
コスモ-キューブ
中途半端に伸びた金髪をヘアバンドで留めて、両耳にピアス、くたびれたTシャツとスウェット、健康サンダル、店名が刺繍された使い古しのエプロン。よく知った間柄でなければ、こんな男とは道ですれ違ってもまず目を合わせもしないだろうな。
は坂ノ下商店の戸口に立ち、カウンターで年甲斐もなく週刊少年ジャンプを熟読している烏養繋心を睨んだ。
「店番って、随分優雅な仕事なのね」
烏養は麦わら帽子の海賊が弾けんばかりの笑顔を浮かべている向こうから対照的な仏頂面を覗かせると、口をへの字に曲げて煙草の煙を口から鼻から耳から吐き出した。
「るせ。用もねぇのに来るんじゃねぇよ。営業妨害で訴えんぞ」
「用はありますー」
はわざとらしく語尾を伸ばしながら、陳列棚の隅の方にぶら下がっていた蛍光ピンクの健康サンダルを手に取った。
「これちょーだい」
「んなもんどうすんだよ」
「履くんだよ。靴擦れしちゃって足痛くてさ」
烏養は苦い顔をしながら
のつま先をちらりと見やった。
そんなふうにしなくても、見たいなら堂々と見ればいいのにと、
は思う。綺麗なベージュのピンヒールがかかとに擦れてストッキングが伝線し、皮膚が破れたところに血の滲んだ絆創膏が貼ってあるのを、烏養にはちゃんと見て欲しかった。
「980円」
「まけてよ」
「アホか」
はお気に入りのピンクの財布から千円札を出して、レシートとおつりの20円を受け取った。そのまま手洗いに入り、伝線したストッキングを脱いでかかとの絆創膏を張り替える。ピンヒールを脱いで、買ったばかりの健康サンダルに履き替えると、素足の指先が呼吸を思い出したようにぴんと背伸びした。もしものためにと持ってきた替えのストッキングが鞄に入っているけれど、自由を取り戻した指先がひんやりとした空気にあたってあんまり心地良かったので、それを使うのはやめることにした。
脱いだヒールを指先に引っ掛けて手洗いを出ると、烏養はレジスターの中の小銭を数えていた。
「もう店仕舞い?」
「おぉ。今、サッカー部が菓子パン買ってったからな」
時計を見ると、夜の七時を少し回ったところだった。
「お前もさっさと帰れよ。お前いっと閉めらんねぇだろ」
小銭を数える手元を見下ろしながら素っ気なく言う烏養の横顔を眺めながら、
は横目でガラス戸の向こうを見やった。烏養が時々仕事以外でも使っている坂ノ下商店の白いバンが見えていた。
「繋心、今日は向こうのお家に帰るの?」
「あー、まぁな」
「お祖父さん、退院したばっかだもんね。心配だよね」
「うっせーな。何が言いてぇんだよ」
「そっちに帰るなら送ってって」
「はぁ? やだよめんどくせー」
「暗い夜道を女ひとりで歩かせようっての? しかも怪我人を!」
「ただの靴擦れだろーが! 甘ったれんじゃねぇ!」
烏養はいつまでも鬱陶しそうに
を睨み、四の五の文句を言っていたけれど、それを全部聞き流して、店を出、車に乗り込む烏養の背中に付かず離れずくっついていれば、烏養は
を無理矢理車から放り出したりはしなかった。
助手席に腰を落ち着けて、お尻の下から突き上げてくるエンジン音を聞きながら、
は健康サンダルを脱ぎ、座席の上にかかとを乗せて膝を抱え込む。
車をバックして車道に出し、ほとんど街灯のない古い住宅街の暗い夜道を、車のヘッドライトが真っ二つに割く。ここよりもっと山裾に近い場所にある
の実家と、そこよりもっと奥まった場所にある烏養の実家に着くまで、車で15分ほどだ。あっという間だなぁと、
は物足りないような気持ちがした。
「今日ね、デートだったの」
絆創膏を貼ったかかとのあたりを指で撫でながら、
は時たま思い出したように現れる萩の月みたいにぽってりと丸い街灯を目で追っていた。
「へぇ。で?」
「別れてきた」
「だろうと思ったよ」
「え? なんで?」
「こんな早い時間に帰ってくんならそんなとこだろ」
「分かってんなら慰めてよ」
「残念だったな」
「うわー。心こもってない」
「だってお前、全然落ち込んでないじゃん」
「さすが。付き合い長いだけあるね」
「なんなんだよ、お前。一体何が言いてぇんだ?」
信号が赤に変わって、車は停まる。後続車もなく、横断歩道を渡る歩行者もいない。どこかで犬が吠えている。丸く黄色い街灯。烏養が仏頂面をして、信号が青に変わるのをじっと待っている。狭い車の中に、静かな夜の音が充満しているようだった。
「友だちが紹介してくれた人だったんだけどね、これがまぁものすごくいい人だったの」
「へぇ」
「遊園地で迷子になってた子どもを迷子センターに連れっててあげたりしてさ、優しくて、頼り甲斐があって、笑顔が素敵なの」
「そんないい奴だったのに、お前何やらかして振られたんだよ?」
「人聞きが悪いな。振られたんじゃなくて、話し合いの末に別れたんだってば」
「あぁ、そうなの?」
「そこはなんでって聞いて」
「なんで?」
「転勤で、九州に行くんだって。ついてきて欲しいって言われたんだけど、断った」
信号が青に変わる。けれど、烏養はすぐにはアクセルを踏まなかった。幸いにも後続車はいなかったから誰にも迷惑はかけなかったけれど、
はダッシュボードをよく磨いた爪でコツコツと鳴らして合図を送る。烏養はやっと、ブレーキを外してゆっくりアクセルを踏んだ。
「え、それってプロポーズ?」
「そう。でも、断った。だから別れたんだって」
「え、なんで?」
「だって、九州になんか行けないよ」
「なんで」
「だって遠すぎるし、仕事だってあるし……。それにいろいろ、条件も良くなかったんだよ」
「んな簡単に決めていいのかよ?」
「簡単になんて決めてない。すごく悩んで決めたことだよ」
烏養はなんでもないような顔をしていたけれど、それが精一杯のやせ我慢だということが
には手に取るように分かった。烏養は、今とても動揺している。暗い車内にいても、目が泳いでいるのが分かる。
車は住宅街を抜け、いよいよ街灯のない田んぼの真ん中を突っ切る道に差し掛かった。窓の外は、ヘッドライトが届かない範囲は闇ばかりだ。
は烏養の横顔に目をやった。
「まぁ、彼と会ってる時は、わたしいつもちょっと背伸びしちゃうようなところあったの。こんな慣れない高いヒール履いて靴擦れしちゃったりしてさ」
「そうかよ」
「だから、別れて正解だよね。無理は良くないよね、やっぱり」
「そうだな」
街灯もない真っ暗な夜道でも、烏養は迷わずにアクセルを踏み、ハンドルを操る。
からすれば、どこに何があるかも分からない真っ暗闇だ。宇宙にぽっかりと空いたブラックホールのようにも思えるほど暗い、星も見えない夜。このまま真っ直ぐ進み続けたら、いったいどこにたどり着くのだろうと不安になる。ブラックホールの裏側にはホワイホールがあるという嘘か本当か分からない話を聞いたことがあるけれど、ホワイホールというからには、希望に満ち溢れた幸せで明るく暖かい場所であって欲しい。
そんな場所まで、たどり着きたかった。烏養が運転する坂ノ下商店の四角い白いバンに乗って、裸足の足に絆創膏を貼って、烏養とおそろいの健康サンダルをつま先につっかけて。
「他にもいい男はたくさんいるだろ。元気だせ」
憐れみとも慰めともつかないようなことを言って、烏養は
の頭を撫でた。撫でると言うよりは、髪の毛を掴んでかき回した。
の髪はあっちこっち盛り上がって毛先が跳ねたけれど、
はそれを直さなかった。烏養の横顔をじっと見上げながら、暗闇にぼんやりと光を放つような金色の髪の毛を見ていた。
は、烏養とセックスをしたいと思ったことがない。中途半端に伸びた金髪をヘアバンドで留めて、両耳にピアス、くたびれたTシャツとスウェット。お互いに知らない間柄だったら、街ですれ違っても目すら合わせないだろうと思う。
けれど、烏養の金髪がいつか彼の祖父のように白く色を失っていく様を見ていたいとは思うのだ。九州へは行かないという決断をしたいくつかの理由のうち、それはもっとも重要な要素のひとつだった。
それは、烏養とセックスをしなくても叶う願いだろうか。
にはそれが分からない。どうして男と女は恋愛というこの上なく厄介なものを間に挟まなければその先には行けないことになっているのだろう。烏養と恋愛をするということをつい想像してしまった
は、鼻からふっと息を吐くように笑ってしまって、烏養から不審そうに睨まれた。
「なんだよ?」
「ううん。別になんでも」
それからしばらく、どちらも何も話さなかった。そこにはただ夜があって、前を見ても後ろを見ても、右も左もそこは夜だった。星も見えず、街灯もない真っ暗闇をヘッドライトが切り裂いて、ふたりを乗せた車は走る。ハンドルを握る烏養に迷いはない。助手席に座る
は、今どこを走っているのかも、もう分からなかった。
白く四角いバンに乗って、星も見えない真っ暗闇を走る。暗黒のブラックホール。烏養とふたりでそこを通り抜けて、いったいどこへたどり着くだろう。
20160307
前進させようと思ったのに全然しなかった……。
title by alkalism