夢本【ストライプ】と同じ設定の夢主です。本を読んでいなくても読めますが、読んでいるとよりお楽しみいただけるかと思います。











 と付き合いはじめてから、あまり物を持たない降谷の部屋に珍しく増えたものがひとつある。陶器のマグカップだ。ふたりで迎える朝に一緒にお茶を飲みたくて、降谷が自ら選んで買った、飾り気のないシンプルな白いマグカップだ。

 君のために用意したんだ、などとはわざわざ言わなかった。に感謝されたくてしたことではない。ふたりきりで過ごす短い時間を良いものにしたい。このマグカップには、降谷のそんなささやかな願いが込められている。

「お茶を淹れたよ」

 両手にひとつずつマグカップを持って居間に入ると、はベランダに面する窓を開けて大きく伸びをしていた。肩が落ちるほど大きなTシャツは降谷のもので、裾からすらりとした素足が伸びている。

 寝癖のついてうねった髪を揺らして振り向いたは、眉毛が半分ない顔でにこりと笑った。

「ありがとう」

 ベッドに背中を預けるようにして、並んで腰を下ろす。ベッドの上では、やっと目を覚ましたハロが大きなあくびをしている。

「早起きしすぎちゃったね」

 が囁くように笑った。

「起こして悪かった」
「いいよ。私もいつもこのくらいに起きてるし」

 は湯気を上げるマグカップにふーっと息を吹きかけて、そっと口をつけた。

 は美しい。顔の造作や、体のスタイルがモデルのように整っているという意味ではない。体は日本人の平均的なサイズだし、これと言った特徴もない。痩せているわけでもなく、太ってもいるわけでもない。

 降谷が思うには、身に着けるものの着こなしで自分の美しさを引き立てることに長けているのだと思う。降谷が普段何気なく使っているシンプルな形の白無地のTシャツも、が身に着ければセクシーなワンピースになってしまう。Tシャツの下には下着しかつけていないようで、薄っすらと黒いレースのブラジャーとショーツが透けていた。

「お茶、美味しい」

 と、がつぶやく。

「良かった」

 と、降谷は答えて、茶を口に含んだ。いつもと同じように入れたお茶も、がそう言ってくれると普段とは違った味わいがするような気がした。

、今度の金曜日の夜は予定ある?」
「特にないけど、何?」

 降谷はの背中に手を伸ばして、ゆるくうねった毛先に触れる。つるつると滑るような触り心地が気持ちよくてしつこく指を絡めていると、はくすぐったそうに肩をすくめた。

「実は、ちょっとしたパーティがあってね。良ければ一緒に行かないか?」
「パーティって、どんな?」
「政治家のAと財閥令嬢Hの結婚披露パーティ」
「それのどこがちょっとしたパーティ?」

 降谷の予想した通り、は驚きに目を丸くした。

 水で顔を洗っただけの素顔は殻をむいたゆで卵のようにつるんとしていて、まるで10代の少女のようだ。降谷と同世代のにこんなことを言ったら、ばかにしていると怒られそうだから口にはしないけれどつい口元が緩んでしまう。

「何がおかしいのよ?」

 と、唇を尖らせるの肩を、髪の毛を絡めた手で撫でながら、降谷は慎重に言葉を選んだ。

「ごめん。ちゃんと説明するよ。もちろん、個人的に招待を受けたわけじゃないんだ。仕事だよ」
「喫茶店のアルバイトに回ってくる仕事とは思えないんだけど」
「今回はバーボンの仕事」
「あぁ、零くんが潜入しているっていうあの」

 はマグカップをテーブルに置いて、目を細める。少女のような愛らしい顔が剣呑な雰囲気を帯び、降谷は唇から笑みを消した。これはどんなごまかしも許さない顔だ。

「本当に招待されたのは、別の男。彼は結婚していて、同伴者の分まで席が用意されてるんだ。にその席に座って欲しい」
「そういうことなら、私よりあのクリス・ヴィンヤード似のお仲間にでも頼んだ方がいいんじゃない?」
「彼女は今回は動けないんだよ」
「それで、仕方がなく私を誘ってるの?」
「仕方がなくだなんて思ってないよ」

 降谷は冷や汗が浮かんでくるのを感じて、口元を引きつらせる。ベルモットの代わりにを当てにするなんて、そんなことは微塵も考えていない。けれど、の誘導尋問に従っていると、無意識のうちにそう思い込んでいたのではないかと思えてきてしまうのはどうしてなんだろう。

 しっかりしろよ、ゼロ。自分自身にそう言い聞かせて、降谷は続けた。

「ただ、仕事とはいえ、こういう機会が巡ってきたんなら、俺の隣にはに座って欲しいと思っただけだよ。迷惑はかけない。約束するよ」
「まぁ、その点は信用するけど……」

 は背を反らせると、そのまま上半身をベッドに倒す。降谷の手が、ベッドカバーとの背中のサンドイッチになる。はそのままの姿勢で天井を仰ぎ見て、考え込むように目を伏せた。

「私は零くんの隣でにこにこ笑ってるだけでいいの?」

 降谷はの顔を真上から覗き込むようにして答えた。

「存分にパーティを楽しんで。都内の一流ホテルが会場だし、料理も部屋も最高だよ」
「泊まれるのね?」
「もちろん、ふたりでね」
「それはちょっとときめくな」

 の腕がするりと伸びてきて、降谷の肩にかかる。太陽が動いたのか、窓から差し込む金色の朝日がの滑らかな肌を彩った。額から小さな鼻の頭に向かって鋭い針のような光がの笑顔を神秘的に輝かせ、降谷は思わずうっとりと見惚れた。

「本当に、何も手伝ったりしなくていいのね?」
「いいよ。強いて言えば、とびきりおしゃれしてきてくれると嬉しい」
「何、それ? どういう意味?」
「みんなに綺麗な彼女を自慢させてよ」
「そんなことしたら目立っちゃうんじゃない? 潜入捜査官さん」
「きっとのおかげで俺の存在がかすむよ」

 は白い歯を見せてからりと笑い、安室の髪をくしゃくしゃに撫で回した。

「そこまで言うなら、仕方ないな。ひと肌脱いであげる」
「ありがとう。楽しみだよ」

 感謝の気持ちを込めて降谷がそっと唇を寄せようとすると、はほんのわずかに身を引いた。背中に回したままの腕でそれを感じて、降谷は首を傾げる。
 は降谷の瞳の奥を見つめている。きょろきょろと左右に動く瞳がどこか不安げだ。

「どうかした?」
「ううん、別に、大したことじゃないの」
「遠慮しないで。何でも言って」
「本当に何でもないの。ただ、変に気を遣わないでね」
「うん?」
「零くんは零くんのすべきことに集中して欲しいっていうこと。私が邪魔になったら、ちゃんとそう言ってね」
「邪魔だなんて思うわけない。だから誘ってるんだよ」
「そう。ならいいの」

 が静かに目を伏せると、キスを待つようにつんと顎を突き出してきた。その遠慮がちな求め方に、降谷のいたずら心がうずく。キスをするふりをして、こっそり指をTシャツの下に滑り込ませると、は「ひゃんっ」と小さな悲鳴を上げ、体を震わせて笑った。

「ちょっと、もう」
「今の声、かわいい。もっと聞かせて」
「やめて、くすぐったい」
「くすぐったいだけ?」

 キスをしない方がおかしな距離で見つめ合ったまま、互いの体に手を滑らせる。感じやすい場所を優しく撫でてやるたび、は笑い合いながらつま先をじたばたさせた。

 いつまでもそんなことをして楽しんでいたら、騒ぎを聞いたハロが元気に吠えながらふたりの間に飛び込んできた。ぐりぐりと頭をねじ込んでくるハロに、降谷とは顔を見合せて大笑いした。



 待ち合わせは、ホテルのロビーラウンジだ。

 入口を入ると、広々としたロビーに揃いのデザインのソファが整然と並べられていた。調度品はウォルナットで統一されていて、しっとりと落ち着いた雰囲気だ。中央にはエレベーター付きの大階段がそびえていて、手すりに精妙な植物の彫り物が施されている。天井は3階までの吹き抜けで、大きなシャンデリアが金色に煌めいていた。結婚式の招待客らしき、美しく着飾った男女がひしめき合っている。彼らが語り合う声が混ざり合い、心地良く楽しげなざわめきになって耳をくすぐった。

 降谷はひと通りロビーを見回すと、空いているソファを見つけて腰を下ろした。はまだ来ていないようだが、今回のターゲットはすぐに見つかった。降谷から見て2時の方向、友人だろうか、数人の仲間達とたむろして笑顔で談笑している男だ。

 ターゲットはとあるゲーム会社の役員で、この結婚式には花嫁の父親の関連会社の代表として出席している。そう難しい仕事ではない。ターゲットの顔や体系の特徴、胸ポケットのチーフの色を覚えて、降谷は慎重に瞬きをした。

 つくづく、ベルモットに声をかけなくて良かったと思う。

 女優の顔を広く知られているし、上流階級の人間が多く列席している場に顔を出すのは憚られるはずだ。かといって、この程度の仕事にわざわざあの変装術を使うほどの労力を使う気になるとも思えないし、ましてやバーボンのパートナー役を演じるなんて親切心があるとも思えない。

 はベルモットの代わりに自分が選ばれたのだと疑ったけれど、降谷にとっては初めから選択肢はひとつしかなかった。誤解は解けたと思いたい。けれど、たった一度のキスで帳消しになったと考えられるほど、は甘くないことも知っている。

 降谷は、の信頼を得るための努力を少しも惜しみたくなかった。

 三つの顔を使い分ける生活、その努力の全てはこの国のためにある。自分から望んで飛び込んだ世界だ。仕事一辺倒の暮らしは性に合っているし、気に入ってもいる。そんな日々の中で手に入れたとの特別な関係は、降谷にとって何よりも尊く、大切なものだった。

 ほんの些細な誤解かもしれない。普通なら無視できてしまうほど、小さな小さな掛け違いなのかもしれない。けれど、降谷との関係においては致命傷となる可能性もある。

 ポアロのアルバイト、バーボンとしての潜入捜査、ゼロの責務、三つの顔を使い分ける不規則な生活。毎日が綱渡りの、命がけの仕事だ。そんな日々ではデートどころか、記念日を祝うこともままならないし、贈り物すらしてやれない。普通の恋人同士なら、互いの気持ちを確かめ合った証に指輪を交換する。けれど降谷とは、どんなに強い思いがあってもそれを形に残すのはとても難しいのだ。

 今夜の任務よりもとの関係に神経を尖らせている自分を、降谷は心の内で自嘲した。

 その時、視界の端がほんのりと明るくなったような気がした。雲間から太陽が顔をのぞかせて光線が地上をさっと掃き清める、あの瞬間のような気配がする。顔を上げると、ロビー中の人間が降谷と同じ方を見ていた。

 ベルボーイにエスコートされた女性がひとり、入口の自動ドアをくぐったところだった。

 降谷は、いわゆる本当に美しい人間に何人か会ったことがある。子供の頃、怪我をした降谷の手当てしてくれた美しい女医、あれは降谷にとっての初恋だった。ここ最近出会った人の中では、毛利名探偵のひとり娘。彼女ほど心の美しい人は他にいないと思う。ベルモットの美しさはある意味で別格だ、あれは外見を売り物にする女優の作為的な美しさだ。

 今、目の前に現れた美しい人は、そのどれとも違っていた。天の岩戸に隠れてしまった天照大神が岩戸から顔を出した瞬間は、もしかするとこんな風だったのかもしれない。もしくは、魔法のドレスとガラスの靴を身にまとったシンデレラが、城の門をくぐった瞬間。彼女自身が太陽のように光り輝くような、オーセンティックな美。

 降谷はソファから立ち上がり、スーツの襟を整える。彼女を迎えるように通路に立つと、が降谷に気づいて完璧な微笑みを浮かべて見せた。

「お待たせしてごめんなさい」
「僕も今来たところだよ」

 が身にまとっているのは、澄み切った青空に浸して生地を染め抜いたようなブルーのカクテルドレスだ。膝下まで隠れる丈で、の肌が美しく際立つ。髪は一度巻いたものを束ねてひとつにまとめていて、顔の周りだけ残したおくれ毛がきらきら光っている。7cmのヒールと耳元に光るヴィンテージのピアスはゴールドでそろえていて、さながら、青空に光る気の早い一番星のようだ。

 降谷が腕を差し出すと、はしなやかに腕を絡めた。ベルボーイが名残惜しそうに目尻を下げながら、降谷に会釈をする。こんなに美しい人をほんの数メートルエスコートできただけでも光栄だと言わんばかりで、降谷はそれが誇らしかった。

 ロビー中にいる人間の衆目を集めながらも、ふたりにしか聞こえない音量で降谷は言う。

「驚いたよ。一体どんな魔法を使ったの?」
「ひと肌脱ぐって言ったでしょ。頑張ったのよ」
「俺のためにありがとう」

 優雅に髪を揺らして降谷を見上げたの肩口から、今まで嗅いだことのないエキゾチックな香りが香った。今夜の装いに合わせて、いつもとは違う香水に変えたようだ。

「あなたのためだけじゃないわ。おめかしするのは、自分のためでもあるの。せっかくこんなに綺麗な場所なんだもの、自分も綺麗にして楽しみたいじゃない」

 そう言って、はいつもとは違う色の唇を弓なりにしならせる。蠱惑的な微笑みを、いたずら好きな少女のような瞳の輝きが彩る。

「分かった。今夜は存分に楽しんで」

 他でもないがそう言うのなら、降谷のできることはひとつだけだ。のために、完璧なエスコートを。降谷はそう胸に誓う。今この場にいる人間の中で間違いなく一番美しい女性と同伴できる喜びに身も心も浴し、大切な任務を忘れてしまわないよう気を引き締めた。



 実際、は心からパーティを楽しみながらも、如才なく振舞ってくれた。

 今夜、ふたりは偽名を使ってパーティに出席している。間違っても「」「零くん」と呼び合うわけにはいかない。

 ふたりが成りすましてるカップルが法的なパートナーシップを結んでいることを逆手に取って、は降谷を「あなた」と呼んだ。降谷もそれに倣ってのことを「家内」と呼ぶと、言い慣れない言葉遣いに唇のあたりがもぞもぞした。子供のおままごとに付き合っているような気分だった。けれど、が相手ならばそれほど悪い気はしなかった。

 降谷はに、必要最低限の情報しか渡していなかった。なりすます人物の簡単なプロフィール、その程度だったのだが、はそれだけの情報で完璧な人物像を作り上げていた。分からないことを質問されれば、自然な言い回しで降谷が回答するように誘導し、結果、夫を立てる控えめな妻というキャラクターを強調しすることに成功した。

 全く、申し分のない振る舞いだった。おかげで降谷の仕事もすこぶる順調に事が運んだ。

 ターゲットがトイレに立ったのを見計らって、降谷もそれを追って席を立つ。ターゲットが用を済ませて手洗いを出るところにわざと肩をぶつける。その拍子に、たまたま手に持っていたスマートフォンが滑り落ちる。丁寧に謝罪しながらそれを拾って渡してやり、一言二言挨拶を交わす。個室に入って人目を避けてから、スマートフォンに機器を差し込む。このスマートフォンはターゲットのものだ。機器は必要な情報を素早くコピーし、降谷はすぐにターゲットを追いかけて声をかけた。

「すいません、先ほどスマートフォンが入れ違ったようなんです」

 ターゲットは礼を言いながらスマートフォンを差し出す。ふたりのそれは全く同じ茶色の革のケースで保護されていて、それは降谷があらかじめ調べて準備していたものだ。

 軽く世間話をして、それぞれのテーブルに戻る。これで任務完了だ。

 席に戻ると、が笑顔で迎えてくれた。



 披露宴がすむと、有志がホテルの上階にあるバーに集まって二次会が開かれた。仕事も済んで肩の小さな荷物を下ろした降谷は、飲み足りないというのためにそちらにも顔を出すことにした。

 披露宴とは違い、こちらは立食式のにぎやかなパーティだった。軽快な音楽が流れ、それに負けじと誰もが声を張り上げている。耳元に唇を寄せなければ声が聞き取れない。

 降谷はの耳元に唇が触れそうになる距離で言った。

「飲み物を取って来るよ。何にする?」

 は降谷の耳に噛みつきそうにしながら答えた。

「あなたと同じものを」
「分かった。待ってて」

 バーカウンターで、スコッチウィスキーをふたつ注文する。混みあっていることもあって、少し時間がかかりそうだ。降谷はカウンターに肘をかけて寄りかかり、の姿を探した。

 今夜のは、やはりとても目立つ。男女を問わず注目を集めていて、個人的な知り合いはいないはずなのにやたらと話しかけられては笑顔で応えていた。

 と、ひとりの男がの隣に立った。胸板の熱い大きな男で、笑顔が大きい。陽気な態度でに話しかけている。やけに距離が近い。

 降谷の腹の底で、熱い炎がぼっと燃え上がった。男を睨みつけてみるけれど、この距離ではどうにもならない。

 やっと出来上がったスコッチを両手に持って、降谷は人波をかき分けながらいそいそとのところへ戻った。

「お待たせ」

 と男の間に体を割り込ませるようにして声を張り上げると、が自然な仕草で降谷の胸に手を添えた。それを見て、男は苦笑いしながらすごすごと引き下がっていった。

「大丈夫だった?」

 ウィスキーグラスを手渡しながら尋ねると、は余裕綽々な顔で首を縦に振った。

「平気よ。ありがとう。スコッチウィスキーね」
「好きだろ」
「えぇ、大好き」

 ふたりで乾杯をして、ゆっくりと酒を味わう。強いスモーキーフレーバーが鼻に抜けていく感覚がたまらない。

「いいものを見せてあげようか?」

 がにやりと笑いながら言った。

「何だい?」
「びっくりするわよ」

 はウィスキーグラスをテーブルに置くと、左手でしっかり握りしめていたハンドバッグを開き、降谷にだけ中身が見えるように開いてみせた。視線だけで覗き込むと、貴重品とスマートフォン、おそらく化粧直しのための道具の入っている小さなポーチやハンカチが見える。一見どこもおかしなところはないように見えたが、降谷はある違和感に気が付いた。

「どうして、スマホがふたつあるのかな?」

 降谷が見事にそれを言い当てたことに感心した表情を浮かべながら、はひとつのスマートフォンを取り出して見せた。黒い手帳型のカバーがかかっていて、ずいぶん使い込んでいるらしく端がぼろぼろだ。明らかにのものではない。

 はカバーを開くと、まるで自分のスマートフォンを操るような慣れた仕草でロックを解除し中身を調べはじめた。

「さっきの男のもの?」
「そうよ。さっき摺ったの」
「ばれたらどうするの?」
「落ちていたのを拾ったのって言うわ」

 話し続けながらも、は指先の動きを止めない。降谷はの手元が人目に映らないよう盾になるつもりで姿勢を正す。

 そもそも、はどうやってスマートフォンのパスワードを解除したのだろう。さすがの降谷にも分からない。けれどそれを聞くのは野暮と言うものだろう。は降谷にはない知識を持っている。ただその事実があるというだけのことだ。

 やがて、さっきの男が視線をきょろきょろさせながらこちらに戻ってきた。は男に声をかけ、スマートフォンを手渡す。男は笑顔で礼を言い、降谷に一瞥をくれてから去っていった。

 が、ウィスキーグラスで口元を隠すようにしながら笑った。

「女が相手だと、大抵の男は警戒心が緩むわね」
「今の男は? 一体どういう人間?」

 降谷の見立てでは、会社経営者の親族で、本来招待された人物の代理で出席した小物、という印象だった。政治家と財閥令嬢の結婚式に出席するくらいなのだから名家の出には違いないが、大きな組織のトップに立つ人間である程度の教養と常識のある人間なら、スマートフォンのカバーひとつも丁寧に扱うものだ。ネクタイの結び方もだらしがなかったし、自分の立場をいい加減に利用してのらりくらりと生きているような男に見えた。

 降谷の見立ては当たった。

「O社の会社取締役の息子で、今はその会社の営業にいる人みたい。将来を見越してのことでしょうけど、ちょっと脇が甘いわね。こんなに簡単にスマホを摺られちゃうんだから」
「成果はあった?」
「まぁまぁってところかな。寂しい報告だけはしないで済みそうよ」

 そう言ったの目が、秘密の企みを予感させるように怪しく光る。

 が降谷と同じ仕事をしていることを、降谷ももちろん知っている。素性を隠してターゲットに取り入り、必要な情報を探り、時には盗み出し、そして静かに去っていく。形跡は決して残さない、情報収集のプロだ。業界の重要人物が集まるパーティは最高の狩場だろう。

 満足そうな顔でいい酒を味わっているを横目で見やって、降谷はの満足を自分のものとして感じるように微笑んだ。



 一時間ほどパーティの雰囲気を味わいながらいくつか仕事をこなして、真夜中近くになってからふたりはやっと部屋に引き上げた。クラシックタイプのダブルルームで、ふたり分の荷物はホテルマンによってすでに運び込まれていた。

 は、「あー、疲れたー」と言いながら、蹴飛ばすように金色のハイヒールを脱ぎ捨て、一瞬で7cmも身長を低くする。流れるような仕草でベッドの縁に腰を下ろすと、ドレスの裾をからげて足を持ち上げ、ふくらはぎをさすりはじめた。

 降谷は投げ捨てられた銃のようなハイヒールを拾い上げてシューズボックスにしまい、ミニバーの扉を開ける。

「お疲れさま。何か飲む?」
「お水がいいな」

 海外産の天然水が見つかったので、取り出して差し出すと、は「ありがとう」とそれを受け取る。キャップをひねって唇を湿らせている間に、降谷はジャケットを脱いでハンガーにかけ、襟に人差し指を差し込んで第一ボタンをはずしながらネクタイを緩めて外す。そして、デスクチェアをキャスターを転がして引っ張ってきての真正面に座り、その足を膝の上に乗せてマッサージを手伝ってやった。

 足首の裏を膝の裏に向かって優しく手を滑らせ、凝った筋肉をほぐしていく。ストッキング越しに触れるの脚はひやりと冷たく、ナイロンのつるりとした触り心地がした。

「ありがとう」

 は心地良さそうに目を細めながら言った。

「お礼を言うのはこっちだよ。今日は付き合ってくれてありがとう」
「いいのよ。私も勝手に仕事させてもらったしね」
「けど、準備するの大変だったんじゃないか?」
「それはどういう意味?」

 のつま先がつんと伸びて、ワイシャツ越しに降谷の腹を蹴った。

「相当な準備をしないと、ここまで仕上げるのは無理だろうとでも思ってるわけ?」
「そんなこと言ってないよ」

 降谷はのつま先を手のひらで包むようにして上向きに反らせ、足首をほぐす。

「ただ、女性の支度は大変だって聞くから。ひと肌脱ぐって言ってくれたけど、必要以上に頑張らせちゃったんじゃないかと思ったんだけだよ」

 は髪に両手を上げ、ヘアピンを一本一本はずし始めた。美しく完璧な形にまとめ上げられた髪から抜き取ったヘアピンを、ベッドシーツの上に丁寧に並べていきながら、は降谷から視線を外さずに答える。

「時間がかかるって言うだけで、大したことじゃないのよ。それに、こういうのは得意だから」
「ふぅん?」
「お化粧って、使い方と効果を理解して正しく実践すれば、誰でも理想の人間になれるものだと、私は思ってるのね。例えば、アジア人が黒人になるのはそりゃ相当な技術と準備期間が必要かもしれないけれど、それと比べれば、パーティの主役になるくらいは簡単よ。もちろん、お化粧だけでなく言葉遣いや立ち居振る舞いも重要よ。どこへ行っても恥ずかしくない程度の知識と技術を得るにはそれなりの努力が必要だし、TPOで使い分ける必要もある。私は昔から、そういう努力をするのが、人よりほんの少し苦じゃなかったの。それだけの話よ」

 話をしている間にも、は着々と髪の中からヘアピンを抜き出していき、言い終わる頃にはシーツの上に十数本のヘアピンが拳銃の弾のように並んでいた。すっかり解けた髪に、空気を含ませるように指を通すと、ウェーブのかかった長い髪が滝のように肩に落ちかかりながら揺れ、その瞬間、ラストノートがふわりと香る。

 この香水すら化粧の効果のひとつであるとするなら、男にとってこんなにタチの悪いものはないなと、降谷は苦笑いをした。

「全部、楽しんでるんだね」
「そうよ。何事も楽しまなきゃ損よ」

 はハンドバッグの中から小さなポーチを取り出すと、その中からさらに小さな、カードケースほどの大きさの入れ物を取り出した。髪から抜き取ったヘアピンを、一本一本、慎重にケースの中に納めていく様はまるで、選りすぐった銃弾を弾倉にひとつずつ装填していく歴戦のスナイパーのようだ。

 あのヘアピンには、何か仕掛けがしてあるのかもしれない。そう思ったけれど、降谷は何も聞かないでおくことにした。

 左右の脚を変えて、マッサージを続ける。

「今日のお礼は何がいい?」
「お礼なんていいよ。収穫もあったし、こんなに素敵な部屋に泊めさせてもらえるし、もう十分」
「俺がしたいんだよ。なんでも言って」

 はヘアピンのケースをポーチにしまうと、まじまじと降谷を見つめて小首を傾げ、美しい黒髪を惜しげもなく揺らしてみせる。すっかり夜も更けたというのに、化粧崩れのひとつもしていないのはどういう仕掛けだろう、降谷はマッサージの手を止めず、見惚れてしまうほど美しいを見つめ返す。

「ねぇ、私言ったよね。変に気を遣わないでって」
「覚えてるよ」
「お礼をしたいっていう零くんの気持ちは、私に対する気遣いではないの?」

 ひと通りのマッサージ終えて、降谷はそっとの脚を毛足の長いカーペットが敷かれた床に下ろした。脚の力を使ってキャスターを転がし、の小さな膝を自分の膝で挟み込む。

 艶めくようなアイシャドウに囲まれた瞳を覗き込みながら、降谷は言う。

「俺は気遣いだとは思ってない。本当に、心から、お礼をしたいと思ってる」

 は小さく微笑みながら頷いた。

「それならいいの。でもね、私は私がしたいと思ったから、今夜ここへ来たの。零くんに頼まれたからっていうのは、きっかけではあるけど動機ではないのね。だから、わざわざお礼をしてもらうようなことだとは思ってない。分かってくれる?」
「うん、分かるよ。でもせめて、俺の気持ちだけは受け取って欲しい。どうしても嫌?」
「嫌っていうか、なんていうか……」

 は言葉を濁して視線を反らし、何をするでもなく無意味に長い髪をいじっている。降谷はの膝頭に手のひらのくぼみを沿わせるように撫でてやりながら、辛抱強く待った。

「零くんは変なことって思うかもしれないけど、」
「思わないよ。何?」
「私と零くんの関係って、普通とは違うじゃない。しょっちゅう一緒にいられるわけじゃないし、お互い、明日どうなるかも分からない。そうならないための努力は最大限にしてるけど、覚悟は必要よね」
「うん、そうだね」
「私は、零くんが大好きよ。だから、私にできる範囲のことならなんでもしてあげたい。でも、それは見返りを求めてすることじゃないの。だから、私が進んでしたことに対して対価を払うみたいなことは考えないでほしいの。これが私の零くんに対する愛情表現だから」
は無欲だね」
「そうでもないよ。新作のコスメはいくらでも欲しいしね」

 がぺろりと舌を出しておどけて見せ、降谷も笑う。けれどすぐに真顔に戻って、降谷は両手での頬を包み込んだ。

「そんなふうに思ってくれて嬉しいよ。けど、俺ものことを同じように、いや、が思っている以上に大事に思ってることも忘れないでほしい。デートもなかなかできないし、記念日も祝ってやれない、こんな俺を好きでいてくれてありがとう。俺はに何もしてやれない。それは心苦しいけど、申し訳ないとは思ってないんだ」
「いいよ。私だって同じだよ」
「そういう普通のことの代わりに何か、に差し出せるものがあるんじゃないかって、ずっと考えてる。まだそれがなんだか分からないけれど、これだけは言わせて」

 降谷はそっと目を閉じると、恭しく敬虔な、祈りのようなキスをした。畏れ多くも女神と違えるほど美しいひとの体に触れることを許された喜びに満ちた、温かなキスだった。

「愛してるよ」

 は幸福に瞳を潤ませながら、降谷の言葉を繰り返す。

「私も愛してる」
「言葉だけでしか表せないのが苦しいよ。普通ならこういう時、綺麗な指輪を贈ったりするんだろうな」

 よほど意外な提案だったのか、は目を剥いて驚き、高い声を上げて笑い出した。

「そんなのいらないよ!」

 降谷は苦笑いをして、の膝頭を叩く。ただの例え話とはいえ、こうもきっぱり拒否されると胸に小さな針を刺されたような気持になる。笑顔だけは崩さないようにして降谷は言った。

「笑うなんて、ひどいな」

 は腹を抱えながら、指先で目尻に浮いた涙を拭う。

「ごめん。だって、びっくりしたんだもの」
「そんなに?」
「零くんって、本当、見かけによらず生真面目よね」

 と、は突然、降谷の胸に飛び込むように抱き着いてきた。まだ笑いが収まらないの胸はひくひくと震えていて、触れたところからそれが伝わってくる。降谷は両腕をの腰に回して強く抱きしめ返した。

「大好きよ」
「俺も大好きだよ」

 しばらく黙って抱き合った後、自分から体を離したは笑顔を残してバスルームに消えた。30分ほど経っただろうか、バスローブ1枚で部屋に戻ってきたは、すっかり化粧を落とし、髪を洗い上げ、すっかり元の素顔に戻っていた。眉毛が半分消えていて、洗い立ての滑らかな肌は子どものようだ。その場にいる人の視線を独り占めするほどの美貌は、シャワーで洗い流してしまったらしい。

 けれど、降谷が大切に思っているは、確実に仕事をこなす女スパイでも、全ての人の目をくらます絶世の美女でもない。

 いくつもの仮面を被って暮らしている降谷に、ありのままの素顔で微笑みかけてくれる人。降谷が心を許せる、ほとんど唯一の存在。

 シャンプーのいい匂いをさせて隣に座ったに、降谷は心から幸せな気持ちで微笑んだ。

「やっぱり、素顔のままのが一番きれいだ」





title by OTOGIUNION


20200621