目玉焼きレッスン
朝のシャワーを浴びてダイニングに戻ると、部屋中に朝ご飯の匂いが充満していた。
まな板を叩く包丁の音、朝の透明な光が窓から差し込んでいて、台所に立つ透の金髪が本当の金のように光っている。耳の後ろの髪の毛が変な方向に跳ねているけれど、だらしなさは感じない。むしろけだるい雰囲気が光に満ちた朝にぴったりだ。
驚かせてやろうとそっと後ろから忍びよってみる。けれど透の肩に手をかけようとした瞬間、見計らったように透は振り向いた。
「何やってるの?」
「なんで気づくの?」
「足音がしたよ」
「そっと歩いてたもん」
「朝からかわいいな」
「朝からうるさいな、もう」
透のからかうような笑顔が癪に触って、私はつんとそっぽを向いた。透の笑い顔は驚くほどあくがなく、私のやましいところ何もかも見透かされているような気分になる。
透と真っ直ぐ向き合うのは少し怖い。悔しくて後ろめたくて、いっそのこと本当のことを全て打ち明けて楽になってしまおうかと思うこともある。けれど、冷蔵庫から卵をふたつ取り出してきた透は驚くほど家庭的で、こんな朝っぱらから深刻ぶって頭を抱えるのはばからしくなってしまうから、もうまいった。
「卵どうする? 目玉焼き、ゆで卵、スクランブル、それともポーチドエッグ?」
「ポーチドエッグできるの?」
「できるよ、好き?」
「うん」
「じゃぁそうしよう」
透は慣れた手つきで器に卵を割り入れ、湯を沸かした鍋に塩をひとつまみと酢を入れる。言葉にするとそれだけのことだけれど、流れるような仕草はまるで魔術師が魔法の薬を調合しているようだ。見ているだけでわくわくした。
少し背伸びをして透の肩越しに手元を覗き込んでみる。
湯が沸騰したら火を弱くして、おたまを鎮めてからそっと卵を落とす。水流でゆらゆらゆれる白身を黄身の上にかぶせるようにしてまとめていく透の骨ばった手。いかにも力の強そうな無骨な手が絶妙な力加減で卵を包み込むように動くのはうっとりするような眺めだ。
夢中になって見つめていたら、つい前のめりになりすぎてバランスを崩してしまった。とっさに透の腰にしがみついたら、透はくすぐったそうに笑った。
「こら、危ないだろ」
「ごめん、もっとよく見たくて」
体重をかけて寄りかかっても透の体はふらつきもしない。試しに、透の肩に顎を乗せて思い切り抱きついてみる。鬱陶しくて邪魔くさいのに違いないだろうに、透は何も言わずに甘えさせてくれた。
鍋の中でふわふわ揺れる卵は、海の中をただようくらげみたいだ。白身が固まったのを見計らって、器にお湯ごと移す。あとは余熱で固めるだけだ。
透はふたつめの卵を鍋の中に落としながら言った。
「もうすぐできるから、座って待ってなよ」
「何か手伝おうか?」
「じゃぁ、味噌汁をよそってくれる?」
「分かった」
とは言ったものの、透の体から離れるのは名残惜しかった。私が背中にぶら下がっていてもびくともしないたくましい体、乾いた肌と洗い立てのシャツの匂い。鍋の中で揺れるもう一匹のくらげがだんだんと白く染まっていくところから目が離せなくなったふりをして、いつまでもこうしてくっついていやろうかと思う。
「なんだか子猿みたいだね」
と、透は笑い混じりに呟いた。
「はぁ? こざる?」
「母猿の背中にしがみついてるでしょ。そっくりだよ」
「なにそれ、ひどい!」
その光景を想像したのだろうか、透は堪え切れなくなったように声を上げて笑った。触れ合ったところから体の震えが伝わってきて、つられて私も笑ってしまう。こんなからかわれ方をして何がおかしいのだか自分でも分からなかったけれど、お腹の底から笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。
けれど少し腹も立ったので、背伸びをして透の耳たぶに歯を立ててやる。が、不意打ちのように振り向いた透に唇を食べられた。
「卵がくずれちゃったよ」
「ひどいこと言ったのそっちでしょ」
「いいから味噌汁よそって。冷めちゃうよ」
「はぁい」
透の隣に場所を移動して、雪平鍋の前に立つ。具はねぎとわかめと豆腐だ。お椀をふたつ取り出して、慎重にひとつずつよそう。透の方を少し多めにしておいた。
私がそうしている間に、透はポーチドエッグとご飯を盛り付けてダイニングテーブルにセッティングしていた。手際が良すぎて目にも止まらない。
「さぁ、食べよう」
透が作ったポーチドエッグは、箸で触れると白身がぷるぷると震える。そっと箸を刺すと、鮮やかなオレンジ色の黄身がとろとろと溢れ出して蠱惑的と言ってもいいくらいだ。
「いただきます」
スプーンですくい取って口に含むと、何とも言えない旨味が口の中いっぱいに広がった。目玉焼きとも半熟のゆで卵とも違うふわふわのやわらかさで、舌が踊るような衝撃だった。この美味しさをどう伝えたらいいか煩悶する私を見て、透は必死に笑いを噛み殺している。
「もう、結婚してください」
思わずばかなことを口走った私を、透は笑い飛ばすでもなく、同じ高さに立って受け止めてくれる。
「はい、いいですよ」
そんなことできるわけがない。
絵に描いた餅、砂上の楼閣、甘い夢物語とはまさにこのことだとよく分かっている。けれど、これくらいの夢も見られなくなったらいよいよ人間として終わりだなとも思うのだ。
終わるときは今じゃない。ならば、おままごとに興じる子どものように今このひと時だけでも夢を見たってばちは当たらないはずだ。
title by OTOGIUNION
20200914