たった一人の女の子に恋するなんてできないと、決め付けるように思っていた。

女の子なら皆可愛くてそれぞれに魅力的で、もちろんルックスが整っている子には特別に惹かれたりするけれど、そうでなくったって、自分を決して追い越さない身長とか小さな肩とか、柔らかそうな髪や丸い体つきとか、女の子にしか持てない特別なものが全て素敵で、大好きだった。

誰にだって好物はあるだろう。甘いお菓子が好きな人、毎朝のブラックコーヒーをかかさない人、食後にいつも一粒のガムを噛む人。それぞれの嗜好品。千石にとって女の子はそれと似たような存在だ。好物、嗜好品。コーヒー、もしくは一粒のガム。

だからたった一人の女の子に恋するなんて、絶対に無理だと思っていた。





  モノトーンバタフライ






それはすっかり日の落ちた放課後で、初春の肌寒い空気が冷たく肌を撫でる頃だった。

部活を終えた千石は、着替えを済ませて荷物を片付けていたところに、教室に財布を忘れてきた事に気付いた。これは事だと慌てて、一人校舎に引き返す。中学生らしくはないことだけれど、毎日の買い食いと軟派資金のために千石の財布には結構な額が仕込まれているのだ。

教師が職員室に残っているくらいで、校舎の中は暗い。か弱い女の子なら、いもしない見えざるものに怯えて足を竦ませそうだ、と、千石は想像する。千石はいわゆる幽霊とか、生き物以外のものを信じる性質ではないけれど、背中にひやりとするものを感じて息を呑んだ。昼間とは違う夜の学校。多少なり、動揺するのは仕方がない。

千石は教室に急ぐ。三年の教室が言葉通り三階にあるのが面倒臭かった。

そしてそれは突然だった。二階から三階への階段を上がり切って廊下に差し掛かる曲がり角。千石は小さな駆け足で向こう側からやってきたらしい誰かに追突してしまった。こんなに暗い廊下に人がいるなんて思わなかったし、気が焦っていたから駆け足の勢いが止まらなかったのだ。

「うわっ!」

と、思わず声を上げる。ぶつかった誰かは床に尻餅を付いていてうんともすんとも言わない。自分の足元に座り込んだ体は小さくて、髪が長かった。女の子だ。

「ごめん! 怪我無かった?」

千石は慌ててその場にしゃがんで彼女の顔を覗き込む。女の子に体当たりしてしまったなんて、生まれて初めての経験だった。どう謝ればいいだろうと考える。けれど頭の隅は妙に冷静で、彼女をじっと観察する目が暗い廊下で光った。

彼女は黒に白いラインが入ったセーラー服を着ていた。その黒は暗い廊下に溶け込みそうに暗くて、顔を上げた彼女の目は少し濡れていた。その目が千石の姿を映して、きらりと光る。

それだけで、千石は心臓が止まりそうなくらい驚いた。呼吸が一瞬止まる。

暗闇に迷い込んできた蝶を、両手で包み込んで、鱗粉を纏った羽が柔らかく手のひらに触れたような、そんな感じだった。捕まえたと、千石は何の根拠も理屈もなく思った。

千石が彼女の名前を知ったのは、その翌日の事だった。



***



ぱんっ、と渇いた高い音がひとつ鳴る。千石が物思いから覚めて振り返ると、むっと唇を尖らせたが両手を合わせて千石を睨んでいた。が両手を打ち合わせて音を鳴らしたのだ。教室の天井に響いて、余韻が残る。

「何ぼーっとしてるの?」

「ぼーっとしてた? 俺」

「してたよ」

ちゃんと一緒にいるのにそんな事する訳ないじゃん」

「そんな事言ったってしてたよ」

は書き終わった日直日誌をぱたんと閉じて、机に頬杖を付く。千石は前の席の椅子を後ろ向きに置いて、と向き合って座っていた。二人には大きな身長差があったから、自然とに見上げられる格好になっている。

上目遣いのは睫の長さが際立って、千石から見るとやけに色っぽかった。は千石と同い年だけれど、同年代の女子と比べると大人びた容姿をしている。

「何考えてたの?」

「何だと思う?」

「分かんない」

は不機嫌そうに眼を細くするけれど、声色はいつも通りだ。本当に機嫌を損ねている訳ではない。千石はそれを分かっているから、にこやかに笑って答えた。

ちゃんが転校してきた日の事、思い出してた」

「何かあったっけ?」

「校舎で迷ってたじゃん」

「それは転校してきた日じゃなくて、その前の日だよ」

「そうだっけ?」

「そうだよ。先生に挨拶に来て、制服受け取った日だったもん。まだセーラー服着てたじゃない、あの日は」

「それは言われなくても覚えてるよ。印象的だったもん」

あの日のは、真っ黒な制服と真っ黒な髪と真っ黒な目、三拍子揃った黒尽くめで、アゲハチョウみたいだったと、千石はずっと思っていた。転校してきたの、山吹中学校での初めての友達になって、たったそれだけのことでアゲハチョウを捕まえたような気になって。千石はそれからずっと、特別な意味でのことが好きだった。

はもう黒い服を着ない。真っ白の山吹の制服は真っ白なのだ。千石は、もうアゲハチョウのようなを拝む術がないことを残念に思っているけれど、こうして一緒に日直の当番に当たったりできるから、そこまでの贅沢は望んでいない。何より、には白い制服が良く似合う。はかわいい。それが千石にとって何よりも重要な事だ。いつか私服姿のを見てみたいと思った。

の私服をいくつか想像してみて、千石はくつくつと笑った。

「何笑ってるの?」

「別に。何でもないよ」

「嘘。絶対やらしいこと考えてるでしょ?」

はわざとらしく首を横に振って、「これだから男の子は」と大人ぶって言った。もちろん、冗談だ。千石に呆れているのではない。千石に対して本気をぶつけてくる女子は少なく、もその例に漏れてはいない。つまり、千石の真剣な想いはにはこれっぽっちも届いてはいないのだ。

「今度の日曜日さ、映画に行かない?」

「奢ってくれる?」

「もちろん。ちゃんのためならなんでもするよ、俺」

「わぁい。じゃ、りっちゃんも誘うね。大人数の方が楽しいもんねぇ」

千石の笑顔が強張るのを見て、は声を上げて笑った。

千石がに優しいのは、初めて会った時にが泣いていたからだ。は容姿も内面も同年代の女子と比べると大人びている。それは千石がと友達の関係になってから知ったことだけれど、それが余計にの涙を記憶の底に焼き付けた。

あの日が泣いていたのは、慣れない山吹中の校舎で迷ってしまったからだ。千石はまだそれを知らないけれど、は方向音痴なのである。

みるみる暗くなっていく空、生徒や教師の誰ともすれ違う事もなく、ひとり足音を響かせて校舎の中を歩くのは驚くほど恐ろしい。は泣きながら、左手を壁についてひたすら歩いていた。迷路の攻略法を試したのだ。明日から毎日通う学校でなぜこんなことをと、考えたら情けなくなってさらに泣いた。そんな時に千石と会ったのだ。

はこう思っている。もう少し、時間がほしい。千石との時間と会話と、本気の証拠がほしい。それさえ手に入れば、千石を好きになるのは簡単なことだ。伝えればいい。それだけで、いい。

『あの時、見つけてくれて嬉しかった。あの時、好きになったんだよ。』






20091207