
ゼロ-スウィート
一度も日焼けしたことのない真っ白な素足に、赤い斑点がぽつぽつと踊っている。
蚊に刺されるなんて一体何年ぶりだろうと、いっそ関心さえしながら、
はウナクールを肌に滑らせた。
夏の気の長い夕暮れがようやくはじまりかけてて、まだ日差しはじりじりと焦げ付くようだけれど、ふいに山の方から降りてくる風はどきりとするほどひんやりしている。テレビニュースは東京より西側の猛暑ばかりを伝えているけれど、宮城にはもうすでに秋の気配が忍び寄ってきている。家の周りを雑木林に囲まれた烏養家はまだ蝉の鳴き声がやかましいけれど、縁側に吊るされた風鈴が魔法の音色を響かせて、暑さというものをどこか遠くに追いやってしまったようだ。縁側に置かれた豚の蚊取り線香、打ち水をして湿った土が気持ちいい。
「おぉ、大丈夫か?」
声をかけてきたのは繋心だ。縁側から両足を外に放り出していた
が振り返ると、繋心は右手に枝豆の塩茹でがどっさり盛られたザルと、左手に汗をかいた缶ビールを持っていた。
「いいの? こんな時間から飲んで」
「朝から畑に出ずっぱりだったんだからいいだろ。これくらい」
繋心は縁側にどかりと腰を下ろすと、缶ビールを一本、
に手渡した。
はジーンズの裾をたくし上げたままの足を縁側に乗せてあぐらをかき、いい音をさせてプルタブを引く。そして、どちらからともなく乾杯した。
「あー! うまい!」
「骨身にしみるわ」
「悪かったな、急に借り出して」
「いいよー、他にやることもなかったし」
は自分が畑から収穫したばかりの枝豆をつまんで口に放り込むと、目を細めてその味をかみしめた。採りたての枝豆は甘みが強くて、シンプルに塩茹でしただけでもその甘みが十分に引き立つ。スーパーで買った枝豆とは次元の違ううまさだった。
繋心は、そんな
を満足そうに眺めていた。
「
ちゃん。今日、お夕飯も食べていくでしょ?」
台所から大声で問われ、
は身を乗り出した。食事の支度をしていたらしい繋心の母が、まな板に包丁を打ちつけながら話しかけてきたようだった。
「そこまでお世話になっちゃ悪いですよー」
「なぁに、お世話なんてそんなこと気にする間柄じゃないでしょー! いいから食べてって食べてって!」
が横目で繋心を見ると、繋心は小さく目配せをした。「好きにすれば」と言われたような気がしたので、
はそうすることにした。
「じゃ、お言葉に甘えて。手伝えることあったら呼んでくださいね、お義母さん」
繋心の母は、顔中を花のように綻ばせて笑った。繋心は、素知らぬふりをして庭の真ん中に張られたままのバレーのネットを見つめていた。
こんなにも辛いことが世の中にあるなんて知らなかった。こんなことがあったのにまだ息をしていることが不思議だったし、夜眠れば目覚めると朝になることが不思議だった。どうして世界は何食わぬ顔をしていて、空が落ちて海が立ち上がり山が崩れて世界が終わらないのか不思議だった。何も食べる気がしないのにお腹が空くのが不思議で、こんなに悲しくて辛いのに涙が出ないのかが不思議だった。
不思議なことだらけだった。どうして昨日まで毎朝起きて仕事に行って夜遅くに帰ってきてご飯を食べて寝て、そんな普通のことができていたんだろう。こんなことになるって分かっていたら絶対にそんなことしなかった。本当に大切にしなければならないものを一番に大事にしたかった。守るべきものを守りたかったし、大好きな人に大好きと言いたかった。そばにいたかった。今となってはどれだけ後悔しても後の祭りだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。誰も何も、悪いことはしていなかったのに。
「俺んとこ、来るか?」
深く深く傷ついて身動きも取れずにいた
にそういったのは、
が落ち込むたびに手を差し伸べてくれるただひとりの人だった。
まったく物好きな人だな、と
は思った。繋心は、いつまでこんな不毛な優しさを振りかざす気なんだろうと思った。今まで何度も繋心を頼っては離れ、頼っては離れを繰り返してきた
に対して、どうしてこんなにも手放しの愛情を向けられるのだろう。傷ついてぼろぼろになった
の心と頭はほとんど正常に働いていなかったけれど、直感のようなものが
の耳元で囁いた。
繋心が
に向ける愛情は、
のよく知る愛情とは種類の違うものなのだ。
彼氏の前では綺麗でいたい。とびきりの笑顔で笑っていたい。ベージュのセクシーなストッキングを履いて、高いヒールを履いて髪を完璧にカールして、従順で可愛げのある、ちょっぴり間の抜けた可愛い女の子でいること。それが
の愛情だった。
履き慣れたジーンズにスニーカー、動きやすいTシャツに、洗いざらしの髪を一本の縛っただけの髪、もちろんノーメークで、せっかくの日焼け止めも功を為さずほんのりと日焼けした腕と首筋、虫刺されの薬の鼻をつく臭い。そんなものすべて引っくるめて受け止めることが、繋心の愛情だった。
溝はあったと思う。それを飛び越えるのには並大抵の勇気があっても、なかなかできることではなかった。
けれど、誰かに愛情を注ぐことに疲れて、崩れたメイク、伝染したストッキングを脱いで健康サンダルを突っ掛けて、身も心もぼろぼろ、愛も枯れ果てゼロになった
の前に差し出された繋心の手は、これ以上ないほど甘く優しい蜜だった。
「いいの?」
「いいよ」
「じゃぁ、行く」
何にも着飾らない、ほとんど裸同然の
を、繋心は当たり前のように愛してくれた。繋心のそれは多少分かりにくい側面もあって、友人や家族をやきもきさせもしたけれど、
にとってそれは問題にはならなかった。
世界は相変わらず何食わぬ顔をして、たんたんと回り続けていて、気がつけば季節は巡っている。
どうやら、そういうものらしい。
田舎の夜道は街灯もまばらで、繋心は片手に懐中電灯を持っている。たまに、その光に虫がたかってきてちょっと鬱陶しいけれど、気になるというほどではなく、夏の湿った空気がひやりと肌を撫ぜるのを心地よく感じながら、
と繋心は人気のない道を並んで歩いていた。
いくら田舎とはいえ、若い女の一人歩きは危ないからと、繋心が
の護衛に任命されたのだった。車を使えば10分の距離だったけれど、ふたりとも酒を飲んでいたし、たった10分だけではふたりきりの時間を満足に堪能できないから、
は嬉しかった。
「ずっと、女の子が欲しかったんだとさ」
繋心が言った。
「それお義母さんに言われたの?」
「一人息子に言うことじゃねーだろって思うだろ? ひでー親だよな。言われたのがきん時だけど、すげー傷ついたの覚えてる」
「だから早く結婚して欲しかったんだ。繋心、若い時からせっつかれてたもんね」
「人の気も知らねーで、いい迷惑だってんだよ」
「でも、あんなに喜んでもらえて私は嬉しかったよ。想像してたイメージと全然違ったもん。お姑さんって、もっと厳しくて怖いのかと思ってたから」
「厳しくて怖いのはもうひとりいっからな」
繋心は、烏養家の最も厳しくて怖い祖父とそっくりに顔をしかめて見せた。
は笑った。
「本当、そっくりだよねー」
「似てねーよ。あんな偏屈で頑固なじじぃと一緒にすんな」
「あははっ。喋り方もそっくり」
「だから似てねーって」
は夏の夜に溶けるような笑い声をあげて、繋心の鼓膜を優しく震わせた。
の履いたスニーカーと繋心の健康サンダルが並んでぺたぺたと音を立てる。夏の終わりの夜は他に音がしない。それだけのことがとても心地良くて、この夜道がどこまでも続けばいいのにと、子どものようなことを
は思う。空を見上げると、夏の大三角形が夜空に輝いて、ほんのりと天の川も見えるようだった。
繋心が懐中電灯を持つ左手の指の、自分とお揃いの指輪が光っているのを盗み見て、
はこっそり微笑んだ。そのプラチナリングは、地上に光る
だけの星だった。
「何笑ってんだよ?」
繋心が首をかしげる。
は繋心の腕に自分の腕をそっと絡ませた。
「ううん、別になんでも」
「なんだよ。気持ち悪ぃな」
「気持ち悪いってなによ」
「あんまひっつくなよ。歩きにくいだろ」
「そんなに言うほどじゃないでしょ」
繋心はぶつくさと文句を言いながらも、
の手を振り払うでもなくされるがままにされていた。
20160901
幸せはゼロになること。
title by alkalism