ロマンス・パレード
「
。今日、烏野まで来られねぇ?」
電話越しの嶋田くんの声は、うきうきと弾むように明るくて、私の心はずんと重く沈んだ。影は太陽の光が強ければ強いほどその濃さを増す。あぁ、もう。そんなに楽しそうにきらきらした声を聞かせないで欲しい。今の私には眩しすぎて、もういっそ消し炭になりそうだ。
「……何で?」
「烏野バレー部と、町内会のチームとで練習試合やんだよ。見にこいよ」
「えぇ。どーしようかな」
「お前、町内会の練習日にもさっぱり顔ださねぇじゃねぇかよ。幽霊部員でも別にいいけどさ、たまの休日くらい差し入れでも持って来いって」
「……私をパシリに使おうって腹なのね?」
「まぁまぁ、堅いことは気にしないでさ。来るの? 来ないの? どっちか今すぐ決めろ」
受話器を耳に押し当てたまま、のっそりとベッドから起き上がる。手を伸ばしてカーテンを開けると、太陽がずいぶんと高いところから燦々と眩しい日差しを浴びせてきた。おでこにかかる長い髪を払って、しょぼしょぼする目を擦る。あくびは出なかった。もう寝るだけ寝尽くしたということだろう。なら、行ってみるかという気になった。
「分かった。行く。何時になるか分かんないけど」
「大丈夫! 多分、練習は1日中やってっから!」
「1日中って、嶋田くん、そんな体力あんの?いつからそんな真面目キャラになっちゃったの?」
「ばか、俺じゃねぇよ。高校生だよ、高校生!」
高校生って、何よ。別に今の烏野高校に知り合いもいないんだけど、と言い返しそうになったけれど、面倒臭くなってやめた。行けば分かることだし、飽きたら途中で抜けてくればいいんだし。じゃぁまた後で、と告げて電話を切る。
明るい日差し。だんだん目が慣れてきた。体もあんまりだるくないし、むしろここ最近では一番調子がいい気がするし、程よくお腹も空いている。
よし、と一声気合を入れて、ベッドから降りる。ちょっと足元がふらついたけれど、大丈夫。寝巻き用のショートパンツから伸びる脚が以前より細くなってしまっていて気持ち悪かったけれど、ダイエットに成功したと思うことにした。ご飯を食べて、シャワーを浴びよう。久しぶりに髪を整えて化粧をして、外に出よう。
過労で倒れて以来、初めてのお出かけ。ちょっとお散歩するにはいい距離だし、烏野高校。久しぶりに昔の仲間の顔を見たら、きっともっと気分がよくなるだろう。
そうして、
は家を出た。髪はスプレーをして軽くまとめただけで、化粧もポイントメイクだけだったけれど、すっぴんで日がな 1日ベッドでごろごろしていただけの日々が長かったから、それだけで背筋がしゃんとした。手持ちのジーンズのサイズがすっかり合わなくなっていて、ウエストがぶかぶかだったからベルトで無理やり締める。ボーイフレンドデニムみたいだなと思う。全然趣味じゃないんだけど。
差し入れを持って来いというから、学生時代に毎日目の前を通り過ぎていた八百屋さんで、大玉のすいかをひとつ買った。想像以上に重くてひとりで持ち上げられなくて、見かねた八百屋のおじさんが後から学校に届けてくれることになった。高校生の時にはこんなことできなかったなと思うと、高校を卒業してからの年月と自分の年齢を思って切なくなった。
時は無情に流れていく。もう、本当に、悲しいくらい。
高校生のときは、大人になったらもっと、いろんなことができるようになるんだって思ってた。でも、ただ歳だけとって大人になってみたところで、現実の自分は想像していたよりずっと子どもで、あの頃と比べてもこれっぽっちも成長していないように思えて。イメージしていた大人らしい大人と、実際はまだまだ子どもっぽい自分、その落差がうまく埋められなくてときどき息苦しくなる。
制服を着て毎日学校に通っていた道を、ゆるいジーンズを履いて歩くくたびれた顔をした今の自分。あの頃の私が今の私を見たら、みっともないと言って笑うだろうか。
「こぉらぁ!! 気ぃ抜いてんじゃねぇぞ!! 舐めてんのかおらぁ!!」
体育館に入るなり、繋心の怒鳴り声に横っ面を引っ叩かれたような気がした。そういえば、春から烏野バレー部のコーチをしているって嶋田君が言ってたっけ。
「おぉ、
。やっときたな」
「あ、嶋田君」
「体、平気?」
「まぁぼちぼちね。差し入れ、もう少ししたら届くと思うよ」
「何?」
「すいか」
体育館では、ちょうどゲームの真っ最中だった。右のコートに高校生、左のコートに町内会のメンバーと高校生が何人か混ざった混合チーム。体育館の隅には汗を拭きながらドリンクを傾ける町内会チームのメンバーが各々腰を下ろしている。滝ノ上が
に気づいて微笑みながら片手を上げた。
繋心は高校生たちに檄を飛ばしていて、
がやってきたことにはまるで気づいていないようだった。
「コーチ、引き受けたって本当だったんだ」
「あ、烏養のこと?」
嶋田君は笑った。
「俺も最初聞いたときは驚いたよ。けど、結構板についてんでしょ?」
「まぁ、確かに違和感はないけど。やっぱ顔が烏養監督そっくりだからそう見えんのかな?」
「ははっ。それはあるかもな」
繋心は、本当に遠慮なしに、高校生を怒鳴りつけていた。「脚止まってんぞごらぁ!」とか、「今の拾えただろうが!サボってんじゃねぇぞぉ!!」とか、まるで烏養監督が憑依してでもいるんじゃないかと思えるくらいだ。
が高校生の頃、烏養監督といえばその名前を聞くだけで体が震えるほど、鬼監督として有名だった。凶暴なカラスを飼っていると、他校でも有名だったらしい。その孫息子であるところの繋心もその教えを受けた身だから、烏養監督の持つ怖さや厳しさを受け継いでいるのだろう。
そんな繋心が、ちょっとだけかわいく見えるのが不思議だった。
は繋心が烏養監督にけちょんけちょんになるまでしごかれて、ぼろぼろにくたびれるまで練習していた姿を知っている。あの頃はあんなだったくせに、今はもう、子ども達を立派に指導する立派な大人になったの。成長したんだね、繋心。
1セットが終了して、インターバルを挟む間、繋心はやっとそこに
がいることに気がついた。
「なんだ、お前。来てたのか」
「嶋田君に誘われたの。もうすぐ差し入れ届くよ」
「まじで? 何?」
「すいか」
「おぉ、サンキュ。俺今年すいか初だ」
繋心はオレンジ色のボトルからスポーツドリンクを飲み、タオルで乱暴に汗を拭う。派手な赤いTシャツが、根元が少し黒くなった金髪によく映えて綺麗だった。
「そういや、お前。体壊したとか聞いたけど大丈夫なのか?」
「あぁ、まぁね。ちょっと働きすぎたみたい」
「そんなんなるまで根詰めんなよな。ったく」
高校生に向かって怒鳴るほどではなかったけれど、繋心は呆れたような声をして
を叱った。
その声は乱暴というのではなく、投げやりというのでもなく、繋心の性格をよく表して粗野ではあったけれど、ぬるま湯のように
の胸に沁みた。体を壊したあと、ちょっとゆっくりしようと友達と一緒に秋保温泉に日帰り旅行をした時のことを思い出した。よく晴れた春の日和に、足を湯につけながら見上げた青空。
「それにしても、お前痩せたな。一瞬誰だか分かんなかったわ」
「それについては、ダイエットに成功したと思うことにしてる」
「仕事は? そろそろ復帰すんの?」
「いや、もう辞めた」
「辞めた? まじで?」
「そんな驚くことないでしょ」
「いや、だってまさか辞めるとは思わねぇだろ」
「だってもうきつかったんだもん。お医者さんにもきっぱり過労だ、当分休めって言われてさ、かといってただ私が休職すればいいって話でもないし」
「そういうもんなの?」
「端的に言うと、休職だと新しい人雇えないんだよ。でも私が辞めれば、そのぶん人員補充できるし、職場のためにもその方がいいんじゃないかって。それに、私にできることはもうやった気がするし、この歳になるとあんな働き方じゃ体がついていかないし……」
は、はたと気づいて口をつぐんだ。どうして繋心にこんなことを話しているのだろう。
「ごめん、喋りすぎた」
「いや、別にいいけど」
「……なんか、手伝うことあったらするけど」
「あぁ、じゃ得点付けやってくれっか? マネージャーが休みなしでやってっから変わってやって」
「うん」
女子マネージャーふたりに挨拶をして、得点付けをしながらいろんな話をした。今の烏野高校バレー部の様子、メンバー一人ひとりのプロフィールやポジション、得意なプレー、性格、インターハイ予選の結果や、他校のライバルチームのこと。高校を卒業してずいぶん時間が経ってしまったけれど、学校名が大きく変わったわけでもなかったので、昔からよく知っている高校の今の状況を知るだけでも楽しかった。
でも、それ以上に興味深かったのは、10代の女子高生という生き物の目を剥くほどの美しさだった。肌は白く、鞣した革のようにつやつやとしていて、奥の方から光り輝いているようにすら見える。
自分にもこんな時代があったとは、まるで信じられなかった。今の私は、過労で身も心もズタズタで、目の下にくまが浮いているし、肌はくすんでいるし、いつの間にか増えたほくろは、むしろシミと呼んだ方がいいのか自分でも判断がつきかねる。
もはや、うらやましいとすら思わなかった。ただただ、年の離れたふたりの後輩が眩しかった。
大人になるって、ひょっとしてこういうことなのかもしれない。成長を止めた体と、子どもの頃からいつまでも変わらない心がちぐはぐとかみ合わなくて、そこにどうにか折り合いをつけていくこと。それをせずに、子どもの頃のまま何にも変わっていない心で、年を重ねた自分の体を見て見ぬふりして突っ走って無茶をしたら、そりゃ、体も壊すよね。
八百屋さんが届けてくれたすいかをみんなで食べて、それから本当に夏の長い日が暮れるまで練習をして、さすがに疲れきった大人たちは高校生よりも先に体育館を後にすることになった。滝ノ上が行きつけの居酒屋「おすわり」に電話をしていた。たぶん、今日の練習に参加しなかったメンツもそこには顔を出すだろう。
田舎の夜道は街頭も少なくて、各々スマートフォンを片手に歩く。月明かりに似た丸く黄色い街頭と、ひとの手の中で揺れる液晶の光が暗い夜道に続いている。数人で固まりながら、適度な間隔を空けてマイペースに歩いているものだから、間延びしたように長い行列ができていた。
その列の最後尾、ことさらゆっくりと歩いていた
は、烏野高校から商店街へ向かう緩い下り坂の上からそれを見下ろして、まるでパレードのようだなと思った。
真っ暗な田舎道、車もほとんど通らない、どこにも観客のいないパレード。
「疲れたか?」
隣を歩く繋心が、煙草に火を点けながら言った。
「まぁ、ちょっとね。でも大丈夫」
「あんま無理すんなよ」
繋心はあくまでぶっきらぼうにそう言ったけれど、その声に確かな温かみを感じて、
は知らず知らずのうちに微笑む。それを見て、繋心は鼻白んだ。
「どうも、心配おかけしましてすいませんねぇ」
「なんだよそれ」
「繋心は見かけによらず優しいよね」
「だから、何なんだよ、気持ち悪ぃな」
「なんでもないよ」
繋心は面白くなさそうに舌打ちをする。そんなことされても、全然迫力もなかったし怖くもなかった。自分の言動にやきもきしている繋心を見ているのは楽しかったし、たった一言に顔色を変える繋心が可愛かった。
自分を心配して叱ってくれる人がいるということは、とても幸せなことだ。
繋心がどう思っているにせよ、
は繋心に叱ってもらえる自分はまだ見込みがあるような気がしたし、繋心の視野に入るチャンスも全くないわけではないようにも思えた。
過労で倒れて不健康に痩せたんじゃなくて、ダイエットに成功した。
いつまでも大人になり切れなくてみっともないんじゃなくて、大人になるということに今気が付いただけ。
高校生の時にはまったく眼中になかった繋心を好きになりかけているのも、自分が成長して大人になったから。
大人になるって、たぶんそんなに悪いことじゃないね。
「ねぇ、繋心。何か手伝えることあったら言ってね」
「手伝いって、コーチのことか?」
「そう。仕事辞めたから暇だしさ」
「んなこといって、体大丈夫なのかよ?」
「それはさ、1回倒れて自分の限界は分かったし、まぁ、次の仕事見つけるまでのリハビリっていうか。1日中、家にいても体なまるだけだし」
繋心は煙草の煙を吐き出しながら
を睨んだ。目つきはきついけれど、その視線には明らかに心配の色が見えて、
はそれが嬉しかった。
「じゃぁ、なんかあったら声かけるわ」
「ありがとう。私、頑張ろうと思うと突っ走っちゃうから、その時は叱ってね」
「おれは部の奴ら見てなきゃなんねーから忙しいんだよ」
「あっそう。じゃあ自分で気を付けます」
とか言って、繋心のことだからきっと、陰でこっそり見守っていてくれるだろうという確信が、
にはあった。
20161021
烏養繋心役、田中一成さんのご冥福を心よりお祈りすると共に、烏養繋心に声という命を吹き込んでくださったことに心からの感謝を捧げます。