跡部の方から教室を訪ねてくるなんて、珍しいこともあるものだ。滝はそう思って軽く溜め息を吐く。
滝の机の上にはテニス部の今月分の会計資料と電卓が並んでいる。ちなみに今日は月末の晦日だ。持ってくるならもっと早く持ってきてほしい。

「樺地は? 一緒じゃないの?」

跡部の後ろにいつもくっついている後輩の名前を口にしてみる。跡部はさっきから窓枠に肘をついて外の景色ばかりを眺めている。反対の手には、移動教室のためなのか理科の教科書とノートを持っていた。

「別に日がな一日一緒にいるわけじゃねぇよ」

「そうだろうけど、何か違和感があったから」

跡部とかばしのツーショットはある意味でとてもアンバランスだから初見の印象がすさまじいのだ、とは言わない。別にどうでもいいことだ。今大切なことは目の前の会計処理だ。

滝は電卓を叩きながら、さりげなく跡部の視線の先を追ってみた。体操着姿の女子生徒の群れだ。次の授業の準備でもしているのだろうか。滝のクラスの授業だから知った顔が多い。この学園の体育の授業は男女別に行われている。

「おい、滝。あいつらお前のクラスの奴だよな?」

「そうだけど。どうかした?」

滝はそっと跡部の横顔を盗み見た。どこか寂しげな、跡部のものとしたらとても珍しい顔色が伺えて、滝は軽く息を飲んだ。どうしたんだろう、何かの病気だろうか。

「跡部?」

「そこにいる、髪結ってる奴。名前は?」

跡部はほぼ垂直に指を下ろして、教室の真下を差した。滝は立ち上がって窓枠からひょいと下を覗き込んだ。ジャージ姿の数人の女子が固まりになっていて、跡部の言う「髪結ってる奴」は一人しかいなかった。

「彼女ならさんだけど」

「下の名前は?」

さん」

「美術部か?」

「そうだったと思うけど」

滝がそういうなり、跡部はとても人が悪そうに笑った。

何をする気だ、と滝が首をかしげだ次の瞬間。跡部の手から理科のノートが落ちた。正しくは、跡部が自分で落とした。窓の外に。

唖然とする滝の耳は、窓の下からの悲鳴と教室で膨らんだざわめきでサンドウィッチになる。あまりのことに即座につっこむ事もできない。
それでも恐る恐る窓の外を覗き見たら、が、跡部が落としたノートを片手にこちらを見上げていた。心底面倒臭そうに目を細めて、むすりと口許を引き結んで。

「悪いな、落とした」

跡部は詫びれた様子もなく、笑みを浮かべたままそう言葉を投げる。
は答えない。回りの目を気にしているのと、面倒臭いのと、おそらくどちらもが理由だろう。顔にすっかり書いてあった。

「後で持ってこいよ。待っててやる」

跡部の言葉にまた悲鳴とざわめきが起こったが、滝はもうどうでもよかった。跡部のすることなすことは彼の多大な自尊心故に派手で目立って、それにももう慣れている。
ただ、今言わなければならないことは一つだ。

「跡部。もう授業始まるけど?」

「あぁ、邪魔したな」

「ノートどうするの」

「なんとかなんだろ」

なんて自由なんだこいつ。滝はわざとらしく溜め息を殺さず、盛大に吐き捨てた。


















GOLDEN FISCH




















美術室の扉が開いていた。昼休み前の時間に授業があったのだろうか。担当教師が戸締まりを忘れたにしては妙だった。教室の電気はついておらず、扉だけが全開になっている。

まるで誰かを迎えいれんとしているような、不思議な気配を感じて跡部は思わず足を止めた。第三者から見れば、扉から半歩ほどの距離をとって教室を覗きこむ様子ははっきり言って不思議に見えただろう。けれど、それは跡部自身が持つ威厳でまぎらわされる。生徒会長が教室管理の不行き届きに口を出すのは不自然なことではない。

美術室には一枚の絵が放置されていた。キャンバスに描かれているのは、藍色のグラデーションの中を悠々と泳ぐ金色の魚だ。今にも尻尾を振りながら枠から飛び出して行ってしまいそうな危うさ。心もとなさ。跡部はその絵のタイトルを知っていた。

パウル・クレーはスイス出身の画家である。「黄金の魚」は1925年に描いたものだ。クレーの日記に「水族館は楽しい」と書かれていることはクレーの絵に魚がよく登場する根拠として、跡部は知識として認識している。けれどそれは今どうでもいい。「黄金の魚」の所蔵先は、確かドイツのハンブルク美術館のはずで、間違っても日本の一中学校の美術室にあるはずなどない。つまりこれは模写だ。

跡部は一呼吸を合図に美術室に足を踏み入れた。電気を着けると、蛍光灯の白い光が思いの外眩しくて目を細める。

金色の魚は、急に明るみに出されて驚いたのか、すっと息を潜めたように見えた。そばに寄ってみると、本物よりも幾分か荒い筆使いが見て取れる。けれどその荒さは乱雑というのではなく、意思あっての流れのように跡部には思えた。決して秀作ではない。が、ひどい駄作でもない。

「誰?」

と、声がして跡部は振り向いた。開いたままの扉に片手をかけて、不審そうに跡部を睨みつけている女子生徒がいる。跡部は彼女の顔を知らなかったけれど、跡部の顔を知らない生徒はこの学園には皆無に等しい。
彼女は跡部の顔を見るとますます不思議そうに首を傾げて問掛けた。

「生徒会長が何の用?」

「別に。扉が開いてたから見させてもらっただけだ」

彼女は少し渋ってから、跡部を警戒しながら教室に入る。扉は開けたまま、壁に沿って机を迂回し、教室の後ろにある美術部員専用のロッカーを開けた。どうやら彼女は美術部員らしい。彼女が取り出したのはスケッチブックと数本の鉛筆だった。

「写生でもするのか?」

彼女は跡部をかえりみて、迷惑そうに視線を歪めてみせた。

「美術部員ですから」

彼女はどうしてか、跡部にあからさまな嫌悪感を抱いているようだった。

跡部は氷帝学園で絶対的な存在感とカリスマ性を放つ人間で、そこに集まる視線は自然と憧憬か畏怖に絞られてくる。跡部がそれらの視線から感じているのは、僅かの優越と多大な責任と圧力と自負だ。

跡部は努力を怠らない。期待には応えることは定石で、それができなければ下らない人間になり下がると、誰の影響でもなく自身で決めた。跡部は賢く、聡い。そして何より、人間を愛して止まない。

跡部はそういう人間だ。だからこそ、彼は人から拒絶されるという経験に乏しかった。彼女の言動一つ一つの意味がまったく掴めない。

「すみませんけど、もうすぐ他の部員も来るので……」

「部外者がいたら迷惑か?」

「はい。まぁ」

はっきりと言われてしまい、跡部は返す言葉を失った。人のことは言えないが、一体何様のつもりだと思った。

彼女は跡部から一番離れたテーブルについて、落ち着いた動作でスケッチブックを広げ始めている。いよいよ相手にもしてもらえなくなりそうだと感じて、跡部は仕方なく美術室を出ることにした。彼女は跡部を見送ろうともしない。

「一つ聞いていいか?」

「なんですか?」

彼女の横顔を眺めながら、ほとんど無視をされている悔しさを押し殺しながら、跡部は尋ねた。一種の確信を持って。

「あのクレーの絵、お前が描いたんだだろ?」

彼女は目を覚ましたように驚いて、初めて真正面から跡部を見た。どうやら図星のようだ、かまを掛けてみただけなのだけれど。
跡部はしてやったりと得意気に笑った。





「それで?」

「別に。それだけだ」

「それだけでなんで頭上にノート落とすような関係になるの」

「それとこれとは関係ねぇよ」

「いやあるでしょ」

跡部の話を聞き終わった滝は、頭を軽く横に振りながら溜め息を吐いた。

夕暮れが藍色の夜に押し潰されていくような時間だ。他のテニス部員はとっくに解散している。
会計処理が片付かず居残りしている滝と、活動日誌をつけている跡部、部室の隅でその他雑無の処理をしている樺地。広くて豪勢な部室に三人だけの人影はどこか寂しい。誰も顔を上げていなかった。

と仲いいのか?」

と、跡部は静かに問うた。

「すごくいいってわけじゃないけど。少し前まで席が隣だったから」

「へえ」

「普通の子だよ。むしろ大人しすぎるくらいで、」

跡部に求められたわけでもないのに、滝はつらつらとの所感を述べる。口にはしなくても跡部の気持ちは分かったし、何より言うべきだと思った。
跡部はきっと何かひどい誤解をしている。勘違いと言ってもいい。

「テニス部には興味ないんじゃないかと思うよ」

「なんでそんな事分かるんだ?」

滝は少し旬順した。言葉を選んで、跡部を見ないで答える。

「テニスには限らないけど。さんはいつも、つまらなさそうだから」

滝が言いたいのはの冷淡さではなくあらゆることへの無関心さだ。

レギュラーから外されて惨めな立場にいた滝をクラスメート達は笑ったりからかったり慰めたり肩を叩いてくれたりしたけれど、滝は別に落ち込んでいたわけではなかったし、むしろ宍戸があそこまで頑張ってくれたのだからチームの底上げになったと思ったくらいだった。
クラスがとても居心地悪かった時の息苦しさを、が感じ取ってくれたとは思わない。けれど、ある意味でのの優しさは滝にとって確かに心地のいいものだった。滝がレギュラー落ちした時、慰めたり、優しくしたり、態度変えたりしなかったのだけだった。

跡部がそういう女子を気に入るとは、滝には到底思えない。もっと明るくて活発で、少し気が強いくらいの人が好きなのだと思っていた。それか、年上とか。そういう諸々のことを考えると、跡部がのどこをどう好きになったか全く分からない。滝から見ればアンバランスにもほどがあった。

「なんでさんなの?」

「別になんだっていいだろ」

「……いろいろ、信じられないんだけど」

「それを言うなら『理解できない』じゃないのか?」

「いや、信じられないんだよ。跡部の、何て言うのかな、女性に対する感覚?」

「それは相性とか好みの問題だろ。お前がどうこう言おうが関係ねぇ」

「……あっそう」

滝は溜め息を吐いて、ちょうど会計記録を書き終えた。
跡部の価値観は所詮自分には理解できないのかも知れない。以前からそう言うことは多々あったし、今の状況もきっとそれだ。踏み込まない方が良かったのかも知れない。

、って言ったよな」

ふと、跡部がぼんやりとした口調でこぼした。滝が顔を上げると、跡部は書き終えた日誌を閉じていた。

「あいつ美術部だろ? この間見たんだが、クレーの絵の模写してたんだ」

「ふぅん」

それがどうかしたのだろうか、と滝は思う。美術部員なら、有名な芸術作品の模写くらいやるだろう。美術部の活動内容なんか知ったことではないけれど、滝はそう思う。
跡部の視線は伏せられたままだ。

「変に存在感のある絵だったんだ。あぁいう地味な奴がこういう絵を描くんだって、驚いた」

「跡部、クレー好きだっけ?」

「いや、別に」

だったらなんでそこに惹かれるんだ、と滝は言いたかったけれど、跡部がいつになく思い詰めた顔をしていたので止めた。跡部がに恋をしていること自体は信じられないけれど、跡部が嘘を言っているわけではないことは分かった。跡部がこんな顔をするなんて、きっと滅多にないことだ。

「俺もよく分からねぇんだけどな。あぁいう奴が珍しいだけなのかも知れないが、そういうわけでもない気がする」

「具体的に言うとどうなの? 好きなの?」

「あぁ。好きだ」

「そう」

滝は一応納得したような表情を作って頷いて見せたけれど、好きな女子の頭の上にノート落とすなんてこと普通はしないよな、とも思った。それが跡部の愛情表現だというならそれはそれで構わないけれど、は不憫だなと思わず同情してしまう。

跡部なんかに好かれたら他の女子生徒から嫌がらせを受けるかも知れないし、何より跡部と付き合うことの大変さは入学以来ずっと一緒にテニスをしている滝がよく知っている。不運と言うべきか、なんというか。

「頑張りなよ。応援してる」

滝はなんだか片言にそう告げた。目の前にいる跡部にではなくにこそ、そう言ってやりたい気分だった。





跡部が帰り際美術室に寄ったら、残っていたのはだけだった。後片づけに手間取った、というよりは、ノート一冊を片づけることに迷って立ち往生していたように見えた。

は跡部の姿を見止めると、わずかに視線を鋭くして、傍らに置いてあった跡部のノートを手に取った。

「取りに来たの?」

跡部は開いたままの扉に背を預けて立って、にやりと笑う。

「俺は持って来いって言ったはずだけどな」

「いいよ、なんて返事してないじゃない」

「持ってくるだろ、普通」

は視線を落として溜め息を吐く。跡部のしていることに呆れていることは明白だ。
跡部はのそういう仕草が面白くて仕方がなくて、喉の奥でくつくつと笑いながら教室の中に入った。

の手からノートを抜き取って、自分の鞄の中にしまう。
は跡部のその仕草を見守るように凝視した後、自分を見下ろしている跡部を見上げて睨んだ。
は元来ぼんやりした顔立ちをしているので、迫力は全くない。跡部にとってはそういう仕草がたまらなく面白かったし、かわいいとも思った。

「あぁいうこと、二度としないで」

「どうしてだ?」

「目立ちたくないからよ」

はふいと目をそらして、自分の鞄に筆箱やスケッチブックをしまい込んだ。その手つきがなんだかとてもゆっくりに見えたので、跡部は視線を移してが模写したクレーの絵を見た。

「Golden fisch」。との出会いをきっかけに調べたから知っている。跡部が調べた膨大な情報の中でひとつ気に止めていたのは、このクレーの絵からインスピレーションして日本の詩人が詩集を出版したということだ。もちろん跡部はその詩を読んだ。

「ねぇ」

鞄を肩に掛けて帰る準備ができたらしいは、肩越しに振り返って跡部を見あげている。は跡部よりもずっと背が低い。肩幅も狭くて、手も足も小さい。

「どうして私に構うの?」

「好きだからだ」

跡部はあっさり言った。あまりにあっさりすぎたのか、それとも言っていることが理解できなかったのか、はぽかんと目を丸くして瞬きを止めてしまう。
その顔がまた面白かったので、跡部は思わず吹き出した。
その声ではっとしたは、複雑に眉を寄せて首を傾げる。

「……冗談でしょ?」

「冗談じゃねぇよ」

「嘘」

は、本当に跡部の言葉を毛頭信じていないらしい。ぼんやりした顔で、訝しげに眉をひそめている。

跡部はそのの顔を見て、金色の魚を思い出した。
日本人の詩人が作った詩は犠牲を歌っている。作者の真意は知れないが、跡部はそう解釈した。全ての魚に背を向けられた金色の魚。
はその金色の魚だ。目立つことを嫌うくせに、その輝きは隠しきれず必ず誰かの目にとまる。誰かは跡部だ。
涙が溶けていない海などない。
涙があるから歓びがあるのだ。黄金に輝く魚はそれ故の涙を流す。は選ばれている。確実に、絶対的な力を持っている。選んだのは跡部だ。を好きだと思っている。掌中に収めた氷帝学園の全ての中から、金色の魚、を選んだ。
涙が溶けていない海などない。涙は歓びの前にあるもので、は跡部の歓びだった。

「俺は、お前が好きだ」

「……何度も言わないでよ。恥ずかしい」

「信じられないなら何度でも言ってやるよ」

はうっすらと眉根に皺を刻む。ぼんやりした顔立ちにはとても似合わない表情だ。そんな顔はして欲しくないと跡部は思ったけれど、その困った顔もまた面白くてかわいいと思えたので、またにやりと笑った。






20080211