どうして、ひとは大人になると子どもの頃の素晴らしい思い出をすっかり忘れてしまうんだろう。





 その日、家に帰ると玄関のたたきが来客の靴で賑わっていて、影山は少しげんなりした。
 リビングに続く扉からオレンジ色の灯りが溢れていて、暗い廊下を淡く照らしている。その灯りに乗っかって、暖かな料理と酒の匂いが玄関まで漂ってくる。それを見て見ぬふりして2階へ上がってしまうこともできなくはなかったけれど、部活で酷使した体は強烈な空腹を訴えてきていたので、育ち盛りの16歳はその誘惑には抗えなかった。

「ただいまー……」

 控えめに声をかけながら扉を開くと、それに被さるように大きな笑い声がかぶさってきて、影山は開きかけた扉を途中で止めた。

「あ、飛雄、おかえり」

 ちょうど台所から大皿に盛られた酢豚を運んできた母親が影山に気づいて扉の前で足を止める。影山は扉の影から顔を半分だけ覗かせて目を細くした。

「なに? これ?」
「あぁ、さんが来てるのよ。そんなところでこそこそしてないでちゃんと挨拶しなさい。ほら」

 母親は無理矢理扉を開けて影山をリビングに招き入れた。何が何やら理解できないまま、騒がしい居間に足を踏み入れてみれば、既にほろ酔い状態の大人たちが膝を打って大声で笑っていた。ちゃぶ台を囲んでいるのは、父と祖父、父方の叔父と叔母だった。
 大皿に盛られた料理がちゃぶ台の上に所狭しと並んでいて、その隙間を埋めるように発泡酒の缶が立っている。床にもお櫃やら空き缶やらボックスティッシュやらが適度な感覚で散らばっていて、母がその末席に座ればもう影山が座れる隙間もなかった。

「あ、飛雄ちゃん帰ってきた!」

 酒のせいで顔を真っ赤にした叔父に指を差されて、影山は仏頂面で軽く会釈した。

「どもっす」
「あらー、本当に飛雄ちゃん? しばらく見ない間にまぁ、随分大きくなって!」
「180くらいあるんじゃないの?」
「……そんなもんです」
「そういえばバレーやってるんだっけ? 小学生の頃からうまかったもんねー」
「そうなんだけどまぁ、寝ても覚めてもそればっかりでねぇ。肝心の成績の方はもうひどいもんよ」
「いやぁ、でも、子どもは元気なのが一番だよ」
「いやぁ、ちゃんみたいにちゃんといい大学出ていい会社に就職してくれんのが一番でしょうよ。飛雄なんかもう、高校も無事に卒業できるかどうか……」
「まだ入学したばっかじゃねぇか!」
「いやいやもう烏野でも入学できたのが奇跡だからねぇ。この子ってばバレーがしたいがためにあの白鳥沢受けたのよ? どうせ受かるわけないんだからやめろって言ったのに。ねぇお父さん?」
「受験するだけでもただじゃねぇっていうのになぁ、なんで受かるはずもない学校受験するのに金払わなきゃならないんだか……」

 酔っ払った大人たちほど、子どもの手に負えないものはない。まだ鞄も下ろさずジャージを着替えてもいないのに好き放題言われて、影山は身動きがとれなくなってしまった。どうして大人というものは、子どもの過去の失敗をいつまでも笑い話にするのだろう。

「おばさん、飛雄のご飯、私やろうか?」

 と、影山に助け舟を出したのは、酔いの回ったどの大人でもなかった。

「あら、ちゃんは座ってていいのよ。今日の主役なんだから」
「でも、お料理してもらってばっかりだったし、そろそろゆっくりしてよ」
「そう? じゃぁ、お願いしようかしら」

 影山からは叔母の影になって見えなかったそこから、すらりと立ち上がったのが影山の救世主だった。

「飛雄、先に着替えて手洗ってきなよ。ご飯出しておいてあげる」





 は影山の7歳年上のいとこだ。の両親(つまり影山の叔父と叔母)は共働きだったために、学校帰りや休日に影山家でを預かっていたことがあって、幼い影山はによく面倒を見てもらっていた。の膝の上で絵本を読み聞かせてもらったことがあるし、一緒におやつを食べて昼寝をしたこともある。夏は庭にビニールプールを広げて一緒に水遊びをしたし、冬は一緒に雪だるまを作った。
 影山が5歳になるまで、つまり、が中学に進学するまで、ふたりはずっとそんな風に過ごしていた。

 中学生になったは、めっきり影山家を訪れなくなった。勉強や部活で忙しいから、という理屈は、まだ幼かった影山には理解することは難しかった。どうしてが家に来ないのかと泣いて駄々をこねたこともある。そんな時、母は「あんたは本当にちゃんのことが好きね」と言って呆れたように笑った。どうして母が笑うのかも、その時の影山には分からなかった。

 のことが大好きだった。実の両親よりもよく遊んでくれたし、甘えさせてくれたし、どんないたずらをしても笑って許してくれた。ひなの刷り込みのように、生まれた時からずっと一緒だったを自分の親のように慕っていた。

 への執着のような感情が薄らいだのは、小学2年生の時にバレーを習い始めたからだ。バレーボールほど影山の興味を引いたものは他になく、と過ごした5年間は、だんだんと記憶の彼方に薄れていった。それは仕方のないことでもある。ひとは幼い頃の記憶を忘れて成長していくものだ。下世話な両親に「昔は『大きくなったらちゃんと結婚する!』とかなんとか言ってたくせに!」と、影山本人が覚えていないことをいいことに面白おかしくからかわれたりしても、まるで別の誰かの話を聞かされているような距離を感じて、それが自分の言ったこととはにわかには信じ難かった。

 影山が中学に進学し、が大学生になった頃、ふたりが顔を合わせるのは、年に一度の正月だけになった。
 親戚が大勢集まって足の踏み場もない家で肩身を狭くすることしかできない影山を尻目に、は台所にたって母や叔母の手伝いをしてばかりいた。子どもの頃は、に抱っこしてもらったりおんぶしてもらったりが日常茶飯事で、影山がから片時も離れようとしないのを見て、「まるでコアラの親子のようだ」と親戚の大人に笑われたものなのに、この頃には、影山はに敬語で話しかけるようになっていた。





 部屋に荷物を置いて着替えをし、洗面所で手を洗いうがいをして居間に戻る。やっぱり影山の座れそうな場所はそこにはなく、大人たちは野球中継を横目で見ながら「今年の楽天は……」とかなんとか評論家ぶった持論を展開して頷き合っている。影山は野球にはまるで興味がなかったのでどうしたものかと首の後ろを撫でていると、

「飛雄、こっちおいで」

 と、台所の方から声がした。居間よりは控えめな灯りがともったそこに、がいた。

 ダイニングテーブルに、どんぶりによそったご飯とホッケの焼いたのと、酢豚と漬物、たぶんビールのつまみ用の枝豆の茹でたのと、納豆がひっそりと並んでいた。

「お腹すいたでしょ。あっち座るとこないからさ」

 火にかけた鍋の前に立って、は振り返りもせずにそう言った。長い髪を白く柔らかそうなものでひとつに結わえていて、サイズの合わない母のエプロンを着けていた。

「てきとうに盛っちゃったけど、そんなんで足りる?」
「大丈夫っす。あざっす」

 椅子に座って、箸を持って手を合わせる。それに合わせて、がお椀によそった味噌汁を影山の手元に置いた。ほかほかと湯気をあげるそれは、油揚げとわかめとじゃがいもがごろごろ入った影山の好きな具だった。
 はエプロンをつけたまま影山の正面に腰を下ろして頬杖をつくと、苦笑いをして言った。

「今日はごめんね。騒がしくなっちゃって」

 口いっぱいに酢豚を頬張っていた影山は、すぐに相槌が打てなかったので、肯定とも否定とも取れないように曖昧に頷いてみせた。

「私、今年から新社会人なのよ。おじさんとおばさんにちゃんと報告しに来たかったんだけど、ばたばたしててなかなか時間取れなくて……。今日やっと都合付いたから、急だったんだけど来ちゃったんだ」
「そうだったんすか」
「飛雄は、今年から烏野だっけ?」
「そっす」
「飛雄のことだから、もっとバレーが強いところ行くんだと思ってたな。青城とかさ。北川第一から進学する子も多いんじゃなかった?」
「いや、青城は、ちょっといろいろあって……」
「ふぅん。そう」

 それからは、何も言わずに立ち上がってコンロの前に立つと、やかんに水を入れて火にかけた。お茶でも入れるのだろうか、はどうやら酒は飲んでいないようだから、喉でも乾いたのかもしれない。食器棚から茶筒と急須、湯呑を取り出しながら、はひとことも喋らなかった。お腹を空かせている影山に気を遣ったのかもしれないし、あまりにも久しぶりに顔を合わせたいとことどんな話をすればいいのか分からなくなったのかもしれない。どちらにせよ、影山はありがたかった。腹をすかせているところで間発入れずに話しかけられては腹にたまるものもたまらないし、と何を話せばいいのか分からないのは影山も同じだった。

 やかんがピーッと甲高い音を立てるまでに、影山はほとんど食事を済ませ、最後に残った漬物をぼりぼりと噛んでいると、が温かなお茶を入れてくれた。食後に茶を飲む習慣なんか高校生男児にはまだなかったけれど、せっかくがいれてくれたものなので、影山は低い声で「あっす」とほとんど意味をなさないお礼を言った。

 は再び椅子に腰を下ろすと、体を斜めにして肘をテーブルにつく。足を組んで座り直したのが気配で分かって、影山は落ち着かなくまばたきをした。

「お正月以来だから、ほとんど半年ぶりか」
「そっすね」
「たった半年でまた背伸びたんじゃない?」
「まぁ、はい。順調に」
「すごいねぇ、私いつごろ追い越されたんだろう」

 それは、影山が中学2年生の時だった。この年の影山の体は1年で30cm近くの成長を遂げ、春にはぴったりだった靴も服もあっという間に体に合わなくなってしまった。その年の正月、親戚中に「誰だか分からなかった」だの「巨神兵か!」だの散々驚かれたので、この冬休み中、思春期真っ只中の影山はランニングや自主練習をする以外はほとんどを部屋に引きこもって過ごしていた。だから、とはほとんど顔を合わせなかったのだけれど、元旦に親族が全員揃って会食をした席で一度だけ姿を見ることができた。
 あれ、って、こんなに小さかったっけ。そう思ったことを、影山は鮮明に覚えていた。

「学校はどう? 楽しい?」

 は湯呑を片手に首を傾げた。
 影山はお茶をひとくちに口に含む間、じっと考え込んだ。

「楽しいって、いうか、なんていうか……。まぁ、なんとかやってます」
「バレー部に入ってるんでしょ? どんな感じなの?」

 影山の脳裏には、万年騒がしい体力馬鹿や嫌味ったらしい眼鏡やその取り巻きや、個性豊かなチームメイトの顔がずらりと並ぶ。知らず知らずのうちに、眉間のしわが深くなったことに、影山本人は気づかなかった。

「……まぁ、なんとかやってます」
「なんでそんな苦しそうな顔して言うの?」
「……いろいろあるんすよ」
「なぁに? それ。おっかしいの」

 はせきをするように笑った。その笑い方は昔から全く変わっていなくて、影山は思わず見とれてしまった。子どもの頃から、の笑い顔が大好きだったのだ。

「それじゃぁさ、クラスに可愛い子いる? 彼女とか好きな子とかいないの?」

 がどうしてそんなことを聞くのか、分からなかった。正直に言うと、影山はまだクラスメート全員の顔と名前すら一致していなくて、接点の少ない女子生徒なんかは隣の席の木村さんすら下の名前が覚束無い。誰かを可愛いと思う感覚も分からないので、人を好きになったり、ましてや彼女を作るだなんて夢のまた夢のような話だった。

「別に、いないっす」
「そう。まぁ、まだ1年生だしそんなもんか」

 そもそも、女子と友だちになったことがこれまでに一度もなかった。バレーはどちらかというと女子選手の方が多かったから、小学生の頃は男女混合で練習をしたりしていたけれど、別にそこで誰かと仲良くなった記憶がない。あの頃の影山は、バレーの腕前を上達させることにしかどこまでも興味がなかった。

 女の人を可愛いだとか、きれいだとか、思ったのは生まれてこのかた一度だけらしい。意地悪な大人たちから聞いた話では、影山は子どもの頃、「ちゃんが世界で一番かわいい」と言って、その背中をぴょこぴょことついて回っていたらしいのだ。その記憶も今の影山にはないのだけれど、お茶を飲みながらほがらかに笑うを見ていると、まだよちよち歩きだった頃の記憶が蘇ってくるような気がした。

 のことが大好きだった。もうすっかり忘れてしまったけれど、心の奥の深いところで本当はずっと覚えている。もう子どもの頃と同じように、の背中にくっついて甘えたいとかそんなことは思わないけれど、あの頃とは何もかもが変わってしまったことが不思議で仕方がなかった。どうして、ひとは大人になると子どもの頃の素晴らしい思い出をすっかり忘れてしまうんだろう。どうして自分は、忘れてしまったんだろう。

「……さんは?」
「え? なに?」
「恋人とか、いるんですか?」

 の目元がほんのりと朱色に染まる。それはぼんやりとした電灯のせいでも、飲んでもいない酒のせいでもないことは、どんなに鈍感な影山にも分かっていた。

「うん。いるよ」

 そう言って笑うはとても満ち足りた表情をしていて、影山はほんの少し口元をほころばせた。が笑うと、自分も嬉しくなる。それは子どものころからちっとも変わらない自分の素直な気持ちだった。

 変わっていくものもある。けれど、変わらないものも、ほんの少しはあるのだ。





お も い で の 要 塞






20151123




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