねぇ、実は今日これ持ってきたんだ」
安室さんに見惚れていると、梓が鞄の中から何かを取り出した。それは、1冊のアルバムだった。表紙には油性ペンで【箱根温泉女だらけの湯けむり旅情】と書いてある。数年前、女友達4人で行った温泉旅行で撮った写真だ。
「懐かしい! 持ってきたの?」
私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「久しぶりに一緒に見ようと思って」
「やだ! その時の私、人生で一番太ってた時なんだよ!」
「だからこそだよ。過去の自分を供養してあげよう」
「供養って、別に死んだわけじゃないんだけど」
「だって、なんだか生まれ変わったみたいに見えるんだもの」
そう言われて、私ははっとした。生まれ変わった。本当にその通りかもしれない。ひとりになって、8キロも痩せて、服を買い換えて。
写真の中でふっくらとした顔で笑っている私は、もちろん私自身に違いないのだけれど、まるで双子の妹をみているような距離を感じた。
「ねぇ、見て見て、これ」
「うわ、ひどい顔」
「これもこれも」
「わぁ! こんなの残しておかないでよもう!」
梓と額を寄せ合って笑いころげていると、安室がトレイを持ってカウンターを出てきた。
「失礼します。デザートの試作品を作ってみたので、味見していただけませんか?」
それは、二色のプリンだった。ひとつは卵色、もうひとつは若草色。ホイップクリームとカラメルソースが添えられていて、甘い香りが食欲をそそる。
「いつの間に作ったんですか?」
梓が目を丸くする。
「昨日、家で。店の冷蔵庫を借りて冷やしてたんです。どうぞ遠慮なく召し上がってください」
プリンはさっぱりと甘く、卵のまろやかな風味が口いっぱいに広がった。やっぱり、おいしいは正義だ。
「これ、もしかしておふたりですか?」
と、安室が広げっぱなしになっているアルバムを指差した。そこには、満月みたいにまん丸顔の私と梓が、浴衣姿で肩を寄せ合いながらお刺身を食べている。
「わぁ! 見ちゃだめです!」
私はとっさにアルバムを奪い取ってしまった。
「なに? どうしたの?」
と、梓が目を丸くする。
こんなに太っていた私を見て、安室さんはどう思うだろう。私の体を見た時の元彼の、冷たい目が蘇る。もしも安室さんがあんな目で私を見たら? そう考えると胃がぎゅっとなった。
「だって、恥ずかしいじゃない!」
「でも、もう見ちゃいましたけど」
と、安室さんは私の必死の抵抗を、いとも簡単になかったことにした。頼むから乙女の気持ちを察してよ、と心の中でなじる。
「この頃からちっとも変っていらっしゃらないんですね」
と、安室さんは感心したように言った。
「いや、でも、この時と今とじゃ別人ですよ」
私が思ったことを、梓が代わりに言ってくれた。
「確かに、少し痩せたみたいですね」
「どの辺が変わらないと思うんですか?」
「ご飯をおいしそうに食べるところが、とってもかわいらしいところ、かな」
もう、安室さんってばまたそんなこと言って! と、梓が笑う。
私はアルバムに顔を押しつけたまま、顔を上げられなかった。照れくさくて恥ずかしくて顔から火が出そうだ。梓が必死に間を持たせようとあれこれしゃべり続けてくれたけれど、それはなんの救いにもならない。
おいしいは正義だ。
そして、おいしいものを作り出す人も正義だ。
アルバムの縁から目だけを出すと、にっこりと笑う安室さんと目が合った。
笑顔の素敵なこの人は、ハムサンド以外にどんな料理を作るんだろう。その手で作り出されたものなら、このお腹がはちきれようともパンの一片、スープの一滴すら残さず平らげてあげるのに。
私の正義は、おいしいものをおいしくいただくこと。
こうして、喫茶ポアロに通い詰める私の新しい日々がはじまった。私が店を訪れるたび、安室さんは初めて会った時と同じように、優しく私に微笑みかけてくれる。
その笑顔とおいしい料理に、私はいつも励まされている。
「お前、思ってたよりもデブだったんだな」
そのひと言で彼氏に振られた私は、ショックのあまりご飯が食べられなくなり、そのままするすると8キロ痩せた。脂肪という名の分厚い着ぐるみを脱ぐような大変身である。
私は食べることが好きだ。いや、大好きだ。おいしいものには、とにかく目がない。ダイエットや美容には人並みに興味があるけれど、お肌がつやつやぷるんぷるんになる高級化粧水と、最高級の米沢牛、どちらかを選べと言われたら、迷わずにおいしいお肉を選んでしまう。もちろん、食べ過ぎた翌日にはカロリーを控えるとか、野菜中心のメニューにするとか、可能な限りの努力はするけれど、いつもダイエットをしている友人に言わせると、私のやり方はちゃんちゃら甘いらしい。
太っている、とまでは言わないまでも、ほんの少しぽっちゃりしている自覚はあった。けれど、そんな自分が嫌いではなかった。
おいしいものを、おいしく食べる。その幸せを大きく塗りつぶすほどの不幸に見舞われたのは、生まれて初めてのことだった。
闇に飲まれたように落ち込んでいる私に声をかけてくれたのは、学生時代からの友達のひとり、榎本梓だった。
「気分転換に、コーヒーでも飲みに来こない?」
梓は喫茶店でウェイトレスをしている。まだ私がセーラー服だった頃、友達と学校帰りに立ち寄った思い出の場所だ。イカスミパスタを食べたら口の中が真っ黒になって、狂ったようにげらげらと笑い合ったことを昨日のことのように覚えている。騒がしくて迷惑な客だったと思うけれど、マスターは何も言わずにデザートをサービスしてくれた。
失恋のショックでまるで食欲がない今、外食できる気がしなかったけれど、その懐かしさには心が惹かれた。
そうだ、おでかけのついでに新しい服を買いに行こう。短期間で急激に痩せてしまったおかげで、手持ちの服が全く似合わなくなってしまったのだ。ショッピングはストレス発散にぴったりだし、そのついでに、梓の働く喫茶店に寄ってコーヒーを飲もう。
そうすればきっと、失恋の悲しみも忘れられるに違いない。
大きなショップバックを両手にふたつずつ抱えて、喫茶ポアロの扉を開けると、梓が待ち構えていたように駆けよってきてくれた。
「いらっしゃい! 久しぶりね!」
「本当、久しぶり。誘ってくれてありがとうね」
「ううん、私も会いたかったし。好きな席にどうぞ」
店内は空いていた。荷物も多いことだし、テーブル席を使わせてもらうことにしよう。
椅子に荷物を置こうとしたときだ。
「よろしければ、お荷物お預かりしましょうか?」
と、声をかけられた。ポアロのエプロンをつけたウェイターだ。金色の髪と浅黒い肌、見上げるように背が高くて、思わず圧倒されてしまう。
その柔らかい笑みに、胸が高鳴った。まるで後光が差しているような笑顔だ、わけもなくありがたい気持ちになって、両手が塞がっていなければ手のひらをあわせて、「南無阿弥陀仏」と拝んでしまったかもしれない。
「あ、ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
ショップバッグを持ってカウンターの中に入っていく彼と入れ替わりに、梓がお冷とメニューを持って来てくれた。
「ねぇねぇ、あんな人、前からいたっけ?」
私は体を乗り出して梓に耳打ちした。
「あぁ、安室さん? 最近働きはじめたのよ。上の、毛利探偵事務所、知ってる?」
「あぁ、あの名探偵の」
「その毛利さんのお弟子さんなの。ここでバイトしながら、勉強させてもらってるんですって」
「へぇ、そうなんだ」
「何にする?」
差し出されたメニューを見る。イカスミパスタ、ナポリタン、オムライス……、懐かしいメニューがずらりと並んでいて目移りしてしまう。けれど、まだ前のような食欲は戻っていない。カフェインの強いコーヒーは胃が受け付けないかもしれない。せっかく誘ってもらったのにこれじゃなぁ、申しわけない。梓がにこにことそばで待っている。少し焦る。
ふと、ハムサンド、という言葉が目にとまった。
「あれ、こんなのメニューにあったけ?」
「あぁこれ、安室さんが考案した新メニューなの」
「へぇ」
サンドイッチなら軽く食べられそうだ。もし食べきれなかったら、残りはテイクアウトさせてもらおう。
「それじゃ、これにしようかな」
「はい。それでは少々お待ちくださいね」
伝票を持ってカウンターに戻っていく梓の後ろ姿に、私は無性にほっとした。
激やせしてから梓に会うのは今日がはじめてだ。自分でも鏡を見て戸惑うほど姿形が変わってしまったのに、梓はあれこれと詮索せず、これまでと変わりなく接してくれる。それだけのことが染みるように心強かった。
空っぽの胃袋がきゅう、となる。久しぶりの空腹感。
ハムサンドをひとくち食べて、私は感激のあまり目を丸くした。薄切りのハム、レタス、チーズがサンドされたシンプルなサンドイッチだ。ソースに独特の風味があって、鼻に抜ける香りが素晴らしい。パンは綿雲を食べているようにふわふわで、ほんのりと温かかった。ずっとまともなものを食べていなかったからなおさら感動的で、私は思わず、お冷やを継ぎ足しに来てくれた梓の手を掴んでしまった。
「これ、すっごくおいしい! こんなにおいしいハムサンド、生まれて初めて!」
「よかった。お客さんにも人気なんだよ」
そういえば、友達とこんなふうにたわいもない話をするのも久しぶりだ。ここ最近は、家と職場を往復するだけで精一杯で、急な坂道を転げ落ちないように、地面に這いつくばって何とか前に進んでいるような日々だった。
けれど、どんなに険しい坂道にも花が咲くように、小さな幸せはこんな近くに咲いているものなのだ。
帰り際、会計を済ませると、他のテーブルの接客にかかりきりになっている梓の代わりに、安室さんがショップバッグを手渡してくれた。
「ごちそうさまでした。ハムサンド、すっごくおいしかったです」
「それは良かったです」
「私、最近ずっと落ち込んでいて、こんなにしっかり食べたの久しぶりでした。私、おいしいもの大好きだから、本当に嬉しくて。うるさくてごめんなさい、でもどうしてもちゃんとお伝えしたくて」
安室は眉を八の字にして、はにかむように笑った。
「大変なことがあったんですね。もしまた落ち込むことがあったら、食べに来てください。おいしいもの作りますから」
その照れくさそうな声に、私の胸はきゅんとした。爽やかで優しそうな人。ショップバッグを手渡してくれたときにぶつかった指先は、はっとするほど温かかった。
「はい、また来ます!」
と言ったものの、昨日の今日で店に行くのも気が引けたので、機を見計らって一週間後、私はもう一度ポアロを訪れた。
先週買ったばかりの下ろしたてのワンピースとスニーカー、お化粧にも少しだけ気合を入れた。痩せるとおしゃれが楽しくなるという話はよく聞いていたけれど、まさか自分がそれを体感するときがくるとは考えてもみなかった。
「でも本当、元気になってよかったよ」
と、梓がほっとした顔で言う。
今日は他にお客さんがいないので、梓はエプロンを外して私の向かいに座っていた。安室さんは、カウンターの向こうで、ひとり黙々と働いている。
「心配かけて悪かったね」
「ううん。私こそ、辛い時に力になってあげられなくてごめんね」
「そんなわけないじゃん。梓がここに誘ってくれたからやっとご飯が食べられるようになったんだし、感謝してるよ」
「それを言うなら安室さんのハムサンドにでしょ?」
「まぁ、半々ってところだね」
ふたり目を合わせてくすくす笑っていると、安室さんがトレーを両手に持ってやってきた。
「お待たせしました。ハムサンドのセットです」
先週と同じメニューが私の目の前に並ぶ。あの味を思い出すだけで口の中によだれがじゅわりと湧いてきて、それだけで幸せな気持ちになって思わずにっこりしてしまう。
おいしいは、正義だ。
「安室さん、彼女のこと覚えてます?」
さっそくハムサンドにかぶりついていた私を、梓は手のひらで指差した。
「えぇ、梓さんの友達ですよね」
「先週はありがとうございました。また来ちゃいました」
「こちらこそ。梓さんのお友達は綺麗な方が多いですね」
げほっ、とむせてしまった私をかばって、梓は安室さんの肩を叩いた。
「もう、安室さんってば! 最近ではそういうのもセクハラになるんですよ!」
「え、そうなんですか? 褒めたつもりだったんだけどな」
「彼女、困ってるじゃないですか」
パンのかけらが変なところに入ってしまって、落ち着くまでにしばらくかかった。
梓に怒られて反省したのか、安室はそそくさとカウンターに戻ってこちらに背を向けてしまった。それが彼なりの反省のやり方らしい。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっとびっくりしただけ」
「ごめんね、急にあぁいうこと言う人なの」
「梓も言われたことあるの?」
「あるある。一緒に買い物してたら突然、梓さんはきっといいお嫁さんになりますねって」
「うわ、それはまた、不用意な」
「でしょ? もう私、その場で怒っちゃったよ」
泡立て器がかしゃかしゃとボウルにぶつかる音が響いてきて、私はカウンターの中でひとり働いている安室さんを盗み見た。
自然にすっと伸びた背中には力みがなく、肩幅が広い。半袖のシャツから伸びる腕は、まるで名匠が彫り上げた彫刻のようだ。あの腕が作ったハムサンドが、今、私の口の中にある。
「ねぇ、実は今日これ持ってきたんだ」
安室さんに見惚れていると、梓が鞄の中から何かを取り出した。それは、1冊のアルバムだった。表紙には油性ペンで【箱根温泉女だらけの湯けむり旅情】と書いてある。数年前、女友達4人で行った温泉旅行で撮った写真だ。
「懐かしい! 持ってきたの?」
私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「久しぶりに一緒に見ようと思って」
「やだ! その時の私、人生で一番太ってた時なんだよ!」
「だからこそだよ。過去の自分を供養してあげよう」
「供養って、別に死んだわけじゃないんだけど」
「だって、なんだか生まれ変わったみたいに見えるんだもの」
そう言われて、私ははっとした。生まれ変わった。本当にその通りかもしれない。ひとりになって、8キロも痩せて、服を買い換えて。
写真の中でふっくらとした顔で笑っている私は、もちろん私自身に違いないのだけれど、まるで双子の妹をみているような距離を感じた。
「ねぇ、見て見て、これ」
「うわ、ひどい顔」
「これもこれも」
「わぁ! こんなの残しておかないでよもう!」
梓と額を寄せ合って笑いころげていると、安室がトレイを持ってカウンターを出てきた。
「失礼します。デザートの試作品を作ってみたので、味見していただけませんか?」
それは、二色のプリンだった。ひとつは卵色、もうひとつは若草色。ホイップクリームとカラメルソースが添えられていて、甘い香りが食欲をそそる。
「いつの間に作ったんですか?」
梓が目を丸くする。
「昨日、家で。店の冷蔵庫を借りて冷やしてたんです。どうぞ遠慮なく召し上がってください」
プリンはさっぱりと甘く、卵のまろやかな風味が口いっぱいに広がった。やっぱり、おいしいは正義だ。
「これ、もしかしておふたりですか?」
と、安室が広げっぱなしになっているアルバムを指差した。そこには、満月みたいにまん丸顔の私と梓が、浴衣姿で肩を寄せ合いながらお刺身を食べている。
「わぁ! 見ちゃだめです!」
私はとっさにアルバムを奪い取ってしまった。
「なに? どうしたの?」
と、梓が目を丸くする。
こんなに太っていた私を見て、安室さんはどう思うだろう。私の体を見た時の元彼の、冷たい目が蘇る。もしも安室さんがあんな目で私を見たら? そう考えると胃がぎゅっとなった。
「だって、恥ずかしいじゃない!」
「でも、もう見ちゃいましたけど」
と、安室さんは私の必死の抵抗を、いとも簡単になかったことにした。頼むから乙女の気持ちを察してよ、と心の中でなじる。
「この頃からちっとも変っていらっしゃらないんですね」
と、安室さんは感心したように言った。
「いや、でも、この時と今とじゃ別人ですよ」
私が思ったことを、梓が代わりに言ってくれた。
「確かに、少し痩せたみたいですね」
「どの辺が変わらないと思うんですか?」
「ご飯をおいしそうに食べるところが、とってもかわいらしいところ、かな」
もう、安室さんってばまたそんなこと言って! と、梓が笑う。
私はアルバムに顔を押しつけたまま、顔を上げられなかった。照れくさくて恥ずかしくて顔から火が出そうだ。梓が必死に間を持たせようとあれこれしゃべり続けてくれたけれど、それはなんの救いにもならない。
おいしいは正義だ。
そして、おいしいものを作り出す人も正義だ。
アルバムの縁から目だけを出すと、にっこりと笑う安室さんと目が合った。
笑顔の素敵なこの人は、ハムサンド以外にどんな料理を作るんだろう。その手で作り出されたものなら、このお腹がはちきれようともパンの一片、スープの一滴すら残さず平らげてあげるのに。
私の正義は、おいしいものをおいしくいただくこと。
こうして、喫茶ポアロに通い詰める私の新しい日々がはじまった。私が店を訪れるたび、安室さんは初めて会った時と同じように、優しく私に微笑みかけてくれる。
その笑顔とおいしい料理に、私はいつも励まされている。
初出 アンソロジー「「Are You Happy?」
20201227