神様のシエスタ
あれから、別に何も変わってはいない。
跡部に彼女ができたという話は聞かないし、
がテニス部ファンの逆恨みにあっているという話も聞かない。何も進展はないらしくて、けれど跡部の
に対するアプローチは終わっていない。
滝にしてみれば、関係のない話だと割り切ってしまいたいところなのだけれど、この二人を繋げてしまったのは自分なのでそうもいかない。だから、どちらの味方をするか決めた。一応、付き合いが親密な方にしておいた。しっぺ返しが怖いからだった。
「
さん。ちょっと頼みがあるんだけどいい?」
は鞄に教科書をしまって帰り支度をしているところだ。このまま部活に行くらしい。ちなみに、今日は水曜日なのでテニス部は休みだ。
「何?」
「このファイル、跡部に届けてくれないかな。僕ちょっと用があってすぐ帰らなくちゃならなくて」
もちろん嘘だ。こんな事は常習で、きっと
もそのことに気付いている。
は控えめに、それでも嫌味に目を細めた。
「私これから部活なんだけど」
「届けてくれるだけでいいんだよ」
「跡部くんと会うと長くなっちゃうんだけど」
「大丈夫だよ。今生徒会が忙しい時期だから、あいつもそこまで暇じゃないよ」
の机にファイルを置いて、無理矢理受け取らせる。
はそのファイルを睨んで、小さく小さく嘆息した。
「じゃぁ、よろしくね」
片手を上げてさようならのあいさつをする。
きっと跡部は、
のこういう顔が大好きなんだろうな、滝は漠然と思った。跡部はそういう人間なのだ。
は跡部が苦手だ。たまに苦手が嫌いになることもある。それは例えばこういう時で、
は手に持ったファイルを見下ろした。
滝が跡部と仲がいいのは知っている。同じテニス部だし、元は一緒にレギュラーを張っていたくらいだ。あの強豪のテニス部で、部員が200人もいるテニス部で、一緒にレギュラーになった二人。仲がいいのは当たり前だ。だから滝が跡部の味方をするのは当たり前なのだ。だから腹が立つ。手を組むなんて卑怯だ。そしてやり方がずるい。
けれど
も素直な性格をしているので、生徒会室には迷わずに足を向けた。
ノックをする。少しの間の後、扉が開いた。
「失礼しまぁ……す」
目の前に壁が現れて、
は思わず後ずさる。扉の向こうに壁がある。何かしらこれは。
一歩だけ後ずさって視線をゆっくり持ち上げると、そこにあるつぶらな瞳と視線がかち合って
は安堵に吐息した。
「樺地くん」
「……」
樺地は何も言わずに、すっと身を引いて
を部屋に招き入れる仕草をする。
はそれにしたがって、樺地が丁寧に扉を閉める動作をじっと見ていた。大きな体がどこかしなやかに動くのが妙に珍しくて、見入ってしまう。
樺地は
をじっと見下ろすと、それが決められた動作であるように視線を動かした。それを追うと、外の扉よりも少し凝った装飾の両開きの扉がある。扉の上には「生徒会長室」という大理石の札が掛かっていて、樺地の言いたい事がすっかり汲み取れた。
「あっちにいるの?」
樺地は頷く。
「入っても大丈夫?」
もう一度頷く。そして
の先に立ってドアノブに手をかけた。
どしりと重い扉は、樺地の手に押されてゆっくりと開く。重厚な空気が部屋から漂ってきて、その匂いは跡部景吾のものだと
は知っていた。
前の部屋とは違って、毛足の長い絨毯が敷かれた部屋だ。大きな花瓶に薔薇が飾れている。大きな窓からはテニス部の活動拠点であるコートと部室の屋根が見える。レースのカーテンが引かれていて、夕方の光が淡い。
跡部は大きなデスクの向こう、革張りの黒椅子に座って目を閉じていた。どうやら眠っているらしい。
絨毯がすっかり足音を消してくれるのだけれど、
はなんとなく足音を潜めてデスクに近づいた。跡部は目を覚まさない。
あまりに静かな空気で、
は息を詰めて跡部の寝顔を見つめていた。静かすぎた。絨毯とか、薔薇とか、レースのカーテンとか、そんなもの全てが音を吸い込んでしまっているようだ。
不思議だ。とても苦手で嫌いになったりすらする跡部なのに、今はただの居眠り中の生徒会長だ。睫が長くて、寝顔がかわいい。
は滝から預かったファイルをそっとデスクの上に置いて、さらにその上に、ポケットに忍ばせておいた飴玉を乗せる。ちょっとしたプレゼントだ。ちょっとした労いだ。
「……お疲れさま」
と、
は吐息だけでそう言い残して、生徒会室を辞した。
そうしてから、ファイルくらい樺地に預けたってよかったのではないかと思い直して赤面する。結局、跡部の事は最初から許しているのだ。なんてことだろう。ただ素直になれないことが原因であるなら、こんな恥ずかしいことなんてない。
跡部は目を覚ます。視界に入った時計、記憶にある物と見比べると、長針が10分ほどだけ動いていた。休息としては不十分かもしれないが、この10分は甘えだ。しまった。
「樺地」
一声呼ぶと、扉の向こうから静かな巨体が顔を出す。扉の前で立ち止まった樺地はそこで動かない。
「悪いが、水を持ってきてくれ。……?」
ふと、デスクの上に先ほど前までなかったはずのファイルが置いてあった。その上には転がってきたみたいに飴玉があって、跡部は目を見張る。
「樺地。これ持ってきたのは誰だ?」
樺地は首を振って答えず、溢すように「水を、取ってきます」と言って外に出て行った。
なんなんだ、と跡部は一人ごちたけれど、それを拾ってくれる人間はいない。ここは静かな部屋だ。
そういえば、今日は
の顔を見なかったなと思って、少しだけ切なくため息をついてみたりした。
20080621