* 降谷さんがゲロ吐いたりしています。ご注意!







 フルマラソン42.195キロを全力疾走する人間はいない。

 その距離を最後まで走り抜くためには、日々の鍛錬と綿密な計算、知力、体力、精神力、あらゆる力が必要だ。そのどれかひとつが欠けてもゴールにたどり着くことはできない。

 それは降谷の仕事にも言えることで、ただひとつ違うのは、マラソンはゴールまで走り抜けばそれで終わりだが、降谷の仕事には定められた終わりがないことだ。

 いつ何が起きてもいいよう100%のコンディションを保つことが何よりも重要で、病気や過労など言語道断、ほんの少しの息切れすら許されない。どんなに小さな気のゆるみも、敵に気づかれれば命取りになりかねない。

降谷の生きている世界はそういう世界だ。

 それを重々分かっていながら、降谷は今、非常階段の手すりに両手をかけながらぜえぜえと荒い呼吸を繰り返している。汗が鼻の頭と顎の先からしたたり落ち、手袋をしたままの手で乱暴に拭う。深呼吸を何度も繰り返していくらか落ち着いてから、手すりから身を乗り出してみると、アスファルトの上で男がひとり、弱った虫のように両手両足をじたばたさせてもがいていた。

 3階の高さからアスファルトの上に落ちてよく生きていられるものだと感心しながら、降谷は男から目を逸らさずに階段を下りた。

 男の脈と呼吸を確かめてから、両腕を背中に回して縛り上げ、階段の下の目立たない場所に隠す。スマートフォンを取り出して、履歴から風見を呼び出す。3回のコールがやたらと長く感じられたのは、どじを踏んだ自分に対するいらだちが行き場もなく胸の中でくすぶっているからだ。それを理解しているだけ自分はまだまともだと言い聞かせる。

『はい』
「風見。不審者を確保した。悪いが引き取りに来てくれ」
『不審者? またストーカーですか?』
「そうじゃない。詳しくは改めて連絡する。頼んだぞ」
『えぇ? ちょっと、降谷さ……』

 風見が言い終わる前に乱暴に電話を切ると、足元がふらついた。ビルの壁にもたれてやり過ごそうとするものの、内臓が震えてその場で嘔吐してしまう。胃液で焼け付いた喉がひりひりと痛んで咳き込む。

「……俺としたことが、無様だな」

 そう呟いて、降谷は胃液で焼けた口元を拭いながら自嘲した。

 このオフィスビルに侵入したのは、ゼロが求める情報がここのサーバーコンピューターにあるという情報を得たからで、それを探し出すことには何の苦労もなかった。いつもどおり人目を盗んでビルに侵入し、誰にも気づかれずに情報を盗み出すことに成功した。

 そこまではよかった。
 想定外だったのは、その情報を求める人間が降谷以外にもいたことだった。

 同じ情報を求めた人間同士が鉢合わせれば、争いになることは必至。それくらいの覚悟は常にあるし、こういう時にこそ日々の鍛錬の成果が試される。激しい争いになった。明日の朝一番に出勤してきた社員はきっと度肝を抜くことだろう。竜巻が通り過ぎたか、巨大な猛獣が暴れたかと思うかもしれない。

 諜報員は常に冷静に任務に臨まなければいけない。ゴールの見えないマラソンを走るように、常に一定のコンディションを保って決して息切れしてはならない。ささいなことで心を乱してはならない。ましてや考え事をしていたせいで判断が遅れたなど、これ以上ないほどひどい言い訳だ。

 降谷は腕時計を見やると、眉間に皺を寄せて嘆息した。大遅刻だ。ふらつく足に鞭を打って、降谷はなんとか現場を後にした。



 待ち合わせの時間を30分も過ぎていたのに、はまだそこで待っていてくれた。降谷の姿を見つけるなり目の色を変えたを見て、降谷は自分がどんなにひどい顔をしているかを察する。こんなみっとみない姿をの前にさらすのは気が引けたけれど、約束をすっぽかして不信を買うよりはずっとましだ。世界中全ての人を欺いても、にだけはありのままの自分で向き合っていたかった。

「お待たせ。遅くなってごめん」

 と、降谷は金色の目立つ髪を隠すためのキャップを外しながら、かすれる声で言った。脂汗をかいて額に張り付いた前髪が邪魔で、指を通しながらかき上げる。

「別にいいよ。何かあったの?」

 はあえて何も聞かず、笑顔を浮かべて迎えてくれた。

「仕事に少し手こずってね」
「そう。疲れてるみたいだから、タクシーで行こうか?」
「そうしよう」

 は降谷の手を取ると、人ごみをかき分けて歩き出した。タクシーは運よくすぐに捕まった。は降谷を先に車に押し込み、尾行がないことを慎重に確認してから降谷の後に続く。

 タクシーのドアが閉じた瞬間、車体が揺れたはずみに吐き気が蘇ってきて、思わずの肩にもたれた降谷を、は優しく抱きとめて膝の上に寝かせてくれた。

「大丈夫ですか?」

 と、運転手が不快感もあらわに言う。車内で嘔吐されることを心配しているのだと分かる言い方だ。

「えぇ、すいません。ちょっと飲みすぎちゃって。エチケット袋持ってますから」

 が努めて明るく答える。運転手が厭味ったらしくため息を吐いた気配がしたが、はそれに構わずに行き先の住所を告げて車を発進させた。

 の膝は温かくて柔らかくて、スカートの裾にふりかけた香水の匂いが降谷の体を包んだ。すっかりかぎ慣れたの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、体が芯から緩んでいくのが分かる。

 の手は忙しなく動いて降谷の体を気遣った。額を撫でて熱を測り、腕時計で時間を計りながら脈を取り、見える場所に怪我がないかを確かめる。服についた吐瀉物に気づいたようで、エチケット袋を降谷の手に持たせ、背中を撫でてくれた。

 急ブレーキを踏んだタクシーが激しく揺れて、その瞬間、降谷は再び嘔吐した。胃の中が空っぽだったのでほとんど胃液しか出ず、口の中が酸で焼けてひりひり痛んだ。
 運転手がいかにも不快そうな態度で窓を開ける。ひんやりとした夜風が車内に入り込んできて、少しだけ気分が楽になった。降谷は運転が下手で態度の悪い運転手に、その点だけは心から感謝して、ほんの少しの間だけ意識を手放した。



 タクシーはの住むマンションの前で停まった。降谷はの手を借りて車を降り、エレベーターに乗り、の部屋のベッドルームまでなんとかたどり着くと、そこで力尽きてベッドに倒れ込んでしまった。

 は降谷の顔をのぞき込み、頬を両手で挟み込むようにしながら問いかけた。

「何か盛られた? そうならちゃんと言って」
「違うよ。ちょっと打ち所が悪かっただけだ。休めばよくなる」
「どこ?」
「わき腹と右膝」

 は降谷の服の裾をたくし上げ、赤紫色の痣に眉をしかめる。闇に紛れるための黒いタートルネックを頭の上まで引っ張りあげ、ベルトを外し、ズボンの裾をぐいと引っ張って脱がしてしまう。下着一枚にさせられて、降谷はもう力なく笑うことしかできなかった。

はえっちだな」
「ばか言って」

 それからは、氷をたらいに山ほど持ってきて、それをビニール袋に詰めてタオルで巻き、腫れた患部にあてがった。膝の下にはクッションを入れて心臓よりも高い位置に固定し、氷嚢が動かないように位置を調整する。腹の痣には降谷に自分で氷嚢を持たせた。

 患部に触れて様子を見ながら、は言った。

「骨は折れてないと思うけど、内出血がひどい。嘔吐してるし、内臓に傷がついてるかも。めまいはしない?」
「大丈夫」
「少しでも体調が変わったらすぐに言ってね。救急車呼ぶから」
「大袈裟だな、これくらい平気だよ」
「あのね」

 は降谷の顔の横に手をつくと、真上から降谷を睨み下ろした。

「私の前で強がらないで」
「ごめん、そんなつもりじゃないよ。自分の体のことは自分でよく分かってる。そういう訓練を受けてるんだ」
「本当に? 私に心配かけないようにやせ我慢してるんじゃない?」
「もしそうならパン一にされる前にどうにかしてるよ」

 はまだ何か言いたそうだったけれど、仕方がなさそうにため息を吐いてベッドに倒れ込んできた。猫のように体を丸めて寄り添ってきたので、降谷はその肩に腕を回してやった。

「大丈夫? 体、辛くない?」

 のささやきが降谷の裸の胸をくすぐる。肩に押し付けられたの頬の柔らかさ、シルクのような光沢を放つネイルに彩られた指先が愛おしそうに降谷の鎖骨を撫でている。肌と肌が触れ合っているところから温かいエネルギーが流れ込んでくるようで、辛いどころかむしろ心地よかった。

「こうしてくれたほうが早く良くなる気がする」

 降谷はの額に唇を押し付けるようにして答えた。

「何があったの?」
「大したことじゃない。ちょっとやり合ってしまって、受け身を取り損ねただけ」
「零くんがこんなに風になるなんて、よっぽど手強かったんだね」
「それもあるけど、俺にも落ち度があった。気を緩めすぎたよ」
「らしくないね。やっぱり何かあったんじゃない?」
「だって、待ち合わせの時間に遅れたくなかったんだよ」
「え、もしかして私のため?」
「結局遅れちゃったから、元も子もないけど」
「ちょっと待って」

 は肘をついて上体を起こすと、降谷の頬に掴みかかった。

「仕事中に私のことなんか考えてたの?」
「そんなに驚くこと?」
「そりゃそうでしょ。やっぱり私のせいじゃない」
「違うよ。意識散漫になっていた俺が悪いんだ。絶対にのせいじゃない」

 物も言えないのか、は金魚のように開いた口をぱくぱくさせる。結局言葉が見つからなかったらしく、すごすごと降谷の腕の中に戻ってきた。

「心配かけてごめん」

 と、降谷は心から謝った。

 は降谷の胸に鼻先を押し付けるようにすがりついてくる。まるで子どもが母の胸に顔をうずめて甘えるような仕草で、そのかわいらしさに降谷は胸を詰まらせた。

「無事だったんだからもういい。でもね、私は零くんの弱点になりたくないよ」

 降谷は氷嚢が腹の上から滑り落ちるのも構わず、両手で強くを抱きしめる。

 降谷の生きる世界は厳しい。ほんの少しの甘えや気のゆるみも許されない。常に100%のコンディションを維持しながら、終わりの見えないマラソンを走り続けなければならない。

 それはどこまでも孤独な戦いだ。
 けれど、がいてくれるなら。

 バーボンでもなく、安室透でもない、素顔の降谷零というひとりの男に寄り添い、慰め、支えてくれるがそばにいてくれるのならきっとやっていける。

 マラソンランナーは、一番苦しいされる30キロ付近の風景をリラックスと条件付け、ラストスパートへの集中力を高める。降谷にとってのはそんな存在だ。

 の声、香り、黒目がちな瞳の輝き、多少のことでは物怖じしないたくましさと、降谷の怪我を瞬時に見抜いて的確な処置を施してくれた観察眼と聡明さ。肌を触れ合わせるだけで体の芯がほどけるように心地良くて、この手を離してなるものかと強い決意が腹の底から湧き上がってきた。

は俺の弱点なんかじゃない」
「じゃぁ何?」

 降谷はの肩から落ちかかる長い髪を指でひと束すくい取ると、女王に忠誠を誓う騎士になったようなつもりでキスをした。の髪は一日を経てカールが潰れていて、皮脂や埃で汚れている感触がする。けれど、ついさっき嘔吐したばかりの降谷の唇に平気でキスをしてくれると比べれば何でもなかった。

「愛してるよ」
「それ、答えになってないよ」

 肩を揺らしながら笑うを、降谷は何も言わずに抱きしめる。

 降谷にとってがどんな存在であるかを表すには、世界中のどんな美しい言葉をかき集めても足りなかった。





title by OTOGIUNION


20190908